第30話 大垣城、武田に付く
織田信長が奪ったのは、城より先に渡しだった。
犬山で戦を止めてから八日。川辺に釘付けになっていた兵の一部は、すでに西へ移り、墨俣へ通じる斎藤方の渡し場を攻めていた。
岸の柵が破られても、対岸へ渡れなければ兵は進めない。守る側は舟を引き揚げ、浅い場所には槍を並べている。
信長は岸へ寄りすぎた兵を下げさせ、丹羽長秀へ命じた。
「人足を先に追い払うな。あの者らが舟を出せぬまま逃げれば、こちらも渡れぬ。舟を取った組には、敵を追うより綱を押さえさせよ」
長秀は頷き、走ってきた組頭を呼び止めた。
前では柴田勝家の兵が柵を押していた。守り手がそこへ寄せられる間に、別の一団が岸沿いを進み、舟を繋いだ場所へ取り付く。
斎藤勢は舟を流そうとした。
だが、長秀の兵が先に綱へ手を掛けた。水へ落ちた者を引き上げ、弓を持つ者が岸の上を押さえる。その背後で、舟頭たちが捕らえられた。
信長は勝ち鬨を上げさせる前に、舟を改めさせた。
底の傷、櫂の数、舟を動かせる者の人数。
確かめ終えると、兵糧を積んだ荷が岸へ運ばれてきた。
「大垣へ使いを出せ。直元に、こちらの兵が来たことを知らせる。城を攻めるための使いではない。話を決めるなら、今であるとな」
犬山を攻めるために集めた力が、美濃の別の場所へ食い込み始めていた。
◇
氏家直元は、戻ってきた使いを大垣城の門内で迎えた。
武田義信の陣へ遣わした男である。川辺で休戦の始まりを見届けて帰ったあとも、直元は街道へ人を出し、東で起きている戦を確かめさせていた。
関へ武田が入ったという報せは、別の商人の話とも合った。
「長井殿は兵を残して退かれたそうです。武田も傷者を出しており、何の苦もなく押し通ったわけではございませぬ」
「それでも、道を開いた。甲斐へ帰るための道ではなく、さらに先へ進む道をな」
直元は門の外を見た。
堀を渡る者が、番の侍へ行き先を告げている。荷を担いだ町人の後ろには、具足を運ぶ家臣がいた。
大垣には城を守る兵も、食わせる米もある。だが、それらを持っているからこそ、誰もが使いたがった。
斎藤からは出兵を求められている。
織田からは、今なら話ができると使いが来た。
安藤守就と稲葉良通は、すでに武田へ従い、自分たちの兵を動かしている。
直元は使いを労って下がらせると、そのまま厩へ向かった。家臣を座敷へ集める前に、出せる馬と、城へ残せる人数を自分の目で確かめておきたかった。
◇
同じころ、関の砦では、義信が刃こぼれした槍を並べていた。
戦った兵から集めたものである。使える穂は柄を替え、傷んだものは鍛冶へ回す。町の職人へ仕事を頼むにしても、値を決める前から働かせるわけにはいかなかった。
半兵衛が西から届いた報せを持ってくると、義信は手にした槍を脇へ置いた。
「信長殿が、川を渡る場所を押さえたか。犬山にいた兵を、早速働かせておるな」
「氏家殿にも使いが入った模様です。斎藤方は大垣の兵を欲しがっておりますから、直元殿も長く返事を延ばせません」
義信は、砦の外で薪を割る兵を見た。
昨日まで槍を持っていた腕が、今日は斧を振っている。負傷して戦列を離れた者もいれば、関の守りへ回す者もいた。
「ここから大垣へ兵を走らせれば、関を守る兵を削ることになる。今すぐ千人送れるような書状は出せぬぞ」
「その点は、隠さずお伝えすべきかと。ただ、西には安藤殿と稲葉殿がおります。直元殿が加われば、互いに兵を出せる範囲が変わります」
「ならば、その働きまで示そう。大垣の城を明け渡させるために、味方を求めているのではないからな」
義信は、先に整えていた申し入れを改めた。
大垣の城と氏家の領分は直元に任せる。そのうえで、大垣側の川筋と道の守りを受け持たせ、西美濃で軍を合わせるときは、良通を通じて兵を動かす。
出す人数も、残す人数も決めず、いざとなれば全兵を寄越せという約束にはしなかった。
