第4話 父が先に動いた
「若殿、甲府より早馬にございます。御館様の御書を携えております」
諏訪を越え、北信濃へ向かう街道沿いの宿所で、武田義信は思いがけない報せを受けた。
甲府を発ってまだ二日。信玄から預かった百人の兵も、馬も、道中に問題はない。上杉方の国衆と接触するため、現地の城将へ送る書状も用意していた。
その矢先に、父からの使者である。
「ほう、父上も気が早いな。まさか出立したばかりの息子が恋しくなったわけでもあるまい」
義信が笑うと、傍らの飯富三郎兵衛は困ったような顔をした。
「御館様からの急使にございます。まずは御書をお確かめくだされ」
「そう堅くなるな。使者を通してくれ」
現れた武士は、旅塵に汚れた装束のまま膝をついた。
差し出された書状には信玄の花押がある。
義信は封を開き、読み進めるうちに口元を緩めた。
「なるほど。これは一本取られたな」
書状には、北信濃への派遣を取りやめ、義信は直ちに甲府へ戻るよう命じられていた。
百人の兵は三郎兵衛の指揮下に置き、現地の城将へ引き渡す。義信自身は必要最低限の供回りだけを連れ、帰館せよという内容だった。
「若殿、いかがなされました」
「父上が俺を呼び戻すそうだ。北信濃の仕事は、お前に任せるとある」
三郎兵衛の表情が引き締まった。
「……そのような御命令が」
「お前は知らなかったのか」
「はっ。御館様からは若殿のお供と、行動の報告を命じられただけにございます」
義信は書状をもう一度眺めた。
軍議では百人の兵を預け、北信濃の国衆を味方にできるか試すと言った。その命を、わずか二日で取り消したのである。
気まぐれで兵を動かすような父ではない。
何かが起きたのだ。
「使者殿。甲府では変わったことがなかったか。兵部が呼ばれたとか、俺の屋敷へ誰かが訪ねたとか」
武士は一瞬、言葉を詰まらせた。
「詳しくは存じませぬ。ただ、飯富兵部少輔殿が御館様に召され、長くお話をなさっていたとは聞いております」
「それは昨日か」
「一昨日の夕刻にございます」
義信は書状を畳んだ。
父は自分が甲府を離れた直後、虎昌を呼び出していた。
そのうえで、兵を取り上げて帰還を命じてきたのである。
「三郎兵衛。少し二人で話せるか」
使者を下がらせると、義信は宿所の奥へ三郎兵衛を招いた。
山間の宿は板壁が薄く、外では馬の水を替える音が聞こえていた。義信は戸が閉まったことを確かめ、先ほどの書状を三郎兵衛の前へ置いた。
「お前なら、この命令をどう読む」
「御館様が若殿を甲府へお戻しになりたいのでございましょう」
「それは書いてある。なぜ戻すのかを聞いておる」
三郎兵衛はしばらく黙った。
やがて腹を決めたように顔を上げる。
「恐れながら、若殿のお振る舞いを御館様が案じておられるのではないかと」
「俺が謀反でも起こすと思っておられるか」
三郎兵衛の顔色が変わった。
「若殿、そのようなお言葉は……」
「はっはっは! お前は正直でよいな。今ので答えは分かった」
義信は笑ったものの、その眼差しは鋭かった。
史実の義信事件については、何十年も研究してきた。
飯富虎昌が謀反を企てたとされ、弟の三郎兵衛がそれを信玄へ知らせたという伝承も知っている。しかし史料には食い違いが多く、実際の経緯を確かめることは難しい。
そして、今の義信に残された記憶にも気になるものがあった。
自分がこの身体で目覚める以前から、義信と虎昌は何度も密かに顔を合わせている。
今川との同盟をめぐる父子の対立は、昨日今日に始まったものではなかったのだ。
前世の自分が何もしなければ、やがて悲劇へ向かっていたであろう状況が、すでに出来上がりつつあった。
「三郎兵衛。父上から俺を見張れと命じられているのだろう」
「……御館様への報告は、家臣の務めにございます」
「責めておらん。むしろ、よく務めていると思っておるぞ」
義信は書状を三郎兵衛へ差し出した。
