第15話 凌人(りょうじん)
宦官が言うには、氷室は翼宮の北のはずれにある、小さな池のちかくにあるのだという。
「ずいぶん遠いのだな」
「はい。火気だけでなく、人気もないところの方がよいそうでして……」
案内役の宦官にみちびかれ、一行は前に進む。
華やかな楼閣(建物)を抜け、庭師たちが造設した林から外れる……雑草をかき分け、けもの道のように誰かが踏み倒した痕跡のあとを追って進めば、後宮にいるはずなのに迷っているような不安にすら襲われる。
「荒れているな」
青はぽつりと呟いた。夏の盛りだというのに木々には勢いがない。
「……雑草が養分を吸い取ってるんでしょうな」
「……見えて参りました」
宦官がそう言うと、草生い茂る道の向こうに小さな池が見えてきた。
小さいといっても、翼宮のど真ん中に造成されている湖と比べれば小さいというだけで、一周はかなりある。
その池から少し離れたところ……宦官が指さしたところに建物があった。
小さな平屋のようだが、人が住むような雰囲気はあまりない――あれが氷室というやつか。
「氷室には地下があって、冬のあいだそこで氷をたくさん作って、保管しておけば……溶けるのが遅くなるそうです」
「……なるほど、確かにもう涼しいですね」
さっきまで行楽気分で笑いながら青に従っていた朱考が、唐突に真顔になってそう言う。
「そうか?」
青にはよくわからない。建物から冷気でも漏れているのだろうか。
目の前の氷室は小さいし、人気も無い。こんなところに氷があるのかも疑わしくなってくるほどだ。
「凌人は留守か?」
ありえません、と道案内役の宦官が語る。
「先に使いを遣らせてますし、なにより凌人は氷室を守るのが仕事です。留守などということが……凌人どの……! 凌人どの! 陛下のご臨幸ですぞ!」
かれはそう言って、あたりに大声で呼びかけるが、やはり反応はない。
青も周囲に目を遣るが、何かがいるような気配などわかりもしない。
「珀、おまえ何か……」
青は後ろにいるはずの珀を目をやったが、先ほどまでそこにいたはずの彼が忽然と消えていた。
姿もかたちもない。
「あいつめ、逃げ……えっ?」
悲鳴が聞こえる。いや、悲鳴というよりは……
「わーっ!」
珀の絶叫が林じゅうに響き渡り、夏の空に消えた。
驚いて振り向くと、誰も居ない。
……いや、少し向こうの欅の雑木林に人がくくられている。
「は……珀?」
あわてて一行が近寄ると、それはまぎれもない、あの神出鬼没の仙人、珀鎔珂であったが……四肢に縄をうたれ、一点にしぼって……まるで屋台で持ち帰りの粽を頼んだときのように吊されている。
「ほごご、ほごっ」
おまけによく見れば珀の口には太い縄の結び目が猿轡として噛まされていて、太い枝に吊られた彼が何かもごもごと口に出そうとするたびくるくると回り出すのだ。
「おまえ……こんな無様な姿になって……」
青は声が詰まる――混み上がるその笑いを喉の奥で殺すのに必死だ。
「むーむー」
「悪いやつが報いを受ける。生きてるとこういうこともあるんだなあ」
「陛下……」
「今日はいい日かもしれない。この場に太鑑がいないことが惜しいが……」
「陛下」
朱考の声が少し緊張感をはらんだ。この動物的に勘の鋭い男が、何か警戒していることは分かっている。
分かっているが、どうしても目の前に起こっている痛快事に笑みがこぼれてしまう。
朱考は、御免とひとこと呟いて青の前をふさぎ、そして手にした小石を雑木林に向かって投げた。
しゅっ、と空気を斬る石の音が聞こえたかと思うと、ばさっ、と大きな葉擦れの音が響く。
――まさか、樹上を跳躍して石を避けている?