「直元殿が城を守れるから、こちらも別の場所で戦える。その働きは、城を攻めた功と一緒に量る。半兵衛、そこは俺の言葉として伝えてくれ」
半兵衛は頷き、使いに持たせる文を整えた。
義信はその横で、源五郎へ街道の様子を尋ねた。西へ送るのは書状だけではない。関の戦を見た者も添え、勝ったことも、傷者の多かったことも、自分の口で話させるつもりだった。
◇
織田の使者は、大垣へ兵を入れたいとは言わなかった。
城と領地を認め、信長の下で働く道を示した。斎藤方に留まったまま、織田の進む道へ兵を出せば、次には敵として向き合うことになるとも告げた。
直元には、その話の重みが分かった。
信長は近い。
尾張から兵を出し、川を越え、今日取った場所へ明日も荷を運べる。武田の使いが語る約束には魅力があっても、甲斐からの距離まで消えるわけではなかった。
使者を下がらせたあと、家臣の一人が言った。
「織田殿に付けば、南から攻められる恐れは減りましょう。安藤殿や稲葉殿が武田に付いたとはいえ、それだけで当家まで同じ道を選ぶことはございませぬ」
「そのとおりだ。二人と親しいから従うのでは、氏家の家臣を説き伏せられぬ」
直元は、武田から届いた文を家臣たちの前へ置いた。
「だが、二人が敵になるか、こちらへ兵を出せる味方になるか。その違いは大きい。義信殿の軍が遠くても、西にいる者まで遠くなるわけではない」
別の家臣が文を取り、読み終えてから顔を上げた。
「当家には、大垣側の道と川筋を任せるとあります。城に籠もっておればよいという話ではございませぬな」
「兵を出す。米も使う。その代わり、こちらが困ったときには安藤と稲葉の兵が動くよう、今のうちに決める」
直元は二人へ遣わしていた使いの返事も出した。
何人なら出せるか。どの道なら通れるか。大垣から兵が来るときには、誰が受け入れるか。
良通も守就も、自分の城を空にするとは答えていない。出せないものを約束せず、その代わり、動かせる組と日数を示していた。
直元は、そこまで確かめていた。
◇
斎藤の使いが再び来たのは、その翌朝だった。
求めた兵がまだ出ていないため、返答を取りに来たのである。伴ってきた一隊は城外に止まり、使者だけが門を入った。
「龍興様は、東に武田、南に織田を受けておられます。大垣の兵が動かねば、ほかの城にも迷いが生じましょう。直元殿には、御出陣の日を明らかにしていただきたい」
使者の言うことにも、道理はあった。
主が苦しいときに兵を出さず、自分の城だけを守る。それを許せば、斎藤の軍は成り立たない。
直元は、使者へ正面から頭を下げた。
「長く斎藤家に仕えながら、この返答をすることは、わしの不忠である。だが、氏家の兵を安藤と稲葉へ向けることはできぬ。わしは武田義信殿へ従うと決めた」
使者は、しばらく言葉を失った。
「それでは、織田を防ぐ兵まで割かねばならなくなります。武田が遠い甲斐へ戻れば、大垣が先に戦を受けることになりますぞ」
「そのときに誰と兵を合わせるかまで話した。義信殿の軍が城下へ来るのを、ただ待っているつもりはない」
直元は顔を上げ、門の方を示した。
「そなたは主の命を伝えに来た。ここで捕らえるつもりはない。返書を持って戻られよ。城外の兵にも、追いかけて斬り掛かるようなことはさせぬ」
使者は険しい顔のまま返書を受け取った。
出ていく背を見送り、直元は脇に控えた家臣へ命じた。
「東の門を固めよ。城外の兵を囲むな、帰る道を開けておけ。ただし、道筋の番所はこちらで押さえる。帰る振りをして留まられては困る」
使者を帰すことと、備えを解くことは別だった。
◇
城外にいた斎藤勢は、すぐには引かなかった。
門から出てきた使者と話したあと、一部を脇の道へ回した。大垣を出入りする荷を押さえ、直元の出方を確かめようとしたのである。
報せを受けると、直元は自ら馬を出した。
門を開き、槍の組を先に進ませる。城の上に残る弓の者には、合図なく射るなと言い置いた。
道の分かれる所で、両軍が向き合った。
