第17話 安藤守就、武田へ通じる
「半兵衛。お前は、この安藤家まで武田へ差し出すつもりか」
美濃国本巣郡、北方城。
安藤守就は娘婿から届いた書状を畳み、向かいに座る若武者を見据えた。
秋の終わりを告げる冷たい雨が降っていた。庭の紅葉は半ば葉を落とし、濡れた石畳には赤黒い葉が張りついている。
守就の前には、武田義信が半兵衛へ渡した書付の写しが置かれていた。
武田へ従う国衆の所領を原則として守ること。降伏した者への無用な殺傷を禁じること。従来の家臣団についても、それぞれの働きと事情を確かめて扱うこと。
乱世の大名が掲げる条件としては、随分と寛大な内容だった。
「義父上。私は安藤家を売るつもりなどございませぬ。ただ、武田義信殿というお方を、知っていただきたかったのです」
竹中半兵衛は落ち着いた声で答えた。
「知ったところで何になる。我らは斎藤家に仕える身ぞ。稲葉山城を奪った騒ぎがようやく収まったというのに、今度は甲斐の武田と通じれば、龍興様がどうお考えになると思う」
「よくは思われないでしょう」
「分かっておるなら、なぜ!」
守就の声が座敷に響いた。
半兵衛は表情を変えなかった。
永禄七年、二人は斎藤龍興の居城である稲葉山城を奪った。
半兵衛が少数の手勢で城へ入り、守就も兵を率いて協力した。斎藤家の支配を揺るがす大事件だったが、美濃の国衆がこぞって二人を支持したわけではない。
結局、城は龍興へ返された。
だが、一度主君へ刃を向けた事実まで消えるわけではなかった。
「義父上。城を返してから、我らの立場はよくなりましたか」
半兵衛の問いに、守就は口を閉ざした。
「龍興様の疑いは消えず、我らに近い者まで肩身の狭い思いをしております。稲葉殿も氏家殿も、今はそれぞれの家を守ることに気を配っておられる」
「それは承知しておる」
「このままでは、美濃の国衆は斎藤と織田の間で、どちらにつくかを迫られるでしょう」
半兵衛は書付へ視線を落とした。
「ですが、武田義信殿が美濃へ手を伸ばせば、選べる道が一つ増えます」
「武田が美濃を取れると申すか」
「分かりませぬ。だからこそ、今のうちに話をしておく価値があるのです」
守就は鼻を鳴らした。
「武田は遠いぞ。甲斐から美濃へ来るには、山を幾つも越えねばならぬ。尾張の織田なら、こちらへ兵を進めるのに、それほど時はかからん」
「そのとおりです。義信殿も、その難しさをご存じでした」
「ほう」
「東美濃の城を幾つ取ろうと、西美濃まで兵を進めるには道と人が要る。山道を越えてきた兵を、誰が食わせるのか。城を得た後、誰に治めさせるのか。そうした話にも、きちんと耳を傾けてくださいました」
守就は書付を取り上げた。
「口でなら、誰でも立派なことを申せる」
「はい。ですから、書付にしていただきました」
「……お前も、なかなか抜け目がないな」
守就は苦笑した。
半兵衛は静かに続けた。
「義父上。私は武田へ仕えることを考えております」
守就の表情が変わった。
「本気か」
「はい。ただし、妻と竹中家の者たちを危険へさらすつもりはありません。義父上のお考えも伺ったうえで、決めたいと思っております」
守就は娘婿を見つめた。
まだ二十歳を過ぎたばかりの男である。
だが、稲葉山城を奪ったときも、この男は一度決めたことを容易に曲げなかった。
「半兵衛。武田が本当にお前の言うような家なら、わしにも考えがある」
「お聞かせください」
「義信殿に二つ、確かめてくれ」
守就は指を折った。
「一つ。武田へ心を寄せたことが露見し、斎藤家から攻められた場合、武田は安藤家を見捨てぬか」
「はい」
「もう一つ。美濃を取った後、わしの所領と家臣を守るという約束を、武田の当主だけでなく信玄公にも認めていただきたい」
半兵衛は顔を上げた。
「信玄公にも、でございますか」
「そうじゃ。武田はつい先頃まで父子で争っておった。義信殿が当主になったとはいえ、信玄公の力は大きい。両者の言葉が食い違えば、我らはどちらを信じればよい」
