第24話 猿啄城の救援に走れ
伊木山から兵を戻した木下藤吉郎を、信長は犬山の南に置いた陣で迎えた。
報告を最後まで聞き、山上の荷を捨てたと聞いても声を荒らげなかった。ただ、藤吉郎が語る武田勢の動きを、指先で膝を叩きながら確かめている。
「東へ当主を立たせ、西の荷道を取ったか。こちらが山を惜しめば、兵まで失うところであったな」
「西に出た者どもは、追えば討てる小勢に見えました。されど、こちらが退き始めても崩れませぬ。誰ぞ、よく兵に言い含めております」
「その者を探すのは後でよい。次に使う山まで、向こうへ教えてやることはない」
信長は控えていた丹羽長秀を呼んだ。
「五郎左、川上へ回れ。猿啄を押さえれば、鵜沼の東を脅かせる」
長秀は、すぐには立たなかった。
「猿啄は斎藤方の城にございます。武田を牽制するために攻めても、城を取る前に義信が動けば、二方を受けることになります」
「それゆえ、お前に任せる。義信が犬山へ兵を渡せば東を取れ。鵜沼から動けば、その兵を引き受けよ。ここで信清を攻める兵まで、残らず連れてはいくな」
山一つを失ったからといって、その山ばかりを見ていては勝てない。
武田は川の北に、城と渡しを得た。しかし、甲斐から兵を連れてきた当主が、どこへでも兵を出せるわけではなかった。
長秀は一礼し、必要な舟と兵を申し立てた。
◇
伊木山を取って三日目の朝、鵜沼へ駆け込んできた男は、門の内側で膝をついた。
肩に矢傷がある。大沢次郎左衛門が顔を確かめるなり、抱えるようにして立たせた。
「猿啄の者ではないか。修理殿の身に、何が起きた」
「織田勢が川を越え、城の麓へ入りました。多治見修理様は山へ兵を上げておられますが、下の道を取られております」
義信は男を座らせ、傷を押さえる布を持ってこさせた。
「話は座ったままでよい。敵の数と、そなたが抜けてきた方角を聞かせてくれ」
男が見た旗から、大沢は敵将を丹羽長秀と見定めた。兵は八百ほど。城へ取りつくだけでなく、西から来る兵を受ける備えもしているという。
猿啄城は、鵜沼から東へ進んだ先の山城だった。
あそこを織田に取られても、東美濃からの道が全て絶えるわけではない。だが、重い荷を運びやすい道を脅かされれば、遠回りするたびに人も日数も余計に要る。
何より、鵜沼を押さえた武田が隣の城を見殺しにしたという評判が残る。
半兵衛が男へ水を渡し、大沢へ目を向けた。
「多治見殿は、武田へ救いを求めると決められたのでしょうか。使いの方だけのお考えならば、こちらの兵を城へ近づけることから難しくなります」
「修理様の御下知にございます。されど、城を武田へ明け渡すとは申しておりませぬ」
男は苦しそうに息を継いだ。
「斎藤家へも使いを出しました。しかし、返事を待つ間にも、敵は麓を固めております」
義信は腰を上げた。
「城を渡せという話は、今はせぬ。敵を退ける間、こちらの兵と争わぬこと、それだけ確かめてこい」
虎昌が先に立ち、廊下に控えていた者へ声を飛ばした。
「出せる兵を揃えよ。具足を着ける前に飯を食わせる。矢と履物も改めさせい」
義信の決断を待ってから支度を始めたのでは、遅いと分かっている動きだった。
「御館様には五百をお連れくだされ。鵜沼と渡しは儂が守ります。三郎兵衛には伊木山を動くなと伝えましょう」
「頼む。信清殿にも知らせてくれ。南で敵が動いても、俺を呼び戻そうとして城を空けるなとな」
大沢が進み出た。
「猿啄まで、某がご案内いたします。修理殿の家臣にも顔が利きます。こちらが助けに来たと、旗だけで分かってもらうより早うございます」
義信は頷き、傷を押さえている使者へ向き直った。
「そなたはここで手当てを受けよ。走ってきた分は、俺たちが取り返す」
◇
出陣の間際、半兵衛は義信の馬のそばへ寄った。
「丹羽殿は、城攻めだけを考えて兵を並べてはおらぬでしょう。こちらが来ると知れば、麓で受けるはずです」
「城の兵と合わせる前に、俺を止めるつもりだな」
