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『武田信玄の嫡男に転生した歴史教師、謀反を成功させて父を家臣にする ~武田義信、最強の父子で天下を取る~』  作者: あちゅ和尚


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第19話 信長の封鎖を破れ

「御館様。織田方が木曽川の渡しを押さえ始めました。このままでは、犬山への連絡が途絶えます」


 遠山景任から届いた書状を読み終えた武田義信は、地図へ視線を落とした。


 甲府の躑躅ヶ崎館には、朝から冷たい風が吹き込んでいた。山々には冬の気配が濃くなり、庭の木々もすっかり葉を落としている。


 義信の隣では、信玄が腕を組んでいた。


「信長め、こちらの動きを見ておるな」


「ええ。犬山城へ通じる道を絞り、信清殿を孤立させるつもりでしょう」


 義信は木曽川に沿って指を動かした。


 信長は小牧山城を本拠として、尾張北部の支配を固めようとしている。犬山城主の織田信清は従兄弟に当たるが、両者はすでに敵対していた。


 先日、武田からの知らせによって犬山城内の内通者が見つかり、信長方の企ては一度失敗している。


 しかし、信長ほどの男が、その程度で諦めるはずもない。


 今度は犬山の周囲に目を配り、美濃側から入る人や物の流れまで探り始めたのである。


「父上。信長は犬山を力攻めするより、周りから弱らせるつもりのようですな」


「それが得策じゃ。犬山の城は堅い。城へ押し寄せて兵を失うくらいなら、周囲の支城を従え、城内の者が耐えられなくなるのを待つ方がよい」


 信玄は地図の於久地と黒田を指した。


「中嶋と和田の動きが肝になる。あの者たちが信長へ従えば、信清は城の外に頼れる者を失うぞ」


「信清殿も、それを承知で俺を頼ってこられたのでしょう」


「だが、義信。犬山を助けたいからといって、甲斐から兵を送り込めばよいというものではない。兵を通す道も、土地の者の承諾も必要じゃ」


「分かっております。遠山の領地を勝手に軍勢が通れば、今度はこちらが信用を失いますからな」


 義信は書状を机へ置いた。


 前世で長年読み込んだ兵法書には、敵の力を分散させる策が幾つも記されていた。


 だが、実際の戦では地図に線を引くだけで兵が動くわけではない。道を押さえる城、荷を運ぶ商人、村々の協力がなければ、軍勢は山一つ越えることすら難しくなる。


 相手が信長なら、なおさらである。


「父上。今すぐ犬山へ援軍を送ることはできませぬ。しかし、信清殿を孤立させない方法はあります」


「聞こう」


「まず、人を通します。大軍や大量の兵糧ではなく、使者が行き来できる道を確保するのです」


 義信は木曽川の北岸を指した。


「信長が押さえようとしているのは、兵や荷が通りやすい渡しでしょう。ならば、小さな船で人を渡せる場所がないか、土地の者に調べてもらいたい」


「川を渡れば尾張じゃ。信長も見張りを置いておろう」


「ええ。だから、見張りの位置と動く刻限を先に調べます。無理に通る必要はありません。使える道を一つでも残せれば、それだけで信清殿の助けになります」


 信玄はしばらく考えた。


「……よかろう。だが、川を渡る者に危険を押しつけるなよ」


「心得ております。忍びの者たちにも、命を捨ててまで知らせを運べとは申しません」


 義信は筆を取った。


 宛先は真田源五郎。


 岩村にいる若い近習へ、遠山家と相談して犬山への連絡路を探るよう命じる書状だった。


 ただし、もう一つ付け加える。


『織田方の警固を破ることを目的とするな。犬山へ知らせを届け、返事を持ち帰ることを第一とせよ』


 義信は書き終えると、父へ見せた。


「父上。これでどうでしょう」


「悪くない。源五郎に任せるなら、あやつ自身が考える余地も残しておけ」


「もちろんです。何もかも俺が決めてしまっては、源五郎の才を使う意味がありませんからな」


 信玄は頷いた。


「それでよい。あやつも、よい主君に仕えれば大きく伸びるだろう」


「父上が育てられた男です。俺も期待しておりますぞ」


 義信は書状を畳み、使者を呼んだ。