守就は書付を半兵衛へ返した。
「二人の考えが本当に同じなら、その証を見せてほしい。それができぬうちは、わしも家を賭けるわけにはいかん」
半兵衛は深く頭を下げた。
「承知いたしました。義信殿へお伝えいたします」
守就は雨の降る庭へ目を向けた。
「それから、半兵衛。織田からも使いが来ておる」
「……織田から?」
「ああ。信長も、美濃の国衆を放っておくつもりはないらしい」
半兵衛の眼差しが鋭くなった。
美濃を巡る争いは、すでに城攻めだけで決まるものではなくなっていた。
◇
「父上。花押を一つ、お貸しくだされ」
甲府の躑躅ヶ崎館で、武田義信は信玄へ書状を差し出した。
信玄は息子の顔と書状を見比べた。
「……そなた、わしの花押を何だと思っておる」
「天下取りに役立つ、ありがたいものだと思っておりますぞ」
「人の花押を銭のように申すでない!」
義信は腹の底から笑った。
美濃から甚六が持ち帰った報告には、安藤守就の求める条件が記されていた。
娘婿の竹中半兵衛を通じて武田との関係を探りたい。ただし、安藤家の存続と所領の安堵については、確かな保証が欲しいという。
義信にとって、願ってもない申し出だった。
安藤守就は西美濃の有力武将である。
稲葉良通、氏家直元と並び、のちに西美濃三人衆として知られる男だ。
この三人が斎藤家を見限ることは、織田信長による美濃攻略の大きな転機となる。
その未来を知っている義信としては、信長より先に一人でも味方にしたかった。
「父上。安藤守就は竹中半兵衛の岳父であり、西美濃でも有力な武将です。あの男がこちらへ心を寄せれば、美濃へ進む道が大きく開けます」
「分かっておる。わしも安藤の名くらい知っておるわ」
信玄は書状を広げた。
「だが義信。安藤が武田へ通じたことを斎藤に知られれば、北方城は危うくなる。岩村や苗木から援軍を出すにしても、西美濃までは容易に届かぬぞ」
「それも承知しております」
「ならば、安易に救援を約束するな。約束した兵が間に合わず安藤が滅ぼされれば、武田の名を汚すことになる」
義信は真顔になった。
「父上のおっしゃるとおりです。ですから、できぬことは約束しませぬ」
義信は用意していた別の書付を広げた。
そこには、安藤家との取り決めが具体的に記されていた。
安藤守就は当面、斎藤家への奉公を続ける。
武田は守就に直ちに挙兵や寝返りを求めず、安藤家の事情を尊重する。その代わり、守就は可能な範囲で美濃の情勢を知らせ、武田との連絡を保つ。
そして安藤家が武田へ正式に従う際には、所領と家臣団の扱いを改めて定める。
「義信。これでは安藤が得をするばかりではないか」
信玄が尋ねた。
「今はそれでよいのです」
「何じゃと」
「安藤が武田へ心を寄せても、すぐ兵を挙げさせるつもりはありません。こちらが美濃へ進めるだけの態勢を整えるまでは、あの男に斎藤家の中で働いてもらった方が得でしょう」
義信は地図の西美濃を指した。
「稲葉、氏家の両家へ話を通せるのも、安藤です。俺たちが甲府から使者を送るより、よほど自然に話ができます」
「なるほどな」
信玄は地図を眺めた。
「だが、安藤が二股をかけておる可能性もあるぞ。武田へ通じながら、織田とも話をしておるかもしれぬ」
「それも十分あり得ます。俺が安藤の立場でも、すぐには一方へ決めますまい」
義信は笑みを浮かべた。
「だからこそ、安藤が武田を選びたくなるようにするのです。俺たちが先に誠意を見せればよい」
「……また人を口説くつもりか」
「父上を口説き落とした男ですぞ。今さら一人増えたところで、驚くことではありますまい」
「わしは槍で負けたのだ!」
「それも含めて、俺の腕前ということで」
信玄は呆れたように息を吐いた。
それでも、書付を脇へ置くことはなかった。
「義信。安藤に所領を保障するなら、その範囲はよく確かめよ。本人が領しておる土地と、斎藤家から預かっておる土地を混同してはならぬ」
「はい。そこは半兵衛と守就殿に調べていただきます」
