第26話 義信、二千の陣を割る
於久地の城門が開いたとき、信長は馬を進めず、丹羽長秀を先に入れた。
出迎えた中嶋豊後守は、道の脇へ膝をついた。城兵は武器を収めていたが、その全てが新しい主を歓迎しているわけではない。門の内側には、槍を握り締めたまま動かぬ者もいた。
「信清のもとへ行くという者は、今日のうちに出せ。止め立てするな」
信長が命じると、豊後守は顔を上げた。
「犬山へ兵を戻せば、御敵の守りを厚くすることになりますぞ」
「嫌がる者を城へ残し、夜ごと門を案じるよりよい。お前には、この城と周りの村を守ってもらう」
長秀が城内を改め、門と蔵へ兵を置いていく。
信長は豊後守の本領を認める一方、通行する兵と荷の取り扱いを定めた。武田が川の北で城を得ている間に、こちらは尾張に残る信清の足場を削る。
犬山城を落とすためだけに、全ての兵を同じ場所へ注ぎ込む必要はなかった。
◇
稲葉山城では、斎藤龍興が、戻った使者の報告を聞いていた。
安藤守就が下知を拒んだ。
武田へ従うと明らかにし、北方の城と領内の道を固めているという。
龍興は書状を床へ叩きつけなかった。使者が語る安藤家の様子を聞き終えると、脇に控える長井道利へ向き直った。
「北方へ兵を寄せれば、安藤は城を頼んで耐えよう。こちらが濠を埋めている間に、武田が東で動くことになる」
「はい。稲葉、氏家の両名も、織田への備えを解けぬと申しております。北方を囲むには、まず周りの兵を揃えねばなりませぬ」
龍興は、膝の上で手を握った。
稲葉山を奪った半兵衛に続き、今度は安藤が公然と離れた。腹立たしさはある。だが、その怒りのまま兵を使えば、織田と武田が喜ぶだけだった。
「安藤を討つ前に、鵜沼の武田を押し戻す。道利には東の兵を預ける。城を一息に攻め落とそうとせず、まず義信を鵜沼へ縛れ」
「御館様は、こちらにお残りくだされ。信長が於久地へ入ったとの知らせもございます。西へ備える兵まで連れ出してはなりませぬ」
「承知しておる。命に従い、持ち場を守る者まで疑うつもりはない。働いた者には報いよ。武田へ付かねば領地を守れぬなどと、思わせてはならぬ」
道利は深く頭を下げた。
若い当主の言葉を、実際の戦果へ変えねばならなかった。
◇
半兵衛の名を兵たちへ知らせてから五日後、鵜沼へ新たな軍勢が入った。
先頭を進む馬上の男を見つけ、義信は門まで迎えに出た。
「信房、よく来てくれた。山道で足を傷めた者はおらぬか」
「歩けぬ者は途中へ残し、付き添いをつけております。ここまで連れてきたのは千。まずは飯を食わせ、足を休めさせとうございます」
馬場信房は下馬して一礼した。
後ろには、埃に汚れた具足と、荷を積んだ馬が続いている。八百の兵を三郎兵衛に預けた後、信玄が改めて整えた軍勢だった。
鵜沼を得たとの報告を受け、集めた兵を順に送り出していたのである。
「御隠居様より、兵を増やした分だけ西へ伸びるなとの仰せにございます。守りを交代できるようにしてから、出る兵を決めよと」
義信は頷いた。
城と渡しを守りながら、別の敵を迎える。
信玄は、こちらが城を得たと知った時点で、次に足りなくなるものを見ていた。新着の兵を全て一つの槍先にしては、長く働いてきた者が休めなくなる。
「言いつけどおりにしよう。だが、そなたには着いたばかりで悪いが、敵の話も聞いてもらうぞ」
「道中、斎藤勢が東へ寄せているとは聞きました。城の中で待つべき相手か、外で止めるべき相手か、まず見定めましょう」
信房は、手綱を従者へ渡した。
◇
長井道利の軍勢は二千ほどだった。
鵜沼へ向かう道を進み、伊木山の北西に陣を取った。川辺へ兵を下ろして織田と争うのではなく、武田が美濃の内側へ進む道を塞いでいる。
近在の者から米を買い、兵が勝手に村へ入ることも禁じていた。村を荒らせば、武田に救いを求める者を増やすと分かっているのだ。
半兵衛は甚六たちの報告を揃え、義信と大将衆へ伝えた。
