第34話 稲葉山城、武田の手に
長井道利が差し出した書付には、城を渡すという一文はなかった。
斎藤の家名を残すこと。龍興と家中の者の命を損なわぬこと。城下へ残した妻子や、戦で捕らえられた兵を害さぬこと。幾つもの願いを読み終え、義信は最後の余白へ指を置いた。
「守ってほしい者のことは分かった。次は、龍興殿が何を差し出すかを聞こう。城も兵も手放さぬままでは、こちらも約束を結べぬ」
「主も、それは承知しております。ただ、先に城を渡し、あとから家中の処遇を決めるのでは、拙者は山へ戻れませぬ」
道利は膝に置いた手を動かさずに答えた。
義信は良通と半兵衛へ目を向けた。どちらも、口先で城を開かせれば済むとは考えていない。ここで破った約束は、明日、別の国衆へ差し出す書状の値打ちまで失わせる。
「稲葉山は武田が預かる。龍興殿は武田に従い、兵を動かすには俺の許しを得る。その代わり、斎藤の家は残す。養う地も、すでに押さえた旧斎藤の直轄領から割こう」
義信は書付を手元へ寄せた。
「ただし、良通殿や守就殿、直元殿に安堵した地を、そのために削ることはせぬ。先に従った者ほど損をする取り決めにはできぬからな」
「龍興様へ付き従う家臣もおります。その者たちを、主から引き剝がすおつもりか」
「身の回りを支える者まで奪わぬ。だが、国中の兵を斎藤の名で集める権は手放してもらう。武田へ直に仕える者、龍興殿へ残る者、家へ帰る者を分け、知行と扶持を定める」
道利は返答を急がなかった。斎藤が美濃の主であり続ける道は、そこで断たれる。その代わりに、城を失っても家を養い、家臣を抱えて生きる道が示されていた。
良通が静かに口を開いた。
「所領の重なりは、私も確かめます。こちらへ従った者の土地だけでなく、斎藤に残った者の土地も調べねばなりませぬ。戦ったというだけで全てを召し上げては、村ごと敵を残しましょう」
道利の目が良通へ移った。
「そのお言葉、書付へ加えていただきたい。拙者が聞いたというだけでは、山の者を説けませぬ」
「加えよう。代わりに、明け渡す門と、残す武具、兵を下ろす順も決める。誓紙だけ受け取り、城の中では別の支度をされては困る」
義信が言うと、道利は懐からもう一枚、折った紙を取り出した。
城に残る主だった者の名が並んでいた。降ると決めた者の名簿ではない。龍興が、最後まで処遇を確かめようとしている家臣たちだった。
◇
道利が山へ戻ったのは、夜になってからだった。
龍興は火を近づけ、持ち帰った条件を読んだ。そばには、南へ出していた使いも控えている。
織田からも、命を助けるという返答は届いていた。ただし、無事に城を出るには、通る道と連れていく人数を定めねばならない。家臣の所領まで一度に保証する話にはなっていなかった。
信長にしてみれば、城下を武田に押さえられた龍興一人の降伏で、山まで得られるとは限らない。抱え込む人数と、それによって増える敵を量っているのだろう。
龍興は二つの書付を並べた。
「武田へ渡せば、稲葉も安藤も、今得ておる地を保つ。俺が城を降りたあとで、その者たちを討てとは命じられぬな」
「義信殿も、そのために兵を引かぬと申されました。我らだけに都合のよい和睦は、受けられぬと」
道利は答え、昼に捕らえられた兵のことも伝えた。
柵を守っていた組頭は生きている。降った者をその場で武田の兵へ加えず、決着まで戦へ出さぬと、義信自身が約束したという。
龍興はしばらく黙り、脇に控える侍たちを見た。傷を負いながら立っている者もいた。
「まだ、城は守れる。米も矢も、明日尽きるわけではない。だが、守っている間に、どこから兵が来る」
誰も、来ると約束した援軍の名を挙げられなかった。