「それから、安藤が危うくなった場合の扱いじゃ。兵を出せる態勢を整えておくことと、いつでも救援できることは違うぞ」
「心得ております。遠山の領地を通る道や兵の集結場所を、先に調べさせましょう。守就殿にも、武田からすぐ援軍が来るなどとは思わぬよう、はっきり伝えます」
信玄は頷いた。
「そこまで考えておるなら、わしも名を添えよう」
義信の顔が明るくなった。
「ありがたい!」
「ただし、これはそなたの家督継承を認めたわしが、その取り決めを支持するという証じゃ。何でもわしが後始末をするという意味ではないぞ」
「承知しております。責任は当主である俺が負います」
信玄は筆を取り、義信の花押が据えられた書付の傍らへ、自らの名を記した。
新当主と、前当主。
二人の意思が、一枚の紙の上に並ぶ。
義信はそれを眺め、満足そうに頷いた。
「これで安藤も、武田が一つにまとまっていると分かるでしょう」
「まったく、わしの名まで使って美濃を取ろうとは、随分と欲深い息子よ」
「父上の名は、美濃でもよく知られておりますからな」
「褒めても何も出ぬぞ」
「すでに家督をいただきましたので、十分にございます!」
信玄はとうとう声を上げて笑った。
◇
書状が北方城へ届いたのは、それから十日余り後のことだった。
使いを務めた甚六は、商人の一行に紛れて東美濃へ入り、そこからさらに西へ進んでいた。
北方城では、安藤守就が織田方の使者を迎えたばかりだった。
「織田上総介様は、美濃の国衆の働きを高く買っておられます」
使者は守就の前へ進み、丁重に頭を下げた。
「斎藤龍興殿との間に、難しい事情がおありとも承っております。今後のお立場について、お困りのことがあれば相談に応じたいとの仰せにございます」
守就は相手をじっと見た。
織田信長が美濃を狙っていることは、誰もが知っている。
だが、信長はただ兵を進めるだけではなく、斎藤家の家臣を一人ずつ切り崩そうとしていた。
使者の言葉も、その一環だろう。
「ありがたいお言葉じゃ。されど、わしは今も斎藤家の家臣ぞ。軽々しく返答できる話ではない」
「無論にございます。ただ、上総介様は、決断を先延ばしになされぬお方です」
「……わしにも急げと申すか」
「そのようなつもりはございませぬ」
使者は頭を下げたが、守就には相手の言いたいことが分かった。
織田が美濃を取った後では、今と同じ条件を得られるとは限らない。
早く従えば厚遇されるが、遅れれば扱いが変わる。
そういう話だった。
「上総介殿のお考えは承った。返事については、今少し考えさせていただこう」
守就は使者を丁重に送り出した。
その背中が見えなくなると、奥に控えていた半兵衛が姿を現した。
「義父上。織田も、いよいよ本格的に動き始めましたな」
「ああ。あの男は、こちらが思っておったより早く美濃を取るつもりらしい」
守就は深く息を吐いた。
「半兵衛。お前は武田を推すが、織田の方が近い。兵を出すにも、連絡を取るにもな」
「はい。そこは武田にとって、大きな弱みにございます」
「それでも武田がよいと申すか」
「少なくとも、一度会った限りでは、義信殿に賭ける価値があると思いました」
半兵衛は落ち着いて答えた。
「ですが義父上。私の考えだけで安藤家の行く末を決めるべきではありません。武田が何を約束できるのか、それを確かめてからでも遅くはないでしょう」
そのとき、廊下から家臣の声が聞こえた。
「殿。東美濃より商人が参っております。竹中殿にお渡ししたい品があるとのこと」
半兵衛と守就は顔を見合わせた。
「……来たか」
守就が小さく呟いた。
◇
甚六が差し出した書状を読み終えた守就は、しばらく動かなかった。
武田義信の花押。
そして、その隣には信玄の名がある。
「……本当に、父子で同じ書付に名を据えておる」
守就は紙を持ち直した。
甲斐では父子が争い、息子が父から家督を奪った。
それだけなら、武田家はしばらく混乱するだろうと思っていた。
