第14話 忍びも家臣にする
「真田源五郎殿にお会いしたい。竹中半兵衛様に関わる話にございます」
岩村城下の旅籠を訪ねてきた男は、そう名乗ると周囲を気にするように声を落とした。
真田源五郎は、差し出された書状にすぐには手を伸ばさなかった。
男は三十を少し過ぎた頃だろう。商人らしい身なりだが、草履には新しい泥が付いている。腰の手拭いは擦り切れ、右手の指には墨が染みついていた。
「まず、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「宗助と申します。美濃で紙を扱う商いをしております」
「竹中殿とは、どのようなご関係で」
「菩提山の竹中家へも品を納めております。此度の稲葉山の騒ぎでも、少々お手伝いをいたしました」
源五郎は男の顔を見た。
永禄七年、美濃では竹中半兵衛が稲葉山城を奪うという事件が起きていた。
義父の安藤守就も関わったとされるその騒動は、斎藤龍興の権威を大きく揺るがした。しかし、半兵衛は奪った城を手放し、斎藤家との関係も以前とは変わったらしい。
武田義信が、その若き知将に目をつけたのは当然だった。
とはいえ、相手は美濃の武将である。
武田の使者が会いたがっていると知れば、斎藤家も織田家も黙ってはいまい。
「宗助殿。竹中殿ご本人からのお使いですか」
「いえ、そこまでは申しませぬ。ただ、半兵衛様に近い方から、武田の使者が岩村へ来ていると聞きまして」
「なるほど。では、半兵衛殿が武田との接触を望んでおられるかどうかは、まだ分からないのですね」
宗助は少し驚いた顔をした。
「……お若いのに、慎重なお方ですな」
「若いからこそ、慎重にせねばなりませぬ。御館様から大切な役目を預かっておりますので」
源五郎は穏やかに答えた。
十八歳にも満たぬ若者だが、幼い頃から信玄の近くで働き、家臣同士のやり取りを見てきた。
相手が何を知っていて、何を知らないのか。
それを確かめずに話を進めれば、思わぬところで足をすくわれる。
「宗助殿。まずは竹中殿へ、武田義信様がお会いしたがっていることだけお伝えいただけますか。返事をいただけるなら、改めて使者を立てましょう」
「それならば、お引き受けできます」
「ただし、道中にはお気をつけください。美濃では竹中殿の動向を探っている者も多いでしょうから」
宗助は苦笑した。
「それは、よく存じております」
男が旅籠を出ていくと、控えていた武士が源五郎へ近づいた。
「源五郎様。あの男を信用なさるのですか」
「まだ分かりませぬ。ただ、嘘をついているとも限らない」
「では、どうなさいます」
「遠山様へ相談しましょう。あの男が本当に竹中家と関わりのある商人なのか、確かめていただきたい」
源五郎は窓の外を見た。
岩村の城下には、信濃から来た商人も、美濃の奥へ向かう旅人もいる。
その誰が、どこの大名へ情報を流しているかは分からない。
武田の使者が半兵衛を探していることも、すでに他国へ伝わっているかもしれなかった。
源五郎は、義信から受けた言葉を思い出した。
『相手が何を望んでいるのか、それを知らずに仕官を求めても始まらん』
ならば、まずは半兵衛が置かれている立場を知ることだ。
若い近習は腰を上げ、岩村城へ向かった。
◇
「父上。忍びの者たちを、一度集めていただきたい」
同じ頃、甲府の躑躅ヶ崎館では、義信が信玄へ新しい頼み事をしていた。
信玄は書状を置き、息子を見た。
「今度は忍びか。そなた、わしから家督を奪っただけでは飽き足らず、何もかも取り上げるつもりらしいな」
「人聞きの悪いことを申されますな。父上にも引き続き使っていただきますぞ」
「……結局、わしの仕事が増えるのではないか」
「はっはっは! よくお分かりで!」
