第20話 鵜沼城に武田の旗を
犬山からの書状を読み終えると、義信は使者を座らせ、先に温かい粥を運ばせた。
男の足袋は泥で固まり、指先には血が滲んでいる。源五郎の添え状には、犬山城主・織田信清が協力を正式に求めてきたことと、連絡を保つだけでは、いずれ城を支えきれなくなるという見立てが記されていた。
「よく届けてくれた。帰りを急がず、まず足を治せ。信清殿への返事は、別の者に持たせる」
使者が退出すると、義信は脇に控えていた飯富虎昌へ顔を向けた。
「虎昌、出陣の支度を頼む。大軍は連れぬ。歩き慣れた者を選び、途中で馬を失っても動ける隊にする」
「犬山までお出ましになりますか。川を越えて城へ入れば、御館様まで囲まれる恐れがございます」
「目指すのは、その手前だ。犬山を支える足場を、美濃側に一つ取る」
義信は書状を伏せた。
信清に、もうしばらく耐えよと伝えることはできる。しかし、その間に何をするのか示せなければ、励ましも空約束と変わらない。
「犬山の北岸を固めたい。鵜沼の大沢次郎左衛門に、話を通す」
それまで黙って聞いていた信玄が、火鉢へかざしていた手を引いた。
「大沢は美濃の者じゃ。信清を助けるためだけに、織田と戦えとは言えぬぞ」
「織田が北岸を押さえれば、次は自分の城だと分かっているはずです。だが、斎藤を見限って武田へ従うにも、甲斐は遠い。こちらの兵が本当に来るのか、まず見せねばなりませぬ」
「それで、そなた自身が行くか」
「所領と家臣を守る約束をするのです。当主が出向く値打ちはありましょう」
信玄は虎昌へ目を移した。
「人数を増やしすぎるな。冬の山道で荷が滞れば、戦う前に兵を損なう。四郎には高遠で兵を整えさせよ。甲斐から連れていく人数を抑え、その分を現地で合わせる」
虎昌が頷くと、信玄はさらに言葉を継いだ。
「犬山を救うために、川へ急ぐな。大沢が迷うているなら、信長も同じ場所へ手を伸ばす。先に北岸でぶつかるつもりで行け」
義信の表情が引き締まった。
「では父上、留守と後詰をお頼みします。こちらが進めば、甲斐や信濃の様子を探る者も増えましょう」
「そのために、わしが残る。虎昌、御館を守るだけがそなたの役目ではない。兵が動けなくなる前に止めよ」
「承知しております。諫めて聞かれぬ折には、馬の口を取ってでも」
義信は腰を上げながら笑った。
「そこまで言われては、良い馬を選んでおかねばならんな」
◇
甲府を発ってから十三日を費やし、義信は岩村へ入った。
高遠で合流した兵を含め、軍勢は五百。山道では騎乗の者も馬を下り、凍った坂では荷を分けて運んだ。遅れた荷駄を待つため、予定より一日長く留まった宿もある。
勝頼は高遠に残ったが、送り出す兵の頭へ、出立前に念を押していた。
「兄上の御前で働こうと、足を痛めた者を隠すな。五百を五百のまま戦場へ届けることを、まず手柄とせよ」
その言葉どおり、途中で歩けなくなった二人は宿へ預け、手当てと帰国の手配を済ませてあった。
岩村で待っていた源五郎は、義信の旅姿を見ると深く頭を下げた。
「犬山は、まだ持ちこたえております。ただ、周囲の道に織田兵が出るようになり、信清殿も城外へ兵を割きにくくなっておられます」
「よくつないでくれた。大沢殿への話は進んだか」
「半兵衛殿が、先に鵜沼へ入られました。こちらの軍勢が通る道も、土地の者と話をつけております。ただし、兵の通行を認めた者まで、武田へ従ったと受け取らぬようにとのことです」
「当然だ。道を貸しただけで家臣扱いされては、次から誰も通してくれぬ」
遠山景任は案内の者を出し、道中の宿と荷の継ぎ送りを引き受けていた。義信もそこで兵を休ませ、買い足す糧と運賃の支払いを済ませる。
再び西へ進んだ軍勢が鵜沼に近づいたのは、それから四日後だった。
道端の小堂で迎えた竹中半兵衛は、挨拶を短く切り上げた。
「間に合いました。大沢殿は御館様と会うことを承知されましたが、織田方も待ってはくれません」
半兵衛の指した先から、湿った川風が吹いてくる。
「鵜沼へ従えば所領を安堵するという申し入れが、すでに来ております。大沢殿は返答を延ばしておられますが、今朝、織田の先手が城の西へ姿を見せました」