「道利殿は、西へ戻る道を残しておられます。こちらが城から出ねば、陣を固めて鵜沼の外を押さえる。出てくれば、数を頼みに受けるおつもりでしょう」
虎昌が膝を進めた。
「ならば、放っておけば北方との間を、いよいよ通りにくくされる。安藤殿へ兵を寄せる前に、我らを押し込める腹ですな」
「はい。ただ、まだ陣の柵は繋がっておりません。今ならば、こちらにも戦う場所を選ぶ余地がございます」
義信は信房を見た。
新着の兵の一部を鵜沼と渡しへ入れ、大沢の兵とともに守らせる。猿啄には、多治見修理がいる。伊木山の番も残さねばならない。
そうして交代を済ませ、外へ出せるのは千五百ほどだった。
「兵は敵より少ない。だが、今のうちなら陣を固めさせずに済む。信房、正面を受けてもらえるか」
「承ります。ただし、敵の柵を目当てに兵を押しつけては損をします。向こうが出る場所を作り、そこを受けたい」
三郎兵衛が口を開いた。
「儂の兵を、敵の右手へ見せましょう。こちらを放っておけば陣の脇へ回られると思わせれば、道利も兵を出すはずです」
半兵衛は、すぐには頷かなかった。
「三郎兵衛殿の動きは、敵も気にしましょう。しかし、それだけで陣を捨てて追ってはきますまい。正面でも押さねば、敵は必要な兵だけを出して止めます」
義信は笑い、立ち上がった。
「では、正面も本気で押す。俺の旗を馬場の備えに入れよう。どちらも見ておれぬほど働けば、道利殿も忙しくなる」
◇
翌朝、武田勢は伊木山の北へ出た。
信房は先頭を急がせず、兵を道から広い場所へ移した。敵の陣が見えても、すぐ槍を出させない。弓を持つ者の立ち位置を定め、後ろの備えが追いつくのを待っている。
道利はその様子を見て、敵が増えたことを悟った。
鵜沼へ入った当初の兵だけではない。
先に受け取っていた知らせより、備えが厚かった。
「正面を受ける兵を崩すな。赤い具足の者ばかりを見ておると、中央を押し割られるぞ」
道利は右手へ兵を送り、残る者を柵の切れ目へ寄せた。
馬場の備えが進む。
織田勢との戦で疲れを溜めていた者も、交代で休み、折れた槍を持ち替えていた。信房は声を張り、味方の列が細くならぬよう歩調を抑える。
敵の弓が鳴り、武田の先頭が盾を上げた。
義信の脇で、盾を持つ兵が膝をつく。
従者が引き下げる間に、別の兵がその場所へ入った。義信も槍を構え直し、前を見た。
待ち受ける敵の穂先が、朝日に光っていた。
◇
三郎兵衛は、道利の右手へ兵を寄せていた。
先には騎馬を置き、その後ろに徒歩の兵を伴っている。馬だけを柵へ突っ込ませるつもりはない。敵が槍を揃えると、騎馬を止め、まず弓を前へ出した。
斎藤勢も応じた。
互いに矢を射交わし、少しずつ間を詰める。三郎兵衛は、自分を見せるように馬を進めたが、敵の槍が向き直ると、その場で手綱を絞った。
道利の備えは動かなかった。
焦れて飛び込めば、向こうの思う壺である。
正面から鬨が上がった。
馬場の兵が槍を合わせ始めたのだ。
三郎兵衛はそこで下馬し、槍を受け取った。
「騎馬は後ろへ残せ。道が開くまで馬を傷つけるな。槍を持つ者は、儂と来い!」
赤い具足が、歩いて敵へ迫った。
◇
正面では、信房が敵の備えを押していた。
義信はその中央にいた。
突き出された槍を払い、柄を握る手へ穂先を返す。相手が引くと、追いすぎず、左右の味方が進める場所を空けた。
だが、敵もただ押されてはいない。
下がった者の後ろから新しい槍が出てくる。義信が足を止めたところへ、横から鋭い一突きが伸びた。
柄で受けると、手の内まで痺れが走った。
義信は踏み込みたい足を抑え、半歩退いた。その前へ味方の槍が二本入り、相手を止める。
「助かったぞ。今度はこちらが支える。息を整えよ」
義信は味方と肩を並べ直した。
戦場で長く働くには、己の強さだけを頼みにしてはならない。前世の道場でも教えてきた間合いと足運びが、今は隣で戦う兵を守るために要った。