     ◇


 岩村城では、真田源五郎が遠山景任から届けられた報告を読んでいた。


 木曽川沿いの主要な渡しでは、織田方の兵が出入りする者を調べているという。


 川の北岸は美濃だが、土地によって従う領主が異なる。斎藤家に従う者もいれば、織田へ心を寄せる者もおり、遠山家だけで自由に通行を保障できるわけではなかった。


「甚六殿。これでは犬山へ文を届けるのも難しくなりますな」


 源五郎が呟くと、商人姿の甚六は頷いた。


「川を渡る道そのものが消えたわけではございませぬ。ただ、織田方の目が厳しくなっております。見慣れぬ旅人が渡れば、何者かと調べられましょう」


「犬山から戻る者についても、同じことでしょう」


「はい。織田方は、信清殿が美濃の国衆と通じることを警戒しているようです」


 源五郎は地図を広げた。


 義信からの書状は、すでに届いている。


 使者を通す道を探り、犬山との連絡を保つ。そのために遠山家の協力を得ることも許されていた。


 しかし、武田の使者だからという理由だけで、見知らぬ土地の者が危険を冒してくれるとは限らない。


「甚六殿。この辺りの渡しをよく知る者に、心当たりはありますか」


「一人おります。木曽川沿いで長く船を扱ってきた男ですが、近頃は織田の兵を恐れて仕事を控えているようです」


「その方に会ってみたい。危ない仕事を頼むつもりはありません。まずは川の様子を教えていただきましょう」


 甚六は頷いた。


 半日ほどして、源五郎の前に一人の男が通された。


 名を弥平という。四十を過ぎた船頭で、木曽川の流れをよく知る男だった。


 日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、掌には長年櫓や竿を扱ってきた胼胝が残っている。


「真田様。わしに川を渡れと仰せなら、お断りいたします」


 弥平は座るなり、そう告げた。


 源五郎は表情を変えなかった。


「まずは話を聞かせていただきたいのです。川を渡っていただくかどうかは、その後に決めましょう」


「……それならば」


 弥平は少し肩の力を抜いた。


「織田の兵が押さえているのは、人や荷の多い渡しです。川沿いにはほかにも小舟を出せるところがありますが、どこでも安全に渡れるわけではございません」


「流れが速い場所もあるのでしょう」


「はい。木曽川は見た目より恐ろしい川にございます。水の下に岩があり、流れが急に変わるところもあります。夜ならなおさらです」


 源五郎は頷いた。


「では、見張りを避けるためだけに夜の川へ船を出すのは、危険が大きいのですね」


「そのとおりです。織田の兵より先に、川に殺されてしまいます」


 甚六が口を開いた。


「弥平殿。川を渡れる場所があるとしても、向こう岸へ着いた後が問題でしょうな」


「ええ。南岸には織田方の見張りが出ることもあります。知らぬ者が歩けば、すぐに目をつけられます」


 源五郎はしばらく考えた。


 船を出せる場所を知るだけでは足りない。


 渡った先で犬山城へ行けるかどうかも確かめなければならなかった。


「弥平殿。今すぐ船を出していただくつもりはありません。まずは川沿いを案内していただけますか。危険な場所と、使えそうな場所を知りたいのです」


「それならば、お引き受けできます」


「案内の礼もお支払いします。武田のためだからと、ただ働きをお願いするつもりはありません」


 弥平は驚いたように顔を上げた。


「……わしのような船頭にも、銭をくださるので?」


「働いていただくのですから、当然でしょう」


 源五郎は穏やかに答えた。


 甚六はそのやり取りを眺め、かすかに微笑んだ。


 義信が甲府で始めた忍び衆の待遇改革は、まだすべてが整ったわけではない。


 それでも、危険な働きをさせるなら相応の褒美を与えるという考えは、すでに家臣たちの間へ広まり始めていた。


     ◇


 翌朝、源五郎たちは木曽川の北岸へ向かった。


 弥平が案内したのは、主要な渡しから離れた場所だった。


 川沿いには木々が生い茂り、岸辺には大小の石が転がっている。水音は絶えず響き、流れの速さは場所によって大きく違っていた。


