第百四十話 フられた事の無い女
紅茶を噴き出したままの体勢で固まっていたシオンだったが、流石に自身の失態に気付いたか、手元にあった紙ナプキンで優雅に口元を拭う。たっぷり、五秒。丁寧に口元を拭った後、ギンっ、という効果音でも付きそうな刺さる視線をアドルフに向け――
「……いや、シオンさん? 何か言う事ないんですか?」
――向ける前、隣の……シオンが噴き出した紅茶をまるっと被った浩太から指摘が入る。少しだけ気まずそうにそちらに顔を向けたシオンの視界に、目元に紅茶の葉っぱを付けた浩太の姿が入った。
「……あー」
言葉に詰まる。それでも、なにかを励ますようにうん、と頷き、シオンが言葉を継ぐ。
「……う、うん。そうだな? 役得、だな? 私の様な美女の口に含んだ紅茶を受け止める事が出来るなんて、コータ、お前は本当に付いている――」
「本気で言ってます?」
「――ごめんなさい」
なんの抑揚も、それどころか溜めすらなく言い切る浩太にシオンが小さく頭を下げる。そんなシオンを冷たい視線で見つめた後、浩太も手元の紙ナプキンで丁寧に顔の紅茶を拭った。
「貴方、噴き出す直前まで前向いていましたよね? なんです? なんで噴き出す寸前に私の方を向くんですか? なんか恨みがあるんですか、私に? あるんだったら聞きますけど?」
「あ……いや、そういうつもりは無いんだが……と、いうかだな? コータ、少し怖いんだが? こ、こう、もうちょっと、にっこり笑ってくれても罰は当たらないと思うんだけどな~、なんて私は思うぞ、うん! だから――」
「紅茶噴きかけられてにっこり笑ってる奴が居るんだったら連れて来てみろよ?」
「――だから……ご、ごめんなさい」
浩太から敬語が抜ける。ついぞ見た事ない浩太のそんな姿に、先程よりも深々と頭を下げるシオン。その姿をジト目で見やった後、浩太は小さく溜息を吐いた。
「……まあ、アドルフ会長に紅茶を噴きかけるよりは幾分マシですけどね?」
「? ――っ! そ、そうだ! アドルフ殿、先程の質問はどういう意味だ? 『失恋した事があるか?』などと……そんな事を聞いてなんになる!」
すっかり浩太の『怒りモード』に萎縮していたシオンだったが、当の浩太のその言葉で思い出したかの様、一気にアドルフに向かって言葉を投げる。面白そうに浩太とシオンのやり取りを見つめていたアドルフだが、シオンのその言葉に視線をシオンに向けて深々と椅子に座りなおした。
「私は商売柄、学術院の人間とも親しく付き合う機会がままある」
「……今の院長にしても先代の院長にしても、ホテル・ラルキアは定宿だからな。それはそうだろう?」
「院長クラスだけではない。そもそも『学術院』に入れる程の人間は――より正確には、学術院に入れる程、『勉強だけ』をしていれば良い人間は皆、富裕層だからな。なんの役職にも付いていないヒラの研究員でも宿泊し、御贔屓にして下さるさ」
考え方にもよるが、オルケナで最高の設備が使いたい放題、オルケナで最大の学術書が読みたい放題、オルケナで最優の知識スタッフの教えが受けたい放題である事を考えれば、ラルキア王立大学の学費自体は国庫の補助もある事から『年間白金貨五十枚』と非常に安価である。
「……まあ、否定はせん。確かに、学術院のスタッフは皆裕福な家庭が多い」
だが、その『最高の環境』に行きつくためには非常に険しい難関が幾つも立ち塞がっているのだ。また、ラルキア大学の入学年齢が概ね十八歳程度である所もそれに拍車をかける。ラルキア大学に入学するというのがステータスの一つである以上、オルケナ中の俊英がこぞって集まって来るし、当然に入学試験も難しく……まあ、何が言いたいかというと、働き盛りの若人に『ただ勉強だけさせて置ける』という環境にない家庭では、そもそもラルキア王立大学の門戸は開かれないという事だ。そして、その俊英集まるラルキア大学の中で更にとっびきり優秀な成績を修めた者にだけ、学術院へのパスポートが与えられるのだ。シオンやアリアは言うに及ばず、大学までとはいえ鼻歌交じりで試験をスキップしたベロアや、ホテル・ラルキアで働きながら勉強し、入学試験をパスしたクラウスなどは本来は異例中の異例なのである。
「……それで? それが、一体どうしたのだ?」
