第1話 謀反を疑われる前に
「若殿、飯富兵部少輔が参っております」
襖の向こうから呼ばれ、武田義信は目を開けた。
い草と沈香の匂い。煤けた梁の下へ障子越しの朝日が差し込んでいた。見慣れた寝室とはまるで違う。
手をつくと身体が驚くほど軽い。掌には剣だこがあるのに、六十五年使った膝も腰も痛まなかった。
「……こいつは、ずいぶんと景気のいい夢だな」
自分の声が若い。寝所の隅にある銅鏡を覗き込んだ義信は、思わず笑い声を漏らした。
鏡に映ったのは、肩幅の広い精悍な若武者だった。
現代の日本で、彼の名は武田義信といった。
甲府の高校で日本史を教え、定年まで勤め上げた歴史教師だ。授業では年号よりも人の選択を語り、教え子には「面白すぎて試験範囲が終わらない」とよく文句を言われた。
武田流古武道の師範として剣術や槍術、柔術を教え、門弟も多かった。東洋医学に通じ、『孫子』『呉子』『六韜』『三略』から西洋の軍事思想まで読み込んだ。難しい顔をした人間を見ると、つい笑わせたくなる性分だった。
定年祝いには教え子も門弟も大勢集まった。その夜、道場の片づけ中に胸が苦しくなり、床へ手をついたところまで覚えている。
しかし今、目の前には電灯も時計もない。
「若殿、お加減が優れませぬか」
襖が開きかけ、義信の頭に別の人生の記憶が押し寄せた。信濃の山道、合戦の太鼓、父の厳しい眼差し、今川家から迎えた妻。すべて自分の経験として蘇る。
武田義信。武田信玄の嫡男。
父への謀反を疑われ、幽閉の末に世を去る男。
「入ってくれ、兵部」
日に焼けた大柄な武将が膝をついた。飯富兵部少輔虎昌。義信の傅役を務める宿将だ。
「お目覚めでございましたか。朝の稽古について、伺いに参りました」
「稽古か。そいつはありがたい。身体を動かしたかったところだ」
「兵部、ついでに一つ教えてくれ。いまは永禄何年だ」
「永禄七年にございますが」
義信は胸の内で年代を数えた。桶狭間で今川義元が討たれてから四年。第四次川中島の激戦から三年。そして義信事件が表面化するのは、史料の読み方によって時期に食い違いがあるものの、まもなくのことだった。
同姓同名の義信については、一次史料から軍記物まで調べ尽くした。それでも謀反の実態は分からない。誰がどこまで動いたのか、確証がないのだ。
「兵部。今日は誰か、腕の立つ者も稽古場へ呼んでくれ。少々、骨のある相手が欲しい」
「若殿、まさか寝起きで手合わせを?」
「安心しろ。老いた身体で無茶をするほど若くはない……いや、今は若いのか」
虎昌は不可解そうに眉を寄せたが、義信が朗らかに笑うので、それ以上は問わなかった。
◇
躑躅ヶ崎館の稽古場には汗と革の匂いが漂い、足軽たちが場所を空けた。
木刀を数度振る。前世の技は覚えているが、腕の長さも重心も違う。身体の扱いを間違えれば、積み重ねた技など役に立たない。
「兵部、一本相手を頼む」
「儂が、でございますか」
「手加減はいらん。ただし、互いに怪我はなしだ。まだ父上から家督を譲られたわけでもないのに、寝込んでは笑い物になる」
虎昌が木刀を取った。構えには、実戦をくぐり抜けた者の重さがある。
最初の一合で義信は、自分の見込みの甘さを知った。虎昌の踏み込みが速い。手首へ振り下ろされた木刀を受け流した途端、脇腹へ二の太刀が迫ってきた。
義信は身を開いて避け、声を上げて笑った。
「さすが兵部! 書物で読む戦場の名将より、目の前にいる方がよほど恐ろしいわ!」
「笑っておられる場合ではござらん!」
虎昌が踏み直す。義信は足運びを見極め、刃を受けず半歩斜めへ入った。木刀を滑らせて手元を崩し、左手で肘を押さえる。
虎昌の木刀が土に落ちた。
見物人がどよめいた。義信は木刀を拾って虎昌へ返した。
「一本取ったつもりだが、兵部が本気で槍を持っていたら、俺の方が先に串刺しだったな」
