第16話 半兵衛、俺の軍師になれ
「御館様。竹中半兵衛殿が、会う場所を変えたいと申しております」
岩村城へ到着したばかりの武田義信は、真田源五郎から報告を受けると、思わず笑みを浮かべた。
「ほう。俺が来ると知って、怖じ気づいたわけでもあるまいな」
「それはないかと存じます。ただ、美濃から来た者が岩村城へ出入りすれば、斎藤方に疑われる恐れがあるとのことです」
「なるほど。自分だけでなく、迎える側の立場まで考えておるわけか。ますます会いたくなったぞ」
永禄七年の秋も深まり、東美濃の山々は赤く染まり始めていた。
義信は甲府を発ち、伊那谷を南下して山を越え、岩村へ入った。供回りは十二人。大軍を連れてくれば、武田が美濃へ攻め込むという噂を自分から広めるようなものだからだ。
それでも道中には護衛をつけ、真田源五郎から届いた報告をもとに周辺の動きを確かめながら進んできた。
岩村城主の遠山景任は、武田の新当主を丁重に迎えた。
「御館様。遠路、ようこそお越しくださいました」
「景任殿、世話になる。父上の代から遠山には力を貸してもらっておるそうだな」
「恐れ入ります。我らも武田との縁を大切にしております」
景任はそう答えたものの、表情にはいくらか緊張があった。
信玄が築いた東美濃との関係を、新当主の義信がどう扱うのか。遠山家にとって、それは家の行く末に関わる問題である。
義信は勧められた座へ腰を下ろした。
「景任殿。まず約束しておこう。俺は遠山の領地を勝手に奪うつもりはない。父上と交わした取り決めも、正当なものは守る」
「ありがたきお言葉にございます」
「ただし、これから美濃の情勢は大きく変わる。俺もいつまでも甲斐で眺めているつもりはないぞ」
景任が顔を上げた。
「……美濃へ兵を進められるのでしょうか」
「いずれはな。だが、そのために岩村の兵を勝手に連れ出したり、遠山の家を斎藤や織田との争いの矢面に立たせたりするつもりはない」
義信は茶碗を置き、景任の眼を見た。
「俺が美濃を取ると決めたなら、武田自身が相応の兵を動かす。遠山には道や土地の事情を教えてもらいたいが、お前たちの家を使い潰してまで国を広げようとは思わん」
景任はしばらく黙っていた。
新当主は豪快な男だと聞いていた。
父を倒して家督を奪い、その父を家臣にしたという話も、初めは信じられなかったほどである。
しかし目の前の若者は、ただ大言壮語を並べる男ではなさそうだった。
「御館様。一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「何でも聞いてくれ」
「斎藤龍興殿が武田へ降ると申し出た場合は、いかがなさいますか」
義信は少し考えた。
「斎藤の家を残すことは考えよう。ただし、美濃一国をこれまでどおり任せるわけにはいかん。龍興殿には武田の家臣として働いてもらうことになる」
「……御隠居様と同じように、でございますか」
「父上ほど働いていただけるなら、俺も助かるのだがな」
義信が声を立てて笑うと、景任もつられて口元を緩めた。
「もっとも、降る者すべてが俺を信用するとは思っておらん。だからこそ、今のうちから武田がどういう家なのか知ってもらいたいのだ」
義信は源五郎へ顔を向けた。
「源五郎。半兵衛との面会について、景任殿にも話を通してあるな」
「はい。場所についても、すでに相談しております」
「よし。では明日、会いに行こう」
義信は上機嫌で立ち上がった。
「稲葉山城を奪った男だ。どんな顔をしておるのか、楽しみでならんぞ」
◇
半兵衛が指定したのは、岩村から離れた山中の小寺だった。
杉木立に囲まれた寺は小さく、境内には苔むした石灯籠が一つあるだけだった。落ち葉を踏むたび湿った音がして、軒先からは薪を燃やす煙が細く上がっている。
義信は供の武士を寺の外へ残し、源五郎と甚六を伴って中へ入った。
甚六は信玄の代から働いてきた忍びであり、義信が新たに整え始めた情報組織にも加わっている。
周囲の様子を確かめていた甚六が、声を落とした。
