第16話 氷室
「ひえええ!」
氷室の中に通されると――あまりの寒さにこんどは朱考が悲鳴を上げる番だった。
青の生まれ故郷の西方の冬を思い出すような冷気が青たち一行の肌を撫ぜる。
さきほどまでの地獄の暑さはすっかり消え失せ、何か羽織るものが欲しいくらいだ。
冷気の出もとは奥にある地下につながる階段からだ。
奥までご覧になられますかと言われたので、蔡堅に導かれるまま、歩みを進める。
「お寒くありませんか」
青は首を横に振ったが、朱考は一歩も進みたくない様子だ。
「寒いというのは、こんな寒さのことなのですか……」
南陵の出身とはいえ朝夕に寒さを感じるときもあったろうが、息は白み、指はかじかんで動かず、じっとしていれば命の危険を感じるような寒さは今まで触れてこなかったのだろう。明らかに前に進むことに腰が引けている。
「朱考、大丈夫か?」
ふだん彼に守られてばかりな青は立場が逆転したことに少しだけ面白みを感じてしまった。
「……だ、大丈夫です」
皇帝に気遣いをさせるなど、それだけでもう護衛失格である。朱考は必死になって身体を震わせながら足を一歩前に出す。
扉を開き、地下を暴く……蔡堅が手にした灯りを高く掲げた。
そこには真っ白い――子供の背丈ほどもある角切りの氷が、あたり一面、整然と並んでいる。
「へえ……!」
青が漏らした言葉がわんわんと反響する。その音の広がりからいって、地下はとんでもなく広いようである。
この地下は上の湖とつながってるのですよ、と蔡堅は説明する。
「冬至を過ぎたころから、湖の水をここに下ろします。それから、ずっと向こうに風窓――仕切りがあるのですが、それを取ると地上からの冷たい風を取り込めるようになっていまして、そうして氷結するのを待つのです」
当たり前だが、真冬のころの凍てついた冷風でなければ水から氷はできないし、冬であっても日向にあたった風が流れれば逆に溶けてしまう。天気の様子を見ながら風のあたりを強めたり弱めたり、さらに寒さが強くなって湖に氷が張ればこれを切り出して――この地下室じゅうに氷を敷き詰めるのだという。
「そうして出来た氷に菰(藁や蔦で出来た敷物)をしき、冷気を含ませてひとつところに集めると、夏まで溶けずに保つのです。……もっともこれでもけっこう溶けていて、冬のころよりずっと少ないのですが」
蔡堅は口に布をしながら喋っている。少しでも溶ける量を減らすためなのだそうだ。
いまは青がいるから灯りの火をもちこんでいるが、ふだんは煮炊きの火すら許されないのだという。
「とんでもない量だが、これをおまえ一人で?」
青の言葉に、蔡堅は首を横に振る。
「いえ、冬のころは十人ほどでやります。夏の見張りは私がここで、ほかにもう五人ほどと交代しながら」
「……多くの人手がかかっているんだな」
寒さのせいで青の言葉が重くなったのを察したのか、蔡堅は「上にあがりましょう」と一行を促す。
だが青が考えていたのは、それだけではない。
階段を上り、氷室の上部に出てくると、そこには椅子があって明るいところへ、暖かいところへと上がっていくと、いつの間にか縄から抜け出した珀が一行を出迎えた。
「ああ、珀!」蔡堅が感激する「あなた、私を待っていて――ちっ」そのまま抱きしめようとするが、するりと珀に逃げられた。
「お寒かったでしょう」
珀が青を気遣うようにそう言うと、卓台に人数分、暖かい茶が置かれている。
どうやって手に入れたのか分からないが、湯気の立つそれをみなが黙って飲み始める……慣れている蔡堅以外はしばらく身体を温めるための時間が必要だった。
「それで、陛下」落ち着いた頃合いを見計らって、蔡堅が口を開いた。「氷をお望みとのことですが、いかほど切り出しましょうか」
「太鑑の見舞いにはどの程度あれば?」青が道案内をした宦官に尋ねる。彼が木桶ひとつ分もあればと答えると、青も頷く。
「では木桶にひとつ」
その言葉に、まわりのみなが驚いた。
蔡堅は顔色こそ変えなかったが「畏れながら、陛下の臣下への優しい心遣いに太鑑様もまた感激しておられますでしょう」と恭しく傅いたが、「しかしここまでご足労いただきましたのですから、陛下のぶんもお持ちになられては?」と提案を付け加えた。
