第17話 第三章 エピローグ
それから数日後。
暑さもさなかの浪の都で、ちょっとした事件がおこった。
都にあるいくつかの繁華街に、早朝から宮城の兵たちが何人もやってきたのだ。
彼らは繁華街の大通りに居座ると、通行するものたちを邪魔だと排除し始めた。
酒色の町にあって兵隊が通行人を閉め出すとは何事かと騒ぎになる。
皇帝の行幸かも、という噂が最初に流れたが、兵たちは何も答えない。
そういうときは前もっての先触れがあって、たいていは何か始まる前には分かっているものだ。
だが今回はよほどの箝口令が敷かれているらしく、だれもが無言をつらぬいている。
やがて早朝からは朝を超え、昼前になり、街が動き出す。おおぜいの見物客がわけもわからず――兵士たちが集まっているという情報だけで集まり出す。なにか物騒なことでも始まるのかと口の端に上がったが、お調子者たちが兵士たちに絡んでいっても誰も相手もしないあたり、そこまで殺気だってもないらしい。
「さあ、どけどけ!」
そうしているうち、こんどは大きな馬車が何台も訪れた。
どうも何かえらいことが始まりそうだと口々に噂をしていると、先に集まっていた兵が手際もよく馬車にあつまり、その荷をほどき、菰につつまれたそれを積み上げていく……。
「なんだ……?」
できあがった物をみて、見物客が喚声を上げた。
それは巨大な氷の柱だった……なんと高さは十間(18メートル)ちかくある。
この暑い夏の中、こんな大きな氷を保ってくるだなんて。いったい何がどうなっているのか。
「勅賜!」
……やがて兵士たちが大声を張り上げだした。
「勅賜! 勅賜!」
その声は居丈高なものではなくて、みなを煽るような、にぎやかな声である。
「盥をもってこい! 天子様から氷を賜ったぞ! 天子様の恩恵じゃ!」
ようやく事態が飲み込めた人々は――わっと声を上げて一気に散らばっていった。
さっそく誰かが木桶や盥をもってくると、大きな兵士がひとり、氷を斧で砕き、なみなみとよそわれる。
子供たちが手を出すと、兵士たちがひとかけをその小さな手のひらにのせる。
出先で通りかかった見物客はその上衣を脱いで、もらった氷をくるみ、あわてて家へと小走りで帰る。
喚声が上がり、笑い声が聞こえる。
それはわずか数刻の出来事だった。
昼を過ぎるころには氷柱はすっかり売り切れ、あるいは融けて消えてしまったが……ほんのわずかなひとときだけ、市井の人が暑さを忘れ、その冷たい感触を楽しんだのだった。
*
「やれやれ……」
その日の夜。
翼宮の湖にめんした露台では、珀と朱考がふたりして月を見ながら酒を飲んでいた。
「もうすっかりぬるいな」
左手に月琴を抱え、右手に杯を手にしながら珀は酒の口当たりの悪さをぼやく。
夜も更け、風がすこし出てきた気がするが、それでもやっぱりまだまだ蒸し暑い。
「まったく陛下も意地悪だ。いくつか残しておいてくれればよかったのに、全部使われるとは……」
珀はそうぼやきながら、氷のない水をはった盥に酒瓶を入れる。
「都の人たちは口々に陛下を称えているそうですよ」
暑いなかの浪の都に降ってわいた涼味の恩恵に浴した人々は青に大いに感謝しているという。
だが朱考の言葉に珀は、「なに、あしたにはまた暑い暑いと言い出すだろうさ」と、と皮肉たっぷりに切り捨て……しかし、すこしして、
「まあ……氷のように消えるとしても、よき思い出は残る、か」
と、取り直すように独り言を呟くのだった。
朱考と珀はじっと湖に映る細い月を見続ける。
しばしの間、会話が途絶える――珀は杯を置くと、会話のかわりに月琴をちろちろと弄ぶように爪弾きだした。
珀の空いた杯に朱考が酒を注ぐ……と、彼は、珀の月琴が鳴るのを気にもせず、こう尋ねた。
「陛下はよい帝の道を歩んでおられますか?」
珀は少し感心して、目の前の男を見つめる。
朱考は直情で愚かではあるけれど、相手がいま見ているものが何かを察することができる男だ。
珀がまさにいま考えていたことを言い当ててしまった。
だが、珀は彼のその問いに首を横に振った。
「よい帝にはなられるさ。だが……」
「だが?」
「……もっと遊べばよいのにね」
珀はそう言って、杯を手にして、ぐいと呷る。
「遊ぶ、ですか」
朱考は言葉の意味がわからないらしく、首をかしげ、杯を重ねる。
珀はさらに杯を進め……やがて、ぽつりと漏らした。
「天子様というのはね、みんなみんな、遊ぶのが下手なのさ」
そうして珀が口を閉ざすと、ふたたびの沈黙は長かった。
しばらく二人で黙ったまま、月を見上げて酒を飲んでいると、うしろから人の気配がする。
「まだ飲んでいるのか」
そこには彼の仕える――愛しい皇帝がいる。
「おや、これは」
珀は朱考とともに立ち上がり、そして拝跪する。
供の宦官は置いてきたらしい。珀の胸の内に悪戯心が湧き上がる。
「夜も更けましたのにお一人とは。眠れませぬなら添い寝でもしましょうか」
珀の言葉に青は怒りもせずさらりと「いや、仕事だった」と答えた。
「……それはお疲れ様でございました」
そう珀は応えたが、心の痛みがどこかにある。
可哀想な子供。人形ではないのに、人形のように勤勉にふるまいたがる子供。
――もっと遊べばよいのにね。
さっき言った言葉が口の中でまた浮かび、口の中で溶け――皮肉や諧謔に生まれ変わるはずだったが、珀が口を開く前に皇帝はにこやかに笑った。
「いや、氷のおかげで涼しかった。今日いちにち、快適に過ごせただけでも十分だ」
「それはよろしゅうございました」
「おれはもう寝るが、お前たちはまだ飲むだろう。酒を出すよう言ってある」
「これはこれは……お心遣い、痛み入ります」
珀は少し驚き、頭を下げる。が、青は鷹揚に頷き――そして皮肉っぽく笑った。
「なに、新入りの歓迎会の差し入れだ」
「新入り? 誰か増えるのですか?」
朱考が尋ねると、正確には違う、と青が首を横に振る。
「秋まで仕事がなくなったというわけで、しばらく宿下がりを許したのだが、秋までは翼宮で働くと言ってな」
人の気配がする。
朱考が「ああ……」と納得して頷く。珀も分かったが答えない。
宮内とはいえ、皇帝が一人で出歩くのは危ないと思ったが、けして一人だったわけではないのだ。
「用事を思い出しました。そろそろお開きにしましょうかな。朱考、酒はもらっておきなさい」
珀はいやな予感がした。
もっと遊べばいいのにと言ったが、こういう遊び方はよくないと思う。
いや、まったくよくない――
「ああ珀! 会いたかったわ! 私の愛しい人!」
月はすっかり西へと傾いている。
お待たせしてすみません。
コツコツ書いてますので応援していただけると幸せです。