「この辺りなら小舟を出せますが、向こう岸へ真っ直ぐ進むことはできませぬ。流れに押されますから、少し上流から入る必要があります」


 弥平が説明した。


 源五郎は川の向こうを見た。


 南岸には低い林があり、その奥へ細い道が続いている。犬山城までの距離はまだあるが、大勢の兵を通すのではなく、使者一人を送るなら利用できるかもしれない。


 ただし、川を渡っただけで安全になるわけではなかった。


「甚六殿。向こう岸の見張りについて、何か分かっていますか」


「二人から四人ほどで巡ることがあるようです。ただ、いつも同じ場所にいるわけではございませぬ」


「では、川を渡る場所だけでなく、向こう岸の道も確かめる必要がありますね」


 甚六は頷いた。


 源五郎はしばらく周囲を見渡し、弥平へ向き直った。


「弥平殿。もし船を出していただくとしても、今日はお願いしません。まずはこちらの者に向こう岸の様子を調べさせます」


 弥平は安堵したように息を吐いた。


「ありがたいことでございます。危ないところへ無理に船を出せと言われれば、断るしかありませんでした」


「あなたが川を知っているからこそ、頼りにしているのです。私たちは船の扱いについては素人ですから」


 その言葉に、弥平は初めて笑みを浮かべた。


 ところが、そのときだった。


「源五郎様、少々お待ちくだされ」


 甚六が声を落とした。


 川下の林から、二人の男が姿を現したのである。


 旅人のような格好だったが、足の運びが妙に揃っていた。腰には刀を差し、周囲を確かめるように何度も振り返っている。


 甚六は男たちの姿を見つめ、静かに告げた。


「あの者たち、織田方の見張りと関わりがあるかもしれませぬ」


 源五郎は頷いた。


「こちらはまだ何もしていません。無理に捕らえる必要はないでしょう」


「はい。ただ、あの者たちがどこへ向かうかは確かめたいところです」


 源五郎は弥平へ顔を向けた。


「今日はここまでにしましょう。案内いただき、ありがとうございました」


「もうお帰りになるので?」


「ええ。川のことはよく分かりました。続きは、こちらでも考えてみます」


 弥平は深く頭を下げた。


 源五郎は男たちの方を見ず、来た道を戻り始めた。


 甚六も何事もなかったように後へ続いた。


 しかし、その日の夕刻。


 甚六の配下が、思いがけない知らせを持ち帰った。


「甚六様。先ほどの二人ですが、犬山城へ通じる道を調べていたようです」


「武田の者を探していたのか」


「そこまでは分かりませぬ。ただ、川を渡る者について、南岸の見張りへ知らせを送っているようにございます」


 源五郎は腕を組んだ。


 織田は、すでにこちらの動きを警戒している。


 このまま同じ場所へ船を出せば、見つかる危険が大きかった。


「……なるほど。川を渡ることより、渡った後の方が難しそうですね」


 源五郎が呟くと、甚六は静かに頷いた。


「ならば、少し考え方を変えましょう」


 源五郎は地図を広げた。


「織田方は、武田の使者が犬山へ入るのを防ぎたい。そのために渡しを調べ、道を見張っています」


「はい」


「ですが、私たちが必ずしも犬山まで入る必要はないのではありませんか」


 甚六が顔を上げた。


「と申されますと」


「信清殿の側から、こちらへ出てきていただくことも考えられます」


 源五郎は地図の木曽川北岸を指した。


「犬山城から少人数で動ける者がいるなら、城の外で落ち合うこともできるでしょう。こちらがわざわざ敵の見張りを抜けて城へ入るより、安全な場所を選べるかもしれません」


 甚六は少し考えた。


「ただし、犬山から出る者も織田方に見つかる危険がございます」


「もちろんです。ですから、まず信清殿へそのような方法を望まれるか確かめたい。無理なら別の道を探します」


 源五郎は筆を取った。


 犬山城へ届ける文を作るためだった。


     ◇


「真田源五郎は、なかなかよい判断をしたな」


 数日後、甲府へ届いた報告を読み終えた義信は、満足そうに頷いた。


 信玄も書状へ目を通した。


「うむ。無理に川を渡らず、まず相手の動きを確かめたのはよい。川を知らぬ者が急いで船を出せば、それだけで危険だからな」