信玄は呆れたように息を吐いたが、表情には笑みがあった。
義信が家督を継いでから、館の空気は少しずつ変わっていた。
若い当主は家臣の意見をよく聞く一方、思いついたことを実行に移すのが早い。金山へ足を運んだかと思えば、今度は京へ使者を送り、美濃の国衆へも働きかけている。
そのすべてが天下取りにつながっていると分かるだけに、信玄も簡単には止められなかった。
「義信。忍びを何に使うつもりじゃ」
「まずは美濃です。源五郎を岩村へ送りましたが、織田や斎藤の動きを知らずに働かせるのは危険でしょう」
「それはそうじゃな」
「ほかにも京、駿河、相模、越後。知りたいことは山ほどあります。父上が長年築いてこられた情報の道を、俺にも教えていただきたいのです」
信玄は息子を見つめた。
「忍びは、武士のように名前を並べて使うものではないぞ」
「承知しております」
「山を歩く者もおれば、商人や僧に紛れて働く者もおる。土地の者から話を聞くだけの者もおれば、敵の城下へ入り込む者もいる。働きは様々じゃ」
「だからこそ、会って話してみたいのです」
義信は笑みを収めた。
「それに父上。あの者たちの暮らし向きも知りたい」
「暮らし向き?」
「はい。どれほどの扶持を受け、危険な仕事をしたときには、どのような褒美をもらうのか。負傷した場合や、帰らぬ者の家族がどうなるのかも」
信玄は眉を上げた。
「何を考えておる」
「働いた者には、働きに応じた褒美を与えたいのです」
「それなら、これまでも与えておるぞ。働きがよければ銭も与えるし、役目も増やす」
「無論、父上が忍びを粗末に使ってこられたなどとは思っておりませぬ。ただ、俺はもう少し先まで考えたい」
義信は膝を進めた。
「功を挙げた者には、正式な家臣となる道も開きたいのです」
信玄はしばらく黙っていた。
「……忍びを侍に取り立てると申すか」
「望む者には、です。今の働きを続けたい者まで、無理に表へ出すつもりはありません」
「身分を明らかにすれば、忍びとして働けなくなる場合もあるぞ」
「それも分かっております。だからこそ、本人に選ばせたい。忍びのまま働く者には扶持を与え、表へ出たい者には別の役目を用意する。功績が大きければ、知行を与えることも考えたいのです」
信玄は扇を膝へ置いた。
「義信。忍びの中には、武士の家に生まれた者もおる。誰もが身分の低い者というわけではないぞ」
「はい。それぞれの家や立場が違うことも承知しております。だから一律に扱うのではなく、働きと希望を見て決めます」
義信は口元を緩めた。
「父上。槍を持って敵の首を取れば褒美が出る。では、敵が兵を集めていると知らせ、味方の命を何百も救った者には、何を与えるべきでしょう」
信玄は小さく頷いた。
「なるほど。そなたの考えは分かった」
「ありがとうございます」
「だが、忍びの報告がすべて正しいとは限らぬ。褒美目当てに偽りの話を持ち込む者も出よう」
「そこは調べます。別の者の報告と照らし合わせ、確かな働きに褒美を与える。俺も、聞いた話を何でも信じるつもりはありません」
信玄は息子を見つめ、やがて笑った。
「よかろう。まずは、わしが手元で使ってきた者のうち、話のできる者を呼ぼう」
「ありがたい!」
「ただし、誰がどこで働いているか、すべてを一度に教えるわけにはいかぬぞ。表に出せぬ者もおるからな」
「それで結構です。まずは父上が信頼しておられる者からお願いします」
義信は満面の笑みを浮かべた。
「いやはや、また楽しみが増えましたな!」
「……わしには苦労が増えたようにしか思えぬが」
親子の笑い声が、秋の座敷に響いた。
◇
翌日、義信の前へ通されたのは、三人の男だった。