「はい。山城から下りる兵は、平地に並ぶ兵より合流に手間がかかります。御館様が先に攻めかかれば、多治見殿が出てきた頃には、こちらの槍が疲れているやもしれません」
義信は馬上から、門を出ていく兵を見た。
急がせねばならない。だが、急いで着いた兵を、順に敵へぶつけてはならなかった。
「源五郎を先へ出す。城から兵が下りられるか確かめさせ、俺は隊を揃えて敵の前へ立つ」
「それがよろしいかと。私は虎昌殿と、こちらに残ります。犬山と伊木山の知らせを取りまとめ、必要な兵を見誤らぬようにいたします」
義信は手綱を引き、半兵衛へ笑いかけた。
「留守の方が忙しくなりそうだな。帰ったときに、俺の座る場所だけは残しておいてくれ」
「御館様がお戻りになるまで、座って待つ暇はなさそうです」
半兵衛はそう答え、すでに次の使いを呼んでいた。
◇
猿啄城の西に武田の旗が現れたとき、長秀は麓の備えを移し終えていた。
川を背にした狭い場所へ、大勢を詰め込むつもりはない。西から来る敵を受ける兵と、山から下りる敵を抑える兵を分け、その間を使いが走れるように空けている。
武田の先頭は、弓の届く手前で止まった。
後ろから来る槍を待ち、道の脇へ人を広げていく。
「すぐには押してこぬか。若い当主が、自分で先を駆けてくると聞いておったが」
長秀は独り言のように呟き、山側の兵へ下知を送った。
城から下りる者を、奥まで追う必要はない。道の出口を塞ぎ、武田と手を結ばせなければよかった。
一方、義信は槍を受け取りながら、源五郎の戻りを待っていた。
大沢の家臣をつけて北側へ回した源五郎は、敵の押さえていない急な道から城へ人を通している。荷駄には使えなくとも、使者なら登れると、逃れてきた男が教えた道だった。
やがて、山腹の木々の間に白い布が上がった。
源五郎が取り決めた合図である。
「多治見殿は出る。こちらが織田の正面を受けたら、山を下りるぞ」
義信は兵の顔を見渡した。
鵜沼から急いだために、息の上がっている者もいる。水を飲ませ、列の乱れを直し、盾を前へ出す。それからようやく、自分も槍を構えた。
「初めから押し抜こうとするな。まず、あの兵をこちらへ向かせる。隣の槍が届くところで戦え」
織田方から矢が飛び、盾を叩いた。
義信は射手を追わず、前の兵が盾の陰へ収まるのを見届けてから進ませた。
間が詰まると、今度は敵の槍が一斉に出た。
◇
最初の突き合いで、武田の右手が押し戻された。
長秀の備えは固かった。
狭い道を進んできた武田勢が、十分に横へ広がる前を狙っている。義信は中央の兵を無理に押し出さず、後ろに残した一組を右へ回した。
その間にも、目の前の槍が肩をかすめた。
義信は半歩だけ身を開き、敵の柄を自分の槍で外へ滑らせた。穂先を追わず、突き終わって戻る相手の手を狙う。
短い悲鳴とともに槍が落ちた。
そこへ別の兵が踏み込んでくる。義信は柄を引きつけ、石突で脇腹を突いた。折れた身体を押し返し、味方の槍が入る場所を空ける。
道場の稽古と違い、相手は一人ずつ来てくれない。
深く入り込めば、横から刺される。義信は敵を倒すたびに足を止め、左右の味方が追いついているか確かめた。
「御館様、右が持ち直しました!」
「ならば、そのまま揃えよ。首を拾うために腰を落とすな。前に敵が残っておるぞ!」
声を張った直後、山の方で鬨が上がった。
多治見勢が下り始めたのである。
長秀は待っていたように、山側の兵を前へ出した。
道を駆け下りた先頭が止められ、後ろの者まで詰まる。山から出たからといって、その勢いを全て槍へ乗せられるわけではなかった。
義信にも、城方が苦しんでいるのが見えた。
ここで多治見勢が山へ戻れば、武田だけで長秀を押し切らねばならなくなる。
義信は大沢を呼んだ。
「そなたの兵で右を支えよ。俺は中央を押す。山の者が戦っている間に、敵をそちらへ回させぬ」
「御館様まで先へ出られては、こちらが追いつけませぬぞ。二列目を伴ってお進みくだされ」
「承知した。追いつけぬ速さでは行かぬ」
義信は槍を握り直し、前へ出た。
受けた敵の槍を跳ね上げ、その柄へ自分の柄を重ねて押し込む。敵が踏みとどまったところで、味方の槍が横から伸びた。
