第6話 弟は、敵か味方か
「若殿、御館様より新たなお達しにございます」
朝の冷え込みがまだ残る屋敷に、信玄の使者が現れた。
差し出された書状を読み終えた武田義信は、思わず口元を緩めた。
「なるほど。父上も本腰を入れてこられたか」
書状には、義信に仕える家臣たちへ、改めて信玄への忠誠を誓う起請文を差し出すよう命じる内容が記されていた。従わぬ者は役目を解かれ、場合によっては武具や知行を召し上げられるという。
三日後の重臣評定を前に、信玄は嫡男の周囲から人を引き離そうとしていた。
使者が帰った後、屋敷の古参家臣たちが義信の前に集まった。
「若殿、これは我らを疑ってのことにございましょう」
「御館様への忠義に偽りはございませぬが、若殿に仕えることまで禁じられては……」
座敷には不安が満ちていた。
武田家の当主は信玄であり、その命令に逆らえば家を失う。かといって義信との関係を断てば、長年仕えてきた主君を見捨てることになる。
義信は家臣たちの顔を見渡した。
「何を悩んでおる。父上への起請文なら、書いて差し出せばよいではないか」
思いがけない言葉に、家臣たちは顔を上げた。
「されど若殿、それでは……」
「俺への忠義と、武田家への忠義を混同するな。お前たちが仕えておるのは武田の家だ。今の当主は父上なのだから、その命令に従うのは当然のことよ」
「では、若殿は家督を諦められるので?」
「誰がそのようなことを申した」
義信は腹の底から笑った。
「俺は家督をいただく。お前たちは父上に忠義を尽くせ。俺が当主になった暁には、その忠義を今度は俺に向けてもらう。それで何の問題がある」
家臣たちは呆気に取られた。
理屈だけなら、そのとおりである。
しかし、父と息子が家督を争っている最中に、これほど堂々と言い切る者がいるだろうか。
「それから一つ、皆に伝えておく」
義信は笑みを収めた。
「俺のために家を捨てるな。妻子を危険にさらすな。どうしても俺に従いたくない者は、遠慮なく去ってよい。後から裏切り者などと呼ぶつもりはないぞ」
古参の家臣が膝を進めた。
「若殿。我らは幼き頃からお仕えして参りました。そのようなことを申されては、かえって離れられませぬ」
「ならば、なおさら生き残ってもらわねば困る。天下を取るには人手がいるからな」
義信が笑うと、張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。
やがて家臣たちは起請文をしたため始めた。
信玄の命令に逆らわず、武田家への忠義を改めて誓う。
だが、義信は誰一人として自分から離れろとは命じなかった。
その日の昼には、義信の屋敷に属する家臣たちの起請文が、まとめて躑躅ヶ崎館へ届けられた。
◇
「……全員が従ったと申すか」
報告を聞いた信玄は、意外そうに眉を上げた。
傍らに控えていた馬場信房が頷く。
「はい。若殿ご自身が、御館様への忠義を尽くすよう命じられたとのこと」
「義信が、そのように申したのか」
「家臣に家を捨てさせるつもりはない、とも仰せになったそうです」
信玄は起請文の束に目を落とした。
武田の当主としては、望ましい結果だった。
しかし、義信が何の抵抗もせず命令に従わせたという事実は、かえって気にかかった。
息子は家督を諦めたわけではない。
それどころか、先日には面と向かって家督の譲渡を要求し、自分を家臣として使うとまで言い切った。
「民部。義信は何を考えておると思う」
「若殿は、家臣を失うことより、御館様との争いを避けることを選ばれたのかもしれませぬ」
「争いを避けたい男が、わしに家督を譲れと迫るものか」
信玄は苦笑した。
そのとき、別の使者が入ってきた。
「申し上げます。高遠の諏訪四郎勝頼様、明日には甲府へお入りになれるとのこと」
「そうか」
信玄は頷いた。
嫡男の義信が家督を要求している以上、ほかの息子たちの立場も無関係ではいられない。
次男の海野信親は病によって視力を失っており、出家している。三男の信之もすでに世を去った。
そして四男の勝頼は、諏訪氏の名跡を継いで高遠城を任され、一軍を率いるまでに成長していた。
信玄にとって頼もしい息子である。
「四郎には、明日のうちにわしのもとへ来るよう伝えよ」
「はっ」
使者が退出すると、信玄は信房へ向き直った。