年配の男は旅慣れた商人のような姿をしている。もう一人は山仕事でもしていそうな頑丈な身体つきで、最後の若い男は、どこにでもいる農民の倅にしか見えなかった。
黒装束も覆面もない。
だが、義信はそれを見て満足そうに頷いた。
「なるほど。これでは町ですれ違っても、気づかぬな」
先頭の男が静かに頭を下げた。
「甚六と申します。長らく御隠居様の御用を務めて参りました」
「よく来てくれた。父上から話は聞いておる。今日はお前たちの働きについて教えてもらいたい」
甚六は義信の顔を見た。
「我らの働き、でございますか」
「ああ。まず、どのような仕事をしている」
「商人に紛れて他国の町へ入り、噂を拾うこともございます。敵方の国衆が誰と会ったか、米や馬がどこへ集められているかを調べることも。必要とあれば山道を通り、人目を避けて文を運びます」
「危ない仕事だな」
「危険は承知のうえにございます」
「ならば聞こう。お前たちが仕事で怪我をした場合、家族はどうなる」
甚六は少し考えた。
「その折々の働きによります。主家から扶持をいただく者もおれば、仕事ごとに銭を受け取る者もおります」
「帰らぬ者の家族は」
「……必ずしも、残された者すべてが困らぬようになっているわけではございませぬ」
義信は頷いた。
甚六は言葉を続けた。
「御隠居様には、長年よくしていただきました。ただ、我らの仕事は人目につかぬことが肝要です。武士のように皆の前で褒美をいただくわけには参りませぬ」
「それは分かる。だから、人前で褒めることだけが褒美だとは思っておらん」
義信は甚六へ向き直った。
「お前たちに聞きたい。もし武田のために働けば、定まった扶持を受けられ、怪我をしたときは手当てを受けられる。命を落とせば家族にも相応のものが渡される。そのような取り決めがあれば、どう思う」
三人の表情が変わった。
甚六は慎重に答えた。
「ありがたいことでございます。ただ、我らは武士のように名を立てる働きではございませぬ」
「名が立たぬからといって、働きの値打ちが下がるものか」
義信は豪快に笑った。
「敵の大軍が動くと知れば、こちらは備えを整えられる。敵の城の弱みが分かれば、無駄な合戦を避けられる。お前たちの働きは、槍を持つ者に負けておらんぞ」
甚六は黙っていた。
義信はさらに続けた。
「今の働きを続けたい者には、これまでどおり人目につかぬ形で扶持を与えよう。武士として仕えたい者には、働きに応じて道を開く。いきなり皆を侍にするわけではないが、功を挙げた者が上へ進めるようにしたい」
「……我らでも、家臣になれると」
「何を驚く。今も武田のために働いておるではないか」
義信は笑みを深くした。
「ただし、褒美を欲しがるばかりで働かぬ者は困るぞ。嘘の報告を持ち込んだ者には厳しくする。そこは武士も忍びも同じだ」
甚六は深く頭を下げた。
「御館様のお考え、ありがたく存じます」
「礼は仕事で返してくれればよい」
義信は机に置いた書付を指した。
「まずは試しに、俺の手元で働く者たちから始めよう。扶持と褒美については、父上や勘定方とも相談して決める。お前たちの家族についても、誰に何を渡せばよいか確かめておきたい」
甚六は再び頭を下げた。
義信はその様子を見て、少し声を落とした。
「それから、甚六。早速だが仕事を頼みたい」
「何なりと」
「美濃だ。今、真田源五郎が岩村へ行っておる。竹中半兵衛との接触を探っているところだ」
甚六の眼が動いた。
「竹中半兵衛……稲葉山城を奪った若武者にございますな」
「ああ。俺はあの男が欲しい。だが、源五郎一人で美濃の事情を調べるには限界があるだろう」
義信は地図を広げた。
「岩村から先の道を調べてくれ。斎藤家の動き、織田の動き、竹中半兵衛の所在。分かる範囲でよい。ただし、危険を冒してまで無理に深入りする必要はない」
