第23話 半兵衛、築きかけの城を取れ
奪った渡しへ最初に戻ってきたのは、兵ではなく、荷を背負った老人だった。
織田勢が岸へ集まった折に逃げ出し、家に残した孫を案じていたという。大沢の家臣に身元を確かめさせると、義信は付き添いを二人つけた。
「兵が戸を壊しておったら、ここへ知らせてくれ。直す手と材は出す」
老人は何度も礼を言ったが、義信はその背を軽く押して送り出した。
川辺では、武田と織田双方の負傷者が、風を避けられる納屋へ運ばれている。救護の者に湯と洗った布を切らさぬよう言い渡したところへ、甚六が戻ってきた。
「御館様。川下で、織田方がまた兵を渡しております」
義信は顔を上げた。
昨日、柴田勝家を南岸へ押し戻したばかりである。
「同じ渡しを取り返すには、こちらが邪魔だろう。別の岸へ上げておるのだな」
「はい。こちらから離れた川下で舟を寄せ、伊木山へ人を入れております。兵だけでなく、斧や鍬を持つ者も見えます」
大沢次郎左衛門が、すぐに西へ目を向けた。
「山へ砦を構えるつもりでしょう。あそこを足場にされれば、川下から兵を継ぎ足されます。鵜沼から奪った渡しまで押さえても、その西へ敵が残りますぞ」
義信は頷いた。
信長は、同じ場所を同じように攻め返してはこない。
平地の陣を押し戻されたなら、今度は山へ取りつく。武田が城と渡しを守っている間に、新たな足場を作るつもりだった。
「虎昌と三郎兵衛を呼んでくれ。休ませたばかりの兵を全部起こすな。まず、今働ける人数を確かめる」
義信はそう命じ、鵜沼へ馬を向けた。
◇
半兵衛は報告を聞くと、大沢へ山道について尋ねた。
「材を上げる道と、人だけなら登れる道は、同じでございましょうか。別にあるなら、双方を知る者に話を聞きたいのです」
「材を上げるには西から回る方が楽です。東は足場が悪く、重い荷には向きませぬ。昔、山仕事をしていた者を呼びましょう」
待つ間に、甚六が調べた範囲を説明した。
織田方は、まだ大勢ではない。斜面の木を伐り、枝を払っているところで、山上へ運び込めた荷も限られている。
ただし、今夜も明日も舟が着けば、事情は変わる。
「御館様、砦が出来るまで待つべきではありません」
半兵衛は、いつになく強く言った。
「川岸を攻めて敵を追えば、山から兵が下りてくる。山へ登れば、川から援軍が入る。両方を同時に相手にする前に、山を取りたい」
虎昌が腕を組んだ。
「だが、敵もそれを承知であろう。登り口へ兵を置かれれば、こちらが多くても一度には使えぬ」
「はい。ですから、正面を力ずくで抜くつもりはありません。私に少人数を預けていただきたいのです」
義信は半兵衛を見た。
これまで、彼の働きは密かな交渉が中心だった。外へ出る下知も義信や虎昌を通し、武田への仕官を知られぬようにしている。
「城を取るために、そなたの素性まで明かす必要はないぞ」
「人前で名乗らねばならぬ働きにはいたしません。甚六殿と、土地を知る者の力をお借りします」
そこへ、大沢の家臣が年配の山仕事の男を連れてきた。
半兵衛は座る場所を勧め、敵のいる山へ登れるかとは尋ねなかった。水を汲む場所、荷を休める平場、木を曳き下ろす道について、順に話を聞いていく。
男の説明が終わると、半兵衛は少し考えた。
「大沢殿、山の東へ兵を進める道はございます。ただ、登り口から旗を上げれば、上からよく見えましょう」
「そのとおりです。攻め上がるなら、敵は待ち構えます」
「ならば、待ち構えてもらいます」
半兵衛は義信へ向き直った。
「御館様には、東の登り口へ兵をお出しいただきたい。登る仕度を見せながら、弓の届く間へは入らずにいてください。私は、敵が材を運んでいる西側へ回ります」
義信は口元を緩めた。
「俺を山の下に立たせて、そなたが先に入るのか。よかろう。だが、上手くいかぬと分かったら、ためらわず引け」
「承知しました。御館様も、私を助けるために斜面を駆け上がるような真似は、お控えくだされ」
「それを言われては、虎昌にも睨まれるな。旗を立てて待つ役を、きちんと務めよう」
◇
伊木山で働いていた木下藤吉郎は、川岸から届いた知らせを聞き、鍬を置いた。
武田の兵が動いている。
鵜沼と渡しの番を厚く残したまま、一隊がこちらへ向かっていた。川下の舟を襲うには遠く、目指す先は山の東と思われる。
「山を見に来たか。ならば、仕事を急がせるより、人を分けねばなるまい」
藤吉郎は、東へ弓と槍を回した。