「民部。義信が家督を望む以上、四郎にも考えを聞いておかねばならぬ。いずれは一門を支える立場になる男じゃ」
「勝頼様も、お立場が難しゅうございますな」
「だからこそ、あやつ自身が何を考えるか確かめたい」
信玄は扇を閉じた。
「義信には才能がある。近頃は以前と見違えるほど肝も据わってきた。だが、己の才を信じ過ぎれば、武田の家を危うくすることにもなろう」
信房は黙って頭を下げた。
信玄は息子を嫌っているわけではなかった。
むしろ、その能力を認め始めているからこそ、簡単に家督を譲るわけにはいかないのである。
◇
翌日の夕刻、諏訪四郎勝頼が甲府へ入った。
高遠からの道中を急いだらしく、供の武士たちの装束には旅塵が残っていた。それでも勝頼自身は疲れを見せず、躑躅ヶ崎館へ向かうと、まず父のもとへ出仕した。
義信の屋敷を訪れたのは、それからしばらく後のことである。
「兄上、ご無沙汰しております」
「おお、四郎! よく来たな!」
義信は立ち上がり、弟を迎えた。
勝頼は十九歳。引き締まった身体つきに、父によく似た鋭い眼差しを持つ若武者だった。
諏訪家の名跡を継ぎ、高遠城を預かる立場だけあって、年齢の割に落ち着きがある。
義信はその姿を見て、胸の内で感慨を覚えた。
前世では武田家最後の当主として研究し尽くした男が、今は目の前で頭を下げている。
しかも、歴史上の勝頼とは違う。
これから何を成し遂げるかも分からぬ、若く野心に満ちた武将だった。
「四郎、まずは座れ。高遠からでは疲れたであろう」
「お気遣いには及びませぬ。それより兄上、お聞きしたいことがございます」
「父上とのことか」
勝頼は頷いた。
「父上から伺いました。兄上が家督をお求めになり、御館様と意見を違えておられると」
「違えるどころか、真っ向からぶつかっておるぞ」
「……兄上」
「そんな顔をするな。まだ刀を抜いておらん。親子で話し合っているうちは、喧嘩のうちにも入るまい」
義信は茶碗を取った。
勝頼は笑わなかった。
「父上は、兄上のことを深く案じておられます。今のままでは家中が二つに割れかねぬと」
「その心配はもっともだ。俺も武田家を二つに割るつもりはない」
「でしたら、なぜ」
「俺の方が、父上より天下を取るのに向いていると思うからだ」
勝頼は目を見開いた。
義信は平然と続けた。
「父上は名将だ。甲斐を治め、信濃へ進み、上杉輝虎と幾度も戦ってきた。その功績を否定する者など、武田家にはおるまい」
「無論です」
「だが、父上がこれまでの戦を続ける限り、天下へ進むのは容易ではない。俺はもっと大きく動きたい。四郎、お前の力も借りたいのだ」
勝頼はしばらく黙っていた。
「兄上。それは、父上に背いて兄上へ従えと仰せなのでしょうか」
「いいや」
義信は首を振った。
「お前は父上に従えばよい。高遠城主としての務めを果たし、諏訪の家を守れ。俺のために父上へ弓を引く必要はない」
「……それでは、兄上のお役に立てませぬ」
「そんなことはないぞ。俺が家督を取った後、お前に働いてもらえばよいのだからな」
勝頼は思わず息を吐いた。
「兄上は、すでに家督をお取りになったつもりでおられるのですか」
「取るつもりでなければ、父上に譲ってくれとは言わんさ」
義信が笑うと、勝頼はとうとう苦笑した。
昔から兄は、自分の考えを簡単には曲げないところがあった。
しかし、近頃の義信には以前にはなかった余裕がある。
父と争うという重大な話をしているのに、まるで困難な合戦を楽しんでいるかのようだった。
「兄上。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何でも聞け」
「仮に父上が兄上を廃嫡なされた場合、兄上はどうなさるおつもりですか」
義信は茶碗を置いた。
「廃嫡される前に、俺が家督を取る」
「父上がお認めにならなければ?」
「認めていただけるよう努める。それでも駄目なら、最後は力比べになるだろうな」
勝頼の表情が険しくなった。
「兄上。それでは、武田家が内乱になります」
「そうならぬために、今から動いておるのだ」
「父上には、長年従ってきた重臣たちがおります。兄上に味方する者がどれほどおられるか……」
「少ないだろうな。今のところは」
義信は笑みを浮かべた。
