第22話 赤備え、渡しを奪え
犬山から届いた書状へ返事をしたためると、義信は使者の前で自ら印を据えた。
信清の所領と家臣団を認め、犬山城は引き続き信清に守らせる。武田のために兵を動かす際には、出せる人数と城の守りを確かめ、糧の負担も定める。
一方で信清も、織田との戦について武田と下知を合わせ、独断で和睦しないことを約す。
「これを持ち帰ってくれ。信清殿の請け書が届けば、取り決めは成る。こちらへ挨拶に来るために、城を空ける必要はない」
使者が深々と頭を下げた。
義信は文を渡すと、すぐ虎昌へ向き直った。
「犬山の兵を借りるにも、まずは向こうが門を開けて動けるようにせねばならぬ。川下の渡しを、いつまでも信長に使わせてはおけんな」
「心得ております。ただ、今の兵で川下まで押し出せば、鵜沼を守る者が足りませぬ」
虎昌の声には疲れが滲んでいた。昨日、柵を守り続けた二百には、傷を負った者もいる。敵を退けたからといって、五百がそのまま五百で働けるわけではない。
義信は頷き、休息のために兵を交代させるよう命じた。
その日の昼過ぎ、東から来た使者が城門を叩いた。
「飯富三郎兵衛様より申し上げます。御隠居様の御下知により、後詰八百を率いて岩村へ着陣。鵜沼までの道中を遠山家と相談のうえ、ただちに進まれるとのこと!」
虎昌が顔を上げた。
使者の差し出した文には、信玄の書状も添えられている。甲府で兵を集め、高遠を経て送り出した日付は、義信が鵜沼へ入るより前だった。
『そなたの兵が一城へ取りつけば、信長はその後ろを狙う。足場を守る兵と、外へ打って出る兵を分けよ。三郎兵衛を、そのために遣わす』
義信は読み終えると、声を上げて笑った。
「遠い甲斐から、まだ俺の肩を押してくれるか」
虎昌も弟の文へ目を通し、静かに息を吐いた。
「三郎兵衛がおれば、兵を休ませながら戦えます。ここは到着を待ち、道中で疲れさせぬよう迎えを出しましょう」
「頼む。到着早々に働かせねばならぬかもしれぬが、歩いてきた足で無理に駆けさせるつもりはない」
義信は使者にも食事と寝所を与えた。
八百が来る。
だが、それを知るのが武田だけとは限らなかった。
◇
犬山の南陣へも、武田の後詰についての知らせが入った。
信長は報告を聞くと、北岸の兵を率いる者を改めて定めた。柴田勝家である。
「権六、兵を率いて川を渡れ。先に入れた者と合わせ、鵜沼へ迫れ。ただし、武田の後詰が来る前に城を抜こうと焦るな」
勝家は膝の上へ両手を置いた。
「敵が増える前に攻め潰すのでなければ、鵜沼の外へ誘い出すお考えと承ります」
「義信は犬山へ荷を渡した。次も同じように渡せると見せねば、信清も大沢も落ち着かぬ。そなたが近くにおれば、兵を川辺へ縛れる」
信長はさらに、渡しを守る兵を残すよう命じた。
勝家の背後には木曽川がある。鵜沼へ近づくほど、戻る道は長くなる。敵の後詰が見えたなら、その人数と疲れ具合を確かめてから戦うべきだった。
「義信が城を出れば、こちらの兵をまとめて当てよ。出てこぬなら、東の道へ圧をかける。米二十俵で喜ばせた分、その先を苦しくしてやれ」
「承知つかまつりました。引くべき折を誤らず、武田を城から離して戦います」
勝家は陣を出た。
信長はその背を見送り、長秀へ告げた。
「川を挟んで下知が遅れる。権六から知らせが来たら、舟を先に回せ。兵を戻す段になってから集めるようでは間に合わぬ」
◇
三郎兵衛が鵜沼へ入ったのは、それから三日後の夕刻だった。
赤く揃えた具足に、道中の埃が白くついている。兵は騒がず、指図に従って宿営へ入り、馬を繋ぐ者、糧を受け取る者、番を立てる者へと分かれた。
義信を前にした三郎兵衛は、深く頭を下げた。
「御館様、遅参つかまつりました。八百、途中で足を傷めた者はおりますが、組を離れねばならぬほどではございませぬ」
「よく来てくれた。まず兵に食わせ、休ませてやってくれ。働きは明朝から頼みたい」
「川下の織田勢については、道中でも聞いております。柴田権六殿が北岸へ入ったとのこと」
その名を聞くと、義信の胸に熱いものが湧いた。
歴史を教えていた頃、何度も口にした名である。勇猛なだけでなく、軍勢をまとめ、苦しい戦でも持ち場を支える男だった。