「御館様。寺の裏手にも人が控えております。竹中殿のお供かと存じますが、人数は多くありませぬ」
「それでよい。向こうも用心するだろう」
義信は足を止めなかった。
案内された座敷には、若い武士が一人座っていた。
竹中半兵衛重治。
二十一歳。細身で穏やかな顔立ちをしているが、義信が部屋へ入った瞬間、その眼差しがわずかに鋭くなった。
相手の姿勢、歩き方、刀の差し方まで確かめているようだった。
「竹中半兵衛にございます。武田の御屋形様には、遠路お運びいただき恐れ入ります」
「武田義信だ。源五郎から話は聞いておるぞ」
義信は半兵衛の向かいへ腰を下ろした。
「稲葉山城を奪った男とは、もっと恐ろしい顔をしておると思っていたが、随分と物静かではないか」
「見かけで人を判断しては、損をいたしますぞ」
「はっはっは! まったくだ。俺もよく言われる」
半兵衛は微笑んだ。
源五郎が茶を勧めると、二人はしばらく当たり障りのない話を交わした。
しかし義信は、いつまでも世間話を続けるつもりはなかった。
「半兵衛。俺の家臣にならんか」
茶碗を置くなり、そう切り出した。
源五郎が思わず義信を見た。
半兵衛も少し驚いたようだったが、すぐに表情を戻した。
「……随分と早いお申し出にございますな」
「欲しい男を前にして、余計な遠回しをしても仕方あるまい」
「私のどこを、それほどお買いくださるのでしょう」
「稲葉山城を奪った腕だ」
義信は即答した。
「だが、城を奪ったことだけではない。その後、城を手放したことにも興味がある」
半兵衛の眼が動いた。
「……それは、どういう意味でしょう」
「奪うことが目的なら、何としても城を守ろうとしたはずだ。ところがお前はそうしなかった。城を奪っても、そのまま美濃を治められるわけではないと知っておったのだろう」
半兵衛はすぐには答えなかった。
義信は続けた。
「俺はな、城を落とすのが上手い武将も欲しい。だが、それ以上に、落とした城をどうするか考えられる男が欲しいのだ」
「……なるほど」
「半兵衛。お前は稲葉山城を奪うだけの才を持っておる。ならば、今度は美濃一国を取る仕事に、その才を使ってみぬか」
半兵衛は静かに茶碗を置いた。
「御館様。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「武田が美濃を取ったとして、私の義父である安藤守就を、どうお扱いになりますか」
義信は半兵衛を見た。
なるほど、そこを聞くか。
安藤守就は西美濃の有力武将であり、半兵衛の妻の父でもある。稲葉山城を奪った際にも、半兵衛へ力を貸したと伝わる人物だ。
「守就殿が武田へ従うなら、働きに応じて重用する。所領についても、正当なものは守ろう」
「もし従わなければ」
「戦うことになるだろうな。ただし、無理に滅ぼすつもりはない。相手に降る意思があるなら、話し合う道は残す」
「斎藤龍興様についても、同じでございましょうか」
「ああ。あの男も殺さずに済むなら、その方がよい」
義信は笑みを浮かべた。
「俺は人が欲しい。美濃の城を全部手に入れても、そこを治める者がいなければ困るからな」
半兵衛は義信の顔を見つめた。
「御館様は、人を集めることがお好きなのですな」
「好きだぞ。優れた者が増えれば、その分だけ俺の仕事も楽になる」
「それはまた、随分と率直なお考えで」
「一人で天下を取るつもりはないからな。父上にも働いていただいておるし、源五郎にも苦労をかけておる」
源五郎が苦笑した。
「御館様。某はまだ、それほど大きな働きをしておりませぬ」
「半兵衛をここまで連れてきたではないか。十分な働きだ」
半兵衛は二人のやり取りを眺め、少しだけ表情を和らげた。
◇
「では御館様。美濃を取る方法について、お聞かせいただけますか」
半兵衛は懐から一枚の図を取り出した。
美濃の城と街道を記したものだった。
義信が目を落とすと、岩村と苗木から西へ伸びる道、その先にある城々が細かく書き込まれている。
「武田は東美濃に縁がございます。岩村の遠山殿、苗木の遠山殿とも関係を結んでおられる。ですが、その縁だけで美濃を手に入れられるでしょうか」