ここにいるのは、戦う者ばかりではない。材を曳く者や荷を背負う者まで一緒に固めれば、矢が届いただけで働けなくなる。
「荷運びの者は西へ寄せよ。材は、今ある分だけでよい。柵を全部つなごうとせず、東から来る者を止められるところへ先に据えよ」
家臣が指図を伝えていく。
藤吉郎自身は山の東へ出て、木々の間から武田勢を見た。
兵はまだ登ってこない。盾を運び、隊を揃え直している。その中に、ひときわ目につく旗があった。
「当主までお出ましか。こちらが小勢と見て、一息に取るつもりかもしれぬな」
藤吉郎は笑わず、弓を持つ者へ持ち場を細かく定めた。
同時に西へ使いを出す。
荷を下ろした者は、山上へ戻さず岸へ下げる。川から新たな兵が来たら、山道を塞がぬようにまとめて上げる。
城を築く仕事は、敵が来ないことを前提にはできなかった。
◇
半兵衛は、旗を持たぬ三十人とともに山の西へ回っていた。
先頭には甚六と、大沢がつけた案内役がいる。武具を布で包み、道から外れて待つ間は声も立てない。
眼下では、織田方の荷運びが続いていた。
敵は無警戒ではなかった。登り口にも途中にも兵を置き、人の顔と荷を確かめている。商人や人足のふりをしただけで、簡単に紛れ込める様子ではない。
半兵衛は木の陰へ腰を落とした。
「東へ兵を寄せても、西を空けてはくれませんね。上にいる者は、なかなか気が回る」
甚六が、斜面を上がる道を目で追った。
「こちらが見えれば、荷運びを止められます。無理に番を倒しても、山上へ知らせが行きましょう」
「番を倒す必要はありません。荷が下りてくるまで待ちます」
やがて、空になった籠を背負う男たちが、上から下りてきた。
続いて、これから使うはずの材まで、道の脇へ置かれ始める。
東の武田勢を見て、山上の者が作業の手を整理したのだ。
半兵衛はその動きを確かめ、甚六へ囁いた。
「荷運びを下げている。戦う者だけで、東を受けるつもりでしょう。西の道は、退くためにも残しておきたいはずです」
「ならば、ここを塞げば敵は山上へ籠もりますぞ」
「塞いではなりません。岸へ下りる道は空けたまま、上へ戻る者だけを止めます」
半兵衛は兵を分けた。
二十人を甚六とともに道の下手へ置き、自分は残る者と案内役を連れ、荷道から離れた山仕事の踏み跡を登る。
正面を守る者の背を刺すためではない。
敵が東へ向いている間に、西から山上へ届く道を、どこまで押さえられるか。その境目を見つけるためだった。
◇
山の東で、義信は兵を止めていた。
斜面の上から、何度か矢が飛んできた。こちらを誘う射方だったが、盾を並べ直すだけに留める。
隣に控える兵が、焦れたように槍を握り直した。
「御館様、まだ柵が揃っておりませぬ。今なら押せるのではございませぬか」
「上まで登りきる間に、何本射られるか分からぬ。そこで息が切れたところへ槍を出されれば、柵がなくても止まるぞ」
義信は斜面の木々を見た。
前世に兵法を教える機会があると、弟子たちは華々しい奇襲や、一騎で敵を倒す話を好んだ。しかし、主将が動かぬことで味方が働ける刻もある。
今日は、半兵衛がその刻を作っている。
義信は自分の旗を高く掲げさせた。
「こちらに当主がいると、よく見せてやれ。上の者が俺を見ている間に、半兵衛が働ける」
しばらくして、西へ出していた源五郎の使いが着いた。
「川岸へ下りた荷運びの者を、甚六殿が山へ戻さぬよう押さえております。山上へ上がるはずの水も、止めたとのこと!」
義信は使いの肩へ手を置いた。
「よく走った。三郎兵衛へ伝えよ。山の西へ兵を進める。ただし、岸へ退く者を囲むな。山へ援兵を入れる道を取れ」
ここでようやく、義信も兵を動かした。
◇
藤吉郎のもとへ、西の番から知らせが届いた。
荷道の下手に武田の兵が出た。荷運びの者を押さえているが、刃を向けず、山へ戻らぬよう退かせているという。
その直後、山上の西にある平場でも、武田の兵が見つかった。
数は多くない。
しかし、荷を置くために開いた場所を取られれば、下から来る味方と山上の兵が別々に戦うことになる。
藤吉郎は、東に並ぶ武田の旗を見た。
まだ登ってこない。
「こっちが斜面を下りるのを待っておるな。西の小勢を叩けば、その間に東から上げる腹か」
藤吉郎は唇を引き結び、すぐに決めた。
「山を下りる。弓を先に戻し、槍は組を崩さず西へ回せ。持てる荷だけ持ち、材は捨てよ」
家臣の一人が息を呑んだ。