「源五郎は、俺が思っていた以上に慎重です」


「それがあやつの長所じゃ。そなたにも少し分けてやりたいくらいよ」


 義信は思わず笑った。


「父上、俺も十分に慎重なつもりですが」


「自分でそう申す者ほど信用ならん」


 信玄は書状を畳んだ。


「それより義信。犬山の信清を助けるつもりなら、今のうちに腹を決めておけ。信長が本格的に兵を出せば、我らもどこまで関わるか決めねばならぬぞ」


 義信は頷いた。


「承知しております。信清殿を助けることは、美濃攻略にもつながります。ですが、犬山だけに兵を割いて、肝心の美濃へ進めなくなるのは困ります」


「ならば、何を優先する」


「まずは東美濃の遠山家との関係を固めます。そのうえで、半兵衛と安藤守就殿を通じて西美濃の動きを探る。犬山については、信清殿自身がどこまで守れるか見極めたい」


 義信は地図を広げた。


「信長が犬山へ兵を向けるなら、その間に美濃で動ける者も増えるでしょう。反対に美濃へ兵を進めるなら、犬山への圧力が緩むかもしれません」


「信長が両方へ兵を出したらどうする」


「それだけ兵を持っているなら、こちらも考え直さねばなりません。ただ、尾張をまとめきる前に二つの戦を抱えるのは、信長にとっても楽ではないでしょう」


 信玄は静かに頷いた。


 義信は続けた。


「父上。俺は信長を侮っておりません。むしろ、あの男がどのような手を打つのか楽しみなのです」


「楽しむのは勝手じゃが、負ければ甲斐の者が困るぞ」


「そこは心得ております」


 義信は真面目な顔で答えた。


「だからこそ、勝つための手を一つずつ打ちます。信長が思うように動けぬ状況を作ってから、こちらの軍を進めたいのです」


 信玄は息子を見つめた。


 若い当主は、相変わらず大きなことを考えている。


 しかし近頃は、その考えを実行するために何が必要か、以前より丁寧に見極めるようになっていた。


「よかろう。美濃へ兵を進めるなら、わしも軍勢の扱いを考えておこう」


「ありがたい!」


「ただし、義信。わしが勝手に兵を動かすことはせぬ。最終的な決定は、当主であるそなたが下せ」


 義信は顔を上げた。


 信玄が自分の立場を明確にしたことを、嬉しく思った。


「承知しております。父上には、これからも遠慮なく意見をいただきたい」


「言われずとも申すわ」


 二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。


     ◇


 岩村へ戻った源五郎のもとへ、犬山城から思いがけない知らせが届いたのは、その三日後だった。


「真田様。犬山の信清殿から、密かに使いが参っております」


 遠山景任の家臣が告げた。


 源五郎は顔を上げた。


「こちらへ来られたのですか」


「はい。木曽川の北岸で、我らと縁のある者を通じて連絡があったとのことにございます」


 源五郎はすぐに甚六を呼んだ。


 使者の身元を確かめ、周囲に不審な者がいないことを確認したうえで、面会の場が設けられた。


 現れたのは、犬山城で信清に仕える老臣だった。


「真田殿。此度は、武田の御厚意に感謝申し上げます」


「こちらこそ、遠路ご苦労さまです。信清殿はお変わりなくお過ごしでしょうか」


「はい。ただし、織田方の動きがいよいよ激しくなっております」


 老臣は書状を差し出した。


 源五郎は慎重に封を開いた。


 そこには、信清が武田との協力を正式に望むこと、必要ならば武田へ従う条件についても話し合う用意があることが記されていた。


 さらに、犬山城の周辺で織田方の動きが強まっているため、連絡の道を一つでも確保したいという希望も添えられている。


「信清殿は、武田と手を結ぶ覚悟を固められたのですね」


 源五郎が尋ねると、老臣は深く頷いた。


「殿は、犬山を守るためにできることはすべてなさるお考えです。武田の力を借りられるなら、それに越したことはございませぬ」


「承知しました。この書状は、必ず甲府へ届けます」


 源五郎は丁重に答えた。


 老臣は安堵したように息を吐いた。


 だが、源五郎は続けた。