「承知いたしました」
「それから源五郎へ伝えてくれ。半兵衛と会う機会ができても、急いで仕官を迫るなと。まずは相手の考えを聞いてほしい」
甚六は頷いた。
「御館様。美濃には、すでに我らと縁のある者もおります。岩村から先も、まったく手の届かぬ土地ではございませぬ」
「ほう。それは頼もしいな」
「ただし、織田と斎藤も互いに人を放っております。こちらの動きを嗅ぎつけられる恐れはございます」
「それも承知しておる」
義信は甚六の顔を見た。
「俺は源五郎も、お前たちも失いたくない。危ういと判断したら引け。人を失ってまで急ぐ必要はない」
甚六は深く頭を下げた。
「……御館様。これまで以上に、よい働きをしてご覧に入れましょう」
「期待しておるぞ」
義信は立ち上がり、三人を見送った。
庭へ出ると、信玄が廊下に立っていた。
「義信。ずいぶんと気前よく約束したようじゃな」
「父上。よい働きをしてもらうには、それに見合うものを与えねばなりません」
「理屈は分かる。だが、銭は無限に湧くものではないぞ」
「もちろんです。だから金山も働かせております」
「……まったく、何もかもつながっておるわけか」
信玄は苦笑した。
義信は父の隣へ並び、秋空を見上げた。
「父上。俺は天下を取るつもりです。ならば、武田のために働く者には、天下を取るだけの夢も見せてやりたいのです」
「夢だけでは腹は膨れぬぞ」
「ですから扶持も出します」
「口の減らぬ奴め」
二人は声を上げて笑った。
◇
それから数日後。
岩村城下で真田源五郎を訪ねてきた甚六は、竹中半兵衛に関わる新しい情報を携えていた。
「源五郎様。宗助という商人について調べがつきました」
源五郎は書状を置いた。
「何か分かったか」
「竹中家と取引のある商人であることは確かなようにございます。ただし、宗助自身が半兵衛殿の命を受けて動いているかどうかまでは分かりませぬ」
「なるほど。では、まだ慎重に扱うべきですな」
「はい。それから、あの男の周囲を探っている者がいるようです」
源五郎の表情が引き締まった。
「斎藤方か」
「今のところ、どちらとも断定できませぬ。織田方の者が紛れている可能性もあります」
「そうか」
源五郎はしばらく考え込んだ。
竹中半兵衛は稲葉山城を奪ったことで、美濃の有力武将たちから注目されている。斎藤龍興にとっては警戒すべき存在であり、織田信長にとっては利用したい人材だろう。
そこへ武田が割り込めば、争いが起きても不思議ではなかった。
「甚六殿。宗助には、こちらから会いに行くのを控えましょう」
「なぜでございますか」
「武田の使者が何度も会えば、あの男が疑われます。宗助が竹中殿へ話を伝えられるなら、その返事を待ちたい」
甚六は頷いた。
「よいお考えにございます」
「ただし、宗助の身に危険が及ぶようなら助けたい。あの男はまだ我らの家臣ではありませぬが、武田との話を運ぼうとしてくれた者ですから」
甚六は源五郎の顔を見た。
「……御館様によく似ておられますな」
「義信様に、ですか」
「はい。あのお方も、人を使う前に、まずその者のことを考えられる」
源五郎は少し笑った。
「御館様なら、もっと豪快に動かれるでしょうが」
「それは間違いございますまい」
二人は顔を見合わせ、声を落として笑った。
そのとき、宿の主人が部屋へ入ってきた。
「真田様。お客様がお見えでございます」
「誰だ」
「先日お越しになった、宗助というお方です。ただ……」
主人は声を落とした。
「ひどく慌てておられます。どうやら、誰かに追われているようで」
源五郎は甚六へ目を向けた。
「会いましょう。ただし、表からは通さぬように」
甚六は静かに頷いた。
◇
