第3話 父の軍議をひっくり返す
「義信様、御館様がお呼びにございます。軍議に加わるようにとの仰せです」
朝餉を終えたばかりの義信は、使者の言葉を聞いて顔をほころばせた。
「ほう、父上もようやく俺を使う気になられたか。よし、参ろう」
帯に刀を差し、立ち上がる。廊下へ出ると、秋の乾いた風が頬を撫でた。庭では小姓たちが落ち葉を掃いており、箒の音に交じって厩から馬のいななきが聞こえてくる。
前世で六十五年を生きた義信にとって、これから会う武田信玄は、歴史の教科書で何度も取り上げた戦国大名だった。
しかし今は違う。
自分の父であり、いずれ家督を奪う相手でもある。
しかも、相手は凡庸な大名ではない。甲斐の統一から信濃侵攻、上杉との度重なる戦まで経験してきた、歴戦の名将だ。
義信は思わず笑った。
「いやはや、人生とは分からんものだ。まさか信玄公と親子喧嘩をする日が来るとはな」
もっとも、息子の立場で父を追い落とそうとしている以上、単なる親子喧嘩では済まない。失敗すれば、自分だけでなく飯富虎昌をはじめとする家臣たちまで巻き込む。
だからこそ、味方を増やすには実力を示す必要があった。
軍議は、そのための絶好の機会である。
◇
評定の間には、すでに武田家の重臣たちが集まっていた。
上座に信玄が座り、その前に信濃と上野の地図が広げられている。飯富虎昌のほか、馬場民部少輔信房らの姿もあった。
義信が入ると、幾人かが意外そうに顔を上げた。
「義信、こちらへ参れ」
「はっ。お呼びにより参上いたしました」
義信は一礼し、示された場所へ腰を下ろした。
信玄は集まった家臣たちを見渡した。
「北信濃のことじゃ。輝虎は越後へ戻ったが、飯山や野尻にはなお上杉方の拠点が残っておる。このまま放置すれば、再び兵を南へ進めてこよう」
永禄七年の秋。
武田と上杉は川中島周辺で長く対陣した末、大きな決戦には至らず、それぞれ兵を引いていた。
武田家は川中島地方の大半を押さえているものの、北信濃の争いが終わったわけではない。上杉輝虎も、簡単に信濃を諦めるような男ではなかった。
馬場信房が地図の北側を指した。
「越後との境に近い城々は、冬の間も警戒が必要にございます。こちらが兵を減らしたと知れば、上杉方の国衆が動く恐れもございましょう」
「うむ。されど兵を置けば、それだけ負担も増す」
信玄は顎に手を当てた。
「北を固めつつ、上野の備えも整えねばならぬ。駿河の今川についても、いつまでも従来どおりとはいくまい」
重臣たちの表情が引き締まる。
駿河の今川氏真は、武田家にとって同盟相手であり、義信の妻の実家でもあった。
しかし、今川義元が桶狭間で討たれてから四年。三河では松平家康が勢力を伸ばし、今川家の威勢には陰りが見えている。
信玄が駿河へ目を向けるのは、戦国大名として不自然なことではない。
「義信。そなたはどう見る」
突然話を振られたが、義信は慌てなかった。
「まず、お尋ねしてもよろしいでしょうか。父上は、この先も上杉と川中島で争い続けるおつもりですか」
「必要とあらば、何度でも戦う」
「では、その戦で越後を滅ぼせますかな」
室内が静まり返った。
信玄は眉を動かしたが、怒ることはなかった。
「容易ではあるまい。輝虎の兵は強く、越後の山河も攻めにくい」
「ならば、北信濃を守ることと、越後を攻め滅ぼすことは分けて考えるべきでしょう」
義信は地図へ身を乗り出した。
「川中島を守るのに、毎度父上が大軍を率いて出向かれる必要はありますまい。守るべき城を定め、敵が攻めれば援軍を出す。上杉方の国衆にも事情がありましょうから、こちらにつく者まで一律に敵とする必要はございません」
「言うは易い」
馬場信房が口を挟んだ。
「上杉方についた国衆は、武田を信用しておらぬ。降ったところで領地を奪われると思えば、最後まで抵抗いたしましょう」
「まったく、そのとおりですな」
義信はあっさり頷いた。
反論を予想していた信房が、わずかに目を見開く。
「だからこそ、降った者を粗末に扱ってはならんのです。領地を守ると約束したなら、武田の都合だけで覆してはならぬ。裏切った者を許すかどうかとは、また別の話ですが」
