第13話 美濃は信長に渡さん
「父上。京へ使者を送りますぞ」
湯之奥金山から甲府へ戻った翌朝、武田義信は信玄の前に一通の書状を差し出した。
信玄は書状を開き、目を通すなり眉を上げた。
「公方様への挨拶か。ようやく思い至ったか」
「父上、そういう大切なことは、もう少し早く教えていただきたいものですな」
「家督を奪うことばかり考えておった男が、何を申す」
「はっはっは! これは一本取られましたな!」
義信は豪快に笑い、父の向かいへ腰を下ろした。
秋の冷え込みが増した躑躅ヶ崎館では、朝から家臣たちが慌ただしく働いていた。新当主となった義信の命令を各地へ伝えるため、書状を抱えた使者が次々と出立している。
家督継承の知らせは、信濃や上野の城将へも送られていた。今川氏真、北条氏康にも正式な使者を立てている。
しかし、それだけでは足りなかった。
永禄七年。京には室町幕府の将軍、足利義輝がいる。そして朝廷には正親町天皇が在位していた。
戦国大名が実力で領国を治める時代とはいえ、将軍家や朝廷の権威が消えたわけではない。
義信は歴史教師として、その重要性を誰よりも理解していた。
「父上。公方様には家督を継いだことをお知らせし、引き続き武田家へのお引き立てを願います。朝廷へも、母上の御実家との縁を頼って、ご挨拶の筋道をつけたいと考えております」
「官位まで望むつもりか」
「いずれは。ただ、当主になったからといって勝手に官位が手に入るものではありませぬ。そこは手順を踏みましょう」
信玄は満足そうに頷いた。
「そこまで分かっておるなら、わしから申すことは少ない。だが、京へ使者を送るだけで天下が近づくと思うなよ」
「もちろんです。むしろ、京はこれから大きく乱れます」
信玄の手が止まった。
「何を根拠に申す」
「三好の勢力が強く、公方様のお立場も決して安泰ではありませぬ。京の情勢について、今まで以上に詳しく知っておきたいのです」
義信は慎重に言葉を選んだ。
前世の記憶には、忘れようにも忘れられない出来事がある。
永禄八年五月、将軍足利義輝が京都の二条御所で討たれる永禄の変。
史実では、今から半年余り先に起こる大事件だった。
それを防ぐか、利用するか。
まだ決めてはいない。
だが、将軍の死によって畿内の情勢が大きく変わることは知っている。そこへ手を伸ばさずに天下を狙うなど、あまりにも惜しかった。
「義信。そなた、京に何か狙いがあるな」
「さすが父上。息子の考えることはお見通しですか」
「顔に書いてあるわ。何か面白い獲物を見つけたときの顔をしておる」
「そのような顔をするのは、父上譲りでしょうな」
信玄は呆れたように息を吐いた。
義信は笑みを収め、声を落とした。
「父上。天下を取るには、戦に勝つだけでは足りませぬ。京の公方様や朝廷とも、今のうちに縁を深めておきたいのです」
「それで?」
「もし公方様が危うい立場に置かれたとき、武田に助けを求める道があればどうでしょう」
信玄の眼が鋭くなった。
「……公方様を武田が支えるというのか」
「できるだけの力は貸したいと思っております。ただし、甲斐から京まで兵を進めるには、通るべき国が多すぎます。その道を確保せねば、いくら立派な約束をしても空手形ですな」
義信は地図を広げた。
甲斐から信濃、そして美濃へ。
その先には近江があり、京がある。
「父上。俺はまず、美濃を取りたい」
信玄は息子の顔を見た。
「……今度は美濃か」
「はい。しかも、織田信長より先に」
◇
「義信。美濃を取ると申すが、そなたは何を知っておる」
信玄は地図の上に指を置いた。
「東美濃には遠山の者たちがおる。岩村の景任、苗木の直廉は、これまでも武田と縁を結んできた。しかし美濃全体となれば話は別じゃ。斎藤龍興は稲葉山を押さえ、尾張の織田信長も美濃を狙っておる」
「承知しております」
「ならば、東美濃から兵を進めれば済むなどと考えるなよ。山道を越えて美濃へ入ったところで、西へ進むほど守るべき道が長くなる」
信玄は地図を指でなぞった。
「岩村や苗木の者たちも、自分の家と領地を守らねばならぬ。武田の都合だけで兵を動かせば、かえって織田や斎藤へ走るぞ」
