第25話 安藤守就、旗を替える
鵜沼へ戻った義信を迎えたのは、折れた槍を束ねて運ぶ兵たちだった。
犬山を窺う織田勢が、川辺の番を何度も試したという。虎昌は兵を岸へ集めすぎず、舟を守る者と、敵を迎える者を分けて備えていた。伊木山の三郎兵衛も、敵舟を見つけたからと山を下りるような真似はしていない。
「こちらが東へ動けば、信長殿は南で兵を使う。まこと、休ませてはくれませぬな」
虎昌はそう言ったが、声に疲れよりも張りがあった。
義信は猿啄での戦を伝え、大沢を城へ戻すと、まず兵を休ませた。続けて働ける者にも、休まねば次の戦で足が止まる者にも、同じように槍を持たせ続けるわけにはいかなかった。
その夜、半兵衛が人目を避けてやってきた。
「猿啄が御館様に従ったとなれば、安藤殿も、密かに通じているだけでは済まなくなりましょう」
「斎藤家から見れば、領内の城を二つ奪われたことになる。織田を退けた礼だけを言って、俺を帰すわけにはいかぬな」
義信は膝の上へ手を置いた。
「そなたの岳父には、武田を討てという下知が来るかもしれぬ。竹中の者を迎える支度は、どこまで進んでおる」
「使いは出しております。家の者と、私について来ると決めた者を、幾組かに分けて動かします。大勢を一度に出せば、途中で止められたときに逃げ場がございません」
「必要な銭と、こちらで迎える人数を申せ。家族を残しておけという条件で、そなたを召し抱えたのではない」
半兵衛は一礼したが、すぐには下がらなかった。
「安藤殿が武田へ従うとなれば、北方の領地を守る話が先になります。こちらへ身一つで来られる方ではありません」
義信は頷いた。
名のある武将一人を連れてくれば、その知恵も兵も、全て自由に使えるようになるわけではない。
その者が守ってきた城があり、従ってきた家臣がいる。新たな主に従ったために、それらを失わせては、次に門を叩く者もいなくなる。
「北方は鵜沼の隣ではない。俺が引き受けると言うだけで、すぐ兵が届くようにはならぬ。安藤殿にも、そのことまで話せ」
「承知しております。だからこそ、稲葉殿と氏家殿への働きかけが要ります」
半兵衛は顔を上げた。
「お二方がすぐ武田へ従わずとも、安藤殿を討つ側へ回らねば、守れる道がございます」
◇
それから九日後、北方城では出陣の支度が整っていた。
庭には槍が並び、米俵が運び出されている。厩から引かれた馬が、冷えた朝の空気へ白い息を吐いた。
安藤守就は、その有様を見渡してから、座敷へ戻った。
斎藤龍興の使者が待っていた。
下知は、武田へ従った鵜沼と猿啄の者を討ち、奪われた城を取り戻すことだった。安藤にも兵を出し、主家の陣へ加わるよう求めている。
守就は書状を畳み、使者の前へ戻した。
「兵は出す。されど、武田を討つためには出さぬ」
使者の目が、庭へ向いた。
すでに槍を揃えた家臣がいる。ここまで来て、病や兵不足を言い立てるつもりではないと分かったのだろう。
「伊賀守殿。それでは、御下知に背くと申し上げねばなりませぬ。鵜沼と猿啄が武田へ付いた以上、兵を向けるのは主家として当然のことにございます」
「そのとおりだ。武田が美濃へ兵を入れ、城を従えた。龍興様のお立場ならば、放ってはおけまい」
守就は否定しなかった。
主家が誤っていると言い立てれば、自分の選ぶ道が軽くなるわけではない。
「だが、わしは義信殿と結ぶ。斎藤家へ弓を引く覚悟も、安藤の家を危うくする覚悟も、わしが負う」
使者はしばらく口を閉ざしていた。
やがて声を落とし、言葉を選んだ。
「御一門、御家臣の全てが、お考えに従うとは限りませぬ。今ならば、某から御病気と申し上げ、御返答までの時をお作りすることもできます」
「情けは受け取る。されど、それでそなたに偽りを申させるつもりはない」
守就は脇に控えていた家臣を呼んだ。
「城を出る者を止めるな。斎藤家へ忠義を尽くすという者は、武具と身の回りの物を持って行かせよ。残る者の家族を脅すことも許さぬ」
