第2話 虎昌の覚悟
「若殿。今のお言葉、聞かなかったことにはできませぬか」
飯富虎昌は、ひとしきり黙り込んだ末にそう切り出した。
部屋の外では秋を思わせる虫の声が聞こえていた。燭台の火が揺れるたび、歴戦の宿将の顔に深い陰影が生まれる。つい先ほどまで稽古場で義信と木刀を交えていた男が、今は戦場以上に険しい表情を浮かべていた。
「聞かなかったことにしても、俺の考えは変わらんぞ」
「御館様は、甲斐のみならず信濃、上野へと武田の勢力を広げられたお方。その御館様から家督を奪うなど、容易なことではございませぬ」
「知っておる。だから兵部、お前に最初に話したのだ」
義信が盃に手を伸ばすと、虎昌は眉間の皺を深くした。
「酒など召されている場合ではござらん」
「酒でも飲まねば、こんな物騒な相談はできんだろう。もっとも、酔った勢いで決めたわけではないぞ」
義信は笑いながら盃を置いた。
史実の飯富虎昌は、義信事件によって命を落とす。謀反を企てたとされているが、その実態については後世の史料でも見解が分かれる。
確かなのは、義信を支えた家臣たちが処断され、武田家の後継者をめぐる状況が大きく変わったということだ。
そして義信には、もう一つ気になる人物がいた。
「兵部。お前の弟、三郎兵衛は息災か」
「……三郎兵衛が何か」
「いや、あれほど腕の立つ男を思い出しただけだ。御館様からの覚えもめでたいそうだな」
飯富三郎兵衛。のちに山県昌景として知られる武田家屈指の猛将である。
義信が研究してきた軍記物では、虎昌の謀反を信玄へ知らせた人物として描かれていた。
ただし、それが事実であったとしても、三郎兵衛を責める気にはなれない。主君に忠義を尽くした結果、兄を失うことになったのなら、むしろ気の毒な話だ。
「三郎兵衛は御館様への忠義が厚うございます。それゆえ……」
「俺が家督を奪うと知れば、父上へ知らせるだろうな」
虎昌の顔が強張った。
「若殿、まさか弟を」
「馬鹿を申せ。何もしておらん者を斬ってどうする。三郎兵衛のような男こそ、いずれ俺の下で働いてもらいたい」
「されど、あやつが御館様へお知らせすれば」
「そのときは父上が俺を警戒する。それだけのことよ。どうせ何もしなくとも、いずれ疑われる身だ」
義信は膝を進め、虎昌と向き合った。
「兵部。俺は父上を闇討ちして寝首を掻こうなどとは思っておらん。あの人を殺したところで、武田家が強くなるわけではないからな」
「では、いかにして家督を」
「父上に従うより、俺に従った方が武田家の未来は明るい。そう家臣たちに思わせるのだ。もちろん、それだけで家督を譲ってくださるほど甘い父上ではあるまい。最後は力も必要になろう」
「家中が二つに割れますぞ」
「割れぬように手を打つ。戦わずに済むなら、それが一番よい。だが必要になれば、逃げるつもりもない」
虎昌は盃にも手をつけず、じっと義信を見つめた。
「儂には、御館様への恩がございます」
「当然だ。恩を忘れるような男なら、俺も信用せん」
「その儂に、御館様へ刃を向けよと仰せか」
「今すぐ忠誠を誓えとは言わん。まず俺のすることを見ておれ。そのうえで、どちらに武田の家を任せるべきか決めればよい」
「……若殿は、変わられましたな」
「そうかもしれんな。だが、武田家を強くしたいという思いは変わらんぞ」
虎昌はしばらく考え込み、やがて深く頭を下げた。
「ならば、まずは若殿のお手並みを拝見いたします。ただし、無用な血を流すようなことがあれば、この兵部、命に代えてもお諫めいたす」
「はっはっは! それでこそ兵部だ。俺が道を間違えたら、遠慮なく叱ってくれ」
義信が豪快に笑うと、虎昌もようやく口元を緩めた。
少なくとも、その夜の話を聞いて即座に父へ走るつもりはなさそうだった。
◇
翌朝、義信は妻の部屋を訪ねた。
今川義元の娘である正室は、義信が入ってくると静かに立ち上がった。桶狭間で父を失い、今は兄の氏真が今川家を継いでいる。
武田家と今川家を結ぶ大切な婚姻であると同時に、信玄の駿河進出をめぐる問題が深刻になれば、最も苦しい立場へ追い込まれる女性だった。
「お早うございます。昨夜は兵部殿と遅くまでお話をなさっていたとか」