斎藤方の侍が声を上げた。
「この道を通る荷は、稲葉山へ入れるものもある。武田へ付いたからと、全て氏家のものにはなるまい!」
「荷の持ち主を確かめず、止めることは許さぬ。当家の兵がそちらの荷を奪うこともさせぬゆえ、まず道を空けられよ」
直元は馬を下り、前の組へ進む幅を指で示した。
槍を広く散らさず、道を押さえる。後ろには別の組を残し、敵が畑へ広がれば、そちらへ向きを変えられるようにした。
斎藤勢の槍が前へ出た。
先頭がぶつかり、穂先が幾つも跳ねる。直元は兵の間を歩き、押しすぎる組を声で止めた。
「道を取ればよい。城から離れて追うな!」
武田から一兵も届かぬうちに始めた戦だった。
それでも、大垣の兵は崩れなかった。自分たちの城が後ろにあり、戻る道も、支える弓もある。
斎藤方は正面で押し合う間に荷へ回ろうとしたが、直元の残した組が動くのを見て止まった。城を取るだけの兵はなく、ここで傷者を増やす意味も薄い。
やがて槍が下がった。
直元は距離を保って進ませ、斎藤勢が道を退くところまで見届けた。荷を運ぶ者を先に通すと、兵を返し、番所へ置く人数を決めた。
家臣が戻ってきて、傷者の数を告げる。
直元はそれを聞き終え、城の方へ向き直った。
「安藤と稲葉へ知らせよ。こちらは旗を決めた。大垣の道を通る兵と荷には、先に使いを立ててもらう」
門を閉じて選ばれるのを待つ時間は、終わっていた。
◇
数日後、大垣からの使いが関へ着いた。
直元の誓いと、道で起きた戦の報せを持っている。義信は、捕らえた敵の人数より先に、氏家方の傷者について尋ねた。
使いが答えると、義信は文を読み直した。
「直元殿は、こちらの兵が着く前に道を押さえたか。危うい決断だったろうが、よく家中をまとめてくれた」
「殿は、義信様へ従った以上、安藤殿や稲葉殿に城を守っていただくばかりでは済まぬと申しております」
「頼もしい返答だ。こちらも、任せると言った働きを任せよう」
義信は半兵衛を呼び、氏家の領分へ武田の別の者が勝手に兵を入れぬよう、諸隊へ知らせさせた。大垣の守りについては直元の指図を通し、西で軍を合わせるときは良通と話を揃える。
新たな城が従うたび、義信の手元で全てを決め直していては、遠く離れた軍は動けなかった。
その日のうちに返書が整い、直元の城と領地を認める義信の文が、西へ運ばれていった。
◇
大垣の返答を聞いた信長は、氏家の使いを捕らえなかった。
誰に従うと決めたかを確かめると、城へ戻ることを許した。武田から届いた新たな帰属の知らせも読み、川辺の陣へ取り違えなく伝えさせる。
そのうえで、長秀へ向き直った。
「大垣へは兵を向けぬ。義信殿との約束は守る。だが、あの城を避けて通れる道は、今のうちに増やしておく」
「渡し場へ入れる兵を増やしますか」
「兵と、舟を扱う者だ。氏家が武田へ付いたからと、こちらの荷まで止まると思わせるな」
信長は、取った渡し場へ続く道を歩いた。
岸では人足が荷を下ろし、織田の兵が新たな柵を組んでいる。大垣を得られなかった日のうちにも、別の足場は形になり始めていた。
◇
大垣城で義信の返書が読み上げられた朝、直元は家臣たちを前に、新しい主の軍令を伝えた。
安藤の兵を迎える門、稲葉へ送る使い、川筋へ回す組。それぞれを決めると、城へ残る者にも役目を与えた。
門の上では、氏家の旗の隣へ武田の旗が上がった。
その下を、稲葉良通の遣わした侍が入ってくる。伴う人数と来る道は、すでに知らせてあった。
直元は門まで歩いて迎えた。
「良通殿には、大垣の南はわしが受け持つと伝えてくれ。西の軍を動かすときは、今までより多くの兵を数えてもらえる」
侍が一礼すると、直元は城内へ招き入れた。
城下へ出す最初の巡回には、氏家の兵と、道を覚えるための稲葉の兵が並んだ。閉じていた門の外へ、二家の槍が同じ向きに進んでいった。
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