ところが、今届いた書状では、前当主である信玄が息子の取り決めを認めている。
義信が父を家臣として使っているという噂も、どうやら誇張ではなかったらしい。
「半兵衛。これを見よ」
半兵衛は書状を受け取り、丁寧に読み進めた。
安藤家の事情を考慮し、直ちに斎藤家へ反旗を翻すよう求めないこと。
武田へ正式に従う際には、所領や家臣団の扱いを明確にすること。
武田が軍を進める場合も、安藤家との連絡を取り、無理な出兵を強いることは避けること。
さらに、武田からの救援には地理的な限界があることまで、率直に記されていた。
「……義信殿は、できぬことまで約束するお方ではないようですな」
半兵衛が呟くと、守就は頷いた。
「それがかえって信用できる。『困ればすぐに兵を送る』などと申されても、甲斐から北方まで幾日かかると思っておるのかと聞き返すところだったわ」
守就は書状を机へ置いた。
「それに、わしがすぐ武田へ寝返らずともよいと書いてある。斎藤家中に残りながら、武田との縁を深めよということじゃな」
「はい。義信殿は、今の美濃をすぐに攻めるおつもりではないのでしょう」
「ならば、その間に我らにもできることがある」
守就は半兵衛を見た。
「稲葉、氏家の両家へは、わしから話してみよう。ただし、いきなり武田へ従えとは申さぬ。まずは美濃の行く末について、腹を割って話せるところから始める」
半兵衛の表情が明るくなった。
「義父上……」
「勘違いするなよ、半兵衛。わしはまだ斎藤家の家臣じゃ。龍興様に対する義理もある。いきなり武田の旗を掲げるつもりはないぞ」
「承知しております」
「だが、義信殿がここまで誠意を見せてくださるなら、わしも相応の返事をせねばなるまい」
守就は筆を取った。
書状には、武田との関係を内々に深めることへの同意と、美濃の情勢について情報を伝える用意があることを記した。
さらに、安藤家が関わる道や土地についても、可能な範囲で武田の使者が通れるよう配慮する旨を書き加える。
「半兵衛。お前にも名を添えてもらいたい」
「私も、でございますか」
「ああ。お前が義信殿との縁を結んでくれたのだ。最後まで責任を持って働いてもらうぞ」
半兵衛は深く頷いた。
そして、守就の書状の傍らへ、自らの名を記した。
竹中半兵衛重治。
その筆跡を見つめながら、半兵衛は静かに口を開いた。
「義父上。私も、義信殿へ正式にお仕えしたいと思っております」
守就は顔を上げた。
「……よいのか。竹中の家はどうする」
「家と妻のことは、これまでどおり守ります。義信殿も、それを認めてくださいました。表立って武田に仕える時期は、義父上とも相談して決めたいと思います」
守就はしばらく娘婿を見つめていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「分かった。ならば、わしも止めぬ」
「ありがとうございます」
「ただし半兵衛。武田へ仕えると決めたなら、途中で投げ出すことは許さぬぞ。お前の才を買ってくれた若殿へ、恥ずかしくない働きを見せよ」
半兵衛は深々と頭を下げた。
「心得ております」
守就は甚六へ顔を向けた。
「甚六殿。義信様へお伝え願いたい」
「何なりと」
「安藤守就、武田の御厚意、確かに承った。今はまだ斎藤家の家臣なれど、美濃の行く末をともに考える用意があるとな」
甚六は深く頭を下げた。
「必ずお伝えいたします」
「それから、半兵衛のことも頼む。この男は見かけによらず頑固者じゃ。義信様も、扱いには苦労なさるかもしれぬぞ」
守就が苦笑すると、半兵衛も小さく笑った。
「義父上。その点ならご心配には及びませぬ。義信殿は、私よりよほど頑固なお方にございます」
「……それは大変だな」
甚六まで笑いを堪えきれなかった。
◇
さらに十日ほどが過ぎ、甲府へ戻った甚六は、義信の前に二通の書状を差し出した。
一通は安藤守就から。
もう一通は竹中半兵衛からだった。