「難しいだろうな」
義信はあっさり答えた。
半兵衛は少し意外そうな顔をした。
「御館様は、兵を率いて東美濃から攻め込まれるおつもりでは?」
「それだけでは足りん。山道を越えて進んでも、城を落とすたびに後ろへ兵を残さねばならん。稲葉山まで進む頃には、肝心の兵が減ってしまうだろう」
「……ご承知でしたか」
「父上にも散々言われたぞ。山の向こうを欲しがるなら、まず通る道を考えろとな」
義信は図を指でなぞった。
「それに織田信長がいる。あの男が尾張から美濃を狙っておる以上、斎藤だけを相手にすればよいわけではない」
半兵衛は静かに頷いた。
「そのとおりにございます。斎藤家が弱れば織田が進み、織田が進めば西美濃の国衆も動きます。武田が兵を進める頃には、美濃の形が変わっているやもしれませぬ」
「だから、お前が欲しいのだ」
義信は半兵衛の眼を見た。
「美濃の城を奪うだけなら、父上にも勝頼にも頼める。だが、美濃の国衆が何を考え、誰が誰と結び、どうすれば戦わずに済むのか。それを知っておるのは、お前たち美濃の者だ」
「私が武田に仕えれば、美濃の国衆を説き伏せられるとお考えですか」
「全員は無理だろう。だが、耳を貸す者はおるはずだ」
義信は図の西側を指した。
「安藤守就殿だけではない。稲葉、氏家の者たちにも、それぞれ考えがあろう。斎藤家に従い続けるのがよいのか、織田へ走るのか、それとも武田と結ぶのか。選べる道が増えれば、人は考えるものだ」
半兵衛は義信の言葉を聞き、しばらく黙った。
やがて、静かに口を開いた。
「御館様。実は、私が稲葉山城を奪ったとき、最も難しかったのは城を取ることではありませんでした」
「ほう」
「城を取った後、誰が私に従い、誰が従わぬか。その見極めでございます。城を守るために兵を集めても、皆が同じ考えで戦ってくれるわけではない」
「そうだろうな」
「私についてきた者には家があり、妻子があり、守るべき土地があります。私の考えだけで、そのすべてを危険にさらすわけにはまいりませぬ」
半兵衛は図を畳んだ。
「御館様。私は武田へ仕えることを、まだ決めかねております」
源五郎が顔を上げた。
しかし義信は、慌てなかった。
「理由を聞かせてくれ」
「私一人が甲斐へ参ることは、難しくないかもしれませぬ。ですが竹中家には家臣がおり、妻もおります。義父の安藤殿との縁もある。それらを捨ててまで仕えるだけの理由を、まだ見つけられておりません」
「もっともだな」
義信は頷いた。
「俺も、お前に家を捨てて来いとは言わんぞ」
半兵衛は顔を上げた。
「……では、どうなさるおつもりで」
「家ごと来てもらえばよい」
義信はあまりにも自然に言った。
半兵衛は、思わず言葉を失った。
「御館様。それは……」
「竹中家の者も、安藤家の者も、武田に従ってくれるなら歓迎する。無論、相手の意思を無視するつもりはないぞ。まずは話をしてみたい」
義信は笑った。
「ただし、半兵衛。俺はお前の義父殿が今すぐ武田へ従うほど、世の中が簡単だとは思っておらん」
半兵衛の表情が引き締まった。
「安藤守就殿は美濃の有力者だ。斎藤家との関係もあり、家臣や領地を抱えておる。武田へ従えば、織田や斎藤からどう見られるか分からん。だから、まずお前の立場を守ることから始めようではないか」
「私の立場を、でございますか」
「ああ。武田の家臣になったと公にするのは、竹中家と安藤家の事情を確かめてからでよい。それまでは、俺の相談相手として力を貸してくれ」
義信は膝を進めた。
「半兵衛。俺は天下を取りたい。だが、そのためにお前の家を壊したいわけではない。お前の才を使い、竹中の家も安藤の家も、できるだけよい形で残したいのだ」
半兵衛は義信を見つめた。
豪快な若武者だと聞いていた。
父を倒して家督を奪い、織田信長まで家臣にすると言っている。
さぞ強引な男だろうと思っていた。
ところが、目の前の義信は違った。
大きなことを口にしながらも、相手が背負っているものを軽く扱わない。