朱考が石を投げること数度、そのたび響く葉擦れの音が、遠ざかりもせずむしろ近づいている。
青の認知できない戦いだったが、明らかに分が悪い。
ばさっ! とひときわ大きな音が上がった。
「陛下」すっと朱考の手が伸びる。
気がついたら青は抱きかかえられたまま、はるか後ろに飛び退っていた。
「ご無沙汰ねえ、珀鎔珂!」
声が聞こえた。男の声――少し甲高い男の声。
見ればそこには大きな――いや大きい、ゆうに九尺(2メートル)はあるのではないか――男が、珀のそばに立っている。
「あいかわらずいい男ね、んもう!」
そういって彼は、叫びも無視して珀の顔めがけて頬ずりをはじめだした。
「んーっ! んーっ!」
「りょ、凌人どの……その……」
猿轡をかまされたまま叫びつづける珀に戸惑いつつ、宦官が精一杯の声を上げ、皇帝の面前であることをなんとか告げようとするが、男の頬ずりは止まらない。
すりすりと肌のこすれる音が聞こえる……。筋骨隆々の大男と、女みたいな男(拘束)の頬ずり――そのあまりの異様さに、誰も言葉もないまま、その場で起こる凄惨な行為を見続けるほかない。
「んーっ、むぐーっ! うーっ……」
珀もじたばたと身体を動かし抵抗するが、何もできることはなく――やがて抵抗を諦め、ぐったりと意識を落とした。
「……」
誰もが沈黙する中……。
男が、ふう……と、満足のため息をついた。
それから彼は青に向き直り、膝を折って地に額ずき拝跪する。
「お初にお目もじいたします。わたくし先代の帝より凌人を拝命しております、蔡堅と申します」
*
蔡堅は年の頃なら三十を過ぎたころだろうか。青が仰ぎ見ないといけない朱考よりさらに大きく、腕は丸太のように太い。
まるで大牛のようだ。
服を見れば宮人(陽器を処理された者)であるし、声もまた宮人特有の甲高い声だ。宦官というのは去勢されてしまうと身体もひとまわり小さくなってしまうと言うが、それを一切も感じさせないほどの偉丈夫である。
「おまえ、珀――仙人とはどういう間柄なのだ」
青は蔡堅に近寄り、拝跪を解くと、臣下に対して礼を施すよりも、真っ先にいちばん聞きたいことを聞いてしまった。
「はい、愛しあっております」
「むーっ!」
蔡堅のうっとり夢見心地な声に、意識を失っていたはずの珀が抗議の声を上げる。
「なるほど……」
なるほど珀はこれが理由で氷室に来たくなかったのだ。
恐るべき隠密のわざに加えて珀へのこの愛情はまあ、珀にとっては鬼門だろう。
「氷室は夏になると氷泥棒がかならず現れますので。そのため凌人は相当の手練れがなるものでして」
「ああ……」珀はふたたび頷く。珀の氷泥棒の姿は容易に想像がつく。
「ええ、それで夏の暑い時期なら、かならず珀に会えるこの仕事を、先の陛下に志願いたしましたの!」
「なるほど……?」
青はみたび頷いてしまった。
つまりこうだ。
蔡堅は珀を愛している。だが珀はそうではない。
追う蔡堅に逃げる珀。しかし広い宮内ではどうあっても捕まらない。
だから蔡堅は氷室の守人になることを志願した。ここなら夏になれば絶対に涼を求めに珀の方からやって来ざるを得ないのから。
「……七夕みたいだな」
青のつぶやきに、いやそれはどうでしょうかと他のものが首をかしげそうになったが、ただひとり蔡堅だけがうんうんと首がもげるほど頷いている。
「わたしが彦星で鎔珂が織姫……いいえ、あるいは逆かしら?」
下の名前で呼ばれた珀はもはや息も絶え絶えで、木に吊られて回転している。
朱考はまだ警戒を解いていない。青と蔡堅の間に入ってじっと見つめている。
事態の膠着に見かねた宦官が蔡堅に具申する。「蔡堅どの、陛下が氷をご所望です――それと、陛下が氷室をご覧になりたいと」
「それは」臨御の理由に蔡堅の顔がほころんだ。「ご足労をいただきました。新たな帝に氷を献上するだけでなく、拝命しました仕事をご高覧いただけますとはこの蔡堅、望外の喜びにございます」