裏口から通された宗助は、肩で息をしていた。
袖は破れ、額には汗が浮かんでいる。
「源五郎様。申し訳ございませぬ。少々、面倒なことになりました」
「まず座ってください。何があったのです」
「竹中家へ向かう道で、見知らぬ者に呼び止められました。どこへ行くのか、誰に会うのかと、しつこく聞かれまして」
「相手は何人でしたか」
「二人です。武士のような身なりではありませんでしたが、腰には刀を差しておりました」
源五郎は甚六を見た。
甚六は黙って頷き、外へ出ていった。
「宗助殿。無理に話す必要はありませぬ。まずは落ち着いてください」
宗助は差し出された水を飲み、ようやく息を整えた。
「実は……竹中家から、返事を預かって参りました」
源五郎の眼が動いた。
「半兵衛殿からですか」
「はい。ただし、直接お会いしたわけではございませぬ。竹中家に仕える方を通じて預かったものです」
宗助は懐から小さな書状を取り出した。
源五郎は受け取り、慎重に封を開いた。
そこには、武田義信が半兵衛との面会を望んでいるという話を聞いたこと、ただし今すぐ仕官するかどうかを決めるつもりはないことが記されていた。
そして末尾には、短い一文があった。
『武田の新しき御屋形が、美濃をいかに見ておられるか、まずは聞いてみたく存じ候』
源五郎は何度も読み返した。
書状の主が本当に竹中半兵衛かどうか、まだ確かめる必要はある。
だが、少なくとも美濃の側に、武田の考えを知ろうとしている者がいることは確かだった。
「宗助殿。これは、ありがたい知らせです」
「では、竹中家へお返事を?」
「はい。ただし、この書状については、遠山様にもご相談します。武田から使者を送ったと知られて困る方もおられるでしょうから」
宗助は深く頷いた。
「それがよろしいかと」
源五郎は紙を取り、筆を走らせた。
義信が竹中半兵衛の才を高く評価していること。
美濃を力任せに荒らすつもりはなく、国衆の意見を聞きたいと考えていること。
そして、まずは直接話をする機会を望んでいること。
それらを簡潔に書き記し、宗助へ渡した。
「これをお伝えいただけますか」
「承知いたしました」
「ただし、今日はこのまま出歩かぬ方がよいでしょう。追ってきた者がまだ近くにいるかもしれません」
その言葉が終わる前に、甚六が戻ってきた。
「源五郎様。宿の外に二人おります。先ほどから出入りする者を見ているようです」
源五郎は静かに立ち上がった。
「宗助殿。今夜はここへお泊まりください。明日の朝、別の道からお帰りいただきましょう」
「しかし、それでは真田様へご迷惑が……」
「迷惑ではありませぬ。あなたが危険を冒して書状を届けてくださったのですから、こちらもできる限りのことをいたします」
宗助は深く頭を下げた。
源五郎は甚六へ顔を向けた。
「外の二人について、誰の手の者か確かめられますか」
「時間をいただければ。ただ、こちらから手を出せば、かえって騒ぎになります」
「ならば、今は触れずにおきましょう。宗助殿を安全に帰すことが先です」
甚六は頷いた。
「承知いたしました」
源五郎は窓の外を見た。
岩村の城下には、夕闇が迫っている。
その向こうには美濃の山々が広がり、さらに西には竹中半兵衛のいる土地がある。
義信が欲しがっている男へ、ようやく道が開き始めた。
◇
甲府へ報せが届いたのは、それから数日後だった。
義信は源五郎の書状を読み終えると、満足そうに頷いた。
「よし。半兵衛にこちらの話が届いたか」
傍らにいた信玄が顔を上げた。
「もう返事があったのか」
「直接の仕官の返事ではありませぬ。まず俺が美濃をどう考えているか、聞きたいそうです」
「当然であろう。斎藤家を離れたばかりの男が、知らぬ大名へ軽々しく仕えるものか」
