第27話 稲葉良通に、西の軍を預ける
長井道利の陣を奪った翌朝、義信は具足を脱いだまま、捕らえた兵の前へ座っていた。
胸には槍で打たれた痕が残り、腕を伸ばすと肩が痛む。だからといって、寝床から下知だけを飛ばしていては、目の前で何が行われているのか分からなかった。
捕らえた者の中には、近在の村から出た兵もいた。所属と名を確かめ、傷の深い者は先に手当てへ回す。武具は集めたが、着物や履物まで剥がせば、寒さで命を落としかねない。
その様子を見ていた侍が、一人進み出た。
「某は、昨日槍を伏せた者どもの組頭にございます。村へ帰すと仰せならば、まず足軽どもからお放しくだされ。某は残り、引き渡された人数を証しします」
「そなた一人を残せば、帰った者が再び槍を取らぬというわけでもあるまい」
義信は男の顔を見た。
「ただし、誰がどの村へ戻るか分からぬまま放すつもりもない。大沢の者に確かめさせる。手伝ってくれるか」
「承りました。名を偽る者がおれば、某が改めます」
半兵衛は、そのやり取りを少し離れた場所で見ていた。
捕らえた兵を皆召し抱えれば、そのまま味方が増えるわけではない。飯を食わせ、見張りを置き、帰らぬ者の家族を敵に回すことにもなる。
義信は、戦が終わった後にも続く面倒を、自分の前へ持ってこさせていた。
そこへ、甚六が使いを連れてきた。
「御館様。稲葉良通殿より、内々のお申し出にございます」
半兵衛が顔を上げた。
使いは携えてきた書状を差し出したが、それだけでは下がらなかった。
「殿は、武田殿のお考えを確かめたいと申しております。安藤殿を守るため、西で兵を合わせることになった折、誰がその軍を率いるのかと」
◇
書状には、国衆同士では決めきれぬことが記されていた。
稲葉良通には稲葉の兵があり、安藤守就には安藤の兵がある。氏家直元も同じだった。それぞれが自分の城を守るだけなら、他家の下知を受けずに済む。
だが、斎藤や織田の軍勢を前に、一つの場所で戦うならば、誰かが全体を率いねばならない。
馬場信房は読み終えると、使いへ目を向けた。
「稲葉殿は、ご自身に任せよと申しておられるのか。それとも、甲斐から来た者の指図では兵を出せぬということか」
「美濃の道も、川も、国衆の持ち場も知らぬ大将を待つ間に、城を失うわけには参らぬと。こちらの将を侮るための言葉ではないと、申し添えるよう命じられております」
信房は不快な顔をしなかった。
「もっともな話ですな。儂とて、来たばかりで西美濃の軍を率いよと言われれば、まず土地を知る者を呼びます」
義信は半兵衛へ尋ねた。
「そなたは、稲葉殿に任せられると見るか。安藤殿のためだけに兵を使い、ご自身の備えまで崩すようなら困る」
「そこは厳しく見定める方です。岳父と親しくても、北方を救うために曽根を空けるようなことはなさいますまい」
「ならば、任せる相手としては頼もしい」
義信は書状を置き、信房と虎昌を順に見た。
「稲葉殿が俺に従うなら、西で兵を合わせる戦の指揮を預ける。ただし、他家の知行まで動かせるわけではない。城を守る人数と出す人数を確かめ、軍を揃えてもらう」
虎昌が頷いた。
「戦場の下知を一つにすることと、家同士を上下につけることは別にございますな。そこを曖昧にしては、安藤殿も従いにくくなりましょう」
「そのとおりだ。勝手に他家の兵を取り上げたり、城番を残らず連れ出したりはさせぬ。だが、敵の前へ出てから、家ごとに違う方を向かれても困る」
半兵衛が、静かに口を開いた。
「稲葉殿は、まだ仕えると決められたわけではありません。条件だけを聞き、しばらく見定めるおつもりかもしれませぬ」
「構わぬ。そなたが取り次ぎ、俺の名で答えを出せ。ただし、安藤殿にも同じことを伝える。知らぬところで、他家へ兵を預けられたと思わせるな」