「降るのを待ちながら、逃げ道を狭めに来たか」
「はい。狙いは城下の舟着きでしょう。そこを押さえれば、大沢殿が犬山と結んでも役に立たず、我らが来ても川へ出られません」
半兵衛は、そこまで言って義信を見た。
「大沢殿には、まだ武田へ従うと決める前に、兵を城下へ置かせることを認めていただきました。まず織田の押し込みを止める。その働きを見てから、お返事をいただく取り決めです」
義信は口元を緩めた。
「俺を試す場まで整えてくれたか。ならば、大沢殿には目を離さず見ていていただこう」
◇
大沢次郎左衛門は、城下の屋敷で義信を迎えた。
挨拶を終えても、男の顔から警戒は消えない。甲斐の当主が兵を率いて来たことは頼もしくもあり、そのまま城を奪われかねない脅威でもある。
「義信殿。先に申し上げますが、我らは城を明け渡すために、お通ししたのではござらぬ」
「承知している。そなたの家臣へ、俺が勝手に命ずることもせぬ。兵を借りるなら、そなたを通す」
「されど武田の兵を置けば、龍興様への申し開きは難しくなります」
「織田へ降っても、同じ難しさはあろう。俺から出せるのは、武田へ従うと決めた後の約束だ。そなたの所領を認め、城は引き続き預ける。家臣を勝手に取り上げず、川の働きに要る人や船の負担も、その都度そなたと定める」
大沢はすぐには答えなかった。
半兵衛が口を挟まずに待つ間、外から槍の石突が地を打つ音が聞こえてきた。武田の兵が、屋敷の前を隊ごとに通っている。
「甲斐へお戻りになった後も、同じようにお守りくださるのでしょうな」
「ここを足場として使う以上、守りの兵と、その兵を食わせる糧は残す。そなた一人を織田の前へ置いて帰るなら、俺が来た意味がない」
大沢の視線が、初めて義信の顔に落ち着いた。
そのとき、表から駆け込んできた家臣が膝をついた。
「殿、舟着きへ織田勢が入っております! 杭を打ち、道へ柵を据え始めました!」
大沢が立ち上がるより早く、義信は虎昌を振り返った。
「兵を休ませる刻はなくなった。歩ける者から出す。遅れている荷は、そのままここへ入れよ」
「御館様、まず我らにお任せくだされ」
「任せるとも。虎昌には全体を見ていてもらう。俺は、先頭が詰まったときに押し開ける」
義信は大沢へ向き直った。
「舟着きへ通じる道を知る者が欲しい。兵を出すかどうかは、そなたが決めてくれ」
大沢は控えていた家臣へ命じた。
「百を出せ。舟を奪われては城も立ちゆかぬ。わしも参る」
◇
舟着きの上には低い土手があり、織田勢はその道を塞ごうとしていた。
三百ほどの兵が、槍を揃え、弓を持つ者を後ろへ置いている。川から上がる坂には荷と人が行き交い、運び込んだ木材を使って、急ぎ柵を作っていた。
正面の道を進めば、武田勢は狭い場所で一度止まる。川辺へ広がれば、湿った足場で隊が乱れる。
敵の侍大将は、こちらの旗を見るなり、作業の兵を槍列へ戻した。城兵だけを相手にするつもりだったのだろうが、驚いて持ち場を捨てるような男ではなかった。
「半兵衛、正面を押さえる兵は、俺と大沢殿で受け持つ」
義信が告げると、半兵衛は土手の東を見た。
「では虎昌殿には、こちらから回っていただきます。城下から舟着きへ薪を運ぶ道があるそうです。弓の届くところまで、敵に背を見せず進めます」
道を知る大沢の家臣が頷いた。
虎昌が二百を率いて離れると、義信は馬を下りた。手綱を預け、槍を受け取る。足で土を踏み、滑り具合を確かめてから、後ろの兵へ声をかけた。
「走り出すな。槍先を揃えて進め。俺が前へ出ても、一人ずつ追う必要はないぞ」
武田勢が道へ姿を現すと、織田方から矢が飛んだ。
盾に二本が刺さり、一人が肩を押さえて膝をつく。後ろの者がすぐに引きずり戻したが、槍列は止まらなかった。
義信は敵の槍先を見ていた。
長い柄が道幅いっぱいに並び、踏み込んでくる者を待ち受けている。突き出された穂先を一本かわしただけでは、その隣から突かれる。
道場で教えていた稽古とは違う。相手の腕を見切っても、後ろの兵が動けなければ意味がなかった。
義信は盾を持つ足軽のすぐ後ろへ身を寄せた。
「あと五歩だ。盾を低くしすぎるな。足元は俺が見る」