「父上の命令どおり、百人はお前に預ける。北信濃へ進むもよし、現地の城将へ引き渡すもよし。俺は供の者を連れて甲府へ戻る」
「お従いになるのですか」
「従わずにここで兵を挙げたところで、百人では何もできん。お前まで困らせるだけだろう」
三郎兵衛は安堵したように息を吐いた。
だが、義信は続けた。
「ただし、父上の考えが正しいと認めたわけではないぞ。俺には俺の考えがある。それを曲げるつもりもない」
「若殿……」
「三郎兵衛。お前には父上への忠義を貫いてもらいたい。兄の兵部を思うあまり、心にもないことをする必要はない。俺もお前に裏切りを勧める気はないからな」
三郎兵衛は驚いたように顔を上げた。
兄と主君の間に何かが起これば、自分はどちらにつくべきか。
その疑問を、義信は先回りして口にしたのである。
「若殿は、兄が何かを企てているとお考えですか」
「兵部は俺を大切に思ってくれている。それは確かだ。だが、父上に弓を引くとなれば話は別だろう。あの男にも守るべき家と家臣がある」
「……左様にございます」
「心配するな。俺は兵部を無駄死にさせん。そのためにも、まず甲府へ戻る」
義信は立ち上がり、壁に掛けてあった刀を取った。
「それにしても、出立して二日で呼び戻されるとはな。父上は相変わらず、人を使うのがお上手だ」
三郎兵衛は返す言葉を見つけられなかった。
若殿は笑っている。
しかし、その笑みの奥にあるものが、先ほどまでとは違って見えた。
◇
甲府へ戻った義信が最初に向かったのは、自分の屋敷だった。
すでに日が傾き、躑躅ヶ崎館の周囲には夕暮れの冷たい空気が漂っている。
屋敷の門前に、見慣れぬ兵が立っていた。
義信の供回りを見た兵たちは慌てて道を開いたが、その様子には妙な緊張があった。
「何かあったのか」
出迎えた家臣は周囲を見回し、声を落とした。
「若殿。飯富兵部少輔様が、御館様より出仕を差し止められております」
「兵部が?」
「はい。御屋敷へも使いが参り、しばらく兵部様との往来を慎むようにとの仰せにございます」
義信は足を止めた。
信玄は虎昌を処刑したわけではない。
だが、軍務から外し、義信との接触を制限し始めている。
父は確かに動いていた。
「ほう。兵部のような働き者を休ませるとは、父上も気前がよくなられたものだ」
「若殿、笑い事ではございませぬ」
「分かっておる。だからこそ笑っているのだ」
義信は屋敷へ入ると、供の者に命じて人払いをさせた。
ほどなく正室が姿を現した。義信の帰還が早すぎたため、驚きを隠せない様子だった。
「義信様。北信濃へ向かわれたのでは」
「父上に呼び戻された。どうやら俺が留守にしている間に、甲府が騒がしくなったらしい」
妻は言葉を選ぶように少し間を置いた。
「兵部殿のことは、お聞きになりましたか」
「ああ。お前も何か聞いておるのか」
「詳しいことは分かりませぬ。ただ、今川との縁を重んじる方々が、御館様のお考えに異を唱えていると……」
義信は妻の顔を見た。
彼女が今川義元の娘であることは変わらない。
父との対立が深まれば、妻は必ず難しい立場に置かれる。
「心配をかけるな。お前に責めを負わせるつもりはないぞ」
「私のことより、義信様のお立場が心配です」
「俺の立場なら、これから自分でどうにかするさ」
義信は妻の手を取った。
「ただし、これから少々騒がしくなる。今川の実家へ勝手に知らせを送れば、父上に余計な疑いを持たれるかもしれん。何か伝えたいことがあれば、俺に相談してくれ」
「承知いたしました。ですが、私にもできることがあれば、お命じください」
「ありがたい。そういうところは実に頼もしいな」
義信は笑い、妻の手を放した。
その直後、廊下から使者の到着を告げる声が響いた。
信玄からの呼び出しだった。
◇
「義信。早かったな」
信玄は評定の間で一人、息子を待っていた。