「耳が早いな。武田の屋敷には、忍びでも潜んでおるのか」
「夜更けまで明かりがついていれば、誰でも気づきます」
妻は呆れたように微笑んだ。
義信は向かいへ腰を下ろし、用意された茶を口にした。妻との付き合いは長いものの、中身が入れ替わったばかりの彼にとっては、何とも不思議な感覚である。
それでも、これまでの義信が妻を大切にしてきた記憶は残っていた。
「少し聞きたい。今川家から近頃、何か知らせはあったか」
「駿府の兄上からのお文なら、先日届きました。母上も息災とのことです。ただ、国境の動きについては気にかけておいででした」
「そうだろうな」
義元を失った今川家は、以前ほど周辺諸国を威圧できなくなっている。三河では松平元康が独立し、織田信長は美濃攻略へ向けて勢力を伸ばしていた。
ここで信玄が駿河へ兵を向ければ、三国同盟は崩れかねない。
「義信様。お義父上は、今川との盟約を破られるのでしょうか」
妻は真剣な眼差しを向けた。
義信は茶碗を置き、少し考えてから答えた。
「父上が何を決められるかは、まだ分からん。だが、俺は今川を簡単に見捨てるつもりはないぞ」
「私が今川の娘だから、でございますか」
「それもある。お前は俺の妻だからな。しかし、それだけではない」
義信は畳の上に指で簡単な地図を描いた。
「甲斐は山国だ。南へ出れば駿河の海があり、西には織田、東には北条、北には上杉がいる。今川が弱ったからといって、すぐ食いつくのが得策とは限らん」
「では、兄上をお助けくださるのですか」
「助けるだけでは足りん。氏真殿にも、今川を立て直していただかねば困る。俺がいくら庇っても、当主が踏ん張らねば国は守れんからな」
妻は一瞬驚いたものの、やがて小さく頷いた。
「兄上にも、そのようにお伝えしてよろしいのでしょうか」
「いや、今は待ってくれ。父上のお考えを確かめぬうちに余計な憶測を招きたくない。今川家から尋ねられたことがあれば、まず俺に知らせてほしい」
「承知いたしました」
義信は妻の顔を見て、ふっと笑った。
「それから、一つ約束しておこう。もし俺と父上が争うようなことになっても、お前を人質のように扱うつもりはない。お前は俺の妻であって、今川家を脅すための道具ではないからな」
「……何か、お義父上とございましたの」
「少々、意見が合わんだけだ。親子ならよくあることよ」
妻は笑わなかった。
「義信様。私は武田へ嫁いだ身です。何も知らずに守られるだけの妻でいたいとは思いません」
義信は彼女の目を見つめた。
なるほど、こちらもなかなか肝が据わっている。
「分かった。話せることはきちんと話そう。ただし心配はいらん。俺はそう簡単に負けるつもりはないぞ」
「それは存じております。昔から、言い出したら聞かないお方ですもの」
妻の苦笑につられ、義信も声を上げて笑った。
◇
昼過ぎ、義信のもとへ信玄から使いが来た。
昨日申し出た村の病について、現地を調べることが許されたのだ。ただし、年貢の減免や村役人の処分を独断で命じることは禁じられた。
そして調査には、信玄直属の武将が同行するという。
「飯富三郎兵衛にございます」
現れた武将は小柄ながら引き締まった身体つきをしており、目つきが鋭かった。
兄の虎昌とは対照的な印象である。
「おお、三郎兵衛か。久しいな」
「若殿。御館様の仰せにより、お供いたします」
「監視役というところか」
三郎兵衛の表情がわずかに動いた。
「そのような仰せは受けておりませぬ」
「冗談だ。父上は俺が妙なことを始めぬか心配なのだろう。もっとも、俺は少々妙なことをするつもりだがな」
三郎兵衛は答えず、義信の顔を見つめた。
義信はその様子を楽しそうに眺めた。
この男が後年、武田家有数の名将となることを知っている。兄への情に流されず、主君への忠義を貫いたと伝わる人物だ。
だからこそ、味方に引き入れるなら姑息な手は使わない方がいい。
「三郎兵衛。お前には見たものを、そのまま父上へ伝えてほしい。俺が何を考え、何をしているのか、隠す必要はない」
「よろしいのですか」
「構わん。報告を恐れてお前を遠ざければ、かえって父上に疑われる。何より俺は、お前の目で物事を見てもらいたいのだ」
三郎兵衛は深く一礼した。