槍先が盾の縁を擦った。木が軋み、敵兵の顔が近づく。
そこで義信は横へ半歩ずれ、伸びてきた槍を自分の柄で押し下げた。踏み込むと同時に肩を入れ、盾の横から敵の列へ槍を突き出す。
先頭の男が倒れ、その後ろの兵が埋めようとする。義信は槍を引き戻すより先に柄を立て、迫った刃を受け流した。足を引かずに腰を寄せ、相手の胸元を石突で打つ。
男がよろめいた隙間へ、武田の盾が押し込まれた。
「ここを広げるぞ。左右へ槍を出せ!」
後続がまとまって進む。義信一人が空けた幅を、兵たちが二人、三人の通れる幅へ押し広げていく。
敵の侍大将は退かなかった。後列を前へ寄せ、崩れかけた右手を立て直そうと声を張っている。
その横腹へ、土手の東から矢が降った。
虎昌の隊が回り込んだのである。
弓を向け直そうとした織田兵へ、大沢の城兵が鬨を上げた。土地の者に案内された百が、屋敷の陰から道へ出てくる。
侍大将は周囲を見回し、すぐに退き鉦を打たせた。
「西の道を空けるな! 槍を後ろへ向け、組を崩さず退け!」
命令が早かった。
織田勢は杭も木材も置き、負傷者を抱えながら西へ下がった。義信の横にいた若い兵が追おうとしたが、その肩を義信が掴んだ。
「舟着きを取った。今はそれでよい。あの先まで、こちらの道とは限らん」
虎昌も追撃を止め、舟と坂道の確保を命じていた。
義信は槍を兵へ渡すと、座り込んだ足軽の前へ膝をついた。肩に矢を受けた男が、歯を食いしばって頭を下げようとする。
「動くな。礼は傷が塞がってからでよい」
衣を裂き、出血の具合を見て、手当ての者を呼ぶ。
その傍らで、大沢は川辺を見下ろしていた。
逃げ遅れた船頭たちが、物陰から姿を現す。奪われかけた舟には穴も開いていない。積み残された米俵まで、そのまま残っていた。
◇
夕刻、大沢は城の門前で義信を待っていた。
傍らには主だった家臣が並び、その後ろには城の者たちが集まっている。義信が近づくと、大沢は兜を脱いだ。
「家中で話をいたしました。鵜沼を守るため、武田のお力をお借りしたい。先ほどのお約束をいただけるなら、我らは義信殿に従います」
義信も兜を外した。
「約束は守る。今宵のうちに書付を整え、双方で持とう。だが、そなたの城を守る務めまで、俺が奪うつもりはない。大沢殿には、これからもここにいてもらいたい」
大沢が頭を下げると、並んだ家臣たちも続いた。
門の上へ、武田の旗が運ばれていく。
半兵衛はそれを見届けると、源五郎へ声をかけた。
「甚六殿と、犬山へ知らせる手立てを確かめてください。川向こうから旗が見えても、敵の偽りと思われては困ります」
「承知しました。信清殿の使者と取り決めた方法を使います」
源五郎が駆けていった後、義信は半兵衛の隣へ立った。
「城へ入る前に、働きで答えを出させるとはな。おかげで大沢殿も、家臣を説得しやすくなった」
「御館様が来られるまで、決断を延ばしていただくのが精いっぱいでした。織田方が一日早く舟着きを固めていれば、もっと兵を失ったでしょう」
「ならば、今夜は明日の一日を買うぞ。虎昌と大沢殿で守りを定めてくれ。俺も川辺へ戻る」
舟着きでは、置き去りにされた木材を武田の兵が運び始めていた。
半兵衛が声をかける。
「その材は、向きを変えて使いましょう。織田方には、自分で運んだ柵を越えていただくことになります」
義信は大きく笑い、兵とともに一本の材へ肩を入れた。
冬の川面を渡って、槌の音が犬山へ届いていく。
南岸の城では、信清が物見へ上がっていた。北に現れた旗を疑い、何度も確かめさせているところへ、待ちかねた知らせが運び込まれた。
信清は文を読み、しばらく黙って川向こうを見つめた。
武田義信が来ている。
しかも使者を送るだけでなく、鵜沼に兵を置き、舟着きを奪い返したという。
「城内へ知らせよ。北岸は武田が押さえた。ただし、勝手に門を出る者は許さぬ」
信清は文を握り直し、控える家臣へ告げた。
「こちらも働かねばなるまい。明朝、城の東へ兵を出す。武田が川へ出る間、信長の目をわしに向けさせるぞ」
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