昼間の軍議とは違い、地図も書状も片づけられている。傍らに置かれた燭台だけが、父の表情を照らしていた。
「父上のお呼びとあれば、急いで戻らねばなりませぬからな」
義信は一礼し、向かいへ腰を下ろした。
信玄はしばらく息子を眺めていたが、やがて口を開いた。
「北信濃へ向かわせたのは、そなたの考えを試すためじゃった」
「承知しております」
「だが、そなたには今少し、家中のことを考えてもらわねばならぬ」
「兵部のことでございますか」
信玄の眉がわずかに動いた。
「耳が早いな」
「甲府へ戻れば、すぐ分かります。兵部ほどの宿将が出仕を止められれば、誰もが気にするでしょう」
「ならば聞こう。そなたは兵部と何を話しておる」
義信は父の眼を見た。
ここで下手な嘘をつけば、それこそ命取りになる。
「武田家のこれからについてでございます。北信濃のこと、今川との同盟のこと、そして父上の後を誰が継ぐべきかということも」
「誰が継ぐべきか、だと」
「俺は嫡男にございます。それを考えぬ方がおかしいでしょう」
信玄は扇を手に取った。
「義信。そなたは最近、以前にも増して大きなことを申すようになった。天下を取ると言い、兵を預けよと言い、今度は家督の話か」
「いずれも本気にございます」
「その本気が、家を乱すこともある」
信玄の声は静かだった。
義信には、それが怒鳴られるより厄介に思えた。
「わしは父を駿河へ送り、家督を継いだ。それによって甲斐をまとめ、信濃へ進み、今日の武田を築いてきた。そなたもそのことは知っておろう」
「無論です。父上のお働きには敬服しております」
「ならば、わしが家中の乱れをどれほど嫌うかも分かるはずじゃ」
義信は黙って頷いた。
父が信虎を追放した事実を、自ら口にした。
そのとき何を考え、どれほどの覚悟を決めたのか。信玄にとっても、決して軽い出来事ではなかったはずだ。
「義信。今川との縁については、そなたの思いも分かる。だが武田の進む道は、武田の利で決めねばならぬ。妻の実家を守るために、甲斐と信濃の兵を危険へさらすことはできん」
「父上のお考えはもっともです。しかし、今川を敵にすれば北条も動きましょう。そのとき、上杉との争いを抱えたまま何を得られるか、俺には疑問がございます」
「その話は聞いた」
「では、なぜ兵部を遠ざけられたのです」
信玄は扇を閉じた。
「家中には、そなたの考えを利用して己の立場を強めようとする者もおる。兵部に悪気がなくとも、嫡男の名を掲げて人が集まれば争いの種になる」
義信は父の言葉を噛みしめた。
信玄は虎昌を無能だとも、悪人だとも考えていない。
ただ、その忠義が主家を二つに割る危険を知っている。
だからこそ、今のうちに手を打とうとしているのだ。
「父上。兵部を遠ざければ、疑いが晴れるとお思いですか」
「疑いを招く振る舞いを慎めばよい」
「それで父上との考えの違いまで消えるわけではございますまい」
「義信」
信玄の声音が一段低くなった。
「そなたは、わしと争いたいのか」
義信はすぐには答えなかった。
父の背後には、甲斐から信濃へ領地を広げてきた年月がある。家臣たちとの信頼も、積み上げた戦功も、義信が一朝一夕で奪えるものではない。
だが、このまま父に従えば、いずれ自分は幽閉され、虎昌も命を失う。
六十五年を生きた前世の義信は、生徒に何度も教えてきた。
歴史は結果から見れば必然に思えるが、その時代を生きた人間には常に選択があったのだと。
「父上。俺は武田を天下へ導きたい。それだけにございます」
「ならば、わしに従え」
「父上のお考えが正しければ従います。ですが、武田を危うくすると分かっている道へ、黙ってついていくつもりはありませぬ」
信玄の眼光が鋭くなった。
「わしの判断より、己の判断を上に置くと申すか」
「俺も武田の嫡男です。自分の考えを持つことまで禁じられては困ります」
信玄はしばらく沈黙した。
やがて、ゆっくりと言った。