義信はまず守就の書状を開き、読み進めるうちに顔をほころばせた。
「父上! 安藤が動きましたぞ!」
傍らにいた信玄が顔を上げた。
「ほう。武田へ降ると申してきたか」
「まだ表立ってではありません。ですが、こちらとの連絡を保ち、美濃の情勢を知らせてくれるそうです。稲葉、氏家の両家へも話をしてみると」
信玄は手を伸ばし、書状を受け取った。
読み終えると、満足そうに頷く。
「安藤め。慎重な男よ。こちらが兵を出せる態勢を整えるまでは、動かぬつもりじゃな」
「それで結構です。今、斎藤へ反旗を翻されても、我らはすぐに助けられませぬから」
義信は二通目の書状を開いた。
そこには、半兵衛が武田義信への仕官を望むこと、ただし竹中家と安藤家の立場を守るため、当面は内々に働きたいと記されていた。
義信は読み終えると、しばらく何も言わなかった。
信玄が訝しげに尋ねる。
「どうした、義信」
義信はゆっくりと顔を上げた。
その口元には、抑えきれない笑みが浮かんでいる。
「父上。半兵衛をいただきました」
「……何じゃと」
「竹中半兵衛重治、正式に俺へ仕えたいと申してきましたぞ!」
信玄は一瞬目を見開き、やがて声を立てて笑った。
「はっはっは! 稲葉山城を奪った若武者を、本当に口説き落としたか!」
「まだ表には出せませんが、それで十分です。美濃の内情を知る軍師が、俺のために働いてくれるのですからな」
義信は書状を大切そうに畳んだ。
前世で歴史を教えていた頃、竹中半兵衛といえば豊臣秀吉を支えた軍師として知られていた。
その男が、今は武田義信へ仕える道を選んだ。
信長よりも先に。
秀吉よりも先に。
しかも半兵衛の岳父である安藤守就まで、武田との密かな協力を受け入れたのである。
「父上。これで美濃を取る道が、一つ開けましたな」
「浮かれるのは早いぞ。安藤が動いたからといって、稲葉や氏家まで従うとは限らぬ。龍興も黙ってはおるまい」
「もちろんです。ですが、何もなかったところから、半兵衛と安藤という大きな縁ができました」
義信は地図を広げた。
東美濃の岩村と苗木。
そして西美濃の北方。
武田との関係を持つ土地が、美濃の東と西に生まれた。
「父上。四郎には高遠から東美濃へ通じる道を、改めて調べてもらいましょう。安藤が動くとき、こちらも兵を進められるようにしておきたい」
「よかろう。だが、兵を動かすには時がかかる。今のうちに遠山とも話を詰めておけ」
「承知しております」
「それから、竹中へは相応の扶持を与えよ。表に名を出せぬとはいえ、正式に仕えるというなら、ただ働きさせるわけにはいかぬぞ」
義信は嬉しそうに頷いた。
「さすが父上。そこは俺も同じ考えです」
「わしが申さずとも分かっておったか」
「もちろんです。半兵衛ほどの男を、安く使おうなどと思っておりませぬ」
義信は筆を取った。
半兵衛には、当面の扶持と美濃での活動に必要な費用を与えることにした。
表向きの仕官を明らかにする時期は、竹中家と安藤家の事情を踏まえて決める。
そのうえで、最初の役目を命じる。
美濃の国衆の動向を調べ、武田が進む際に味方となる者、敵となる者、態度を決めかねている者を見極めること。
そして、斎藤龍興と織田信長がどのように動いているのか、できる限り知らせること。
「源五郎が甲府へ戻ったら、半兵衛からの情報を受ける役も任せよう。あの二人なら、互いの知恵を生かしてよい働きをしてくれるはずです」
信玄は頷いた。
「よかろう。だが義信、忘れるなよ。西美濃の者は、武田より織田の方が近い。安藤が武田へ通じたことを信長に知られれば、向こうも動くぞ」
義信は顔を上げた。
「望むところです」
「ほう」
「父上。俺は信長より先に美濃を取りたい。そして、いずれ信長も家臣にするつもりです」
義信の眼には、強い光が宿っていた。
「ならば、あの男が動く前に、こちらもできることをしておかねばなりませぬ」
信玄は息子を見つめ、やがて低く笑った。
「……よかろう。美濃を取るというなら、わしも力を貸そう」