「学術院の人間が優秀である事は間違いない。フレイム王国のみならず、オルケナでも随一の頭脳集団である事もな。だが……そうだな、だからこそ君達学術院の人間には共通して見え隠れする、ある種の『傲慢さ』がある」
「……傲慢さ、だと?」
「自分の意見が間違っている筈が無い。相手の意見が間違っているに決まっている。だから、自分の意見を聞き入れない相手が悪い。さあ、論破してやろう。ホラ、論破してやった。どうだ、俺の方が正しいだろう、さあ、四の五の言わずに私の言う事を聞け……とまあ、こんな感じだ。逃げ道を無くし、反論を封じ、完膚なきまでに『叩き潰す』のが、私の知る学術院の……そうだな、『天才』達の流儀だな。まあ、仕方なかろう。今まで神童、神童と崇め奉られて来たんだろうし、そもそも『負ける』という事に慣れていないだろうしな?」
そう言って、小さく笑う。
「先程の御高説は甚だご立派だったが……今、私が言った通りだ。君の提案をざっくり纏めれば、メリットを提示し、デメリットを提示し、これが最良の方法だ、だからこれを選択しろ、という事だろう? まさしく、学術院の天才たちと同様だったよ。思わず拍手を贈りたい程の『傲慢さ』だ」
「……私は天才ではないが?」
「学術院の主任研究員にその年でなった才媛が? 笑えん冗談だな」
「……」
「まあ、シオン嬢が自身の事をそう思うなら、それはそれで構わんさ。だがな? 君にもまたその『天才』達と同様の、一種の『傲慢さ』がある事だけは事実だ。無論、君の全てを見知っている訳では無いから、本当の所は分からんが……たったこれだけの時間、話をしただけなのにも関わらず、その印象を私は君に持ったんだ。普段の君はきっと『傲慢な』人間だろうという事は簡単に想像が付く」
皮肉でもなんでもなく、唯の感想。その意見にシオンは唇を噛み……それでも、なんとか言葉を紡ぐ。
「……それが失恋と関係するとは思えないが?」
「異性に恋をするという事は、異性の興味を惹こうと努力をする事だ。相手の関心の為に尽くし、話術を操り、時にはプレゼントを送り……それでも叶わず手痛い肘鉄を喰らい、人は『失恋』する。振り返って君の先程の提案……いや、『営業』を見て見ようか? はて? 何処に私に納得させるだけの論法があったかな? 私の事を慮ってくれたかな? 違うだろう? 君は、ただ純粋にホテル・ラルキアへのメリットとデメリットを提示しただけに過ぎんのではないか? そこに、私の『気持ち』や『想い』は斟酌されていたのか? そうは思わんがな、私は」
「……」
「人は失恋によって学ぶんだよ、シオン嬢。人は概ね、異性にフラれる事で相手を思いやる『優しさ』を学ぶモノだから」
「……ご高説は一々尤もだな、アドルフ・ブルクハルト。だが、貴殿は少し考え違いをしているのではないか? 私が提示した『営業』は、最終的には君たちの幸福に連なるモノだろう? そこに、貴殿の意思を慮る必要があるのか? 私は無いと思うが?」
まるで睨み付ける様なシオンの視線を全く意に介さず、手元の紅茶を引き寄せて一口。そのまま、アドルフは視線をクラウスに送る。
「クラウス」
「……はい」
「お前は先日、経営会議で『ホテル・ラルキア』の伝統はなんだと言った?」
「……『顧客』です」
「そうだ。ホテル・ラルキアの誇りはそのまま、顧客に対し真摯に接するという事だ。顧客の笑顔が最高の報酬だ、などと綺麗事を言うつもりは毛頭ないし、そんな綺麗事を言っても意味が無い。我々は霞を喰って生きて行ってる訳では無いからな。だがな? 間違いなく、ホテル・ラルキアの誇りは顧客の笑顔を頂戴する事であり、突き詰めればそれは『人と人』の関わり合いという事だ。優しさも、寛容さも、全部ひっくるめて、ホテル・ラルキアなのだ」
そこまで喋り言葉を切り、視線をシオンに向ける。
「シオン嬢、先程君は私の気持ちを慮る必要があるか? と言ったな?」
「……言った」
「なぜ、それを『君が』決めるんだ?」
「……それは」
「私の気持ちを慮る必要があるかどうかは、『私』が決める事だ。メリットは提示しました、デメリットも提示しました、だから、それでイイだろう、という台詞は間違っても今の君の立場から出て来るモノではない。勘違いするな、シオン・バウムガルデン。依頼を受けているのは『こちら』だ」
「……」