「武田が諦めれば織田が来る。織田へ城を渡そうとしても、下には武田がおる。このまま両方を相手にして、お前たちの戻る村まで失えば、俺は何を守ったことになる」
龍興は書付を畳んだ。
「斎藤の家を残す。だが、俺だけ助けてもらうために、お前たちを差し出すのではない。所領を願う者も、俺と行く者も、明け渡す前に名を出せ。条件が違えば、その場で止められるようにする」
道利が一礼すると、龍興は筆を取った。
命令を書き終えたあとも、すぐには渡さなかった。長く握っていた筆を置き、ようやく顔を上げる。
「武田に従う。城を明ける支度を始めよ。番の者へも、俺の命だと確かに伝えさせる」
◇
翌朝、山裾へ下りてきた道利は、龍興の誓紙と、明け渡しに加わる者の名を持っていた。
半兵衛は受け取り、昨夜の取り決めと一つずつ照らした。三郎兵衛は柵へ残り、勝手に兵を登らせぬよう見張っている。
義信は、源五郎を呼んだ。
「南の織田へ使いを出す。龍興殿が従ったことを、約定どおり知らせよ。ただし、向こうがすでに取った所へ、これを口実に兵を入れるな」
「城の受け取りを見届けてからでは、知らせる刻が遅れます。まず誓紙が届いた旨を伝え、受け取りを終えたら、続けて知らせます」
「それでよい。相手の返答を待つために、山の引き渡しを止める必要もない」
源五郎が走ると、義信は道利へ向き直った。
先に登る武田の兵を少数に限り、斎藤側の案内とともに門と曲輪を受け取る。双方の番を一度に引き揚げさせず、替わった所から順に知らせを送る手はずだった。
半兵衛が、その先手へ加わろうとした。
道利は彼を見て、わずかに口を結んだ。
「城内には、重治殿への遺恨を持つ者もおります。貴殿が先に立てば、主の命に従おうとしている者まで、意地を張るやもしれませぬ」
半兵衛は足を止めた。
自ら奪い、手放した城である。その名を知る者が、皆、才を褒めてくれるはずもなかった。
「では、私は下に残り、兵の交代を取り仕切ります。城内を確かめる者には、道利殿からも案内を付けてください」
義信は、その判断に頷いた。
「城を得る働きは、最初に門をくぐることだけではない。下りる兵を町で暴れさせず、登る兵にも勝手をさせぬよう頼む」
半兵衛は道利と立ち位置を替え、組頭たちを集めた。義信も、最初の受け取りが済むまでは柵の中で待った。
◇
最初の門が替わり、次の番所からも使いが下りてきた。
ところが、その先の曲輪で、知らせが途切れた。
道利の供が戻ってくると、槍を離さぬ組があり、武田の兵を通さないと告げた。主の命を疑っているのではない。降れば、家へ残した妻子を追い出されると恐れているらしかった。
三郎兵衛は兵を止めたまま、義信を見た。
「御館様、まだ門の奥を全て受け取ったわけではございませぬ。まずは使いを通し、槍を伏せさせます」
「その組の頭を、ここへ呼べるか。道利殿と話せるなら、俺も同じ所で聞く」
義信は柵の外へ出ずに待った。
やがて下りてきた侍は、道利の前へ膝をついた。具足は泥で汚れ、頬に新しい傷があった。
「主の命に背くつもりはございませぬ。しかし、拙者の村には、稲葉殿と地境を争う所があります。武田へ渡れば、そのまま取り上げられると、組の者が申しております」
良通が一歩前へ出た。
「争いのある地はある。だが、槍を伏せた褒美に、そなたの家まで焼く話ではない。村の者も呼び、境を確かめる。決まるまで、こちらから田畑へ手を出させぬ」
義信は道利を見た。
「この扱いは、ほかの者にも同じだ。争いがあるからと、今、良通殿の言い分だけで決めぬ。そちらにも、戦を止めるために争いそのものを隠すことはさせぬ」
侍の肩が、少し下がった。
「そのお言葉を、組の者へ伝えてよろしゅうございますか」