「ありがとうございます!」
「ただし、わしは簡単な戦には興味がないぞ。信長を相手にするなら、相応の策を見せてもらおう」
義信は豪快に笑った。
「父上、ご安心くだされ。信長も、父上に負けず劣らず手強い男です。退屈する暇などありませんぞ!」
◇
尾張国、小牧山城。
織田信長は、美濃から戻った使者の報告を聞いていた。
「安藤は、まだ返答を決めかねておると申すか」
「はっ。斎藤家への義理があるゆえ、軽々しく決められぬとのことでございました」
信長は膝の上で扇を弄んだ。
稲葉山城を奪った安藤守就と竹中半兵衛。
あの二人が織田へ心を寄せれば、美濃攻略は大きく進む。
だからこそ、信長は早くから目をつけていた。
「安藤の周りで、何か変わったことはなかったか」
「確かなことではございませぬが、東美濃から商人が出入りしているようにございます」
信長の手が止まった。
「東美濃、か」
「はい。岩村や苗木から来た者もいると聞きました」
岩村と苗木。
その名を聞いた信長は、ゆっくりと顔を上げた。
遠山一族は武田信玄とも結びついている。
そして甲斐では、その信玄を嫡男の義信が退け、新しい当主となったばかりだった。
「……武田か」
信長は低く呟いた。
「確かなことは分かりませぬ。ただ、竹中半兵衛の周囲にも、見慣れぬ者が出入りしているとの噂がございます」
信長はしばらく考え込んだ。
武田が美濃へ手を伸ばすとしても、東の山々がある。
大軍を動かすには不便な土地だ。
しかし武田には、信濃と甲斐で長年戦を重ねてきた信玄がいる。
そして、その信玄から家督を奪った若い当主がいる。
「武田義信という男……」
信長は扇を閉じた。
「父を倒し、その父を家臣として使う。噂どおりなら、相当に面白い男よ」
使者は黙って頭を下げた。
信長は立ち上がり、窓の外へ目を向けた。
小牧山城からは、尾張の平野が広がって見える。
その北には美濃がある。
信長が長く欲しがってきた国だった。
「美濃は渡さぬ」
信長は静かに告げた。
「武田が安藤へ手を伸ばすというなら、こちらも急がねばなるまい」
そして使者へ向き直った。
「稲葉、氏家の動きを改めて調べよ。安藤だけを見ていては足りぬ。竹中の所在も、引き続き探らせよ」
「はっ!」
「それから、甲斐の新当主についても調べておけ。父を従わせた男が、どのような家臣を集め、何を狙っておるのか知りたい」
使者が退出すると、信長は地図を広げた。
美濃の東には武田がいる。
西には、織田がいる。
その間で斎藤龍興が国を治め、安藤守就や竹中半兵衛らの国衆が、それぞれの道を選ぼうとしている。
信長は地図の稲葉山城へ指を置いた。
「武田義信。そなたがどれほどの男かは知らぬ。だが、美濃を取るというなら、わしを相手にせねばならんぞ」
その声には、怒りよりも強い興味があった。
同じ頃、甲府では義信が半兵衛から届いた書状を眺めていた。
西美濃に新しい縁ができた。
しかも、その向こうには稲葉良通、氏家直元という有力武将たちがいる。
義信は書状を畳み、声を上げて笑った。
「はっはっは! よいぞ、半兵衛! まずは安藤を動かしたか!」
信玄が呆れたように顔を上げる。
「まだ始まったばかりじゃ。そう浮かれるでない」
「父上、始まったばかりだからこそ面白いのです!」
義信は地図の美濃へ指を置いた。
「美濃を取るのは、信長ではありません。この武田義信ですぞ!」
信玄はしばらく息子を見つめ、やがて笑った。
「……よかろう。ならば、わしも見せてもらおうではないか」
義信は満面の笑みで頷いた。
竹中半兵衛が武田へ仕えることを決め、安藤守就も密かな協力を約束した。
東美濃の遠山一族に加え、西美濃にも武田の手が伸び始めている。
そして織田信長もまた、その動きを見逃してはいなかった。
美濃を巡る争いは、すでに新しい局面へ入っていた。
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