「敵を信用せよと申されるか」
「いいえ。信用させるのです。武田につけば所領を守れる、働けば取り立てられる。そう思わせて初めて、人は命を懸けてくれるのでしょう」
信房は何かを言いかけ、口を閉じた。
義信の言葉は甘い理想ではなかった。国衆の扱いを誤れば、城を一つ落とすたびに新たな敵を生む。数多くの戦を経験してきた信房には、それがよく分かっていた。
信玄が低く笑った。
「なかなか言うようになったな。だが、その理屈はわしとて承知しておる。問題は、敵がこちらを信じるかどうかじゃ」
「でしたら、実際に一人、味方にしてご覧に入れましょう」
「何じゃと」
義信は地図の北端を指した。
川中島の北方、上杉方の勢力と武田方の支配が入り組む地域である。
「この辺りには、両家の争いに翻弄されてきた小領主が少なくありませぬ。上杉についた者の中にも、心から武田を憎んでいる者ばかりではないはずです」
「どうやって味方にする」
「会って話します」
あまりにも平然とした返答に、虎昌が咳き込んだ。
「若殿。敵の領内へ出向いて話すなど、危険が過ぎますぞ」
「敵と話すには、敵のいるところへ行かねばならんだろう」
「そういう問題ではございませぬ!」
虎昌が声を荒らげると、義信は愉快そうに笑った。
「安心しろ、兵部。刀も持たずに出かけるほど間抜けではない。先方の意向を確かめ、会える相手かどうか見極めてから動くさ」
その様子を眺めていた信玄が、扇を閉じた。
「義信。そなたに一つ聞こう。北の守りを固めることが大切なのは分かった。では、駿河はどうする。今川が弱れば、いずれ他国に食われる。それを指をくわえて見ておれと申すか」
義信は父の眼を正面から受け止めた。
「今川を食うにしても、今はまだ早いと存じます」
「ほう。何を根拠にそう言う」
「北条がおります」
義信は駿河の東側へ指を移した。
「今川と北条は縁戚の間柄。父上が駿河へ兵を向ければ、北条がどう動くか分かりませぬ。北を上杉に脅かされ、東から北条が動き、西では織田が勢いを増す。その中で駿河を取っても、守るためにどれほど兵を費やすことになるか」
「北条が必ず敵になると決まったわけではない」
「無論です。氏康殿も氏政殿も、損得を考えずに兵を出すようなお方ではありますまい。だからこそ、今のうちに友として利用すべきなのです」
信玄は黙って続きを促した。
「俺なら、今川を支えます。ただし、無条件に助けるわけではありません。氏真殿に三河への備えを立て直していただき、その代わりに武田との結びつきを強める。今川が持ち直せば、駿河からの脅威を気にせず他へ力を向けられます」
「氏真が期待どおり働かなければどうする」
「そのときは別の策を考えます。何も、今川家と心中するつもりはございません」
義信は笑みを消した。
「ですが、まだ使える同盟を自ら壊して敵を増やすのは、得策とは思えませぬ。駿河の海が欲しいなら、なおさら周りの敵を減らしてからにすべきでしょう」
信玄は扇で膝を軽く叩いた。
息子が妻の実家を守りたいだけなら、聞き流すつもりだった。
ところが義信は、今川を利用する価値と見捨てる場合の損得を、分けて考えている。
「義信。そなた、いつからそのようなことを考えるようになった」
「歴史を……いえ、昔の兵法を読んでおりましたら、自然と考えるようになりました」
「兵法書を読めば天下が取れるなら、寺の坊主は皆、大名になっておるわ」
信玄の皮肉に、義信は腹を抱えて笑った。
「違いありませぬ! ですから俺は、書物だけでなく実際にやってみたいのです」
「実際に、とは」
「父上。俺に兵を預けていただきたい」
今度こそ、重臣たちの視線が一斉に義信へ集まった。
◇
「兵を預けよ、か」
信玄は息子をじっと見つめた。
「何に使うつもりじゃ」
「まず北信濃へ参ります。父上がお困りの土地を、この義信が一つ片づけてご覧に入れましょう」
「兵はいかほど欲しい」
「騎馬と足軽を合わせて百ほどあれば、最初の働きには十分かと」
虎昌の顔が引きつった。