座敷の空気が動いた。
長く仕えた家臣の一人が、床へ手をついた。
「某は、この城で安藤家に仕えて参りました。されど、斎藤様の御旗へ槍を向けることはできませぬ」
「分かった。これまでの働きに礼を申す。道中、兵に咎められぬよう、わしの書付を持っていけ」
守就は、その者の顔を覚えるように見た。
引き留めたい相手だった。
それでも、己が主を替えると決めた日に、他人が選ぶ忠義だけを踏みにじることはできなかった。
◇
使者を帰す前の晩、守就は二人の男を迎えていた。
稲葉良通と、氏家直元である。
密かな働きかけを重ねてきた末の対面だったが、酒は出なかった。良通は差し出された湯に手をつけず、守就を見据えた。
「安藤殿が武田へ通じた事情は聞いた。だが、我らまで旗を替えると決めたわけではない。半兵衛殿が義信殿を買っているというだけで、家臣どもの命は預けられぬ」
「それでよい。二人を、わしの決断へ縛るために呼んだのではない」
守就は、義信から届いた約束を示した。
安藤の本領と家臣を認め、武田へ従ったために受ける攻撃にも、武田が対処する。軍勢を出す際の取り決めもあった。
直元は読み終えてから、書状を置いた。
「文言は結構だ。だが、鵜沼におる兵を残らず北方へ寄せれば、犬山も伊木山も危うくなる。義信殿は、その算段をどう申しておる」
「すぐに大軍を送れるとは言うておらぬ。城を守るのは、まず安藤の兵だ。武田は東で斎藤の兵を引き受け、こちらへ敵を寄せきらせぬ。そのための働きを、互いに定める」
「助けが来るまで耐えよと、聞こえぬでもないな」
良通の言葉は厳しかった。
守就は頷き、二人から目を逸らさなかった。
「ゆえに、頼みたい。わしを討てという下知が来ても、すぐ兵を動かすのは待ってほしい」
直元が、ようやく湯を取った。
「安藤殿のためだけに兵を止めたとなれば、我らも疑われる。こちらの領内を空けてよい事情でもないがな」
「織田は川の南に兵を残しておる。我らまで北方へ向ければ、誰が西を守るのかと申し立てることはできる」
良通はそう言い、守就の前へ書状を戻した。
「ただし、武田が安藤殿を見捨てるならば、我らは我らで動く。新しい主の約束が役に立つかどうか、こちらも見届けさせてもらうぞ」
守就は二人へ頭を下げた。
味方になるとの約束ではない。
それでも、自分で兵を持ち、自分の領地を守る二人が、主家の下知だけで動かぬと決めた。その間に、北方の備えを固められる。
守就には、それが何より重かった。
◇
北方から使いが鵜沼へ着いたのは、二日後だった。
守就は斎藤家の下知を拒み、武田へ従うと明らかにした。城を去った家臣もいるが、残る者で門と領内の道を固めているという。
義信は使いを立たせたままにせず、飯を出すよう命じた。
その隣で、半兵衛が静かに息を吐いた。
竹中家から来た者たちは、すでに鵜沼へ入り始めている。妻も無事に着き、家臣の家族を受け入れる場所を、大沢の者と相談していた。
「安藤殿は、そなたがここで働けるようになるまで、待ってくれたのだな」
「はい。私の家の者が道中におるうちに旗を替えれば、斎藤方の関で止められる恐れがございました」
半兵衛は使者の持参した書付へ目を落とした。
「岳父が引き受けた危うさは、これからも残ります。北方を守れるかどうかで、稲葉殿と氏家殿のお考えも変わりましょう」
虎昌が腕を組んだ。
「御館様。こちらの備えを解いて、西へ駆けつけるわけには参りませぬ。斎藤が北方へ兵を寄せるなら、東で何を取るかまで考えねばなりませんぞ」
「承知しておる。安藤殿には、独りで主家の大軍を破れとは言わぬ。兵の集まる先を知らせてもらい、こちらも動く」
義信は半兵衛へ向き直った。
「そなたに、その役を任せる。安藤殿との連絡、稲葉殿と氏家殿への働きかけ、斎藤勢の動きの見定めだ。甚六の者を使うときも、今までのように、いちいち俺を間へ挟まずに進めてよい」