義信は大きく頷いた。
「だからこそ、まず遠山の者たちと話をしたいのです。父上のお力で結ばれてきた縁を、俺の代でも続けたい」
「それだけで美濃を取れるものか」
「無論です。もう一つ、欲しいものがございます」
「何じゃ」
「人です」
義信は地図の西側を指した。
「竹中半兵衛重治という若武者をご存じですか」
信玄が眉を寄せた。
「稲葉山城を奪った男か」
「さすが父上。ご存じでしたか」
「美濃であれほどの騒ぎがあれば、耳にも入るわ」
永禄七年、美濃では斎藤龍興の家臣である竹中半兵衛が、義父の安藤守就らとともに稲葉山城を奪う事件が起きていた。
半兵衛はまだ二十歳前後。
わずかな手勢で主君の居城を奪ったと伝わるその働きは、周辺諸国にも知られ始めていた。
もっとも、城を奪った後の経緯については、義信が前世で読んだ史料にも食い違いがある。
龍興へ城を返したという話が広まっているが、詳しい事情を確かめる必要があった。
「義信。その竹中を欲しいと申すか」
「はい。ぜひとも家臣に迎えたい」
「主君の城を奪った男を、か」
「父上。その言い方をなさるなら、俺も父上から家督を奪った男ですぞ」
信玄は一瞬黙り、やがて声を立てて笑った。
「はっはっは! それを自分で申すか!」
「事実ですからな。しかも俺の場合、父上を家臣にするところまでやりました」
「いつまでも自慢するでない!」
義信も笑ったが、すぐに真顔へ戻った。
「父上。半兵衛が何を考えて稲葉山城を奪ったのか、俺は本人から聞いてみたい。単に野心で動いたのなら、それはそれで構いません。しかし主君や家中に何かを訴えようとして動いたのなら、なおさら興味があります」
「竹中を味方にできれば、美濃の事情も分かろうな」
「それだけではありませぬ。あの男は、いずれ大きな働きをすると思っております」
信玄は息子を見つめた。
「そなたは時折、まだ見たこともない者の才を、妙に確信を持って語るな」
「歴史を学んでおりましたので」
「……歴史?」
「いえ、先人の記録です。兵法書にも、若いうちに才を見抜けとありますからな」
義信が笑ってごまかすと、信玄は胡散臭そうな顔をした。
しかし、それ以上は追及しなかった。
◇
その日の昼過ぎ、甲府へ一人の使者が到着した。
東美濃、岩村の遠山景任からの書状を携えた武士だった。
義信は真田源五郎を伴い、使者を評定の間へ通した。
「遠路ご苦労だった。景任殿は息災か」
「はっ。御館様におかれましては、このたびの御家督継承、まことにおめでとうございます。我が主も、武田との縁を引き続き大切にしたいと申しております」
「それはありがたい。遠山とは父上の代からの付き合いだ。俺も粗略にするつもりはないぞ」
義信は書状を受け取った。
内容は丁重な祝意と、今後も従来の関係を保ちたいという申し入れだった。
しかし末尾には、気になる一節があった。
美濃の情勢が落ち着かず、周辺の国衆の動きにも変化が見られるという。
「景任殿は、何か困っておられるのか」
使者は一瞬ためらった。
「恐れながら、岩村は武田との縁を重んじておりますが、美濃では斎藤家と織田家が争っております。いずれの側からも、我らの動向を探ろうとする者が現れます」
「なるほど。両方から声がかかるわけだな」
「はい。武田が家督を改められたことで、今後どのような方針を取られるのか、我が主も知りたがっております」
義信は頷いた。
国境を守る小領主にとって、周囲の大名がどちらへ動くかは死活問題である。
信玄と縁を結んでいたからといって、新当主にも無条件で従うとは限らない。
まして東美濃は、尾張と信濃の双方から圧力を受ける土地だ。
「景任殿には、こう伝えてくれ」
義信は姿勢を正した。
「武田は東美濃との縁を切らん。先代からの取り決めも、正当なものは引き続き守る。遠山の領地を取り上げたり、無理な出兵を命じたりするつもりもない」
使者は安堵したように頭を下げた。
だが、義信は続けた。
「その代わり、俺も遠山の力を借りたい。美濃の道と国衆の動きを知るには、現地の者に教えてもらうのが一番だからな」