百人といえば、武田家全体から見れば大軍ではない。だが、それでも一隊を率いて敵方と接するとなれば、簡単な役目ではなかった。
信玄は即答しなかった。
「百人で上杉と戦うつもりか」
「いえ。上杉の大軍と正面から戦うなら、百人では足りませぬ。俺は土地の者を味方につけに行くのです。大軍を連れて押しかけては、脅しと変わらなくなります」
「相手が話に応じねば?」
「引くべきところでは引きます。ただし、こちらを侮って手を出してくるようなら、相応の返礼はいたします」
義信の口元に、不敵な笑みが浮かんだ。
「武田の嫡男が、殴られて泣きながら帰ってきたとなれば、父上のお顔にも泥を塗りますからな」
信房が思わず笑った。
「若殿は随分と勇ましくなられましたな」
「民部殿に褒められるとは光栄です。もっとも、腕前の方は兵部に聞いてくだされ」
虎昌は困ったように義信を見たが、信玄に問われると正直に答えた。
「若殿の武芸は、以前とは見違えるほどにございます。先日、木刀で一本取られました」
「兵部が?」
信玄の眼が大きくなった。
虎昌は武田家でも名の知られた武将である。その男から一本取ったというのなら、単なる若者の大言壮語とは言い切れない。
「試してみるか」
信玄がそう告げると、義信は嬉しそうに顔を上げた。
「ぜひ!」
◇
軍議を終えた重臣たちが庭へ移ると、武具を持った小姓たちが慌ただしく場所を空けた。
信玄が相手に選んだのは、飯富三郎兵衛だった。
「三郎兵衛。義信の腕を見てやれ」
「承知いたしました」
信玄の命を受けた三郎兵衛は、木槍を手に進み出た。
義信も同じ長さの木槍を取る。槍を持った途端、自然と身体が構えに入った。前世で何千度となく繰り返してきた動きである。
ただし、目の前の三郎兵衛は道場の弟子ではない。
この時代の戦を経験してきた武将だ。間合いの取り方も、相手の呼吸を読む眼も鋭い。
「三郎兵衛。遠慮はいらんぞ」
「若殿こそ、お怪我をなされませぬよう」
「はっはっは! それはお互い様だな!」
三郎兵衛が先に動いた。
鋭い突きが義信の胸元へ伸びる。義信は穂先を外して踏み込もうとしたが、三郎兵衛はすぐに槍を引き、二の突きで進路を塞いだ。
軽々しく内側へ入れば、腹を突かれる。
義信は足を止めず、斜めへ回り込んだ。槍の柄が触れ合い、乾いた音が庭に響く。
互いに一度距離を取り、呼吸を整えた。
「よい槍だ、三郎兵衛。兵部とはまた違う」
「若殿も、聞いていた以上にお強い」
「だが、まだ本気ではあるまい」
三郎兵衛の表情が引き締まる。
次の瞬間、突きが先ほどより深く伸びた。
義信はそれを正面から受けず、槍の穂先が脇を過ぎる寸前に半歩踏み替えた。
互いの槍が交差する。
義信は相手の柄を押さえ込みながら内側へ入り、腰を落として三郎兵衛の体勢を崩した。
木槍の石突きが、三郎兵衛の胴の手前で止まった。
見物していた家臣たちから歓声が上がる。
「そこまで!」
信玄の声で、二人は槍を下ろした。
三郎兵衛は息を整え、深く頭を下げた。
「お見事にございます」
「いや、最後の踏み込みは危なかった。少しでも遅れていれば、俺の脇腹に突きが入っておったぞ」
義信は朗らかに笑い、三郎兵衛へ手を差し出した。
「また相手をしてくれ。今度は馬上で頼みたい」
「喜んでお相手いたします」
そのやり取りを見ていた信玄は、しばらく何も言わなかった。
息子が腕を上げたのは確かである。
しかし気にかかるのは、勝った後の態度だった。
義信は相手を見下さず、その技量を認めている。それでいて、自分の勝利を少しも疑っていなかったかのような落ち着きがある。
「義信」
「はっ」
「百人の兵を預ける話、認めよう」
庭にいた家臣たちが、一斉に信玄を見た。
「ただし、百人すべてを自由に使ってよいわけではない。お前自身の供回りを中心に編成し、三郎兵衛を目付として同行させる。兵の扱いと北信濃の地理については、現地の城将の指図も受けよ」
「承知いたしました」
「それから、上杉方の城へ攻めかかることは許さぬ。勝手に大戦を始めるな」
「父上、俺がそこまで血の気の多い男に見えますか」
「今、三郎兵衛を相手にあれほど嬉しそうに槍を振るっておった男が申すことか」