「ただし、信清殿へもお伝え願いたい。武田が犬山へ大軍を送るには、まだ準備が必要です。すぐに援軍が来ると思われては、かえって危険になります」


「そのことは、殿も承知しておられます」


「ありがとうございます。ならば、まずは連絡を保つことから始めましょう」


 老臣は深く頭を下げた。


 源五郎は甚六へ目を向けた。


「甚六殿。今回の使者が通ってこられた道を、こちらでも確かめていただけますか」


「承知いたしました。ただし、同じ道を何度も使えば、織田方に察知される恐れがございます」


「ええ。だから、使う道を一つに決めず、必要に応じて変えられるようにしたいのです」


 甚六は満足そうに頷いた。


 源五郎は書状を畳んだ。


 織田方が渡しを警戒し始めたことで、犬山との連絡は難しくなっていた。


 しかし、完全に途絶えたわけではない。


 信清の側からも使者を出し、武田との協力を望んできた。


 それは、今後の美濃と尾張を巡る争いにとって、大きな意味を持つ知らせだった。


     ◇


 小牧山城では、丹羽長秀が信長へ報告していた。


「信長様。犬山から美濃へ向かった者がいたようにございます」


 信長は机へ置いた書状から顔を上げた。


「武田へ使いを出したか」


「その可能性がございます。ただし、確かなことまでは掴めておりませぬ」


「ならば、信清はまだ諦めておらぬわけだな」


 信長は静かに笑った。


 犬山への内通工作が失敗して以来、織田方は城の周囲を警戒し、連絡を断つための手を打っていた。


 しかし、信清はなお抵抗を続けている。


 しかも武田との関係まで深めようとしているらしい。


「長秀。犬山へ通じる渡しを押さえるだけでは足りぬようだな」


「はい。美濃側には、我らの手の届かぬ土地もございますので」


「ならば、犬山そのものへ圧力を強める」


 信長は地図を広げた。


「中嶋と和田への働きかけを続けよ。あの者たちが信清から離れれば、犬山の守りは大きく弱まる」


「承知いたしました」


「それから、城下へ兵を進める用意もしておけ。信清が武田の助けを待つつもりなら、その前に決着をつける」


 長秀は深く頭を下げた。


 信長は地図の犬山城を見つめた。


 甲斐から武田の軍勢が現れるには、まだ時間がかかる。


 その間に犬山を落とせば、美濃攻略へ向かう道も開ける。


「武田義信。そなたが何を考えておるかは知らぬが、わしも手をこまねいて待つつもりはないぞ」


 信長はそう呟き、扇を閉じた。


     ◇


 犬山城では、信清が木曽川の向こうを眺めていた。


 城の周囲では、織田方の動きが以前より激しくなっている。


 支城を守る者たちからも、不安を訴える知らせが届いていた。


 しかし、信清の表情には以前ほどの焦りはなかった。


 武田との連絡が、まだ続いているからだ。


 しかも甲斐の新当主は、できることとできないことを明らかにしたうえで協力を申し出てきている。


 それは信清にとって、かえって信用できる話だった。


「殿。武田から、返事はいただけるでしょうか」


 老臣が尋ねた。


「来るだろう。義信殿は、約束したことを簡単に捨てる男ではなさそうだ」


 信清は川の向こうへ目を向けた。


 尾張と美濃を隔てる木曽川。


 その流れの向こうには、岩村や苗木へ続く土地が広がっている。


 そして、その先には武田家がある。


「信長め。わしが孤立すると思うておるなら、そう簡単にはいかぬぞ」


 信清は静かに呟いた。


 同じ頃、甲府へ向かう使者は、真田源五郎から預かった書状を懐へ収め、山道を進んでいた。


 武田義信のもとへ届けられる、新たな知らせ。


 それは犬山城主・織田信清が、武田との協力を正式に求めるというものだった。


 信長が犬山を孤立させようとする一方、武田は東美濃の国衆と忍びの情報網を使い、細いながらも連絡の道をつなぎ始めていた。


 その道がいつまで保てるかは、まだ分からない。


 だが、織田信長の目論見どおりには進まぬことだけは、確かになりつつあった。




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