「御館様。もう一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「もし私が、御館様のお考えに反対したら、どうなさいますか」
義信は思わず笑った。
「理由を聞くに決まっておるだろう」
「私の方が間違っている場合は?」
「それも理由を聞いたうえで教えてやる。お前が納得せぬなら、とことん話し合えばよい」
「……御館様が間違っておられる場合は」
「遠慮なく言ってくれ」
義信は即答した。
「俺は、何でも従う家臣ばかり欲しいわけではないぞ。俺の考えが間違っておるなら、それを正してくれる者が必要なのだ」
半兵衛はしばらく義信を見つめていた。
そして、静かに笑った。
「なるほど。源五郎殿が、御館様に仕えることを楽しそうに語られた理由が分かりました」
義信は隣に座る源五郎を見た。
「ほう。源五郎、お前はそんなことを言っておったのか」
「……御館様。そのように申した覚えはございませぬが」
「はっはっは! 照れることはないぞ!」
源五郎は困ったように笑った。
半兵衛も、とうとう声を立てて笑った。
◇
「御館様。私からも、一つお願いがございます」
半兵衛は笑みを収め、居住まいを正した。
「美濃を取られるなら、まず美濃の者たちが武田に従う道をお示しください。降った者の家をどう扱うか、所領をどうするか、家臣たちの身分をどうするか。それが明らかでなければ、皆、最後まで戦おうといたしましょう」
「もっともだ」
「私は、その取り決めを作るお手伝いならできます」
義信の眼が輝いた。
「ほう。ならば、早速頼みたい」
「ただし、それをもって直ちに仕官したことにはできませぬ。私の家と義父の立場がございます」
「承知した。まずは相談役として働いてくれ。竹中家の事情が整えば、改めて正式に迎えよう」
半兵衛は深く頭を下げた。
「ありがたきお言葉にございます」
義信は源五郎へ向き直った。
「源五郎、筆を借りるぞ」
「はっ」
差し出された筆を受け取り、義信は紙へ書き始めた。
武田へ従う国衆の正当な所領を原則として守ること。
降伏した者を、理由もなく処刑しないこと。
領民への乱取りを禁じ、武田の兵が勝手に田畑を荒らすことを許さないこと。
そして、従来の家臣団についても、働きと事情を確かめたうえで扱うこと。
書き終えると、半兵衛の前へ差し出した。
「半兵衛。まずはこれを見てくれ」
半兵衛は紙を受け取り、丁寧に読み進めた。
「……御館様。この取り決めでは、降った者が過去に犯した罪まで許されるのでしょうか」
「いや、それは別だ。乱取りや私怨による殺傷まで見逃すつもりはない」
「ならば、そのことも明らかにした方がよろしいでしょう」
「よし、書き加えよう」
半兵衛はさらに細かな点を指摘した。
降伏した国衆の所領を守ると約束しても、その土地を巡って別の者と争っている場合はどうするのか。
斎藤家へ従っていた城将が武田へ降ったとき、これまで預かっていた城をそのまま任せるのか。
武田へ従う前に織田と約束を交わしていた者は、どのように扱うのか。
義信は一つずつ耳を傾けた。
すぐに答えられるものもあれば、考え込むものもあった。
だが、都合の悪い問いを避けることはしなかった。
「半兵衛。お前、なかなか容赦がないな」
「恐れ入ります。ですが、曖昧な約束をすれば、後に争いの種となりますので」
「まったくだ。よし、ここは改めよう」
義信が筆を走らせる。
源五郎は二人のやり取りを眺めながら、自然と笑みを浮かべていた。
半兵衛は主君の機嫌を取るために話していない。
義信もまた、半兵衛に気に入られようとして無理な約束をしていない。
互いに自分の考えをぶつけ合い、よりよい形を探している。
やがて書付が整うと、半兵衛は静かに頷いた。
「これなら、美濃の国衆にも話を持ちかけられるかもしれませぬ」
「そうか。ならば最初の仕事は決まりだな」
義信は笑った。
「半兵衛。安藤守就殿へ、俺の考えを伝えてくれ。すぐに武田へ従えとは言わん。まずは、話をする用意があると知ってもらいたい」
「承知いたしました」