信玄が呆れたように言うと、周囲から笑いが漏れた。
義信も豪快に笑った。
「確かに、それは言い返せませぬな!」
信玄は笑みを収めた。
「ただし、義信。兵を預かるということは、その命を預かるということじゃ。百人を率いて功を挙げるつもりが、百人を失って帰ってくるようでは話にならぬぞ」
義信も表情を改めた。
「心得ております。兵の命を軽く見る者に、天下など取れませぬ」
信玄はその言葉に、わずかに目を細めた。
「……天下、か。相変わらず大きなことを申す」
「父上の息子ですからな。小さくまとまっては、申し訳が立ちません」
「口だけの男でないことを、見せてもらおう」
「お任せくだされ」
義信は深々と頭を下げた。
こうして、武田家の嫡男は一隊の兵を率いる権限を手に入れた。
◇
その日の夕刻、義信は飯富虎昌を呼び、出立の準備を進めていた。
北信濃へ向かうとなれば、馬と武具だけでは済まない。信玄から預かる兵のほか、義信自身の供回りもいる。現地へ着けば、城将との連絡も必要になる。
「若殿。本当にお出かけになるおつもりですか」
「父上のお許しもいただいた。今さらやめる理由があるまい」
「上杉方と接する土地は危険にございます。まして若殿は武田の嫡男。万一のことがあれば……」
「兵部。俺はな、家臣たちに命を懸けろと言っておきながら、自分だけ安全な場所で威張るような当主にはなりたくないのだ」
義信は広げた地図を指でなぞった。
「それに、今のうちに戦場を知っておきたい。お前たちは何十年も戦ってきた。俺が書物で知っていることなど、実際の戦場では通用せんことも多かろう」
「それがお分かりなら、少しは慎重に……」
「慎重にはやるさ。だが、慎重であることと、何もしないことは違うぞ」
義信が笑うと、虎昌は諦めたように首を振った。
「まったく、若殿には敵いませぬ」
「兵部。俺が欲しいのは、敵わんと嘆く家臣ではない。俺の間違いを見つけたら、遠慮なく指摘してくれる家臣だ」
虎昌は黙って義信を見た。
「俺は父上より長く生きた……いや、何でもない。とにかく、世の中には一人の知恵ではどうにもならんことが多い。だから、お前にも力を貸してもらいたいのだ」
「……若殿」
「もっとも、父上から家督を奪うという考えだけは変えんがな!」
義信が笑うと、虎昌はとうとう苦笑を漏らした。
「そのお話だけは、もう少し声をお落としくだされ。壁にも耳がございます」
「はっはっは! 確かに。まだ父上には、少々早い話だからな」
それでも虎昌は、若殿が本気で家督を狙っていることを理解し始めていた。
単なる反抗心ではない。
義信には、自分が武田家を率いれば何ができるのかを、家臣たちに見せようという考えがある。
そして、それを口先だけで終わらせるつもりもないのだ。
◇
翌朝、義信のもとへ一通の書状が届けられた。
差出人は高遠城主、諏訪四郎勝頼。
義信の異母弟であり、信玄の四男に当たる若武者だった。
書状には北信濃の動向についての知らせと、兄の様子を気遣う言葉が記されていた。
義信は読み終えると、嬉しそうに笑った。
「ほう、四郎もなかなか気が利くではないか」
史実の勝頼は、のちに武田家を継ぐことになる。
父・信玄の死後、織田と徳川を相手に戦い、最後は天目山で滅亡する悲劇の当主として知られている。
しかし、義信にとって勝頼は敵ではなかった。
むしろ、これほど頼もしい弟を使わずにおく理由がない。
「兵部。四郎に返事を書くぞ」
「どのように」
「近いうちに顔を合わせたいとな。北信濃の様子も聞きたいが、それ以上に、あやつの考えを聞いてみたい」
義信は筆を取り、笑みを浮かべた。
「父上を家臣にするのは、まだ先の話だ。だが、四郎とは早いうちに仲良くしておきたい。兄弟で争っておる暇など、俺にはないからな」
虎昌は黙って頷いた。
義信が書状をしたためる間、庭の向こうでは出立の準備が進んでいた。
馬の嘶き、足軽たちの呼び声、荷を運ぶ者の足音。
武田家の嫡男が、いよいよ自らの兵を率いて動き始める。
その知らせは、やがて甲府の家臣たちの間にも広まっていくことになる。