「先の景帝様のころはこのような氷室があと二つ三つあって、夏ともなれば翼宮のあちこちに氷の柱を置かれたそうです。先帝――いや、頴のころにはここだけになってしまいましたが……」
「頴のころは使わなかったのか」
青の言葉に、蔡堅はまた顔を曇らせる。
「あの方は……あまり冷たいものをお好みになりませんでしたので」
偽帝である頴がまだ景帝の寵姫であったころ。生まれた子供は霊亭のひとりのみであったが、その前に二度懐妊し、二度とも流れたらしい。そのとき医師から、身体に冷えがたまる体質であると指摘されたのだそうだ。
「しかしこのところ暑くもなりましたし、寝苦しい寝所を安らかにする程度は毎日お届けいたしますので」
その提案に、青は少し考え――いらぬと答えた。
皆がどうしてという顔をしている。言葉が足りない気がして、さらに逡巡してまた口を開く。
「朕にはこれがとても贅沢に見える」
目の前の蔡堅の仕事を否定するつもりはないけれど、それでもやはり、青は言わずにいられない。
「夏は暑いものだ。みな我慢している。なのに皇帝だけがわざわざ何十人という人を使って、冬のあいだじゅう氷を作り出し、泥棒をおそれて警備をして……それが信じられないほどの贅沢に見える」
蔡堅は恭しく頭を下げたままだったが、隣の珀はにこりと笑って青に茶のおかわりを注ぎ――そして口を開いた。
「贅沢をするのが怖い?」
「怖い……?」
青ははじめ意味が分からなかったが、言葉をかみしめてみる。
「……そうだな。確かにそうだ。……寒いときに寒くない、暑いときに暑くないのが当たり前になってしまうと、この暑いなか、汗を流して働いている家臣たちのことを忘れてしまうかもしれない。それが怖い」
口に出してみて、ようやく自分のこの畏れが分かる。
青の叔父である景帝も、あの頴も、恐怖によって家臣たちを支配し、まわりの諫言もきかず贅の限りを尽くして放埒な暮らしを楽しみ、その結果、国は乱れた。
彼女を打倒した青は同じ繰り返しをするつもりはない。
だから、そのきっかけになる物が一つでも自分の中に入るのが恐ろしいのだ。
「陛下のお心、じつにお優しいと思いますが」
だがその決意を目の前の珀が笑う。
「暑いなか、毎日働かれておられる陛下から賜った氷を、病でお休み中の太鑑どのが使うのは相当な勇気が要るでしょうな」
優しい顔はしているが、言葉は的確に青の心をちくりと刺した。
唇がへの字になっていくのが自分でもわかる……。
「過ぎるわよ」
「いや、珀の言うことも正しい」
蔡堅は珀を咎めたが、青は首を横に振る。皇帝が皆のために我慢すれば、人民は今よりもさらに我慢しだすだろう。部下が働くことは望ましいが、病人まで働かせるなどは青の本意ではない。
無駄使いもいやだが、使わなければみなを締め付ける。なんとも皮肉な話で、答えが無い。
「結局どう使ってもどこかから文句が出るのです。所詮は氷、無駄に溶かしてしまうよりも楽しく使ってしまえばよろしいのですよ」
「……お前が涼みたいだけじゃないのか?」
負け惜しみに一言いうと、珀は文字通り涼しい顔で無視を決め込む。
「相変わらずね」
蔡堅がそう言ってため息をつき――かぶりを振って、青に向き直った。
「陛下、さきほどは臣も自らの仕事から惜しいと思う心がございましたが、陛下がお悩みなさるほどのものではございません。仰せの通りただの氷なのですから、使うも使わぬも御心のままでよろしいのですよ」
丸く収めようとしてくれているのはよくわかる。
だがやっぱり、なんとなく――
このまま珀に見透かされているようなのは、癪だ。
「いや、やっぱり使う」
「ほう?」
それは意外な言葉だったらしい。珀は楽しそうに、青の挑戦を受けるように頷いた。
「そうでしょう。そうでしょう。ではまずは臣めが毒味を」
「氷にも毒があるんですか」
珀の言葉に目を丸くする朱考に「あるわけないでしょ」と蔡堅が突っ込むが、すぐに青に向き直る。
「かしこまりました。では、いかほど?」
再び問うた蔡堅に、青はひとことだけ、口を開いた。
「全部だ」