「だが、四郎。兵の数が多ければ必ず勝てるというものでもあるまい。お前も戦場へ出ているのだから、そのくらい分かるだろう」
勝頼は頷いた。
「それは承知しております。しかし父上は、並の大将ではございませぬ」
「だから面白い」
「……兄上は本当に、父上を恐れておられないのですか」
「恐れておるぞ」
意外な返答だったらしく、勝頼は顔を上げた。
義信は真面目な表情で続けた。
「父上ほど恐ろしい相手はおらん。軍略も知略も、家臣を動かす腕も一流だ。だから俺も、持てる力をすべて使わねば勝てんと思っておる」
「では、なぜ笑っておられる」
「恐ろしい相手だからといって、俯いておっても仕方あるまい。どうせ戦うなら、笑って立ち向かった方がよい」
義信は弟の肩を叩いた。
「それに、俺は父上を殺すつもりはない。家督を譲っていただいた後も、武田家のために働いてもらう。お前にもな」
勝頼はしばらく兄を見つめた。
「……父上を家臣になさるという話は、本当だったのですな」
「無論だ。四郎、お前なら分かるだろう。あれほどの名将を隠居させるなど、もったいないではないか」
「父上が承知されるとは、とても思えませぬが」
「だからこそ、俺の方から働きかけるのだ」
義信が笑うと、勝頼は困ったように首を振った。
しかし、その眼差しには先ほどまでの警戒だけではないものが宿っていた。
◇
勝頼は茶を飲み終えると、少し声を落とした。
「兄上。父上は三日目の評定で、兄上の処遇を決めるおつもりです」
「ああ、聞いておる」
「飯富兵部少輔殿のことも議題に上がるでしょう。兄上がなお家督を求められるなら、厳しい沙汰が下るかもしれませぬ」
義信は表情を改めた。
「兵部を罪人として裁くつもりか」
「そこまでは伺っておりませぬ。ただ、兵部殿が家臣に働きかけておられることを、父上はご存じです」
「そうか」
義信は庭へ目を向けた。
飯富虎昌は長年、武田家を支えてきた宿将である。
しかし、嫡男の傅役という立場が、今は危険を招いている。
史実で虎昌がどのような経緯をたどって命を落としたのか。その全貌を知る者はいない。
ただ、現状が悲劇に近づいていることだけは確かだった。
「四郎。お前は父上から、何を命じられた」
勝頼は一瞬、言葉を詰まらせた。
「……兄上に、家督の要求を取り下げるよう勧めて参れと」
「それだけか」
「兄上が従われるなら、父上も穏便に済ませるお考えのようです。ただし、兵部殿の扱いについては、何も約束されませんでした」
義信は小さく頷いた。
信玄らしい判断だった。
息子の命は助けても、その周囲で動いた者の責任までは免じない。家中の規律を守るためには、当然の考え方でもある。
だが、それでは虎昌が犠牲になる。
「四郎。俺は要求を取り下げん」
「……左様でございますか」
「ただし、一つ頼みがある」
勝頼が顔を上げた。
「何なりと」
「もし父上が俺を捕らえようとなさっても、お前は兵を動かすな。高遠へ戻り、諏訪の領地を守れ」
「兄上、それでは……」
「お前まで争いに加われば、武田家は本当に割れる。高遠には高遠の役目がある。そこを守ってもらう方が、俺にはありがたい」
勝頼は膝の上で拳を握った。
「兄上は、私に何もするなと仰せか」
「違う。お前には、お前にしかできん仕事をしてもらいたいのだ。父上と俺が争っている間、信濃の守りを疎かにするわけにはいかんだろう」
義信は少し身を乗り出した。
「それから、もう一つ。もし父上がお前に家督を継げと仰せになったら、どうする」
勝頼の表情が変わった。
「……父上は、そのようなことを?」
「まだ分からん。だが、俺を廃嫡するなら、次に誰を立てるか考えねばなるまい」
義信は弟を見据えた。
「俺は、お前が家督を望むならそれでも構わん。立派に武田を率いるだけの才があると思っておる。ただし、俺を追い落とすためだけに担ぎ出されるのは、面白くなかろう」
勝頼はしばらく黙っていた。
そして、静かに口を開いた。
「兄上。私は諏訪の家を継いだ身です。高遠を任され、父上からも重い役目をいただいております」
「うむ」
「その務めを投げ出してまで、兄上の後継の座を奪いたいとは思いませぬ」
義信は目を細めた。
「ならば、安心した」
「ただし、父上へ弓を引くこともできませぬ」
「それでよい」
義信は大きく頷いた。
「四郎。お前は父上にも俺にも、遠慮なく意見を申せ。それができるなら、武田家にとって何より頼もしい男になる」
