第14話 珀鎔珂、溶ける
「暑い……」
端午が終わり、黴雨を抜ければ浪の国の季節は一気に夏になる。
浪の夏は、とにかく、茹だるように暑い。
黴雨――長雨の続いたあとのかんかん照りで地中にある水気が一気に上がって空中に漂いだす。おまけに風がこないものだから湿潤な空気はちっとも出て行ってくれずに、日夜を問わずじくじくと身体にまとわりついて離してくれない。
青にとっては初めての浪の都の夏であったが、すでに夏の入り頃にはもうへばってしまいそうになっていた。
「まるで蒸し上がった饅頭だ」
青は目を閉じてじっと暑さに耐えている。
――去年までいた西域は夏でも冷涼で過ごしやすかったが、都の暑さがこんなにひどいとは。
端午のころからだらだらと続いていた夏風邪もようやく治ったのに、こんどは暑気に中ってしまいそうだ。
後宮なのだから多少は何かの暑気対策でもあるのかと思ったが、あるのは宦官たちに大きな扇をあおがせるだけである。
「あー……」
この時期、浪の都では街の風紀の乱れが殊の外取り沙汰されることが多い。
市井の誰もが暑さに参っている。暑いと頭が働かない。喧嘩が起こる。たいがいの喧嘩は仲裁を買って出る者が現れるが、猛暑の前にはそんな仲裁役もやかましいと怒り出す。さらに喧嘩が拡大する。しまいに誰も彼もがうんざりしてきて、裸になってその辺に寝っ転がる人間まで出てくる始末である。
しかし青は皇帝である。
自堕落に身体をなげうってこの酷暑をやりすごす――なんてことはできるはずもない。
決済するべき事項はいつも通り山のようにあり、考えるべきことは海よりも広い。
それに、考えることは日々の仕事だけではない。
先日の間諜騒ぎに端を発する、南陵についての懸案事項。
間諜の件については南陵の豪族たちと呂包が疑わしい。だが明確な証拠は薄い。理由も分からない。じっと待ってさらなる出方をうかがう方針ではあるが、注意深くあらねばならない……そうしたややこしい話の中、皇帝のもとにさらにややこしい話が舞い込んできた。
青の即位後、それまでの複雑だった税制を昔の単純なものに戻す宣を行ったが、民衆に伝えずに着服をはかる害吏があとをたたず、それがために北方で乱が起こったという。
父、蘇武はそちらにかかりきりになっている。害吏の取り締まりも含めて出兵した方が良さそうだという。
南方のつぎは北方。忙しいことだが、父は不平などおくびにも出さずに軍を編成し、人選にかかっている。
そんな偉大な父の息子である青も暑い程度で仕事の手をとめるなんてことができるはずもない。
だいたい、ただでさえ人が足りないのだ。
新生の浪は人手不足がかなり深刻な状況になっている。
外廷では官僚たち、内廷では皇帝の日常を調える女官たちが決定的に足りない。
上前をはねて蓄財にはしる害吏たちを取り締まり、悪質なものは首を刎ねるほどの厳しい
地方官吏達の綱紀を粛正する旨の発布を行い、腐敗のあった地域には新たに中央から県令を送り出している。
優秀な人間を都に囲わず地方に散らすことは不安が残るが、ここを吝嗇ると先のような害吏を生み出すことになる。
女官のほうはさらに悩ましい。衣食住もろもろの人手もそうだが、宮中の祭儀は女官が行うものも多い。
しかし迂闊に女官を増やすわけにはいかない。先のとおり、間諜間者の入り込む隙を与えてしまう。
それに、なにより――
「ああ、ああ、もう私はだめだ。こんな暑さでは溶けて死んでしまう。どなたかお慈悲をお持ちであるなら、私の墓碑には夏に殺されたと刻んでください」
「うるさいぞ珀!」
青はさすがに腹が立って珀に怒鳴った。皆が苦労しているのだからと自分も黙々と仕事をしていたのに、こいつときたらさっきから蒸し上がった饅頭だの、ひたすらうだうだと愚痴を言ってる。