「ここを明け渡せば、御下知の砦は築けませぬ。まず西の敵を追い払い、川からの兵を待っては」
「東に当主がおる。西の小勢だけを追うて、あれが見ていると思うな。川から味方が着いても、山へ上がる前に両側から叩かれる」
藤吉郎は、自分で槍を取った。
「城は、もう一度築ける。ここで兵を使い潰せば、その手までなくなるぞ」
退却は早かった。
東にいた兵を少しずつ引き、西へまとめる。半兵衛の小勢へ向けて盾と槍を並べながら、下へ続く道を進んだ。
半兵衛は追い立てなかった。
山上へ通じる平場を押さえ、その先を通る敵には手を出さず、上へ戻ろうとする動きだけを見張った。
藤吉郎はその旗のない一隊を、険しい顔で見た。
武田の兵は、首も荷も欲しがらない。
自分たちを山から出すことだけを、揃って守っていた。
◇
義信が西側へ着いたとき、織田勢の後尾は、まだ山道を下りているところだった。
源五郎が進み出る。
「退き口を守っているのは、木下藤吉郎と呼ばれる者だそうです。下ろされた荷運びの者が、そう申しておりました」
義信は足を止めた。
木下藤吉郎。
その名を知っているからこそ、目の前の働きから目を離せなくなった。
築城を任され、敵の兵が見えた途端に人の使い方を変えた。山へ固執せず、退くべきところで兵を下げている。
まだ大軍を預かる身ではないが、捨て置けぬ相手だった。
義信は前へ出ようとする味方を止めた。
「追わぬ。川から来る舟を見張れ。あの兵が乗り終わる前に、別の兵を上げられては困る」
織田勢の中から、槍を持った小柄な侍がこちらを見た。
義信と目が合う。
男は一瞬だけ口を開きかけたが、何も言わず、後ろへ残った兵を呼び戻した。自分が最後まで岸に留まり、周囲を確かめてから舟へ乗る。
義信も呼び止めなかった。
今、名将を見つけた喜びで声をかけるより、半兵衛が取った山を固める方が先だった。
◇
山上へ上がると、半兵衛は伐り倒した木に腰を下ろしていた。
具足の下まで汗が回り、足袋には土がこびりついている。義信を見ると立とうとしたが、義信が先に隣へ座った。
「そのままでよい。俺を下に立たせておいて、随分と骨を折ったようだな」
「御館様が登ってこられぬと信じておりましたので、こちらも西へ手を伸ばせました」
「大した辛抱だったぞ。後ろから押せるとせがまれ、俺まで上を見上げてしまった」
半兵衛はそこで、ようやく笑った。
「押して取れば、今日は兵を失います。敵にとっては、まだ捨てられる山でした。捨てても兵を連れて帰れる道を、残しておく必要がありました」
「権六を渡したばかりなのに、今度は藤吉郎まで帰したことになるな」
「敵の将は帰りましたが、足場はこちらに残りました」
半兵衛は山の下を指した。
川と犬山城、その間に立つ味方の旗が見える。鵜沼へ通じる道には、三郎兵衛の兵が入り始めていた。
大沢も登ってきて、息を整えながら周囲を見渡した。
「ここへ織田の砦が出来ておれば、鵜沼から西へ出るたびに、山を気にせねばなりませなんだ」
「では、そなたと三郎兵衛で守りを決めてくれ。地元の者へ勝手に人足を命じず、働きと礼を取り決める。材は敵が揃えてくれた分から使おう」
義信は立ち上がり、半兵衛へ手を差し出した。
「この働き、密かにしておくには惜しいが、そなたの事情は守る。褒美まで隠すつもりはないぞ」
「では、竹中の者をこちらへ呼ぶ支度を、お認めいただきたい。私一人が鵜沼にいても、出来ることには限りがございます」
「認める。人数も道も相談して決めよう。家の者を危ないまま残して、俺のために働けとは言わぬ」
半兵衛はその手を取り、立ち上がった。
山の下では、川を戻る織田舟が小さくなっていく。
義信は三郎兵衛を呼び、自分の旗を示した。
「これをここへ立ててくれ。犬山から見えるところがよい。信清殿にも、南へ兵を向けやすくなったと知らせよう」
ほどなく、山上に武田の旗が上がった。
川辺で拾い上げた旗竿を担いできた兵たちが、今度は自分たちの足で山を取ったと声を上げる。その声を聞きながら、義信は伐りかけの材を見渡した。
「昼の飯はここで食うぞ。山を取った者から先に休め。残りの仕事は、腹を満たしてからだ」
──────────────────
YouTubeでショート動画作ってみました
https://youtube.com/shorts/LjVQgpFxZ2E?si=X6VKhxz29nXoLekJ