「義信。しばらく屋敷で謹慎せよ。兵を率いることも、家臣たちと勝手に会うことも許さぬ。頭を冷やすがよい」
義信は父の顔を見つめた。
そして、思わず笑った。
「はっはっは! なるほど。父上は本気で俺を抑え込むおつもりですな」
「何がおかしい」
「いえ、さすがは父上と思いまして。俺が自分の旗を持つ前に、兵と人を遠ざけてしまわれる。実に見事な手際です」
「分かっておるなら、従え」
「承知いたしました。ですが一つだけ、お願いがございます」
「申してみよ」
「兵部を殺さぬと、お約束ください」
信玄の表情が変わった。
「わしは、まだ兵部を罪人と決めたわけではない」
「でしたら、今後もそのお考えをお忘れなきよう。兵部は長年、武田のために働いてきた男です。俺への忠義だけを理由に、あれほどの家臣を失うのは惜しい」
信玄は答えなかった。
義信は頭を下げ、立ち上がった。
退出を許す信玄の声が、背中へ届く。
「義信。わしに隠れて何かを企てれば、たとえ息子でも容赦はせぬぞ」
義信は振り向いた。
「心得ております、父上。俺も、父上だからといって手加減するつもりはございませぬ」
その言葉を残し、義信は部屋を出た。
◇
夜半、義信の屋敷を訪れたのは、飯富虎昌だった。
出仕を止められている身である。本来なら、屋敷を出ることさえ控えるべき立場だった。
しかし義信から届いた使いは、ただ一言を伝えていた。
『兵部に会いたい。今夜、来られるなら来てくれ』
虎昌は人目を避けて屋敷へ入り、主人の前に膝をついた。
「若殿。御館様より謹慎を命じられたと聞き及びました」
「ああ。父上も容赦がないな。息子を呼び戻して、兵を取り上げ、家臣との往来まで禁じられた」
「儂の不始末にございます」
「お前が謝ることではない。俺と父上の考えが合わんのは、今に始まったことではないからな」
義信は虎昌へ盃を勧めた。
虎昌は受け取らず、深々と頭を下げた。
「若殿。もはや、儂をお使いにならぬ方がよろしいかと存じます。このままでは、若殿まで……」
「兵部。お前、俺が怖くなって逃げる男に見えるか」
「そのようなことはございませぬ!」
「ならば、そんな辛気臭い顔をするな。父上が先に動いたのなら、こちらも腹を決めるまでよ」
義信は傍らの地図を広げた。
北信濃のものではない。
甲府の館と、その周辺を示す見取図だった。
虎昌の眼が大きく見開かれた。
「若殿……これは」
「父上は俺から兵を取り上げた。兵部の出仕も止めた。これ以上待てば、俺たちの首に縄が掛かるだけだろう」
「まさか、本当に御館様へ……」
「兵部。俺は謀反の疑いで殺されるつもりはない。まして、お前まで巻き添えにするなど御免だ」
義信は地図から顔を上げた。
「父上には家督を譲っていただく。殺す必要はない。あの方には、俺の下で存分に働いてもらうつもりだ」
虎昌は息を呑んだ。
「若殿、本気でございますか」
「もちろんだ。ただし、俺のために命を捨てろとは言わん。お前には父上への恩がある。その恩を踏みにじれと命じる気もない」
義信は盃を持ち上げた。
「俺が欲しいのは、武田家を強くしたいと本気で思う家臣だ。父上に従うのが武田のためと思うなら、それでも構わん。だが俺とともに天下を狙う気があるのなら、今こそ力を貸してほしい」
虎昌はしばらく俯いていた。
信玄への恩義は忘れられない。
それでも、幼い頃から育ててきた義信が、これほどの覚悟を示している。
今の若殿は、以前とは違う。
父の陰で不満を募らせているだけの若者ではない。自分が武田家を率いると決め、その責任まで引き受けようとしている。
虎昌は顔を上げた。
「若殿。儂の命、まだ使い道がございますか」
「大ありだ。お前ほどの男を遊ばせておくなど、もったいないではないか」
「では、この虎昌、若殿のお考えに従います。ただし、御館様のお命だけは……」
「取らん。そこは最初から決めておる」
義信は笑った。