「我が主も、できる限りお役に立つと存じます」
「それから、苗木の直廉殿にも同じことを伝えてくれ。兄弟で互いに疑い合うようなことがあれば、武田としても困る」
源五郎が控えの書付を作り始めた。
義信は使者へ茶を勧め、さらに尋ねた。
「ところで、美濃の竹中半兵衛という男について、何か聞いておらんか」
使者の顔が変わった。
「……竹中半兵衛、でございますか」
「ああ。稲葉山城を奪った若武者だ」
「その話なら、岩村にも伝わっております。城を奪った後、斎藤龍興殿との間で何があったかは、様々な噂がございますが……」
「どのような噂だ」
「城を返したとも、斎藤家を離れたとも聞きます。ただ、どこまで確かな話なのか、我らには分かりませぬ」
「そうか」
義信は満足そうに頷いた。
「では、景任殿に頼みたいことがある。竹中半兵衛の所在を確かめていただきたい。できれば俺の使者を通したいのだ」
使者は目を丸くした。
「御館様は、竹中殿を武田へお招きになるおつもりですか」
「そのつもりだ」
「されど、竹中殿は美濃の武将にございます。簡単に甲斐へ参るとは……」
「分かっておる。だから、まずは会って話したいのだ」
義信は笑みを浮かべた。
「よい男だと聞けば、顔を見たくなるのが人情だろう」
使者は戸惑いながらも、深く頭を下げた。
◇
「御館様。竹中半兵衛を迎えるおつもりなら、織田信長も黙ってはおらぬかもしれませぬ」
使者が退出した後、源五郎がそう告げた。
義信は書状を机へ置き、若い近習を見た。
「ほう。なぜそう思う」
「織田も美濃を狙っております。半兵衛ほどの働きを見せた男なら、織田の耳にも入っているはずです。もし竹中が織田へ仕えれば、美濃を攻めるうえで大きな助けとなりましょう」
「そのとおりだ」
義信は大きく頷いた。
源五郎は続けた。
「それに、岩村や苗木は武田との縁がありますが、美濃の国衆には織田と通じる者もおります。半兵衛を得るために動けば、武田が美濃へ手を伸ばすつもりだと悟られかねませぬ」
「悟られて困るか」
源五郎は少し考えた。
「……困る場合もございます。武田が美濃を狙うと分かれば、斎藤家は備えを固め、織田も早く動こうとするでしょう」
「うむ。なかなかよく見ておるな」
義信は地図を広げた。
岩村、苗木、そして稲葉山。
その西に、織田信長が本拠とする小牧山がある。
信長はすでに尾張の大半を押さえ、美濃へ勢力を伸ばそうとしていた。
永禄十年には稲葉山城を攻略し、美濃を手に入れる。
前世で学んだ歴史どおりに進めば、その後の信長は一気に天下へ近づく。
だが、今はまだ永禄七年だ。
美濃を巡る争いに、割り込む余地は十分にある。
「源五郎。俺は信長より先に美濃を取りたい」
義信がそう告げると、源五郎は背筋を伸ばした。
「……織田と戦になることも、お覚悟のうえで?」
「無論だ。むしろ、いずれは織田そのものを手に入れるつもりだぞ」
「織田家を、でございますか」
「ああ。信長を討ち取るつもりはない。あの男も家臣にする」
源五郎は思わず言葉を失った。
信玄を家臣にしただけでも前代未聞なのに、今度は織田信長まで従わせるという。
しかも義信は、冗談を言っているようには見えなかった。
「御館様。織田信長は、桶狭間で今川義元を討ち取った男にございます。容易に屈するとは思えませぬ」
「だから欲しいのだ」
義信は笑った。
「桶狭間の勝利は偶然だけではあるまい。兵の動かし方も、機を見て決断する胆力もある。あれほどの男を殺してしまっては惜しいではないか」
「……御隠居様と同じお考えでございますな」
「父上も最初はそう言われたぞ。今では立派に俺の下で働いてくださる」
源五郎は苦笑した。
「御館様。信長まで家臣になされば、御隠居様と合わせて随分と扱いの難しい方々が揃いますな」
「はっはっは! それも天下取りの楽しみの一つよ!」
義信は豪快に笑った。
だが、次に口を開いたときには、真剣な声へ変わっていた。
「もっとも、今すぐ織田と戦うつもりはない。まだ武田の家中をまとめている最中だ。北には上杉がおり、東には北条、西南には今川もおる。むやみに敵を増やすわけにはいかんからな」