「さっきから暑い暑いと! うっとうしい! 床に寝っ転がるな! だいたい、なんだお前その格好は」
「何って……これがいちばん涼しいのですよ」
ごろごろと身体を回転させ、猫のように冷えている場所を探す珀のかっこうといえば、朱の抹胸の上に、比甲という薄く透ける長衣を着ているだけ。男のくせになまめかしく肌を見せるようにしているのが腹立たしいし、なんとなく似合っていると思えてしまうのもなおさらに腹立たしい。
「お前は……」
何か言ってやろうとして青は諦めた。
暑い中で怒ってどうする。さらに暑くなるだけじゃないか。
深呼吸をする。心を凪にすればまた涼しさも感じられ――
「いやあ、暑いですね!」
そういってやってきたのは朱考だ。こいつはさらに破綻していて、男物の汗掛《短パン》の上に、どこから手に入れたのか女ものの緋色に金を散らした上衣という頭の痛い出で立ちで、のしのしと大股に歩いてくる。
「南陵も暑いですが、都はまた別格の暑さがありますな!」
「ああ、黒蓮、悪いのだがこの部屋の定員はは三人までなのだ。これ以上人が増えると体温でさらに暑いというか、暑苦しいというか……」
「なるほど。暑いですからなあ」
「いや宦官がそこにひとりいて、つまりそなたは……聞いているかい?」
朱考は聞いてない。
かれは書房の床にどっかと座ると、どこからくすねてきたのか、酒瓶をひとつと酒杯をみっつ。
さっきまで屁理屈をこねていた珀の顔が変わる。
「陛下、暑いときにだらだらと仕事してもよい結果は得られません。こういう時は酒に限りますよ。冷たい酒をきゅっと飲んで、午睡して、もっと涼しい夕方になってから仕事をするのが一番です!」
「なるほど、暑い国ならではの知恵にあふれた所作……学びがある」
「はぁああああああ……!」
青はとんでもなく大きなため息をついた。
「病気になりそうだ……」
内廷――翼宮に女官たちを入れづらい理由。
それはこの吊儿郎党どもがこんな調子ですっかり居心地よろしく後宮に居座り続け、皇帝の目の前で酒盛りなんかをやらかしていることにある。女官たちが見たら卒倒するに違いない。
……いや、宦官だって呆れている。
現にいま、青のかたわらで扇をあおいでいる宦官も見て見ぬふりをしながら明らかに引いている。
だんだん腹が立ってきた。
行き場の無い男女官たちを哀れみ、無理には追い出さないとは言ったが、こんな図々しい居座られ方をされるのはまた違う。
……いかん。どうも自分も暑さのせいで怒りっぽくなっている。
青は近くにあった湯冷ましを飲み、大きくため息をつき、酒盛りを始めだした連中を尻目にまた机に戻る。
「そういえば太鑑どのはお元気になられたのですか?」
朱考は珀にそう尋ねた。
春襄は青の風邪が伝染ったらしく、長らく伏せっているのだ。
どうなのかねえ、と珀は青の後ろに控えている扇の煽ぎ手に話を振る――青が発言を許すと、その宦官は「まだ熱が出ているそうで、出仕はしばらく先になるかと」と答えた。
「可哀想に」
自分がそうであったのと、おそらく自分が彼に伝染したことを引け目に感じ、青は「見舞いに薬でも贈ってやろうか」と珀に言いつける……と思ったが、珀に作らせた薬を飲ませたら、憤激で死んでしまうかもしれないだろうか。
「あのう……」
宦官が何かを言いたげに口をもごもごとさせている。この頃はようやく自由にものが言える空気が出来てきて、外廷にある武将や官僚たちは闊達に国策の議論を戦わせているが、宦官が後宮内で皇帝に直言するのにはまだ恐ろしさが勝るらしい。
話してよいのだからなと優しくさとすと、不思議なことに、かれはちらりと珀を見た。