「承知いたしました。では、参りましょう」
◇
甲府盆地の低地へ向かう道は、ぬかるんでいた。
馬を進めると、刈り取りを待つ田の間に細い水路が幾筋も走っている。用水の流れは緩く、場所によっては葦が密生していた。
義信は馬を下り、田の脇にしゃがみ込んだ。
「若殿、お履物が汚れますぞ」
「汚れたら洗えばよい。兵部の弟まで、俺を飾り物にしたいのか」
三郎兵衛は苦笑した。
義信は水辺の土や草の根元を眺めた。小さな貝殻らしいものもあるが、それだけで日本住血吸虫の中間宿主だと決めつけるわけにはいかない。
この時代には顕微鏡もなければ、寄生虫を調べる技術もないのだ。
しかし、病気がどのように広がるかを知っているだけでも、対策の立て方は変えられる。
「三郎兵衛。この辺りで腹の膨れる病にかかる者が多いと聞いたことはあるか」
「ございます。長く苦しみ、働けなくなる者もおります。ただ、何が原因なのかは誰にも分からぬようで」
「水に関わりがあるかもしれん。飲む水だけではない。田へ入り、肌を水につけることでも病を得る場合がある」
「肌から、でございますか」
「そうだ。もっとも、今は俺の推測と思ってくれてよい。確かめるために調べるのだ」
三郎兵衛は興味深そうに水路を見た。
「それが本当なら、田を耕す者ほど病むことになりますな」
「その可能性がある。だから、田へ入る者と入らぬ者で病の出方を比べたい。年齢も、働いていた場所も調べる。牛馬にも似た病がないか確かめよう」
「随分と細かくお調べになりますな」
「病気のことは、気合でどうにかなるものではないからな。兵を率いるにも、病の原因を知らずに根性論ばかり唱えていては、戦う前に倒れてしまう」
前世では歴史教師だった義信も、武術の道場を運営するうえで、怪我や体調不良に何度も向き合ってきた。東洋医学を学んだのも、弟子たちの身体を守りたかったからである。
ただし、知識があることと、実際に治療できることは別だった。
日本住血吸虫症を根治させる薬など、この時代には存在しない。
患者を救うには、まず新たな感染を減らす必要がある。
村へ到着すると、昨日館を訪ねてきた年配の男が出迎えた。
「若殿様! まさか本当にお越しくださるとは」
「来ると言ったからな。それより、病の者を見せてくれ」
案内された家の中には、湿った藁と煮炊きの煙が混じった匂いが漂っていた。
若い男が粗末な寝床に横たわっている。腹は膨れているのに腕は細く、起き上がろうとしても力が入らないようだった。
義信は脈を取り、腹の状態を確かめた。
熱は高くない。だが、長く続いた病によって身体が衰弱している。
「無理に起こさずともよい。粥は食べられるか」
「少しなら……」
「ならば、食べられるものを少しずつ与えてくれ。湯も飲ませる。薬師にも診てもらおう。ただし、この腹の膨れを俺がすぐ治せると思わんでくれ」
男の母親らしい女性が、不安そうに尋ねた。
「若殿様にも、治せませぬか」
「今すぐ治す方法は分からん。だが、これ以上同じ病で倒れる者を増やさぬ手立ては考えられる」
義信が戸外へ出ると、村役人が待ち構えていた。
「若殿様。ありがたいお心遣いではございますが、田仕事を休ませては収穫が減ります。年貢を納めるにも、働いてもらわねば困りまする」
「もっともな心配だ。お前の言うことは間違っておらん」
村役人は安堵したように頭を下げた。
だが、義信はそのまま続けた。
「ただし、病で立てなくなった者を田へ引きずり出しても、収穫は増えまい。今は病人を休ませ、動ける者に仕事を割り振る。そのためにどれほど人手が足りぬのか、俺に教えてくれ」
「人手など、いくらあっても足りませぬ」
「ならば数えよう。何人いれば足りるのか、何日あれば刈り取れるのか。分からぬまま困った困ったと言っていても、米は実らんぞ」
村役人はしばらく口ごもった末、必要な人数を挙げ始めた。
三郎兵衛が隣で書き留める。
義信は村の者から事情を聞き、まず自分の手元から銭を出して、働き手を雇うことにした。これで解決するのは村のごく一部にすぎない。それでも、寝込んでいる者を田へ戻すよりはましだった。