「俺の名で伝えよ。槍を持ったままここまで下りたことも、それだけを罪には問わぬ。ただし、戻ったら武田の兵と争わせるな。双方の番が替わるまでは、お前も持ち場を離れるなよ」
侍は深く頭を下げ、道利の供と山へ戻った。
しばらくして、止まっていた道から使いが来た。番の交代を終えたという。
義信はそこで初めて、登る兵へ加わった。
◇
龍興は、具足を着たまま義信を待っていた。
刀は帯びているが、抜くつもりで手を添えてはいない。傍らへ集まった家臣も、義信が入ると左右へ退いた。
義信は畳へ座り、龍興と向き合った。
「取り決めたとおり、城を受け取る。番の交代を命じてもらえたこと、礼を申す」
「兵を下ろしたあとの扱いまで見届けねば、こちらの役目は終わらぬ。城内の蔵と武具は渡す。家臣の私物と、連れていく者の荷は、混ぜずに改めさせる」
「こちらからも確かめる者を付けよう。分からぬ物を、その場の兵の取り分にはさせぬ」
龍興は頷き、しばらく義信を見ていた。
「町でそなたの旗を見つけたとき、押し切れば取り戻せると思うた。稲葉が来る前に、山の兵と挟めるとな」
「俺も、良通殿が間に合わねば、囲いまで退くつもりだった。こちらに都合のよい形のまま、最後まで戦えたわけではない」
「それでも、そなたたちは合わさった。俺が西へ出した兵を戻している間に、だ」
龍興は膝の上で手を開いた。
「斎藤龍興、武田殿に従う。家中を守るために決めたことゆえ、従った者の命と暮らしについては、これからも申し上げる」
「遠慮なく申されよ。俺へ従ったからと、家臣を守る役まで捨てることはない」
龍興が頭を下げた。
道利も、それに続いた。義信は二人が顔を上げるのを待ち、城下へ下りる道の警固について話し始めた。
◇
南の陣で知らせを受けた信長は、武田の使いが去ったあと、丹羽長秀を呼んだ。
「龍興が降った。武田は、城だけ取って首を外へ逃がす気もないようだ」
「山へ手を伸ばすのは、約定のある間は難しゅうございます。こちらが押さえた道と番所を固め、兵を入れ替えます」
信長は、山へ続く道を見た。
武田が城へ登る間に、こちらは南からの出入りを押さえた。山を取った軍も、そこだけで飯を食い続けられるわけではない。
「運んだ米を戻すな。兵が居続けられるだけ置け。武田へ売る商人を、約定に背いて襲わせるなよ。こちらへも運ばせ、船と荷を増やす」
長秀が頷くと、信長は番所へ置く兵の割り振りを命じた。
稲葉山が渡ったからと、南へ進めた軍を引くつもりはなかった。
◇
山では、斎藤の兵が順に持ち場を離れていた。
武田の兵は槍を寝かせ、その列を通した。昨日まで矢を射合った者同士が、狭い道で肩を擦る。小さな言い争いが起きると、両方の組頭が出て止めていた。
義信は、龍興とともにその様子を見届けた。
やがて、道利が最後の蔵の引き渡しを告げに来た。受け取りを記した者の名を確かめ、義信はようやく立ち上がった。
旗を持った兵が待っている。
「待たせたな。皆にも見える所へ掲げてくれ。ここまで登らず、町や渡しを守っておる者にも、城を受け取ったと知らせよう」
武田菱が山風を受けた。
城内で声が上がり、下の番所からも応じる声が続いた。義信は旗を見上げ、土に汚れた顔を大きく綻ばせた。
「よう働いてくれた! 下りた者から飯にせよ。今夜の番へ就く者の分は、先に残しておけよ!」
笑い声が混じり、兵が互いの肩を叩いた。
義信はその中を歩き、門へ戻る兵の一人から旗竿の重い根元を引き取った。二人で持ち上げて据えると、空いた手で兵の背を叩く。
甲斐から運んできた武田の旗が、美濃の山上で、もう一度大きく開いた。
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