「まったく、そのとおりですな」
義信は書状を畳んだ。
「父上。半兵衛には、ぜひ会いたい。できれば俺自身が出向きたいところです」
「……義信。そなた、また甲府を空けるつもりか」
「まだ決めておりませぬ。源五郎にも、まずは相手の事情を確かめるよう命じております」
信玄は少し安心したように頷いた。
「ならばよい。今の武田は、当主が代わったばかりじゃ。そなたが遠くへ出れば、家中も落ち着かぬ」
「分かっております。ですが父上、竹中半兵衛という男は、今のうちに手に入れたい」
「それほどか」
「はい。いずれ、天下を取るための大きな力となる男です」
義信は父の眼を見た。
「そして半兵衛だけではありませぬ。美濃にはまだ、優れた武将が大勢おります。あの国を織田信長へ渡す前に、俺がいただきたいのです」
信玄はしばらく息子を見つめていた。
やがて、ゆっくりと笑った。
「義信。そなたの考えは分かった。ならば、こちらも美濃へ向けて備えを進めねばなるまい」
「父上も、その気になられましたか」
「そなたが美濃を欲しがっておる以上、わしも他人事ではおれぬ。武田が西へ進むなら、その道を押さえる必要があるからな」
義信は嬉しそうに頷いた。
「ありがたい! 父上のお力を借りられるなら、これほど心強いことはありませんぞ!」
「……お前は本当に、わしを使うことに遠慮がないな」
「父上ほどの名将を遊ばせておく方が、よほど罪深いでしょう」
信玄は呆れたように首を振り、義信も腹の底から笑った。
しかし、義信の眼はすでに美濃を見据えていた。
竹中半兵衛。
安藤守就。
岩村と苗木の遠山一族。
そして、その向こうにいる織田信長。
いずれも、これからの天下取りに欠かせない相手である。
義信は地図を広げ、東美濃へ指を置いた。
「父上。半兵衛を迎えたら、今度は信長ですぞ」
「まだ竹中も手に入れておらぬというのに、気の早いことよ」
「はっはっは! 先のことを考えるのは、銭がかかりませぬからな!」
信玄は笑いながら地図を覗き込んだ。
そのとき、義信は新たな書状を手に取った。
源五郎からの報告には、もう一つ気になることが書かれていた。
宗助を追っていた二人組のうち、一人が美濃の西へ向かったという。
その行き先は、まだ分からない。
だが、竹中半兵衛を巡る争いに、武田以外の者も動き始めている可能性があった。
義信は口元を緩めた。
「どうやら、半兵衛を欲しがっているのは俺だけではなさそうですな」
「当たり前じゃ。稲葉山を奪った男なら、織田も放ってはおくまい」
「ならば、早い者勝ちということでしょう」
義信は筆を取り、源五郎への返書をしたため始めた。
その文面は、いつもの豪快な口調とは違い、短く慎重なものだった。
『半兵衛との面会を最優先とせよ。ただし、危険を冒してまで急ぐ必要はない。相手が望むなら、俺自身が美濃へ赴く』
書き終えると、義信は大きく息を吐いた。
「さて、父上。いよいよ面白くなって参りましたぞ」
信玄は地図を眺めたまま、低く笑った。
「そうじゃな。だが義信、相手は美濃の若き知将よ。そなたの思いどおりになるとは限らぬぞ」
「望むところです。簡単に手に入る男なら、わざわざ俺が出向く必要もありませぬ」
義信は晴れやかに笑った。
「半兵衛も信長も、天下を取るには必要な男。ならば、この武田義信が直々に口説き落としてみせましょう!」
甲斐から美濃へ。
新たに整えられた忍びの情報網が動き始め、若き真田源五郎の手によって、竹中半兵衛への道が開かれつつあった。
そして武田義信は、父・信玄に続く新たな大物を、自らの家臣団へ迎えようとしていた。
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