↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『武田信玄の嫡男に転生した歴史教師、謀反を成功させて父を家臣にする ~武田義信、最強の父子で天下を取る~』  作者: あちゅ和尚


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/31

第4話 父が先に動いた

「若殿、甲府より早馬にございます。御館様の御書を携えております」


 諏訪を越え、北信濃へ向かう街道沿いの宿所で、武田義信は思いがけない報せを受けた。


 甲府を発ってまだ二日。信玄から預かった百人の兵も、馬も、道中に問題はない。上杉方の国衆と接触するため、現地の城将へ送る書状も用意していた。


 その矢先に、父からの使者である。


「ほう、父上も気が早いな。まさか出立したばかりの息子が恋しくなったわけでもあるまい」


 義信が笑うと、傍らの飯富三郎兵衛は困ったような顔をした。


「御館様からの急使にございます。まずは御書をお確かめくだされ」


「そう堅くなるな。使者を通してくれ」


 現れた武士は、旅塵に汚れた装束のまま膝をついた。


 差し出された書状には信玄の花押がある。


 義信は封を開き、読み進めるうちに口元を緩めた。


「なるほど。これは一本取られたな」


 書状には、北信濃への派遣を取りやめ、義信は直ちに甲府へ戻るよう命じられていた。


 百人の兵は三郎兵衛の指揮下に置き、現地の城将へ引き渡す。義信自身は必要最低限の供回りだけを連れ、帰館せよという内容だった。


「若殿、いかがなされました」


「父上が俺を呼び戻すそうだ。北信濃の仕事は、お前に任せるとある」


 三郎兵衛の表情が引き締まった。


「……そのような御命令が」


「お前は知らなかったのか」


「はっ。御館様からは若殿のお供と、行動の報告を命じられただけにございます」


 義信は書状をもう一度眺めた。


 軍議では百人の兵を預け、北信濃の国衆を味方にできるか試すと言った。その命を、わずか二日で取り消したのである。


 気まぐれで兵を動かすような父ではない。


 何かが起きたのだ。


「使者殿。甲府では変わったことがなかったか。兵部が呼ばれたとか、俺の屋敷へ誰かが訪ねたとか」


 武士は一瞬、言葉を詰まらせた。


「詳しくは存じませぬ。ただ、飯富兵部少輔殿が御館様に召され、長くお話をなさっていたとは聞いております」


「それは昨日か」


「一昨日の夕刻にございます」


 義信は書状を畳んだ。


 父は自分が甲府を離れた直後、虎昌を呼び出していた。


 そのうえで、兵を取り上げて帰還を命じてきたのである。


「三郎兵衛。少し二人で話せるか」


 使者を下がらせると、義信は宿所の奥へ三郎兵衛を招いた。


 山間の宿は板壁が薄く、外では馬の水を替える音が聞こえていた。義信は戸が閉まったことを確かめ、先ほどの書状を三郎兵衛の前へ置いた。


「お前なら、この命令をどう読む」


「御館様が若殿を甲府へお戻しになりたいのでございましょう」


「それは書いてある。なぜ戻すのかを聞いておる」


 三郎兵衛はしばらく黙った。


 やがて腹を決めたように顔を上げる。


「恐れながら、若殿のお振る舞いを御館様が案じておられるのではないかと」


「俺が謀反でも起こすと思っておられるか」


 三郎兵衛の顔色が変わった。


「若殿、そのようなお言葉は……」


「はっはっは! お前は正直でよいな。今ので答えは分かった」


 義信は笑ったものの、その眼差しは鋭かった。


 史実の義信事件については、何十年も研究してきた。


 飯富虎昌が謀反を企てたとされ、弟の三郎兵衛がそれを信玄へ知らせたという伝承も知っている。しかし史料には食い違いが多く、実際の経緯を確かめることは難しい。


 そして、今の義信に残された記憶にも気になるものがあった。


 自分がこの身体で目覚める以前から、義信と虎昌は何度も密かに顔を合わせている。


 今川との同盟をめぐる父子の対立は、昨日今日に始まったものではなかったのだ。


 前世の自分が何もしなければ、やがて悲劇へ向かっていたであろう状況が、すでに出来上がりつつあった。


「三郎兵衛。父上から俺を見張れと命じられているのだろう」


「……御館様への報告は、家臣の務めにございます」


「責めておらん。むしろ、よく務めていると思っておるぞ」


 義信は書状を三郎兵衛へ差し出した。


「父上の命令どおり、百人はお前に預ける。北信濃へ進むもよし、現地の城将へ引き渡すもよし。俺は供の者を連れて甲府へ戻る」


「お従いになるのですか」


「従わずにここで兵を挙げたところで、百人では何もできん。お前まで困らせるだけだろう」


 三郎兵衛は安堵したように息を吐いた。


 だが、義信は続けた。


「ただし、父上の考えが正しいと認めたわけではないぞ。俺には俺の考えがある。それを曲げるつもりもない」


「若殿……」


「三郎兵衛。お前には父上への忠義を貫いてもらいたい。兄の兵部を思うあまり、心にもないことをする必要はない。俺もお前に裏切りを勧める気はないからな」


 三郎兵衛は驚いたように顔を上げた。


 兄と主君の間に何かが起これば、自分はどちらにつくべきか。


 その疑問を、義信は先回りして口にしたのである。