「相手にとって不足はないな。だが、権六一人と槍を合わせるために、兵を連れてきたわけではない」
三郎兵衛は顔を上げた。
「ならば、御館様のお望みをお聞かせくだされ」
「渡しを取る。北岸へ兵を入れられるかどうかを、こちらで決められるようにしたい」
竹中半兵衛が、その傍らへ進み出た。
織田方へ姿を知られぬよう、半兵衛は城内を中心に働いている。軍議にも人を絞り、外へ出す下知は義信か虎昌を通していた。
「敵は今、川下の渡しと鵜沼の間に兵を置いております。勝家殿が前へ出るたび、糧と矢を運ぶ者が後ろを行き来する。長く居座るつもりなら、まず野陣を固めるでしょう」
「固め終わる前に動くのですな」
三郎兵衛が言うと、半兵衛は頷いた。
「ただし、後詰の到着を敵も知っているはずです。怯えて逃げると思って追えば、整えた槍で迎えられます。我らは敵を追い散らすより、渡しへ通じる道を押さえることを優先したい」
義信は三郎兵衛へ告げた。
「そなたが正面を受け持て。虎昌は鵜沼を守り、大沢殿と舟着きを固める。俺は動ける兵を率い、権六が下がる道へ圧をかける」
「御館様まで前へ出られるなら、旗を見失わぬようにしていただきたい。兵の動きを合わせられねば、こちらも槍を進められませぬ」
「分かった。俺が駆けても、勝手に全軍を追わせるな。三郎兵衛の旗に従えと、兵には言い含める」
三郎兵衛は、その返答を聞いて一礼した。
◇
翌朝、武田勢は鵜沼の西へ出た。
城と舟着きには虎昌と大沢の兵を残し、外へ出る軍勢は千ほど。昨日まで柵を守っていた兵の一部も休息を終え、三郎兵衛の後ろへ続いている。
敵の物見は、早くにこちらを捉えた。
織田勢の陣から鉦が鳴り、鵜沼へ向けていた兵が引き戻される。勝家は陣を畳み始めたが、道へ兵を押し込んではいなかった。先に荷を西へ送り、弓と槍を揃えて武田を待つ。
義信は馬上から、その手際を見た。
「こちらが出るまで、下がる素振りを見せなかったか。後ろを見せれば追われると、よく分かっておる」
隣にいた源五郎が、川沿いを指した。
「荷を運ぶ者が先に退いております。渡しまで、順に陣を移すつもりかと」
「見えている荷に食いつくな。三郎兵衛が槍を合わせるまで、こちらは山側を進む」
道は広くないが、川辺より足元が締まっていた。大沢の案内役を先に立て、義信は騎馬の者と足軽を混ぜた一隊を進めた。
正面では、赤い具足の兵が揃って歩いている。
三郎兵衛は敵の矢が届くところへ来ると、盾を前へ出させた。急がず、列を崩さず、槍の届く間へ近づく。
矢が盾を打ち、兵の肩を掠めた。
それでも鉦の間は変わらない。
義信は道場の稽古で、踏み込みを急ぐ弟子を何度も止めた。だが、これほどの人数の歩調を、敵の矢を受けながら保つことは、武芸の腕だけではできない。
三郎兵衛は兵の息を見ていた。前へ出す組と、後ろで備える組を分け、敵が槍を突き出しても隊の奥まで詰まらせない。
やがて両軍の槍が触れた。
柄のぶつかる音が、川風を裂いた。
◇
勝家は赤備えの正面を受けながら、山側の武田勢にも兵を割いた。
義信が回ろうとする先へ槍衆が進む。数を頼みに追い払おうとせず、道を狭め、こちらの足を止める構えだった。
その奥で、織田の荷が西へ動いている。
「御館様、ここで止められれば、敵は荷も兵も戻せます」
源五郎の言葉に、義信は頷いた。
「ならば、ここを押し開ける。そなたは後ろをまとめろ。先頭だけが抜けても、道を取ったことにはならぬ」
義信は馬を下り、槍を受け取った。
敵の槍衆は、こちらを睨んだまま踏みとどまっている。武田の当主だと知って浮き足立つ者も、首を狙って飛び出す者もいなかった。
義信は先頭へ出た。
「この道を押さえるぞ。俺の左右を空けるな!」
敵の穂先が迫る。
義信は柄で弾き、足を踏み替えて横から突いた。敵兵が退くと、その隣がすぐに槍を出してくる。
深く入れば囲まれる。
義信は一度槍を引き、味方の突き出す間に合わせて踏み込んだ。二本の穂先を避けようと、敵の肩が開く。その胸を突き、引き戻した柄で隣の槍を外へ払った。
後ろから盾が進み、兵が並ぶ。
道幅を少しずつ奪うたび、義信は足を止めて後続を入れた。喉は乾き、柄を握る掌が熱を持つ。若い身体でも、具足を着て槍を振るい続ければ息は上がった。