右手の斎藤勢が、わずかに動いた。
三郎兵衛の兵を受けるため、道利が中央から人を回したのである。
信房はそれを見逃さなかった。
「中央の二組、前へ揃えよ! 端まで伸びるな、敵の間へ楔を打ち込め!」
後ろで待っていた兵が、義信の左右へ入った。
同じ人数が、どこまでも横へ広がれば薄くなる。信房は攻める場所を絞り、まだ働ける兵を重ねた。
義信も、そこへ足を進めた。
敵の槍が具足の胸を打ち、身体が揺れる。踏みとどまった義信は、その柄を自分の槍で押し下げ、戻させなかった。
隣の兵が踏み込み、敵を倒す。
空いた場所へ、義信が入った。
左右から穂先が向く前に柄を大きく回し、一方を弾く。もう一方は身を捻って避け、肩で相手を押し退けた。
「ここへ続け! 俺の左右を取れ!」
武田の兵が、声を上げて続いた。
◇
道利は中央の乱れを見て、残していた兵を出した。
義信一人を討とうと群がらせるのではない。押し込まれた場所の両脇を支え、武田の後続を入れさせぬためだった。
だが、右手でも三郎兵衛が押していた。
赤備えを受ける兵を減らせば、そこから脇へ回られる。中央へ人を戻そうとした組頭が、三郎兵衛の槍に足を止められた。
道利は陣の奥を見た。
まだ兵はいる。
それでも、狭い場所へ後ろから押し出せば、退く者と前へ出る者がぶつかる。馬場は、その詰まりかけたところを攻めていた。
「奥の兵を横へ出せ。西へ下がる道を空けよ!」
下知が飛んだ。
その声を聞き、三郎兵衛は後ろの騎馬を呼んだ。
敵の正面はまだ槍を向けている。そこへ走らせるのではなく、歩いて押した兵の外側を回し、退く道の脇へ進ませる。
蹄の音が近づくと、斎藤勢の一部が足を止めた。
西へ退きたい者と、騎馬へ向き直る者とで、隊が分かれる。
義信は目の前の兵へ声を張った。
「槍を伏せよ! 降る者まで討ちはせぬ!」
踏みとどまっていた敵の組が、そこで崩れた。
道利は残る兵をまとめ、西へ退いた。武田も無傷ではなく、どこまでも追う余力はなかった。
信房は追撃の兵を絞り、義信の旗の下へ後続を揃えた。
半兵衛が陣の外から、その動きを確かめていた。敵が戻るならどこから来るか、甚六の者を先へ出し、勝ち声に紛れて備えが緩むのを防いでいる。
◇
昼を過ぎ、斎藤勢の退いた陣へ武田の旗が立った。
義信は兜を脱ごうとして、腕に力が入りにくいことに気づいた。胸へ受けた槍の衝撃も、今になって痛みとなっている。
信房が手を貸した。
「御館様が前へ出られれば、兵は奮います。されど、毎度あそこまで押し込まれては、こちらの寿命が縮みますぞ」
「そなたが後ろを揃えてくれたから、足を進められた。俺一人で抜いた陣ではないよ」
義信は息を整え、周囲を見た。
敵の残した盾を集める者、傷者を運ぶ者、捕らえた兵から武器を受け取る者がいる。三郎兵衛は馬へ乗り直し、逃れた敵が近くで集まり直していないか、自ら見に出ていた。
「この陣を使う。村から勝手に米を取り立てるな。敵が買い集めた分も、誰から買うたか確かめよ。まだ代を受け取っておらぬ者がいたら、俺へ知らせるように」
半兵衛が近づいてきた。
「北方へ、知らせを出します。東へ向けられた斎藤勢は押し返したと。これで道利殿も、兵をまとめ直すまでは安藤殿へ回れません」
「戦った人数も、失った者も伝えてくれ。安藤殿には、東で何が起きているか、正しく知ってもらおう」
義信は立ち上がり、信房へ手を差し出した。
「父上には、そなたの兵が働いたと知らせる。だが、もう少し借りるぞ。ここから先へ進むための陣が、一つ出来た」
信房はその手を取り、立った。
鵜沼から出てきた兵たちが、今度は西へ向けて盾を据えている。
義信はその列へ歩み寄り、自ら一本の槍を拾い上げた。折れていないことを確かめ、手近な兵へ渡す。
「これは、まだ使える。次に出る者へ回してやれ」
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