「若殿は、兄が何かを企てているとお考えですか」


「兵部は俺を大切に思ってくれている。それは確かだ。だが、父上に弓を引くとなれば話は別だろう。あの男にも守るべき家と家臣がある」


「……左様にございます」


「心配するな。俺は兵部を無駄死にさせん。そのためにも、まず甲府へ戻る」


 義信は立ち上がり、壁に掛けてあった刀を取った。


「それにしても、出立して二日で呼び戻されるとはな。父上は相変わらず、人を使うのがお上手だ」


 三郎兵衛は返す言葉を見つけられなかった。


 若殿は笑っている。


 しかし、その笑みの奥にあるものが、先ほどまでとは違って見えた。


     ◇


 甲府へ戻った義信が最初に向かったのは、自分の屋敷だった。


 すでに日が傾き、躑躅ヶ崎館の周囲には夕暮れの冷たい空気が漂っている。


 屋敷の門前に、見慣れぬ兵が立っていた。


 義信の供回りを見た兵たちは慌てて道を開いたが、その様子には妙な緊張があった。


「何かあったのか」


 出迎えた家臣は周囲を見回し、声を落とした。


「若殿。飯富兵部少輔様が、御館様より出仕を差し止められております」


「兵部が?」


「はい。御屋敷へも使いが参り、しばらく兵部様との往来を慎むようにとの仰せにございます」


 義信は足を止めた。


 信玄は虎昌を処刑したわけではない。


 だが、軍務から外し、義信との接触を制限し始めている。


 父は確かに動いていた。


「ほう。兵部のような働き者を休ませるとは、父上も気前がよくなられたものだ」


「若殿、笑い事ではございませぬ」


「分かっておる。だからこそ笑っているのだ」


 義信は屋敷へ入ると、供の者に命じて人払いをさせた。


 ほどなく正室が姿を現した。義信の帰還が早すぎたため、驚きを隠せない様子だった。


「義信様。北信濃へ向かわれたのでは」


「父上に呼び戻された。どうやら俺が留守にしている間に、甲府が騒がしくなったらしい」


 妻は言葉を選ぶように少し間を置いた。


「兵部殿のことは、お聞きになりましたか」


「ああ。お前も何か聞いておるのか」


「詳しいことは分かりませぬ。ただ、今川との縁を重んじる方々が、御館様のお考えに異を唱えていると……」


 義信は妻の顔を見た。


 彼女が今川義元の娘であることは変わらない。


 父との対立が深まれば、妻は必ず難しい立場に置かれる。


「心配をかけるな。お前に責めを負わせるつもりはないぞ」


「私のことより、義信様のお立場が心配です」


「俺の立場なら、これから自分でどうにかするさ」


 義信は妻の手を取った。


「ただし、これから少々騒がしくなる。今川の実家へ勝手に知らせを送れば、父上に余計な疑いを持たれるかもしれん。何か伝えたいことがあれば、俺に相談してくれ」


「承知いたしました。ですが、私にもできることがあれば、お命じください」


「ありがたい。そういうところは実に頼もしいな」


 義信は笑い、妻の手を放した。


 その直後、廊下から使者の到着を告げる声が響いた。


 信玄からの呼び出しだった。


     ◇


「義信。早かったな」


 信玄は評定の間で一人、息子を待っていた。


 昼間の軍議とは違い、地図も書状も片づけられている。傍らに置かれた燭台だけが、父の表情を照らしていた。


「父上のお呼びとあれば、急いで戻らねばなりませぬからな」


 義信は一礼し、向かいへ腰を下ろした。


 信玄はしばらく息子を眺めていたが、やがて口を開いた。


「北信濃へ向かわせたのは、そなたの考えを試すためじゃった」


「承知しております」


「だが、そなたには今少し、家中のことを考えてもらわねばならぬ」


「兵部のことでございますか」


 信玄の眉がわずかに動いた。


「耳が早いな」


「甲府へ戻れば、すぐ分かります。兵部ほどの宿将が出仕を止められれば、誰もが気にするでしょう」


「ならば聞こう。そなたは兵部と何を話しておる」


 義信は父の眼を見た。


 ここで下手な嘘をつけば、それこそ命取りになる。


「武田家のこれからについてでございます。北信濃のこと、今川との同盟のこと、そして父上の後を誰が継ぐべきかということも」


「誰が継ぐべきか、だと」


「俺は嫡男にございます。それを考えぬ方がおかしいでしょう」


 信玄は扇を手に取った。


「義信。そなたは最近、以前にも増して大きなことを申すようになった。天下を取ると言い、兵を預けよと言い、今度は家督の話か」


「いずれも本気にございます」


「その本気が、家を乱すこともある」


 信玄の声は静かだった。


 義信には、それが怒鳴られるより厄介に思えた。


「わしは父を駿河へ送り、家督を継いだ。それによって甲斐をまとめ、信濃へ進み、今日の武田を築いてきた。そなたもそのことは知っておろう」


「無論です。父上のお働きには敬服しております」


「ならば、わしが家中の乱れをどれほど嫌うかも分かるはずじゃ」


 義信は黙って頷いた。


 父が信虎を追放した事実を、自ら口にした。


 そのとき何を考え、どれほどの覚悟を決めたのか。信玄にとっても、決して軽い出来事ではなかったはずだ。


「義信。今川との縁については、そなたの思いも分かる。だが武田の進む道は、武田の利で決めねばならぬ。妻の実家を守るために、甲斐と信濃の兵を危険へさらすことはできん」