そこへ、敵の後ろからひときわ太い声が響いた。
「下がる者は西へ寄れ! 道の真ん中で止まるな!」
勝家が来ていた。
自ら先頭へ出ると、兵を二重に並べ直した。義信へ迫る槍には重さがあり、受けた柄から腕へ衝撃が伝わる。
義信は押し返さず、穂先を外して間を詰めた。
だが勝家も退かない。柄を短く使って寄せつけず、隣の兵に突かせる。
義信の脇を、槍が擦った。
近習が盾を寄せ、義信も半歩下がって息を整える。
勝家は追ってこなかった。その間に後列を引き、傷を負った兵を後ろへ渡している。
当主の首より、自軍を戻すことを選んでいた。
「見事だ、権六殿!」
義信が声を張ると、勝家は槍を構えたまま答えた。
「褒める暇がおありなら、兵をお下げなされ。甲斐まで持ち帰る首を、ここへ落とされぬことだ!」
義信は笑い、再び槍を握り直した。
そのとき、正面で赤備えの鉦が変わった。
三郎兵衛が、勝家の動きを見て押し出したのである。
勝家がこちらへ寄せた分、正面の織田勢は薄くなっていた。赤備えはそこへ一息に踏み込み、退く組と踏みとどまる組の間を広げた。
勝家は即座に声を上げた。
「渡しへ戻れ! 荷は捨ててよい、兵を先に通せ!」
義信は源五郎へ腕を振った。
「道を取るぞ。川へ追い落とそうとするな、逃げる者まで塞げば、敵も退けなくなる!」
◇
渡しには、すでに舟が集められていた。
信長の指図が生きていた。敗れてから舟を呼んだのでは間に合わなかっただろうが、荷を下ろした舟が岸へ戻り、順に兵を乗せていく。
勝家は最後の槍衆をまとめ、渡しの手前で武田を受け止めた。
その間に、三郎兵衛が川岸へ張り出す高みを押さえる。弓衆を上げ、渡しそのものではなく、そこから鵜沼へ戻る道を狙わせた。
これで織田勢は、再び前へ出にくくなる。
義信も兵を止めた。
敵はまだ戦える。舟へ殺到して潰れたわけでもない。それを無理に殲滅しようとすれば、こちらも浅からぬ傷を負う。
狙いは、渡しだった。
「三郎兵衛、北岸をこちらのものにする。敵が離れたところから押さえよ。舟を追って水へ入る者は、厳しく止めてくれ」
「承知つかまつりました。まず槍を揃え直します」
勝家が最後の舟へ乗るまで、義信はその場を動かなかった。
舟は流れへ出た。向こう岸へ戻る敵から矢が飛んだが、武田勢は盾を並べ、岸から距離を取っていた。
やがて北岸に残ったのは、放棄された荷と、折れた槍と、傷ついた兵になった。
義信は救護の者を前へ呼んだ。
「敵味方を確かめる前に、血を止めてやれ。歩ける者は武器を置かせ、ここへ集めよ」
その脇で、赤備えの旗が上がった。
◇
夕刻、犬山城へ、北岸の渡しを武田が押さえたという知らせが届いた。
信清はすぐに家臣を呼び、川下を警戒していた兵の一部を城の南へ戻した。
これまでは、いつ織田の兵が川を越え、背後へ回るか分からなかった。鵜沼だけでなく、その川下にも味方の旗が立ったことで、ようやく城の兵をまとめて使える。
「武田へ知らせよ。こちらは南の見張りを押し戻す。深くは出ぬ。北岸で傷ついた者を休ませる間くらい、信長の目はわしが引き受ける」
家臣が走り去ると、信清は手元の請け書を使者へ託した。
「義信殿へ、確かに従うとお伝えせよ。犬山の旗も、明朝から武田と並べる」
同じ頃、北岸では大沢の家臣が渡しの番を引き継いでいた。
義信は三郎兵衛を呼び、敵の残した荷から腰を上げた。
「八百を率いて来てもらった翌日に、こんな働きをさせた。まずは兵を休ませよう」
「西の道へ物見を出しております。今夜は鵜沼から番の兵を回していただければ、順に眠らせられます」
「虎昌が手配してくれている。そなたも休め。明日は、そなたの見た織田勢の強さを聞かせてくれ」
三郎兵衛が頭を下げる。
義信は川向こうを見た。織田の陣には火が灯り、戻った兵を迎える声が聞こえている。
勝家を討ち取れず、敵の大半も渡った。
それでも、こちらが守る柵の前へ来ていた織田勢を、今日は川の向こうへ押し戻した。鵜沼からこの渡しまで、武田の兵が歩ける。
義信は傍らの兵から旗竿を受け取ると、三郎兵衛とともに土へ突き立てた。
赤い旗が冬の風を受け、川へ大きく張り出した。
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