第5話 父上、家督をお譲りくだされ
「曽根周防守殿には、昼間のうちに会ってくれ」
武田義信の言葉を聞いた飯富虎昌は、思わず顔を上げた。
秋の朝日が障子を白く染め、庭では小姓たちが水を打っている。屋敷の門には信玄から遣わされた見張りが立ち、義信は外出も家臣との自由な面会も禁じられていた。
「若殿。昼間では、我らの動きが筒抜けになりますぞ」
「夜中にこそこそ歩けば、かえって怪しまれる。どうせ父上は、お前が誰に会うか調べておられよう。それなら堂々と訪ねればよい」
「されど、周防守殿まで疑われることになります」
「謀反の相談を持ちかけるならな。だが、今日はそういう話をする必要はない」
義信は机に置いていた書状を虎昌へ渡した。
そこには三つの問いが記されていた。武田家の嫡男が家督を継ぐにあたって必要な家中の承認、当主と嫡男の権限の違い、そして家臣が主君の命令に異を唱えた場合の扱いである。
虎昌は読み進めるうちに顔をしかめた。
「若殿。これでは家督を奪う相談と変わりませぬ」
「違うぞ。家督を譲っていただくための相談だ」
「……同じことではございませぬか」
「大違いだ。父上が喜んで譲ってくだされば、誰も苦労せずに済む」
義信が愉快そうに笑うと、虎昌は額を押さえた。
「御館様が、喜んで家督を譲られるとは思えませぬが」
「俺もそう思う。だから手順を間違えぬよう、周防守の知恵を借りたいのだ」
前世の義信は、歴史教師として定年まで勤め上げた男だった。
生徒同士の揉め事や保護者との話し合い、道場の運営まで含めれば、人の利害がぶつかる場面には嫌というほど立ち会ってきた。
そんな経験から、一つだけ確信していることがある。
相手に何を求めるのか、自分でも説明できない人間は、たいてい交渉に失敗する。
「兵部。父上に家督を譲っていただいた後、俺は武田家の家臣を一人でも多く残したい。父上に従ってきた者も、俺を支えてくれる者もな」
「それは容易ではございませぬ」
「分かっておる。だが、父上を倒すことだけ考えていては、その後に誰も残らんかもしれん。それでは天下どころではないだろう」
虎昌は書状を懐へ収めた。
「承知いたしました。周防守殿には、儂からお話しいたしましょう」
「頼んだぞ。相手の考えをよく聞いてくれ。俺への忠義を試す必要はない」
虎昌が退出すると、義信は庭へ目を向けた。
門の外には、今日も信玄の兵がいる。
父は息子の兵を取り上げ、屋敷へ閉じ込めたつもりだろう。
だが、人の考えまで閉じ込めることはできない。
「さて、父上。どちらが先に動けますかな」
義信は笑みを浮かべた。
◇
曽根周防守は、虎昌の訪問を喜ばなかった。
通された座敷には茶が用意されていたが、周防守は盃どころか茶碗にも手を伸ばさない。
「兵部殿。今のご自身のお立場は、ご存じでございましょうな」
「心得ておる」
「出仕を止められたばかりのお方が、昼日中に我が屋敷へお越しになる。これでは、御館様に何を疑われても仕方ありますまい」
周防守の言葉には、明らかな苛立ちがあった。
義信の近くで働いてきた者同士、これまでも幾度となく顔を合わせている。しかし今は、親しい間柄だからこそ不用意な接触を避けるべき時期だった。
虎昌は懐から書状を取り出した。
「若殿から預かって参った。まずはこちらを読んでいただきたい」
周防守は警戒しながら受け取り、目を通した。
読み終えると、険しい顔のまま書状を畳んだ。
「兵部殿。若殿は、本気で家督を望んでおられるのか」
「本気も本気よ。あれほど楽しそうに謀反の話をされるお方を、儂は初めて見た」
「笑い事ではござらん!」
周防守が声を荒らげると、虎昌は頷いた。
「そのとおりだ。儂も最初は止めた。御館様を相手にして、無事で済むはずがないとな」
「ならば、なぜ」
「若殿が、御館様を殺すつもりはないと仰せだからだ」
周防守は眉をひそめた。
「家督を奪いながら、御館様を生かすと?」
「それどころか、家臣として軍を率いていただくおつもりらしい」
「……兵部殿。それを本気で申されているのか」
「儂も耳を疑ったわ」
虎昌は苦笑した。
「だがな、周防守殿。あのお方は父君の才を心底認めておられる。天下を取るのに、信玄公ほどの名将を失うのは惜しいと仰せなのだ」