「……若殿。いまの技、どちらでお覚えになりました」
「長いこと教える側におったのでな。いや、信じられんだろうが」
義信は勝ち誇らず、頭を下げた。
「もう一本頼みたいところだが、今日はここまでにしよう。兵部の技をもっと覚えたい。武田の武芸は、机の上だけでは学べん」
宿将の顔に、初めて大きな笑みが浮かんだ。
「そのお心があれば、いくらでもお付き合いいたす」
義信が袖で汗を拭ったとき、稽古場の外で人が争う声がした。
◇
「御館へ願い出るなど、身の程を知れ!」
門の脇で百姓が二人、押しとどめられていた。白髪交じりの男と、腕が異様に細く、立つのも苦しそうな若者だった。
「どうした」
義信が近づくと、番士たちが一斉に頭を下げた。年配の男は慌てて地面へ額をつける。
「若殿様。村の者が次々と腹を病み、田へ入れなくなっております。薬師にも診せましたが、手立てがなく……せめて年貢のことをお聞き届けいただきたく」
「お前の村はどこだ」
甲府盆地の低湿地にある村だ。義信は若者を日陰に座らせ、腹の具合や熱、血の混じる便について尋ねた。
男は目を丸くし、幾度も頷いた。数年前から腹が悪く、近頃は身体が痩せて仕事ができないという。同じ村にも似た症状の者がいるらしい。
前世で読んだ医学史が浮かんだ。甲斐の地方病、日本住血吸虫症。水中の幼虫が皮膚から侵入する寄生虫病で、原因が解明されるのは後世のことだ。
ただし症状だけでは断定できない。虫を駆除する薬も、この時代にはない。
「田へ入る者ほど病むのか。水に浸からぬ仕事をしている者はどうだ。子どもや牛馬にも同じような病はあるか」
年配の男の答えを聞き、義信は番士へ向き直った。
「紙と筆を。二人の名と村を記し、役人に伝えよ。病人の人数、田の場所、水の流れを調べさせる。年貢の扱いは耕作の有様を確かめてからだ。病人を働かせるために棒で叩いたところで、米が増えるわけでもあるまい」
「されど若殿、御館様のお許しなく村への指図を広げては……」
「だから調べろと言っておる。勝手に年貢を免じろとは申しておらん。責めがあるなら俺が受ける」
若者は休養も栄養も足りない。義信はその肩へ手を置いた。
「今日のところは薬師に診せよう。田へ入るのはしばらく控えてくれ。村では用足しをする場所と、水を使う場所を分けるよう伝えてほしい。川の水を飲むときだけ気をつけても済まぬ病かもしれん」
「若殿様……わしらの話を、聞いてくださるのですか」
「聞かずにどうする。お前たちが田を耕し、俺たちが飯を食える。そんな当たり前のことを忘れたら、武田の看板など飾り物だ」
年配の男は何度も頭を下げた。義信は礼を止めさせ、屋敷の者に粥と休む場所を用意させた。
虎昌が声を落とした。
「若殿。これほど大きく物事を動かされれば、御館様のお耳にも入りますぞ」
「ちょうどよい。こちらから会いに行く手間が省ける」
虎昌が目を丸くした。
◇
父と向き合ったのは、その日の夕刻だった。
信玄は書付から顔を上げた。僧形の頭に鋭い眼光。息子が膝をつくまで、その表情を見逃さない。
「義信。今日はずいぶん騒がしかったそうだな」
「少々、身体を動かしておりました。兵部にはよい稽古をつけてもらいました」
「それだけではあるまい。村の病まで調べさせたとか」
「調べぬことには、手も打てませぬ。甲斐に病が広がれば、年貢どころか兵も減りましょう」
「言うことはもっともじゃ。だが、善意だけで領国を治められると思うな。村一つの年貢を緩めれば、他の村も同じことを求める。役人には役人の務めがある」
義信は頷いた。父の言葉には、領国を治めてきた者の重みがある。
「承知しております。ゆえに免除は命じておりませぬ。ただ、耕せぬ土地へ例年どおり取り立てに行っても、残るのは逃散した百姓と荒れた田ばかりです。まずは事実を確かめる。それほど損な話ではございますまい」