一人が崩れると、後ろの兵が穴を埋めに来る。
義信はその者へ穂先を向け、踏み込む足を止めさせた。そのわずかな間に、武田の二列目が前へ揃う。
長秀の声が飛び、織田勢が踏みとどまった。
容易には崩れない。
それでも、こちらへ兵を寄せれば、山から来た多治見勢への押さえが薄くなる。山側へ助けを出せば、義信の前が開く。
長秀は自ら兵の間へ入り、退く順を定めた。
両方の敵と、いつまでも槍を合わせることはできなかった。
◇
織田勢が東へ退き始めると、義信はようやく大きく息を吐いた。
だが、全ての兵が同じように下がれたわけではなかった。
山側で多治見勢を受けていた一隊は、退く下知を聞いても、すぐに背を向けられない。武田の兵がそこへ寄せ、両側から槍を突きつけた。
「武器を置け! 降る者は討たぬ!」
義信は声を重ねた。
敵の組頭らしい男が、味方の退く先を見てから槍を伏せた。それに続き、何人もの兵が武器を離す。
長秀は戻ろうとする家臣を止め、残る兵をまとめて退いた。
義信も、まとまって下がる敵を追わせなかった。今度は、取り囲んだ者を降して武器を集める仕事が残っていた。
猿啄城へ続く道に、多治見の旗が立つ。
その下で、具足に血を浴びた侍が兜を脱いだ。多治見修理だった。
「武田殿の御加勢、確かに見届け申した。某も出る刻を誤れば、麓で兵を失うところでございました」
義信は槍を従者へ渡した。
「互いに間に合った。そなたが下りてこなければ、こちらも押しきれなんだぞ」
修理の顔に、疲れた笑みが浮かんだ。
足元には折れた槍が落ち、傷を負った兵が仲間の肩を借りて歩いている。義信は話を続ける前に、道を空けて負傷者を運ばせた。
武田の兵にも、立ち上がらぬ者がいた。
義信はその傍らへ膝をつき、顔を確かめる。名を知る兵が進み出ると、出身の村と、家に残る者を書き留めるよう命じた。
城を一つ救った。そのために失った命まで、勝鬨の中へ消すわけにはいかなかった。
◇
猿啄城の門前で、修理は義信を迎え直した。
家臣たちを並べ、その前へ進み出る。
「救いを請うた折には、城を渡す約束まではいたしませなんだ。されど、このまま武田殿の兵だけを帰せば、敵はまた参りましょう。次も助けよとだけ申すのは、虫がよすぎます」
義信は黙って続きを待った。
「某は武田殿に従いたく存じます。ただし、城も領地も、父祖より仕える者も失っては、ここで戦った意味がございませぬ」
「そなたに城を守ってもらう。知行と家臣は取り上げぬ。その代わり、織田を迎えるときは鵜沼と兵を合わせ、こちらの荷が通る道を守れ」
「斎藤家から、背いたと責められることにもなりましょう。その折も、お見捨てにはなりませぬな」
「織田に対してだけ守るなどとは言わぬ。俺の下知で働く者を、相手の旗を見て見捨てはせぬよ」
修理は深く頭を下げた。
義信は大沢を証人とし、取り決めをその場で書かせた。細かな境目や負担は家臣同士で確かめる。それでも、誰が城を預かり、誰の下知で兵を出すのかは、曖昧にしなかった。
やがて門が開き、武田の負傷者が運び込まれた。
城に入った義信は、まず上から東の道を眺めた。
鵜沼だけでは、背後を案じながら戦わねばならなかった。猿啄が加われば、守りを互いに補い、東美濃から来る人と荷を迎えやすくなる。
源五郎が傍らに立った。
「鵜沼へ知らせに参ります。こちらの兵は、全て城へ入れますか」
「休ませる者を残し、動ける兵は俺と戻る。信長殿は、東で俺たちが勝ったと聞いてから動くような相手ではない」
義信は山を下りる道へ目を移した。
その先では、大沢が早くも修理の家臣と話していた。どこまで兵を迎えに出せるか、傷者を運ぶにはどの道がよいか。新たな味方同士で、仕事を決めている。
義信はその姿を見て、満足そうに頷いた。
「源五郎、先に伝えよ。猿啄は味方についた。これからは、この城も武田の守る城だとな」
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