周防守は書状を見下ろした。
普通なら、家督争いに敗れた当主は危険な存在となる。生かしておけば旧臣が集まり、復権を望む者が現れるだろう。
それを理解せずに父を使おうとしているなら、若殿はあまりにも甘い。
「御館様が従わなかった場合は、どうなさるおつもりだ」
「そこまでは聞いておらん。ただ、武田家を二つに割って争うのを、できる限り避けたいと仰せだった」
周防守はしばらく考え込み、やがて顔を上げた。
「では、兵部殿。若殿に一つお伝え願いたい」
「何だ」
「家督を望むのであれば、まず御館様へ正面から申し上げるべきです。密かに家臣を集めてからでは、どのような理屈を並べても謀反としか受け取られませぬ」
「正面から申し上げれば、若殿が捕らえられるやもしれんぞ」
「その危険を承知で家督を望んでおられるのでしょう」
周防守は虎昌を見据えた。
「儂は武田家に仕える者。若殿のお命も大切ですが、御館様へ弓を引くことを軽々しく誓うわけにはまいりませぬ」
虎昌は静かに頷いた。
「その言葉、必ず若殿へ伝えよう」
「それから、もう一つ。もし若殿が本当に御館様のお命を奪わぬというのであれば、そのお考えを口約束だけにしてはなりませぬ」
「書き残せと申すか」
「はい。兵を挙げる者は、勝つ前と勝った後で言うことが変わりがちですからな」
虎昌は初めて笑みを浮かべた。
「周防守殿。そなたも若殿を試しておるのだな」
「試すくらいは許されましょう。こちらは武田家の命運を賭けることになるのですから」
周防守は書状を返した。
まだ義信に従うとは言わない。
しかし、話し合うことまで拒んだわけでもなかった。
◇
虎昌が屋敷へ戻ると、義信は書き物をしていた。
机には兵法書の写本が開かれていたが、その隣には甲府周辺の道と屋敷を記した簡素な図がある。
義信は虎昌の報告を聞き終えると、大きく頷いた。
「周防守はなかなか筋の通った男だな。気に入ったぞ」
「若殿。あのお方は、御館様へ直接お話しするよう勧めておられます」
「そのようだな」
「……どうなさるおつもりで」
「会いに行こう」
虎昌は思わず腰を浮かせた。
「若殿! 御館様から謹慎を命じられておりますぞ!」
「だから、謹慎を解いていただきに行くのだ」
「そのように簡単に申されても……」
義信は筆を置き、虎昌を見た。
「兵部。周防守の言うことは正しい。父上へ家督を求めるなら、まず自分の口で申し上げるべきだ。何の申し入れもせずに兵を集めれば、言い訳のしようがない謀反になる」
「御館様は、お怒りになりましょう」
「怒られるのは昔から慣れておる。今さら一度や二度増えたところで、大して変わらんさ」
義信は豪快に笑った。
虎昌は笑えなかった。
謹慎中の嫡男が、許しもなく御館へ出向いて家督を要求する。それだけでも大問題である。
だが義信は、すでに書状を用意していた。
「これを父上へお渡しする」
虎昌が受け取ると、そこには家督継承について正式な話し合いを求める旨が書かれていた。
さらに、家督譲渡の後も信玄の身分と所領を保障し、軍事上の才を生かしていただきたいという希望まで記されている。
「……本当に、御館様を家臣として使われるおつもりなのですな」
「当然だ。信玄公に上杉を任せ、俺が西へ進めば、武田の兵をより広く使える。父上ほど上杉輝虎を知る武将はおらんのだからな」
「御館様が承知されるとは思えませぬ」
「俺も今すぐ承知してくださるとは思わん。だが、父上に何を望んでいるのか、はっきり伝えることはできる」
義信は立ち上がった。
「それに、俺が本気で家督を望んでいると分かれば、父上もいつまでも曖昧な扱いはできまい」
そのとき、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「若殿! 御館様より使者が参っております!」
義信と虎昌は顔を見合わせた。
使者は三人の武士を伴っていた。
先頭の男は深く礼をすると、信玄の命令を読み上げた。
「飯富兵部少輔虎昌殿につきましては、御館様より改めて屋敷での蟄居を命じられました。以後、許しなく外出することを禁じられます」
虎昌の顔が強張った。
男は続ける。