「それから、お前が知っている美濃の国衆のことを教えてほしい。誰が何を望み、どの家と結び、どこに不満を抱えておるのか。俺はその話を聞いてから兵を動かしたい」
半兵衛は深く頭を下げた。
「微力ながら、お力添えいたします」
義信は大きく頷いた。
「よし! これで武田に、また一人頼もしい男が加わった!」
「御館様。まだ正式にお仕えすると決めたわけでは……」
「分かっておる。だが、もう仕事は頼んでしまったからな」
義信が豪快に笑うと、半兵衛は呆れたように微笑んだ。
「……御館様は、本当に人使いが荒いお方のようですな」
「父上にも毎日のように言われておるぞ」
「信玄公のお気持ちが、少し分かった気がいたします」
座敷に笑い声が広がった。
◇
半兵衛との面会を終えた義信が寺を出たのは、日が傾き始めた頃だった。
山の向こうに薄い雲が広がり、冷たい風が木々の梢を揺らしている。
義信は馬へ乗る前に、もう一度半兵衛へ顔を向けた。
「半兵衛。俺は近いうちに美濃を取る。だが、無理に急ぐつもりはない。お前の家のことも、よく考えてくれ」
「ありがとうございます」
「ただし、織田信長だけには先を越されたくないな」
半兵衛が微笑んだ。
「信長殿は、美濃を諦めるようなお方ではありますまい」
「知っておる。だからこそ面白い」
義信は手綱を握った。
「俺はあの男も家臣にするつもりだ。半兵衛、お前にもそのために働いてもらいたい」
半兵衛は思わず顔を上げた。
「……信長殿まで、お従えになるおつもりで?」
「ああ。柴田勝家も丹羽長秀も、滝川一益も欲しい。あれほど優れた家臣団を、信長一人に使わせておくのは惜しいではないか」
半兵衛はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと笑った。
「御館様。私は今日まで、自分ほど欲深い男も少ないと思っておりました」
「ほう。お前も欲深いのか」
「はい。美濃の者たちが安心して暮らせる国を作りたい。そのためなら、斎藤家のやり方にも異を唱えます。必要なら城を奪うことも考えました」
半兵衛は義信を見つめた。
「ですが御館様は、美濃だけでなく尾張も、その先の天下までも欲しがっておられる」
「はっはっは! まだまだ足りんぞ。日の本すべてを手に入れるつもりだからな!」
義信が笑うと、半兵衛も笑った。
「……ならば、その大きな望みがどこまで叶うのか、私も見てみたくなりました」
義信は満足そうに頷いた。
「よし。では、いずれ甲府で会おう。父上にも紹介せねばならんからな」
「信玄公に、でございますか」
「そうだ。あの人もお前の話を聞きたがっておる。俺が稲葉山城を奪った男を迎えると言ったら、随分と興味を示しておられたぞ」
半兵衛は少し緊張した様子を見せた。
武田信玄。
美濃にいても、その名を知らぬ者はいない。
その名将が、今は息子の家臣として軍を率いている。
半兵衛は改めて、目の前の若者の並外れた器量を感じていた。
「御館様。私からも、一つお願いがございます」
「何だ」
「甲府へ参る折には、御隠居様ともぜひ軍略についてお話をしてみたく存じます」
義信は嬉しそうに笑った。
「もちろんだ! 父上は話し始めると長いぞ。夜が明けるまで付き合わされるかもしれんが、それでもよいか」
「それは、願ってもないことでございます」
半兵衛が微笑むと、義信は声を上げて笑った。
「よし! ならば決まりだ!」
◇
岩村城へ戻った義信を、遠山景任が出迎えた。
「御館様。竹中殿とのお話はいかがでございましたか」
「上々だ。まだ正式な家臣にはなっておらんが、俺のために美濃の国衆へ働きかけてくれることになった」
「それは……大きな成果にございますな」
「そうだろう。景任殿にも世話になった。礼を申すぞ」
義信は景任へ深く頭を下げた。
景任は慌てて頭を下げ返した。
「もったいないお言葉にございます」
「いや、お前の力がなければ、半兵衛と会うことも難しかった。これからも頼りにしておるぞ」
景任は顔を上げた。
武田の新当主は、思った以上に人をよく見ている。