「では、まず遠山の者たちを通じて、美濃の様子を調べるのでございますか」
「そうだ。兵を進める前に人を動かす。半兵衛を迎え、遠山と結びつきを強め、美濃の国衆が何を望んでいるかを知る」
義信は地図を指で叩いた。
「俺が欲しいのは、焼け野原になった美濃ではない。城も町も田畑も、そこで暮らす者たちも含めた美濃だ」
源五郎は深く頷いた。
「承知いたしました」
「それから、お前にも働いてもらうぞ」
「某に、でございますか」
「ああ。美濃へ行ってもらいたい」
源五郎の表情が変わった。
「岩村へ?」
「まずは岩村だ。景任殿へ正式な書状を届け、その足で苗木の直廉殿とも会ってくれ。半兵衛のことも調べてほしい」
「承知いたしました。ただし、御館様。半兵衛殿のおられる場所が分かったとしても、武田へお招きできるとは限りませぬ」
「分かっておる。まずは話を聞け。あの男が何を望んでいるのか、それを知らずに仕官を求めても始まらんからな」
義信は源五郎の肩を叩いた。
「それに、お前と半兵衛が顔を合わせれば、面白い話ができそうではないか」
源五郎は困惑したように首を傾げた。
「某など、竹中殿とは面識もございませぬが」
「だからこそ会わせたいのだ。天下を取るには、頭の切れる若者が何人も必要だからな」
義信は楽しそうに笑った。
◇
夕刻、義信は母である三条の方を訪ねた。
母は息子の姿を見ると、静かに微笑んだ。
「義信。家督を継いでから、随分と忙しそうですね」
「はい。父上が立派な家を築いてくださったおかげで、仕事が山ほどございます」
「その父上から家督を奪ったのは、あなたでしょう」
「……母上まで、そのようなことを仰いますか」
義信が苦笑すると、母は小さく笑った。
しかし、その眼差しには心配の色もあった。
「父上と争うと聞いたときは、どうなることかと思いました。二人とも生きていてくれたからよかったものの、もし取り返しのつかないことになっていたら……」
「申し訳ございません」
義信は素直に頭を下げた。
「ですが、俺は父上の命を奪うつもりなど、最初からありませんでした。あれほどの名将を失えば、武田の損ですからな」
「あなたは昔から、言い出したら聞かないところがありました。でも、近頃は少し変わりましたね」
「どのように?」
「よく笑うようになりました」
義信は思わず顔を上げた。
母は穏やかに続けた。
「以前は父上と意見が合わぬたび、険しい顔をしていました。今は大きなことを言いながらも、楽しそうにしている。何かよいことでもあったのですか」
「……生きているうちに、やりたいことをやろうと思いまして」
六十五年を生きた前世の記憶が、胸をよぎった。
定年まで教壇に立ち、道場で弟子を育て、人生をやり切ったと思っていた。
それが今、若い身体で戦国時代にいる。
しかも、歴史上では悲劇の最期を迎えるはずだった武田義信として。
こんな巡り合わせを笑わずにいられるだろうか。
「母上。今日はお願いがあって参りました」
「何でしょう」
「京の三条家との縁を、少しお借りしたいのです」
母の表情が変わった。
「京へ使者を送るのですね」
「はい。公方様へのご挨拶とともに、朝廷へもお近づきになりたいと考えております。ただ、俺は京の公家衆との付き合いに不慣れですので」
「それは父上の方が詳しいでしょうに」
「父上にも相談いたしました。ですが、母上のお力もお借りしたい」
義信は正面から頭を下げた。
「天下を取るには、武田の武勇だけでは足りませぬ。京との縁も大切にしたいのです」
母はしばらく息子を見つめ、やがて頷いた。
「分かりました。京へ送る文については、私からも力を貸しましょう」
「ありがとうございます!」
「ただし、義信。一つ約束してください」
「何でしょう」
「父上と力を合わせると決めたのなら、もう互いに槍を向けるようなことはしないでください」
義信は笑みを浮かべた。
「ご安心くだされ。今度からは、父上と一緒に敵へ槍を向けますので」
母は呆れたように息を吐いた。
「……まったく、親子揃って戦のことばかり」