「また義信様におかれましては、兵部少輔殿との往来を断ち、身辺に置く武具を差し出すよう仰せにございます」
義信はしばらく黙って聞いていた。
「なるほど。父上は俺から刀まで取り上げたいらしい」
「御館様の御命令にございます」
「分かった。ならば、その前に一つ聞こう。兵部には何の罪がある」
使者は答えに詰まった。
「それは……御館様の御意向により」
「罪状を聞いておる。兵部が何をしたというのだ」
「出仕を止められているにもかかわらず、曽根周防守殿の屋敷へ赴いたことが問題となっております」
「なるほど。確かに出仕は止められていたな。だが、周防守の屋敷へ行くことまで禁じられていたのか」
使者は黙った。
義信は相手を責め立てず、書状を受け取って内容を確かめた。
「父上の御書には逆らわん。ただし、ここにあるのは蟄居を命じる言葉であって、兵部を罪人として裁いたものではない。そこは間違えぬようにしてくれ」
「はっ」
「兵部、屋敷へ戻れ。父上の命令に従うのだ」
「若殿……」
「心配するな。俺は俺で、父上へ申し上げたいことがある」
義信は机に置いた書状を手に取った。
「使者殿。これを父上へ届けてくれ。家督のことで、正式にお話を願いたい」
男は書状を受け取ったが、その表情は明らかに硬くなっていた。
「家督、にございますか」
「ああ。俺もいつまでも若殿と呼ばれているわけにはいかんのでな」
義信が笑うと、使者は深く頭を下げて退出した。
◇
その日の夕刻、躑躅ヶ崎館では信玄が義信の書状を読んでいた。
傍らには馬場信房が控えている。
「……義信め。とうとう、ここまで申すようになったか」
信玄は書状を畳み、しばらく黙っていた。
そこには家督を譲ってほしいと明記されていた。
しかも単なる要求ではない。
信玄のこれまでの働きを認め、家臣団の功績を尊重し、当主が交代した後も武田の軍勢を一つに保つという構想まで示されている。
「民部。そなたはどう思う」
信房は慎重に言葉を選んだ。
「若殿は本気にございますな。以前のように、今川との同盟をめぐって御館様へ異を唱えておられるだけではないように見受けられます」
「わしもそう思う」
信玄は書状の一節を指で押さえた。
『父上には、これよりも広く天下へ武田の武威を示していただきたく存じます』
「わしに戦を任せるつもりらしい」
信房は一瞬、返答に困った。
「御館様を、若殿の配下としてでございましょうか」
「そのように読めるな」
信玄は口元を歪めた。
怒るべき話である。
自分が築き上げた武田家の家督を、まだ二十代の息子が譲れと言ってきたのだ。しかも、隠居して静かに暮らせというならまだしも、息子の下で戦を続けろという。
「義信は、わしを何だと思っておるのだろうな」
「それほど御館様のお力を認めておられるのでしょう」
「褒めておるつもりなのか、こき使うつもりなのか分からんわ」
信玄は低く笑った。
しかし、その笑みはすぐに消えた。
「民部。義信の周りには、すでに人が集まり始めておる。兵部だけではない。周防守まで会うようになった」
「確かに、家中が割れる恐れはございます」
「わしは、それを放っておくつもりはない」
信玄は筆を取り、義信への返書をしたためた。
家督を譲る考えはないこと。謹慎を解くつもりもないこと。そして、これ以上家臣を動かせば厳しく処断すること。
書き終えると、信玄は信房へ告げた。
「義信へ届けよ。あやつがなお家督を望むなら、わしも相応の手を打たねばならぬ」
「はっ」
「それから、兵部の屋敷を見張らせよ。誰が出入りするか、逐一報告させるのだ」
信房が退出すると、信玄は再び義信の書状を眺めた。
父を追放して家督を継いだ自分が、今度は息子から家督を求められる。
考えてみれば、皮肉な巡り合わせだった。
「……義信。わしが簡単に退くと思うなよ」
◇
返書を受け取った義信は、読み終えると声を上げて笑った。
「父上らしい! 少しも譲る気がないそうだ!」
傍らにいた家臣は、笑ってよいものか分からず困惑していた。
「若殿。御館様は、これ以上家臣を動かせば処断すると仰せですぞ」
「分かっておる。だが、俺が何を望んでいるかは伝わった。これで父上も、俺を単なる反抗的な息子とは思えんだろう」