勝頼は深く頭を下げた。
「兄上のお考え、確かに承りました」
その言葉を聞いて、義信は久しぶりに心から笑った。
「よし! それでこそ俺の弟だ!」
◇
勝頼が屋敷を去った後、義信はすぐに筆を取った。
机に広げたのは、家督を譲り受けた後の取り決めを記した書状だった。
信玄の身柄を保障し、これまでの功績を尊重すること。家中の重臣を一方的に処罰しないこと。義信が当主となった後も、信玄には軍事上の働きを続けていただくこと。
さらに、勝頼をはじめとする一門衆の所領や役目についても、功績と実情を踏まえて扱う旨を書き加える。
義信は一通り読み返してから、別の紙を取り出した。
こちらには、家督を継いだ後に最初に実施する方針を記す。
信濃と上野の守りを固め、今川・北条との関係を見直す。甲斐の領民を苦しめる病について調査を広げ、荒れた田畑の回復を進める。
だが、最も大きく書いたのは別のことだった。
『武田の家を二つに割らず、天下へ進む』
義信は筆を置いた。
父を倒すだけなら、いずれ機会は訪れるかもしれない。
しかし、父を倒した後に武田家が弱体化してしまえば、天下統一など夢物語で終わる。
だからこそ、家督を奪う前からその後のことを考えておかなければならなかった。
「さて、父上。俺も少しは形を整えねばな」
義信は書状を畳み、家臣を呼んだ。
「明日の評定で、これを重臣たちに見せる。写しを作ってくれ。ただし、勝手に配るのではない。俺が自分の口で説明する」
「若殿。評定へお出になれるのでしょうか」
「出るさ。俺の処遇を決めるというのに、当人を呼ばぬのでは話にならん」
「御館様がお許しにならねば……」
「そのときは、父上にお願いするまでよ」
義信は不敵に笑った。
「もっとも、俺が屋敷に閉じこもって震えていると思われては困る。重臣たちにも、若殿がどのような男になったか知ってもらわねばな」
家臣は書状を受け取り、深く頭を下げた。
◇
同じ夜、勝頼は再び信玄の前に座っていた。
「四郎。義信には会うたか」
「はい」
「何と申しておった」
「家督の要求を取り下げるつもりはない、と」
信玄は目を閉じた。
「……やはりか」
「ですが、兄上は父上のお命を奪うお考えはないと、重ねて仰せになりました」
「そのようなこと、わしも聞いておる」
信玄は扇を手に取った。
「問題は、義信がわしを家臣として使おうとしていることじゃ。あやつは、それがどれほど難しいことか分かっておらぬ」
「兄上も、その難しさは承知しておられると思います」
信玄が目を開けた。
「四郎。そなたまで義信の肩を持つか」
「肩を持つつもりはございませぬ。ただ、兄上は私に、父上へ弓を引くなと仰せになりました」
「……ほう」
「兄上は、私を味方へ引き入れようとはなさいませんでした。高遠を守り、諏訪の家を支えよと。その方が武田のためになると」
信玄はしばらく黙っていた。
義信が勝頼を抱き込もうとするなら、それを口実に厳しく処断する道もあった。
だが、息子はその手を使わなかった。
「四郎。そなた自身はどう考える」
勝頼は背筋を伸ばした。
「私は父上にお仕えする身です。御命令には従います」
「ならば、義信を討てと命じたらどうする」
室内の空気が重くなった。
勝頼はすぐには答えなかった。
やがて、覚悟を決めたように顔を上げる。
「父上。そのような御命令だけは、お下しにならぬようお願い申し上げます」
「……四郎」
「兄上を討てば、武田の家は必ず割れます。兄上に従う者が黙っているはずもなく、父上に従う者もまた兵を挙げましょう」
勝頼は深く頭を下げた。
「どうか、話し合いの道をお残しくだされ」
信玄は扇を置いた。
四郎は義信の味方になったわけではない。
しかし、兄を討つことにも賛成しなかった。
その判断には、若いながらも一軍を預かる武将らしい思慮があった。
「分かった。そなたの考えは聞いた」
信玄は静かに告げた。
「明日の評定には、そなたも加われ」
「はっ」
「義信にも出席を許す。あやつが何を考え、どこまで覚悟しておるのか、重臣たちの前で申させよう」
勝頼は顔を上げた。
「父上……」
「ただし、わしが家督を譲ると決めたわけではない。そこは間違えるな」
「承知しております」
信玄は息子を下がらせると、一人になった座敷で大きく息を吐いた。