半兵衛の目が上がった。
「武田の軍勢を動かす御下知は、どうなさいます」
「俺か、俺が兵を預けた大将を通す。城や知行の約束も、勝手には結ばせぬ。だが、確かめるべき相手へ人を出すたびに、俺の返事を待つ必要はない」
義信は机の端を指で叩いた。
「そなたの知恵を借りると言いながら、その手足を俺が縛っていては働けまい」
虎昌が、ゆっくり頷いた。
「それならば、兵を預かる者も迷いませぬ。半兵衛殿が掴んだ話を、こちらがどのように戦へ使うか、直接相談できます」
「では、まず北方へ返す使いに、こちらが兵を出せる道と、避けねばならぬ場所を確かめさせます。安藤殿だけに任せず、こちらの目でも見て参りましょう」
半兵衛は言い終えると、もう立っていた。
義信はその背を呼び止めた。
「もう一つある。家の者が着き、安藤殿も旗を替えた。そなたが誰に仕えているか、隠し続けるための手間は、ここで終わりにしよう」
◇
翌朝、鵜沼の庭には、各組を率いる者が集められた。
伊木山や渡しの番まで呼び戻したわけではない。持ち場を預かる者へは、それぞれ使いを送っている。
義信の傍らに立った半兵衛を見て、兵たちの間から低い声が起きた。
顔を見たことがある者は多い。
だが、名を知らず、大将たちと内々に話している姿だけを見てきた者もいた。
義信は庭へ下り、皆と同じ土の上に立った。
「竹中半兵衛重治だ。これよりは、皆にも名を知らせる。美濃での軍略を考え、国衆と話をつける役として、俺を助けてもらう」
ざわめきが広がった。
稲葉山城を奪った男の名は、ここにいる兵の耳にも届いている。
その声が収まるのを待ち、義信は続けた。
「伊木山で、旗を持たぬ者たちを率いたのも半兵衛だ。敵の材と荷道を取り、こちらの兵を斜面へ押し上げずに山を得た。あの働きは、皆にも知ってもらいたかった」
庭の後ろで、一人の兵が隣の肩を叩いた。
山の東で、盾を持って待ち続けた者だった。別の場所で何が起きていたのかを、そこで初めて知ったのだろう。
半兵衛が一歩前へ出た。
「私だけで取った山ではありません。東で敵を引きつけた方々、西の道を押さえた方々、案内をしてくださった土地の方々がいたから取れました」
声は大きくなかったが、庭の奥まで届いた。
「これから、皆様に難しい働きを頼むこともございましょう。その折は、何のために動くのか、大将衆とよく相談してお伝えいたします。分からぬまま命を使わせぬよう、私も努めます」
義信は、その言葉が兵へ染みるのを待った。
派手な名乗りでも、勝利を約束する口上でもない。
それでも、庭の空気は変わっていた。
知らぬ男が横から口を出すのと、山を取った知将が次の戦を考えるのとでは、兵の受け止め方も違う。
虎昌が半兵衛の前へ進み、一礼した。
「では、半兵衛殿。まず儂の預かる兵から、働かせ方を相談させてもらおう。若い者ばかりを走らせておると、年寄りの槍が錆びてしまう」
「虎昌殿の槍を使うなら、敵が一番嫌がるところを考えねばなりませんね」
兵たちの間に笑いが広がった。
義信も笑い、半兵衛の肩を軽く叩いた。
「遠慮なく頼め。使わぬ知恵も、振るわぬ槍も、抱えておくだけでは惜しいからな」
◇
同じ頃、犬山の南に置いた陣へも、北方の動きが伝わっていた。
信長は、報告にあった安藤の名を繰り返さなかった。
「鵜沼と猿啄に続いて、西にも足を置いたか。ならば、義信は東の守りばかりを見てはおれぬな」
丹羽長秀が進み出た。
「安藤が動けば、斎藤方も兵を割かざるを得ませぬ。ただし、武田が両方を守り通せば、西美濃で同じように考える者が増えましょう」
「増える前に動く。川の北へばかり兵を渡そうとするのはやめだ。五郎左は、戻した兵を組み直せ」
信長は立ち上がり、陣の外へ出た。
その足は、犬山城とは別の方角へ向いていた。
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