義信は使いへ向き直った。
「返事を待つだけで城へ籠もれとは言わぬ。稲葉殿が兵を動かすとき、どこを守り、誰と戦うつもりなのか、それも知らせてもらいたい」
◇
北方の西で、安藤の家臣が守る村へ、斎藤方の一隊が入った。
道利の軍が東で退いたと知れても、美濃全ての兵が武田に道を譲ったわけではない。街道や渡しを守る者は残り、主家へ背いた安藤へ圧力をかけていた。
村へ入った兵は、米を出すよう求めた。
城まで攻め寄せなくとも、北方へ入る荷を押さえれば、守就は兵を外へ出さざるを得ない。出てこなければ、領内を守れぬという評判が立つ。
守就は知らせを聞くと、城番を残して兵を出した。
「敵を追って遠くへ出るな。まず村の者を下げ、米を持ち去らせぬよう押さえる。勝ちに逸って、北方への道を取られるなよ」
自ら兵を率いたが、初めから全てをぶつけるつもりはなかった。
敵の後ろに、別の軍がいるかもしれない。少数を見せて安藤勢を釣り出し、城との間へ入る策も考えられる。
村外れで敵を見つけると、守就は槍を揃えさせ、側面を見に人を出した。
その間にも、斎藤方は荷を運び出そうとしていた。
ここで待ちすぎれば、取り返すべきものがなくなる。
守就が前へ出る下知をしようとしたとき、別の道から土煙が上がった。
稲葉の旗だった。
◇
良通は、三百の兵を率いてきた。
半兵衛から使いが戻り、義信の返答と、守就の了承を確かめた直後だった。北方の西で荷が止められているとの報告を聞き、曽根に守りを残したうえで動いたのである。
良通は安藤勢の正面へ割り込まず、まず使いを走らせた。
「村から北方へ戻る道を固めてもらいたい。こちらは、敵が荷を持って退く道へ出る。追うために兵を散らすなと伝えよ」
守就は、使いの言葉を聞いて頷いた。
稲葉が来たと知っただけで、思いのままに兵を合わせてよいわけではない。どちらが何を受け持つか、先に決めなければ味方同士で道を塞ぐ。
「承知したと伝えよ。村へ入れた兵も引き出す。敵が退くなら、我らは北方へ寄せさせぬよう押す」
良通は返事を待ってから、兵を広げた。
斎藤方も、稲葉の旗へ気づいていた。
先頭の侍が前へ出て、声を張る。
「稲葉殿まで、安藤へ加勢なさるおつもりか。主家の御下知を受けて働く者へ槍を向ければ、お咎めは免れませぬぞ!」
「その覚悟で来た。持ち出した米を置き、兵をまとめて退かれよ。安藤の村で、これ以上働くことは許さぬ」
良通は、そこで槍を取った。
斎藤方は、すぐには退かなかった。
安藤勢だけを見ていた備えを変え、稲葉へ向ける槍を揃える。荷を運ぶ者を先に下げ、その後ろを戦う兵で覆おうとした。
良通は、その動きを見て前進を命じた。
敵が二方へ兵を分け終える前に押す。
稲葉の槍が進むと、守就も兵を動かした。良通の兵の前を横切らず、自分が受け持つ側から敵へ迫る。
槍を合わせた時間は長くなかった。
斎藤方は一方を押し返しても、もう一方から来る兵を止めねばならない。荷を守りながらでは、退く速さも落ちる。
やがて、米俵を道の脇へ下ろし始めた。
良通は、それを見ても兵を走らせなかった。
「俵へ手を出すな。敵の槍が届かぬところまで退くのを待て。拾っている者から討たれるぞ」
斎藤勢は荷を捨て、組を保とうとしながら退いていった。
守就も追いすぎず、村へ兵を戻した。
米を奪い返しただけではない。西美濃で、稲葉と安藤の兵が、同じ下知のもとに動いたのだった。
◇
戦の後、守就は良通のもとへ馬を寄せた。
「助けられた。だが、これで斎藤家へは、兵を動かせぬと言い続けられなくなったぞ」
「三百も率いて槍を合わせたのだ。今さら、通りがかって仲裁したとは申せまい」
良通は、村へ戻されていく米俵を見た。
「義信殿には、返事を出す。わしは武田へ従う。曽根と家臣を守る約束を取り、安藤殿と兵を合わせる」