義信も四郎も、いつの間にか立派な武将になっていた。
それは父として喜ばしいことである。
だが、武田家の当主としては、決して喜んでばかりもいられない。
「義信め。四郎まで動かしおったか」
信玄は苦笑した。
しかし、その眼にはなお鋭い光が宿っていた。
◇
評定当日の朝。
義信はいつもより早く目を覚ました。
冷たい水で顔を洗い、髪を整え、直垂を身につける。謹慎中であるため刀は差さず、供回りも必要最低限に留めた。
屋敷の門には、信玄からの使者が待っていた。
「義信様。御館様より評定への出席を許されました」
「ありがたい。父上にも、ようやく話を聞いていただけるわけだ」
義信は笑って頷いた。
門を出ると、秋の空は高く晴れ渡っていた。躑躅ヶ崎館へ向かう道には、すでに武装した家臣たちが行き交っている。
信玄は評定のため、主要な重臣を集めていた。
馬場信房、曽根周防守、そして一門の勝頼。
飯富虎昌はなお蟄居中であり、出席を許されていない。
義信はそのことを聞くと、使者へ尋ねた。
「兵部は呼ばれておらんのか」
「はっ。御館様より、引き続き屋敷に留まるよう命じられております」
「そうか」
義信は足を止めた。
虎昌は自分を支えようとして処罰されかけている。
ならば、その責任は自分が負わなければならない。
「使者殿。父上へ一つ、先に伝えてほしいことがある」
「何にございましょう」
「今日の評定では、兵部の処遇についても俺から申し上げる。あの男を罪人にするなら、まず俺の話を聞いていただきたいとな」
使者は緊張した面持ちで頭を下げた。
「承知いたしました」
義信は再び歩き始めた。
館へ近づくと、門前に三郎兵衛が立っていた。
「若殿。お待ちしておりました」
「おお、三郎兵衛。北信濃から戻ったか」
「御館様の御命令により、兵を現地の城将へ引き渡して参りました」
「ご苦労だった。道中に問題はなかったか」
「ございませぬ。ただ、若殿のお立場がこれほど変わっているとは……」
義信は苦笑した。
「俺も少々驚いておる。父上は仕事が早いからな」
三郎兵衛は真剣な顔で尋ねた。
「若殿。本当に、御館様から家督を奪うおつもりですか」
「そのつもりだ」
「兄の虎昌も、若殿に従っております」
「ああ。兵部には苦労をかけておる」
「……私は、御館様への忠義を曲げることができませぬ」
義信は三郎兵衛の肩に手を置いた。
「それでよい。お前が父上に忠義を尽くすからこそ、俺も安心して武田家を継げるというものだ」
「若殿……」
「ただし一つだけ覚えておいてくれ。俺は父上を殺さん。お前の兄も、できる限り守る。そのうえで武田の家督をいただく」
義信は豪快に笑った。
「欲張りだと思うか」
三郎兵衛は困ったように首を振った。
「……若殿らしいお考えかと存じます」
「よし。それなら、父上にもそう伝えてくれ」
義信は門をくぐった。
評定の間には、すでに重臣たちが集まり始めていた。
上座には信玄が座り、周囲には武田家の名だたる武将が顔を揃えている。
義信が入ると、幾人かの重臣が驚いたように顔を上げた。
信玄は息子を見据えた。
「義信。よく参った」
「はっ。お呼びにより参上いたしました」
義信は一礼した。
そして、父の正面へ堂々と腰を下ろす。
信玄の声が、評定の間に響いた。
「本日は、武田家のこれからについて話す。義信が家督を望むというなら、家臣たちの前でその考えを申してみよ」
義信はゆっくりと顔を上げた。
ついに、その時が来た。
父と息子。
武田家の家督をめぐる争いが、重臣たちの前で公然と始まろうとしていた。
「父上。では、遠慮なく申し上げます」
義信は口元に笑みを浮かべた。
「武田の家督、この義信にお譲りくだされ。そして父上には、俺の下で天下を取っていただきたい」
評定の間が静まり返った。
信玄は息子を見つめたまま、やがて低く笑った。
「……義信。そこまで申すなら、わしも容赦はせぬぞ」
「望むところにございます」
義信は真正面から父の眼を受け止めた。
「父上を超えられぬようでは、天下など夢のまた夢ですからな」
──────────────────
YouTubeでショート動画作ってみました
https://youtube.com/shorts/LjVQgpFxZ2E?si=X6VKhxz29nXoLekJ