義信の笑い声が、静かな部屋に響いた。
◇
翌朝、躑躅ヶ崎館の広場には三組の使者が集められていた。
一組は京へ向かう者たち。
一組は東美濃の遠山家を訪ねる者たち。
そしてもう一組は、信濃の伊那方面へ向かい、東美濃との連絡路を確かめる者たちだった。
義信はそれぞれに書状を渡し、最後に源五郎を呼んだ。
「源五郎。美濃では無理をするな。半兵衛の居場所が分からねば、それでもよい。ただし、分からなかった理由まで調べて帰ってこい」
「承知いたしました」
「それから、遠山の者たちにはよく礼を尽くせ。父上の代からの縁があるとはいえ、俺は新しい当主だ。まずは信用してもらうところから始めよう」
「はっ」
源五郎は深く頭を下げた。
その様子を見ていた信玄が、義信へ声をかけた。
「義信。京へ使者を送り、美濃へも人を出す。そなた、随分と手広く動くつもりじゃな」
「父上。天下を取るには、まず天下の様子を知る必要がありますからな」
「なるほど。だが、一度に何もかも手に入ると思うなよ」
「心得ております」
義信は父へ向き直った。
「ですから父上には、北の守りをお任せいたします。上杉輝虎が動いても、甲斐へ手を伸ばせぬようにしていただきたい」
「……わしに面倒な仕事を押しつけて、そなたは美濃で人集めか」
「父上なら、俺より上杉をよくご存じでしょう?」
「それはそうじゃが」
「ならば適材適所ですな!」
義信が笑うと、信玄もとうとう吹き出した。
「はっはっは! まったく、わしを使うことに遠慮がない奴じゃ!」
「遠慮しておっては、天下など取れませぬぞ」
二人が笑い合うなか、使者たちは次々と馬へ乗った。
義信は京へ向かう一行を見送り、それから源五郎へ視線を向けた。
「源五郎!」
「はっ!」
「半兵衛に会えたら、こう伝えてくれ」
義信は口元を緩めた。
「稲葉山城を奪えるほどの男が、主君に恵まれずに終わるのは惜しい。武田義信は、お前の才を欲しがっているとな」
源五郎は深く頷いた。
「必ずお伝えいたします」
「それから、もう一つ」
「何でございましょう」
「織田信長の動きも、よく見てこい。俺はあの男を殺すつもりはないが、天下を争うなら、いずれ必ずぶつかる相手だ」
源五郎は真剣な顔になった。
「御館様は、織田を滅ぼされるおつもりですか」
「織田家を滅ぼすというより、独立した大名としての織田を終わらせるつもりだ」
義信は西の空を眺めた。
尾張には、織田信長がいる。
その下には柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、滝川一益をはじめ、優れた武将たちが仕えていた。
いずれ天下統一へ向かう過程で、信長が使いこなしていく人材である。
それを今、武田のものにできればどうなるか。
義信の胸が躍った。
「信長には信長の天下がある。だが、俺にも俺の天下がある。どちらが上か、いずれ決めねばならんだろう」
源五郎は深く頭を下げ、馬を進めた。
その背中を見送った義信の隣で、信玄が静かに口を開いた。
「義信。そなたは本当に、信長を家臣にするつもりか」
「はい」
「わしだけでは足りぬと申すか」
義信は父を見た。
そして、腹の底から笑った。
「父上! 天下は広いのですぞ! 父上お一人では、いくら名将でも身体が足りませぬ!」
信玄はしばらく息子を見つめ、やがて大声で笑った。
「はっはっは! よかろう! ならば、わしも見せてもらおうではないか。そなたがどこまで人を使いこなせるのかをな!」
義信は力強く頷いた。
父・信玄を家臣にし、今度は竹中半兵衛と織田信長まで狙う。
甲斐の若き当主が、天下へ向けて新たな一手を打った。
そして数日後。
東美濃へ向かった源五郎の一行は、岩村城へ続く山道で思いがけない知らせを耳にすることになる。
竹中半兵衛に近い者が、岩村の城下を訪れているというのだ。
その目的は、まだ分からない。
だが武田義信が求める男への道は、思ったより早く開こうとしていた。
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