つられて青もその宦官の視線のさきにある珀を見る。
珀がものすごく渋い顔をしている。
宦官は一瞬ひるんだが、しかし今度は青の方を見て――意を決したかのように、青にひれ伏した。
「陛下、その、翼宮の氷室から――太鑑様に少し賜ることができませんでしょうか」
「氷室?」
はじめて聞く言葉に、青は宦官に聞き直す。
「はい。冬の寒い時期に氷をたくさん作りまして、それを翼宮のはずれにある氷室に閉じ込めます。すると、夏まで溶けぬのです」
「ふうん……?」
溶けない氷と言われても、氷は溶けるものだろう。万年雪は溶けないが、あれは高い山にあるからだし。
あるいは仙術か何かで作るのかとも思ったが、そんな術があるなら目の前で暑さにへばってる吊儿郎党なら抜け目なく使いまくっているだろう。
青が不思議に思っているのを、話の続きを聞きたいのだと解釈した宦官が、さらに言葉をつなげる。
「氷は天子様のもちものですので、誰も手をつけてはなりません。凌人という管理者が盗人から氷を守っております。その方は皇帝の命にのみ従います。その……それで、その氷を少し、太鑑様に賜れましたらと……」
「いやいや、太鑑様はこの私が薬を作るので、すぐに良くなるよ」
すかさず珀が答えた。「病人が身体を冷やすのはよくないからね。氷なぞもってのほかだ」
「しかし熱が出ている時は少しくらい頭を冷やした方がいいだろ」青がそう答えると、宦官もうんうんと頷く。
「陛下、私が嘘を申し上げたことがありますか」
「お前から本当のことを聞いた覚えがない!」
「そんな、ひどい……」
よよとくずおれて泣く(嘘泣きだ)珀を青は冷ややかな目で見る。
朱考はいまいちこの会話には蚊帳の外のようで、黒い瞳を丸くして、首をひねっている。
「ところで、氷とはなんですか?」
青は思わず「えっ」と声に出してしまった。そうか、南方の出身なら知らないのも当たり前だ。
「氷というのは、その……水が冷たくなると固まるもので……」
あれこれと説明するが、朱考の眉根は寄ったままだ。何もぴんと来ないらしい。
青も説明が難しい。青が生まれ育った東の地は内陸だったから、冬ともなれば長いこと雪と氷に包まれることになる。だからあまりにもありふれていて言葉にしづらいのだ。
……いや、いちいち説明しなくてもいいではないか。
「氷室に行けば分かることじゃないか」
青は立ち上がり、宦官に氷室の場所を尋ねた。翼宮からけっこう歩くようだが、その先に涼しい場所があるのなら悪くはない。
「行かれるのですな。陛下……ではお元気で……臣はここにて陛下のお帰りをお待ちしておりますれば……あ、朱考、首尾良く氷を手に入れたらおかわりのお酒と大ぶりの桶を借りて来ておいで」
おかしい。明らかにこいつは氷室を避けている。
さっきから暑い暑いと言ってるなら、なぜ氷室に行こうとするのに興味がないのか。
おまけに珀は先代の頃から翼宮を根城にする仙人だ。氷室の存在を知らないはずはないだろう。
「……何か隠してるな?」
珀と知り合って数ヶ月、短いと言えば短いが、だいたい何か旗色が悪いときに取る態度も分かってきた。
何か氷室に行きたくない理由があるらしい。
「お前も来い」
行きたくないというなら供を命じるのが王の采配というものだ。思惑通り珀の顔が露骨に渋いものになる。
「いや、私はほら、こんな格好では冷たいところに行くとお腹を壊しますので……」
「なにを子供みたいなことを……行くぞ!」
ぶつくさとなおも言い出す珀の比甲のえりをつかみ、ぐっと引っ張る。
「あっだめですだめです陛下。生地が破れます。えっ破れてもいいとかそんな。ご無体な……」