信玄が書付を脇に置いた。
「誰にその口を習うた」
「父上に、でございましょうな。なにしろ、幼い頃から難しい顔をなさるのを見て育ちましたので」
義信が笑うと、信玄の口元もわずかに動いた。しかし次に発せられた言葉は、ずっと重かった。
「今川のことは、どう考えておる」
義信は背筋を伸ばした。義元亡き今川家は揺らいでいる。海のない甲斐にとって駿河は魅力的だが、今川は妻の実家であり、北条も交えた三国同盟の一角だ。
「今川を弱いと見て食いつけば、北条まで敵に回す恐れがあります。駿河を取れても、後ろから甲斐を脅かされては割に合いませぬ」
「では、このまま三国の盟約に縛られておれと申すか」
「いいえ。盟約は使うものにございます。守るにせよ破るにせよ、どちらが武田に大きな利をもたらすか。その算段をする前から、妻の実家だからと駿河を庇うつもりはありませぬ」
「ほう」
信玄の眼が細くなった。息子が妻の立場を認めつつ、損得を語っている。
「ならば聞こう。お前ならどうする」
「まず西と北の戦を見直します。上杉との争いにどれほど人と銭を費やしてきたか、父上こそ誰よりご存じのはず。今川を敵にするなら、上杉と北条がどう動くかまで考えてからでも遅くはない。駿河だけを見て、天下を逃すのは惜しゅうございます」
「天下、か。大きく出たな、義信」
「大きく考えるだけなら銭はかかりませぬ。実行に移すときは、もっと厳しく勘定いたしますが」
信玄が声を立てて笑った。しかしすぐに目を鋭くした。
「お前の考えは分かった。だが、武田の進む道を決めるのはわしじゃ。そこを履き違えるな」
「心得ております。今は、父上が御屋形様にございますからな」
最後の一言に、信玄の指が止まった。
「……今は、とはどういう意味だ」
義信は目を逸らさない。六十五年を生きて、言ったことを怖がって引っ込める気にはなれなかった。
「武田の嫡男である以上、いつかは父上のお務めを引き継ぎます。そのとき、甲斐一国を守るだけの男にはなりたくありませぬ」
信玄は息子を見据え、やがて顎で退出を許した。
退出した義信は、虎昌を自室へ招いた。戸を閉め、人払いをしてから向き合う。
「若殿。御館様は何と」
「親父殿は相変わらず手強い。あの人を相手にするなら、相当骨が折れるぞ」
「……何をなさるおつもりで」
義信は庭を見た。甲斐の山々の向こうで、今川も北条も上杉も織田も、生きた人間として動いている。
信玄はかつて父の信虎を駿河へ追い、家督を奪った。その信玄の息子が父との対立で失脚する。皮肉な巡り合わせだった。
だが、そんな筋書きに従ってやる義理はない。
「兵部。俺は父上を殺す気などないぞ。あれほどの名将、死なせては武田の損だ」
「それは、無論のことで……」
「ただし、家督は別だ。俺が武田を率いる方が天下に近いと示せばよい。そうして父上にも働いていただく。上杉と戦わせるなら、これ以上の将はおるまい」
虎昌の顔から血の気が引いた。庭では雀が騒いでいるのに、二人の間だけが妙に静かだった。
「若殿。それは、まさか……」
「お前までそんな顔をするな。父上も昔、祖父上から家督を奪ったではないか。息子が同じことを考えて、何が不思議だ」
義信は腹の底から笑った。年表に載るのは終わった出来事だけ。生きている人間には別の選択がある。
「まずは味方を増やそう。無理に引きずり込む気はない。武田を俺に預けたいと思う者を、一人ずつ増やしていく」
虎昌は呆然としたまま、やがて深々と息を吐いた。
「……若殿は、ご自分が何を口にされたか、お分かりか」
「もちろんだ。謀反の疑いで死ぬくらいなら、本当に家督を奪う。その後は親子で天下を狙う。どうだ、悪くない話だろう」
老将は答えず、義信の前に膝をついたままだった。
少なくとも虎昌は、立ち去ろうとはしなかった。