義信は返書を机へ置き、立ち上がった。
「馬を用意してくれ」
家臣が驚いて顔を上げる。
「若殿。謹慎中にございますが」
「知っておる。だが、父上に直接お話しせねばならんことがある。正式な願いを出して断られたのだから、今度は自分の口で申し上げよう」
「御館様がお会いになるとは限りませぬ」
「会っていただけるまで待つさ。父上も息子を門前で何日も立たせておくほど、意地悪ではあるまい」
義信は刀を手に取った。
しかし、すぐに鞘ごと家臣へ預ける。
「これは置いていく。父上と話すのに、刀は必要あるまい」
家臣は困惑しながらも、馬の準備へ向かった。
義信が門へ出ると、見張りの武士たちが行く手を塞いだ。
「若殿。御館様より外出を禁じられております」
「承知しておる。父上へお会いしたいのだ。取り次いでくれ」
「それはできませぬ」
「ならば、俺が直接願い出る」
義信が歩みを進めると、武士の一人が慌てて腕を伸ばした。
「若殿、お待ちくだされ!」
腕を掴まれた義信は、相手の手首を軽く押さえた。
次の瞬間、武士の身体がくるりと回り、足元を崩されて尻餅をついた。
刀を抜いたわけでも、殴ったわけでもない。
ただ、掴まれた腕を外し、相手の力を利用して体勢を崩しただけだった。
「悪いな。怪我はないか」
武士は呆然と義信を見上げた。
「若殿……」
「お前たちが父上に忠義を尽くしていることは分かっておる。だが、俺も父上の息子だ。家督のことで話し合いたいと願うことまで、許されぬとは思わん」
義信は武士へ手を差し出し、立ち上がらせた。
「俺が勝手に屋敷を出たことは、父上へそのまま報告してくれ。お前たちの責任にはせん」
そう言って馬に乗る。
見張りたちは顔を見合わせたが、義信を斬ってまで止める命令は受けていなかった。
義信は供の者を数人だけ連れ、躑躅ヶ崎館へ向かった。
◇
館へ到着した義信は、門前で馬を下りた。
門番が慌てて駆け寄る。
「義信様! 謹慎中ではございませぬか!」
「そうだ。父上へ会いに来た」
「御館様のお許しなく、お通しするわけには……」
「分かっておる。だから取り次いでくれ。武器は持っておらん。供の者も門外で待たせる」
門番は困り果てた表情を浮かべた。
義信は急かさず、門の脇へ腰を下ろした。
しばらくして馬場信房が現れた。
「若殿。何をなさっておられる」
「父上への面会を願っておる。民部殿、取り次いでいただけぬか」
「御館様はお怒りにございますぞ」
「であろうな。今頃、俺の顔を見るのも嫌かもしれん」
義信は笑った。
「だが、父上に家督を譲っていただきたいという考えは変わらん。ならば、俺も正面から申し上げねばなるまい」
信房は義信をじっと見つめた。
昨日までとは違う。
以前の義信なら、父の命令に不満を抱きながらも、家臣たちを通じて意見を伝えようとしただろう。
ところが今は、自ら門前へ出向き、堂々と家督を求めている。
しかも刀すら持っていない。
「若殿。本気でございますか」
「もちろんだ。民部殿も長年父上に仕えてこられたのだ。父上がどれほど優れた大将か、俺よりよくご存じであろう」
「無論にございます」
「俺もそう思っておる。だから父上を隠居させるつもりはない。俺が当主となり、父上にはこれまで以上に働いていただく」
信房は返答に窮した。
義信の言葉には、一点の迷いもなかった。
「……若殿。少々お待ちくだされ」
信房は館の奥へ向かった。
義信は門前に立ったまま、秋の空を見上げた。
しばらくして、信房が戻ってきた。
「御館様がお会いになるそうです。ただし、今は人目を避けて奥の間でお話しくださいとのこと」
「ありがたい。民部殿、世話をかけたな」
義信は深く頭を下げ、信房に案内されて館へ入った。
◇
「義信。そなたは、わしの命令が聞こえぬのか」
信玄は開口一番、そう告げた。
義信は平然と座り、頭を下げた。
「謹慎の命に背いたことは、お詫び申し上げます」
「詫びるくらいなら、初めから従えばよい」
「それでは、父上にお会いできませぬからな」
信玄の額に青筋が浮かんだ。
「……そなた、わしを愚弄しておるのか」
「滅相もございません。俺は父上を、天下に並ぶ者の少ない名将だと思っております」
「ならば、なぜ逆らう」