「父上のお考えはもっともです。しかし、今川を敵にすれば北条も動きましょう。そのとき、上杉との争いを抱えたまま何を得られるか、俺には疑問がございます」


「その話は聞いた」


「では、なぜ兵部を遠ざけられたのです」


 信玄は扇を閉じた。


「家中には、そなたの考えを利用して己の立場を強めようとする者もおる。兵部に悪気がなくとも、嫡男の名を掲げて人が集まれば争いの種になる」


 義信は父の言葉を噛みしめた。


 信玄は虎昌を無能だとも、悪人だとも考えていない。


 ただ、その忠義が主家を二つに割る危険を知っている。


 だからこそ、今のうちに手を打とうとしているのだ。


「父上。兵部を遠ざければ、疑いが晴れるとお思いですか」


「疑いを招く振る舞いを慎めばよい」


「それで父上との考えの違いまで消えるわけではございますまい」


「義信」


 信玄の声音が一段低くなった。


「そなたは、わしと争いたいのか」


 義信はすぐには答えなかった。


 父の背後には、甲斐から信濃へ領地を広げてきた年月がある。家臣たちとの信頼も、積み上げた戦功も、義信が一朝一夕で奪えるものではない。


 だが、このまま父に従えば、いずれ自分は幽閉され、虎昌も命を失う。


 六十五年を生きた前世の義信は、生徒に何度も教えてきた。


 歴史は結果から見れば必然に思えるが、その時代を生きた人間には常に選択があったのだと。


「父上。俺は武田を天下へ導きたい。それだけにございます」


「ならば、わしに従え」


「父上のお考えが正しければ従います。ですが、武田を危うくすると分かっている道へ、黙ってついていくつもりはありませぬ」


 信玄の眼光が鋭くなった。


「わしの判断より、己の判断を上に置くと申すか」


「俺も武田の嫡男です。自分の考えを持つことまで禁じられては困ります」


 信玄はしばらく沈黙した。


 やがて、ゆっくりと言った。


「義信。しばらく屋敷で謹慎せよ。兵を率いることも、家臣たちと勝手に会うことも許さぬ。頭を冷やすがよい」


 義信は父の顔を見つめた。


 そして、思わず笑った。


「はっはっは! なるほど。父上は本気で俺を抑え込むおつもりですな」


「何がおかしい」


「いえ、さすがは父上と思いまして。俺が自分の旗を持つ前に、兵と人を遠ざけてしまわれる。実に見事な手際です」


「分かっておるなら、従え」


「承知いたしました。ですが一つだけ、お願いがございます」


「申してみよ」


「兵部を殺さぬと、お約束ください」


 信玄の表情が変わった。


「わしは、まだ兵部を罪人と決めたわけではない」


「でしたら、今後もそのお考えをお忘れなきよう。兵部は長年、武田のために働いてきた男です。俺への忠義だけを理由に、あれほどの家臣を失うのは惜しい」


 信玄は答えなかった。


 義信は頭を下げ、立ち上がった。


 退出を許す信玄の声が、背中へ届く。


「義信。わしに隠れて何かを企てれば、たとえ息子でも容赦はせぬぞ」


 義信は振り向いた。


「心得ております、父上。俺も、父上だからといって手加減するつもりはございませぬ」


 その言葉を残し、義信は部屋を出た。


     ◇