守就は、その言葉を軽く受けなかった。
自分が旗を替えたとき、良通はすぐには従わなかった。主家への義理も、自分の家を預かる責任も、そのまま残っていたはずだ。
「東の勝ちだけで、決めたわけではあるまい。わしへの情けであれば、後に悔いるぞ」
「義信殿は、安藤殿を守るために東で斎藤の兵を引き受けた。しかも、こちらへ来る兵を待てと言うだけでなく、西の戦は西を知る者へ任せると答えた」
良通は守就へ顔を向けた。
「使うつもりがあるから、責めも負わせるのだろう。助けられるだけの味方ではなく、こちらも働けという主ならば、話ができる」
守就は、ゆっくり頷いた。
良通が欲していたのは、耳触りのよい保護の言葉だけではなかった。
家臣と領地を持つ者として、何を引き受け、どこまで自分で決めてよいのか。それを確かめてから、槍を取ったのだ。
◇
良通の使いが武田の陣へ着いたのは、その数日後だった。
差し出された誓いの書付を、義信は半兵衛とともに改めた。
曽根の城と本領、稲葉家の家臣を認める。西で兵を合わせる戦では、取り決めた範囲で良通が軍を率いる。その代わり、他家の城番や知行に手を出さず、出した兵と得た戦果を武田へ知らせる。
義信も、自分が引き受ける約束へ名を記した。
「これで、俺にも西の軍ができたな。甲斐から連れてきた兵だけでは届かぬところを、稲葉殿が受け持ってくれる」
虎昌が、使いの前へ膝を進めた。
「稲葉殿へお伝えくだされ。兵を合わせる折には、こちらからも人数と持ち場を先に知らせる。陣へ着いてから、残らず前へ出せなどと押しつけはいたしませぬ」
信房も頷いた。
「東で引き受けている兵が西へ回りそうなら、早く知らせます。そちらも、敵が引いたからと、行き先を確かめず追わぬよう願いたい」
使いは、二人の言葉を繰り返して確かめた。
義信は半兵衛を見た。
「そなたは、稲葉殿との間で戦の知らせを取りまとめてくれ。俺が西へ求める働きも、ただ急げと伝えるだけでは困る。何をさせたいか、どこに危うさがあるかまで話す」
「承知しました。こちらの勝ちだけを大きく伝えることもいたしません。西が、東の兵を当てにしすぎて動いては困りますので」
義信は笑い、書付を使いへ返した。
「頼もしい話を聞かせておいて、早くも俺たちの腹の内を厳しく見ておるな。よかろう。稲葉殿にも、できぬことまで請け負わぬよう申してくれ」
使いが下がると、義信は陣の外へ出た。
傷のために胸を大きく動かすと、まだ痛む。それでも、目を向ける先は西だった。
東で奪った陣に、北方と曽根が応じる。
兵を走らせても届かなかった場所へ、同じ目的で動く軍が生まれた。義信は立ち止まり、傍らへ来た半兵衛に言った。
「次に道利殿が兵を寄せるときには、東だけを見てはおれぬようにするぞ。稲葉殿の最初の働きを、無駄にはできん」
◇
氏家直元は、稲葉が武田へ従ったとの知らせを、大垣で受け取った。
使いは返答を求めたが、直元はその場で名を書かなかった。
代わりに、安藤と稲葉へ通じる道の様子を確かめさせた。誰の兵が立ち、商人の荷が止まっていないか。自分の領内へ戦が及ぶなら、どこから来るか。
「二人が選んだからと、わしまで同じ日に決めることはない。だが、門を閉じ、何も見ぬまま待つつもりもないぞ」
直元は家臣へ命じた。
「武田の使いを通す。軍勢は別だ。人数も行く先も確かめず、領内へ入れてはならぬ。こちらからも人を出し、義信殿の陣を見てこさせよ」
家臣たちが動き始める。
直元は、机に残った良通の書状を手に取った。
東の異国衆だった武田が、西美濃の城と軍を持ち始めている。
見定める時は、思っていたほど長くは残されていなかった。
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