「父上より、俺の方が天下を取れると考えているからです」
信玄は言葉を失った。
義信は父の眼を真っ直ぐに見つめた。
「父上。家督をお譲りくだされ」
その言葉に、信玄の表情が険しくなった。
「義信。そなたは、自分が何を申しておるか分かっておるのか」
「無論です。父上が甲斐をまとめ、信濃を広げ、上杉と戦ってこられたことは承知しております。そのお働きを否定するつもりはありません」
「ならば、なぜ今すぐ家督を求める」
「父上と俺では、天下への道筋が違うからです」
義信は懐から地図を取り出した。
「父上は上杉と長く争ってこられました。その戦に勝つことは大切ですが、上杉を相手に戦い続けるだけでは、天下に届きませぬ」
「それは、わしとて承知しておる」
「では、父上。俺に武田家を任せていただきたい。上杉との戦は父上にお任せし、俺は西へ進みます。勝頼にも働いてもらい、今川、北条とも関係を整えましょう」
信玄は地図へ目を落とした。
息子の考えは大胆だった。
しかし、単なる夢物語とも言い切れない。
義信は父の力を奪いたいのではない。その力を使いながら、別の方角へ武田家を進めたいのだ。
「義信。そなたが当主となれば、わしに従ってきた家臣たちはどうなる」
「働きに応じて重用します。父上への忠義を理由に処罰するつもりはございません」
「わし自身はどうなる」
「もちろん、俺の家臣として働いていただきます」
信玄はしばらく黙った。
やがて、呆れたように息を吐いた。
「……息子に家督を奪われ、そのうえ家臣になれと申すか」
「はい。父上ほどの名将を遊ばせておくのは、天下の損にございます」
「わしが従わぬと言えば?」
「そのときは、父上に認めていただけるだけの働きを見せるしかありますまい」
義信はにやりと笑った。
「ただし、父上を殺すつもりはありません。そこだけは、どうかご安心くだされ」
信玄は息子を見つめた。
その笑みには、奇妙なほどの余裕があった。
父である自分を恐れていない。
それでいて、侮っているわけでもない。
「義信。そなたは、わしから家督を奪えると思っておるのか」
「思っております」
「武田の家臣が、皆そなたに従うとでも?」
「いいえ。父上に忠義を尽くす者も大勢おりましょう。だからこそ、できるだけ血を流さずに済ませたいのです」
信玄は扇を手に取った。
「……ならば、わしも覚悟せねばならぬな」
義信は笑みを消した。
「父上」
「そなたがそこまで申すなら、もはや単なる親子の意見違いでは済まぬ。家督を争う覚悟があるということじゃな」
「はい」
信玄はゆっくりと頷いた。
「よかろう。ならば、わしもそなたを一人の武将として扱おう。嫡男だからといって、いつまでも甘くは見ぬぞ」
「望むところにございます」
義信は深く頭を下げた。
信玄は息子の顔を見つめ、低く言った。
「ただし義信。わしは簡単には負けぬ」
「存じております。だからこそ、父上を相手にするのが楽しみなのです」
義信が笑うと、信玄も思わず口元を緩めた。
だが、その眼光は鋭いままだった。
父と息子。
武田家の家督をめぐる争いは、ついに互いが承知するところとなった。
義信が退出した後、信玄は馬場信房を呼んだ。
「民部。義信の屋敷を見張る兵を増やせ。兵部の動きも引き続き調べよ」
「はっ」
「それから、家中の重臣たちへ知らせることがある」
信房は顔を上げた。
「何にございましょう」
信玄は息子の去った方角を見つめた。
「義信は、本気でわしから家督を奪うつもりらしい」
信房の表情が強張った。
「御館様……」
「ならば、こちらも本気で相手をせねばなるまい」
信玄は扇を閉じた。
「三日後、重臣たちを集めよ。義信の処遇を決める」
信房は深く頭を下げた。
その頃、館を出た義信は秋風に吹かれながら、実に楽しそうな顔をしていた。
「さて、父上。ここからが勝負ですぞ」
父は強い。
家臣も兵も、今は父の方が圧倒的に多い。
それでも義信は、負けるつもりなど微塵もなかった。
家督を奪い、父を家臣にし、武田家を天下へ導く。
その野望を、ついに本人へ突きつけたのである。
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