「父上には長生きしていただかねば困る。天下を取る仕事が山ほどあるからな」
虎昌の口元が緩んだ。
その直後、義信は表情を改めた。
「兵部。まず確かめたいことがある。甲府において、父上から直接命を受ける者、嫡男である俺の言葉にも耳を貸す者、どちらにも与せぬ者。それぞれを、お前の知る限り教えてくれ」
「……家臣の心をお調べになると」
「そうだ。敵味方を決めつけるのは最後でよい。先に、人を知らねばならん」
虎昌は深く頷いた。
「曽根周防守殿ならば、若殿のお考えを聞いてくださるかもしれませぬ。ただし、御館様への忠義も厚いお方。いきなり家督の話を持ちかければ、何が起こるか分かりませぬ」
「それでよい。俺が見たいのは、父上を裏切れるかどうかではない。武田のために、どこまで腹を割って話せるかだ」
義信は筆を取った。
地図の脇へ数人の名を書き記し、虎昌の意見を聞きながら順を入れ替えていく。
誰を頼るべきか。誰にはまだ話すべきでないか。
父を倒すと決めたからといって、手当たり次第に人を集めるわけにはいかなかった。
虎昌は一通りの話を終えると、ふと思い出したように尋ねた。
「若殿。三郎兵衛はいかがいたしましょう。あやつは御館様への忠義が厚うございます。兄である儂より、主君の御命を重んじる男です」
「知っておる。だから、あいつには何も知らせるな」
「よろしいので」
「よい。あいつが父上へ忠義を尽くすなら、それはそれで立派なことだ。俺が家督を取った後、改めて働いてもらえばよい」
虎昌は驚いたように義信を見た。
主君へ密告する可能性のある男を、なお重用するつもりだという。
普通なら、真っ先に遠ざけようとする相手だった。
「若殿は、随分と大きなお方になられましたな」
「はっはっは! まだ大きくなり足りんぞ。何しろ天下を取るつもりだからな!」
義信の笑い声が、夜更けの部屋に響いた。
だが、その笑顔の奥には確かな覚悟があった。
父との争いは、もう避けられない。
ならば、勝つ。
ただし、武田家を壊さずに勝つ。
父を倒し、父を生かし、その力まで手に入れて天下へ進む。
義信は盃を置き、虎昌へ告げた。
「兵部。明日から動くぞ。父上には、俺が屋敷で大人しくしていると思っていただこう。その間に、お前には会うべき者がおる」
「はっ。誰にございますか」
義信は地図の上に書いた一人の名を指した。
「まずは曽根周防守だ。あの男が父上に何を思い、俺に何を求めるか。そこから始めよう」
虎昌は深く頭を下げた。
義信は再び笑みを浮かべた。
「父上は手強い。だからこそ、倒し甲斐があるというものよ」
◇
同じ頃、躑躅ヶ崎館では、信玄が報告を受けていた。
「義信の屋敷へ、飯富兵部少輔が入ったと?」
「はっ。人目を避けて参った模様にございます」
報告した家臣は、主君の表情を窺った。
信玄は怒鳴らなかった。
ただ、膝の上で扇をゆっくり閉じた。
「謹慎を命じたばかりだというに、早くも兵部を呼んだか」
「いかがいたしましょう。兵部を捕らえますか」
信玄はしばらく考え込んだ。
息子が自分の考えを持つこと自体は、悪いことではない。
だが、その考えに家臣たちが集まり、別の命令系統が生まれれば、武田家は内側から割れる。
信玄自身が、かつて父を追放して家督を握った男である。
その危うさを誰よりも知っていた。
「今は手を出すな。義信がどこまで考えておるのか、見極める」
「承知いたしました」
「ただし、兵部の動きから目を離すな。家中の者に会うなら、相手の名を確かめよ」
家臣が退出すると、信玄は庭へ目を向けた。
月明かりが白砂を照らしている。
「義信よ。わしに逆らうというなら、それ相応の覚悟があろうな」
息子の笑い声は、ここまでは届かない。
それでも信玄には、義信が何を考えているのか、少しずつ分かり始めていた。
父と息子。
武田家の二人の男が、同じ家督を見据えて動き始めていた。