誰が何をしたかを忘れず、その働きを認める。
しかも、相手が小領主であろうと礼を惜しまない。
「御館様。遠山家も、できる限りお力添えいたします」
「ありがたい。だが、無理はするな。美濃の事情は美濃の者が一番よく知っておる。危険なことがあれば、遠慮なく知らせてくれ」
景任は深く頷いた。
そのとき、甚六が足早に現れた。
「御館様。少々、気になる知らせがございます」
「何だ」
「尾張から美濃へ入った者たちが、竹中半兵衛殿の所在を探っているようです」
義信の眼が動いた。
「織田の者か」
「まだ確かなことは分かりませぬ。ただ、斎藤方とは別の筋から、竹中殿へ近づこうとしている者がいるようにございます」
義信は少し考え、口元を緩めた。
「なるほど。信長も、半兵衛の才を放ってはおかんか」
源五郎が顔を上げた。
「御館様。半兵衛殿が武田へ近づいていると知られれば、織田も動きましょう」
「そうだな。だが、半兵衛が織田へ仕えると決まったわけでもない。今のうちに、こちらの誠意を示しておけばよい」
義信は甚六へ向き直った。
「半兵衛の周囲をよく見ておいてくれ。ただし、織田の者と分かったからといって、勝手に手を出すな。相手が何を望んでいるのか、まずは確かめたい」
「承知いたしました」
甚六が退出すると、義信は源五郎へ顔を向けた。
「源五郎。甲府へ戻ったら、父上に知らせねばならんな」
「半兵衛殿のことを、でございますか」
「そうだ。あの男、なかなか面白いぞ。父上も気に入られるだろう」
義信は笑った。
「それから、美濃のことも本格的に考えねばならん。安藤守就殿へ話を通すことができれば、稲葉や氏家の者たちにも道が開けるかもしれん」
源五郎は頷いた。
「御館様。美濃の国衆が武田へ心を寄せるようになれば、斎藤家も織田家も、これまでどおりには動けませぬな」
「そのとおりだ」
義信は地図を広げた。
岩村から西へ伸びる道の先には、稲葉山城がある。
さらに南には、織田信長の本拠である小牧山城があった。
義信はその二つを見比べた。
美濃を取るには、斎藤龍興だけを倒せばよいわけではない。
織田信長もまた、同じ国を欲しがっている。
だが、武田には信玄がいる。
真田源五郎もいる。
そして今、竹中半兵衛まで力を貸してくれることになった。
「源五郎。信長は強いぞ。桶狭間で義元公を討った男だ。並の大名と思ってかかれば、痛い目を見る」
「承知しております」
「だが、俺も負けるつもりはない。美濃を取るのは織田ではなく、武田だ」
義信は地図の稲葉山城へ指を置いた。
「まずは、あの城を取る。だが、その前に美濃の国衆をできるだけ味方につける。半兵衛には、そのために働いてもらおう」
源五郎は深く頷いた。
義信は地図を畳み、立ち上がった。
「さて、甲府へ戻るぞ。父上に仕事を増やす相談をせねばならん!」
源五郎は苦笑した。
「御隠居様が、またお嘆きになられますな」
「はっはっは! あの人は嘆きながらでも働いてくださる。実に頼もしい家臣ではないか!」
義信の笑い声が、岩村城の一室に響いた。
その頃、美濃の山中では、竹中半兵衛が義信から渡された書付を広げていた。
降る者の所領を守り、無用な殺傷を禁じ、家臣の働きを正当に評価する。
その取り決めを読み返しながら、半兵衛は静かに呟いた。
「……武田義信。あのお方なら、本当に美濃を変えられるかもしれぬな」
そして筆を取った。
宛先は、義父である安藤守就。
そこには、武田家の新当主と会ったこと、そしてその人物が美濃の国衆をどう扱おうとしているかが記されていた。
半兵衛は最後に、短い一文を書き加えた。
『義父上。一度、武田義信殿のお考えをお聞きいただきたく存じます』
書き終えると、半兵衛は静かに筆を置いた。
美濃の未来を巡る争いに、武田という新たな大勢力が加わろうとしていた。
──────────────────
YouTubeでショート動画作ってみました
https://youtube.com/shorts/LjVQgpFxZ2E?si=X6VKhxz29nXoLekJ