 夜半、義信の屋敷を訪れたのは、飯富虎昌だった。


 出仕を止められている身である。本来なら、屋敷を出ることさえ控えるべき立場だった。


 しかし義信から届いた使いは、ただ一言を伝えていた。


『兵部に会いたい。今夜、来られるなら来てくれ』


 虎昌は人目を避けて屋敷へ入り、主人の前に膝をついた。


「若殿。御館様より謹慎を命じられたと聞き及びました」


「ああ。父上も容赦がないな。息子を呼び戻して、兵を取り上げ、家臣との往来まで禁じられた」


「儂の不始末にございます」


「お前が謝ることではない。俺と父上の考えが合わんのは、今に始まったことではないからな」


 義信は虎昌へ盃を勧めた。


 虎昌は受け取らず、深々と頭を下げた。


「若殿。もはや、儂をお使いにならぬ方がよろしいかと存じます。このままでは、若殿まで……」


「兵部。お前、俺が怖くなって逃げる男に見えるか」


「そのようなことはございませぬ!」


「ならば、そんな辛気臭い顔をするな。父上が先に動いたのなら、こちらも腹を決めるまでよ」


 義信は傍らの地図を広げた。


 北信濃のものではない。


 甲府の館と、その周辺を示す見取図だった。


 虎昌の眼が大きく見開かれた。


「若殿……これは」


「父上は俺から兵を取り上げた。兵部の出仕も止めた。これ以上待てば、俺たちの首に縄が掛かるだけだろう」


「まさか、本当に御館様へ……」


「兵部。俺は謀反の疑いで殺されるつもりはない。まして、お前まで巻き添えにするなど御免だ」


 義信は地図から顔を上げた。


「父上には家督を譲っていただく。殺す必要はない。あの方には、俺の下で存分に働いてもらうつもりだ」


 虎昌は息を呑んだ。


「若殿、本気でございますか」


「もちろんだ。ただし、俺のために命を捨てろとは言わん。お前には父上への恩がある。その恩を踏みにじれと命じる気もない」


 義信は盃を持ち上げた。


「俺が欲しいのは、武田家を強くしたいと本気で思う家臣だ。父上に従うのが武田のためと思うなら、それでも構わん。だが俺とともに天下を狙う気があるのなら、今こそ力を貸してほしい」


 虎昌はしばらく俯いていた。


 信玄への恩義は忘れられない。


 それでも、幼い頃から育ててきた義信が、これほどの覚悟を示している。


 今の若殿は、以前とは違う。


 父の陰で不満を募らせているだけの若者ではない。自分が武田家を率いると決め、その責任まで引き受けようとしている。


 虎昌は顔を上げた。


「若殿。儂の命、まだ使い道がございますか」


「大ありだ。お前ほどの男を遊ばせておくなど、もったいないではないか」


「では、この虎昌、若殿のお考えに従います。ただし、御館様のお命だけは……」


「取らん。そこは最初から決めておる」


 義信は笑った。


「父上には長生きしていただかねば困る。天下を取る仕事が山ほどあるからな」


 虎昌の口元が緩んだ。


 その直後、義信は表情を改めた。


「兵部。まず確かめたいことがある。甲府において、父上から直接命を受ける者、嫡男である俺の言葉にも耳を貸す者、どちらにも与せぬ者。それぞれを、お前の知る限り教えてくれ」