「それから、田で働く者には、なるべく肌を水につけぬ工夫をさせたい。丈夫な履物を作れる職人を探してくれ。ただし、履物だけで完全に防げるとは思うな。水路と便所の位置も調べるぞ」
「便所まで、でございますか」
「病の元になるものが、人や家畜の糞とともに出る可能性がある。用水へ流れ込ませぬ方がよい」
三郎兵衛が顔を上げた。
「若殿。それほどの病であれば、この村だけの話では済みませぬな」
「そのとおりだ。甲斐のほかの村でも、同じことが起きているかもしれん」
「御館様へ申し上げる必要がございます」
「頼む。お前からも見たことを伝えてくれ。俺は甲斐の民を救いたいが、若殿の立場だけで領国全体を動かすわけにはいかんからな」
三郎兵衛は義信を見つめた。
「若殿は、御館様の権限をよくご存じのようですな」
「父上の力を奪おうとしているように見えるか」
「そのようなことは申しておりませぬ」
「はっはっは! 冗談よ。だが、いずれ俺が武田を継ぐのだ。今のうちに領内を知っておいて損はあるまい」
義信が笑うと、三郎兵衛もわずかに頬を緩めた。
◇
躑躅ヶ崎館へ戻った三郎兵衛は、信玄の前に膝をついた。
「義信は、何をしておった」
「村の病人を診ておられました。また、田へ入る者に病が多いのではないかと仰せになり、村々を調べるようお考えにございます」
「医術まで心得ておるというのか」
「詳しいことは分かりませぬ。ただ、病人の脈を取り、食事や休養について指図されておりました」
信玄は腕を組んだ。
「兵部とも長く話しておったそうだな」
「そのように聞いております」
「何を話しておったか、知っておるか」
「存じませぬ」
三郎兵衛は即座に答えた。
信玄はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「義信は、お前に何か申したか」
「見たことをそのまま御館様へ伝えよ、と」
「……ほう」
信玄の眼が細くなった。
「では、そなたが見た義信を申してみよ」
三郎兵衛は少し考えた。
「以前より、肝が据わっておいでのように見受けられます。村の者にも気安く話しかけ、役人の意見にも耳を傾けられました。ただ、考えを決められた後は、容易に退かれるお方ではないようにございます」
「頑固なのは昔からじゃ」
「それと……」
「何じゃ」
「若殿は、ご自分がいずれ武田を継ぐことを、当然のこととしてお考えのようでした」
信玄はゆっくりと息を吐いた。
嫡男が家督を継ぐと考えるのは、おかしなことではない。
しかし昨日の義信の言葉が、どうにも気にかかっていた。
『今は、父上が御屋形様にございますからな』
あの言い方には、これまでの息子とは違う何かがあった。
「三郎兵衛。引き続き義信の様子を見ておけ。ただし、あれの邪魔はするな」
「はっ」
「それから、兵部にも伝えよ。近いうちに軍議を開く。義信も同席させるとな」
三郎兵衛が退出すると、信玄は机上に広げた地図へ視線を戻した。
駿河、信濃、上野。武田家が抱える問題は山積している。
そのなかで、嫡男の義信が突然、これまでとは違う考えを口にするようになった。
「義信め。何を企んでおる……」
低く呟いた信玄の口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
◇
その頃、義信は自室で兵書を広げていた。
父の軍議に呼ばれることは、まだ知らない。
机の上には『孫子』の写本が置かれている。前世では何度も読み込んだ書物だが、戦国の世で読むと、その意味がまた違って感じられた。
義信は頁を閉じ、庭へ目を向けた。
虎昌はまだ味方になったわけではない。三郎兵衛も信玄への忠義を曲げるつもりはないだろう。
それで構わない。
忠義ある者を無理に従わせたところで、いざというときに頼りにはならない。自分についてくるだけの理由を示さねばならなかった。
「さて、父上。どこから攻めて差し上げようか」
義信は楽しそうに笑い、地図を引き寄せた。
甲斐の山々、その向こうに広がる信濃、駿河、そして越後。
天下を取るなら、いずれすべてに手を伸ばさねばならない。
だが、その前に越えなければならない相手がいる。
武田信玄。
天下にその名を轟かせる父を相手に、若き義信は早くも胸を躍らせていた。