「……家臣の心をお調べになると」


「そうだ。敵味方を決めつけるのは最後でよい。先に、人を知らねばならん」


 虎昌は深く頷いた。


「曽根周防守殿ならば、若殿のお考えを聞いてくださるかもしれませぬ。ただし、御館様への忠義も厚いお方。いきなり家督の話を持ちかければ、何が起こるか分かりませぬ」


「それでよい。俺が見たいのは、父上を裏切れるかどうかではない。武田のために、どこまで腹を割って話せるかだ」


 義信は筆を取った。


 地図の脇へ数人の名を書き記し、虎昌の意見を聞きながら順を入れ替えていく。


 誰を頼るべきか。誰にはまだ話すべきでないか。


 父を倒すと決めたからといって、手当たり次第に人を集めるわけにはいかなかった。


 虎昌は一通りの話を終えると、ふと思い出したように尋ねた。


「若殿。三郎兵衛はいかがいたしましょう。あやつは御館様への忠義が厚うございます。兄である儂より、主君の御命を重んじる男です」


「知っておる。だから、あいつには何も知らせるな」


「よろしいので」


「よい。あいつが父上へ忠義を尽くすなら、それはそれで立派なことだ。俺が家督を取った後、改めて働いてもらえばよい」


 虎昌は驚いたように義信を見た。


 主君へ密告する可能性のある男を、なお重用するつもりだという。


 普通なら、真っ先に遠ざけようとする相手だった。


「若殿は、随分と大きなお方になられましたな」


「はっはっは! まだ大きくなり足りんぞ。何しろ天下を取るつもりだからな!」


 義信の笑い声が、夜更けの部屋に響いた。


 だが、その笑顔の奥には確かな覚悟があった。


 父との争いは、もう避けられない。


 ならば、勝つ。


 ただし、武田家を壊さずに勝つ。


 父を倒し、父を生かし、その力まで手に入れて天下へ進む。


 義信は盃を置き、虎昌へ告げた。


「兵部。明日から動くぞ。父上には、俺が屋敷で大人しくしていると思っていただこう。その間に、お前には会うべき者がおる」


「はっ。誰にございますか」


 義信は地図の上に書いた一人の名を指した。


「まずは曽根周防守だ。あの男が父上に何を思い、俺に何を求めるか。そこから始めよう」


 虎昌は深く頭を下げた。


 義信は再び笑みを浮かべた。


「父上は手強い。だからこそ、倒し甲斐があるというものよ」


     ◇


 同じ頃、躑躅ヶ崎館では、信玄が報告を受けていた。


「義信の屋敷へ、飯富兵部少輔が入ったと?」


「はっ。人目を避けて参った模様にございます」


 報告した家臣は、主君の表情を窺った。


 信玄は怒鳴らなかった。


 ただ、膝の上で扇をゆっくり閉じた。


「謹慎を命じたばかりだというに、早くも兵部を呼んだか」


「いかがいたしましょう。兵部を捕らえますか」


 信玄はしばらく考え込んだ。


 息子が自分の考えを持つこと自体は、悪いことではない。


 だが、その考えに家臣たちが集まり、別の命令系統が生まれれば、武田家は内側から割れる。


 信玄自身が、かつて父を追放して家督を握った男である。


 その危うさを誰よりも知っていた。


「今は手を出すな。義信がどこまで考えておるのか、見極める」


「承知いたしました」


「ただし、兵部の動きから目を離すな。家中の者に会うなら、相手の名を確かめよ」


 家臣が退出すると、信玄は庭へ目を向けた。


 月明かりが白砂を照らしている。


「義信よ。わしに逆らうというなら、それ相応の覚悟があろうな」


 息子の笑い声は、ここまでは届かない。


 それでも信玄には、義信が何を考えているのか、少しずつ分かり始めていた。


 父と息子。


 武田家の二人の男が、同じ家督を見据えて動き始めていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。