「君の提案は良い線を言っているだろう。相手によれば、君の提案は十分に頷く価値があるモノである事は保証しよう。だがな? 当ホテル・ラルキアはただ儲ければ良いという訳では無い。それは勿論重要だが、それだけが絶対ではない。その辺りの事を……相手の気持ちや、立場に立って考える事をしない……出来ない、か? そんな君だから、私は質問したのだ」
――失恋した事があるか、と。
「答えは良い。君の言動を見れば大体分かるからな。そして、そんな人の気持ちが分からない人間の意見に、人を相手に商売をするホテル・ラルキアの会長が説得されてやる訳には行かんな。クラウス」
「は、はい!」
「話は終わりだ。君達の為に時間は取ったが、君達は私を『納得』させる事が出来なかった。残念だが君達の提案に『賛成』してやる事は出来ん」
そう言って、アドルフは席を立つ。
「折角来て頂いたのに申し訳ないな。これでも忙しい身なのでな。私はコレで失礼する」
「ま、待ってください! アドルフ会長、もう少しお話を!」
そんなアドルフに浩太が声を掛けた。今此処でチャンスを逃すと次はいつ、こんな機会が訪れるか分からない。必死の浩太の台詞と形相に、背中を向けかけた動きを止めてアドルフが浩太を見やる。
「なんだ? これ以上、何か私を説得する材料があるのか?」
「そ、それは……じ、次回! 次回までに、何か持ってきます!」
「何度も言わせるな。こう見えて私は忙しい身でな。『次』の機会が何時になるかなど、約束は出来ん。今度の九人委員会で提案するのだろう? それまでに時間を作る事は難しそうだ。侘び代わりに、最高の料理を提供させて貰おう。ゆっくりして帰ってくれたまえ」
今度こそ、話は終わり。
まるでそう言わんばかりにアドルフは背を向けて、一人個室を後にしていった。
◆◇◆◇◆
「……会長っ!」
傷心しきった表情を浮かべ、テーブルの前で項垂れる浩太とシオンを見るに耐えず、クラウスは一人でアドルフの後を追いかける。レストランを抜け、階段を駆け上がり、ようやくアドルフの姿を捕まえたのは会長執務室の扉にアドルフが手を掛けた所だった。
「どうした、クラウス?」
「どうしたもこうしたもありません。会長、どうかお願いします。もう一度、席にお着き下さい。まだ話は終わっていません」
クラウスの何時にない真剣な瞳に少しだけ息を呑み、その後やれやれと云った風にアドルフはドアノブから手を離し首を左右に振って見せる。
「……今からもう一度帰って交渉のテーブルに着いた所で、先程以上の論陣が張れるとは思わないが?」
「それは……ですが!」
「先程の論拠では私は承服しかねると言っただろう? ならば、これ以上の交渉は不要で、無用だ。折角ホテル・ラルキアのレストランの個室を用意したのだ。クラウス、今日の仕事は明日に回し、旧交を温めて来たらどうだ?」
「あの様な雰囲気では温まるモノも温まりません!」
「あの様な雰囲気にしたのはあちらの都合だろう?」
「ですが……」
少しだけ、言い淀む。後、意を決した様にクラウスは口を開いた。
「……あの会長のご意見では、私は承服しかねます」
「……ほう。私に意見するか、クラウス?」
睨み付けるアドルフの視線を意に介さず。
「……はい。会長、私は会長を尊敬しておりますが……それでも、意見をさせて頂きます」
はっきりと、クラウスはそう宣言。その言葉に、アドルフの口の端が吊り上がった。
「面白い。言ってみろ」
「まず、シオンがこちらに提出すると言った資料、アレは有用な資料です。ホテル・ラルキアだけではなく、今後ホテル・ラルキアをご愛用頂ける可能性のある、『金の卵』が乗ったリストです」
「今後の有望株も載っていると言っていたからな。正直、今このホテル・ラルキアを利用する人間の情報などこちらでストックはしているし、不要ではあるが……今後の事を考えればあって困る事はないリストだ」
「有用なリストです」
「いいや。有用とまでは言わんよ。あって困らないリスト、というだけだ。その『金の卵』が真に有能な人間であれば、いつか商会のトップ近くにまで登り詰める。そして、登り詰めた後に利用するホテルはこのホテル・ラルキアだ」
「それは『傲慢な』考えではないですか?」
「違うな。これは純然たる事実の確認と――ただの、自負だ。私達はそれだけの事をして来た。いつか、商会のトップに登り詰めた懐に余裕がある人間が、このホテルに泊まりたいと思わせるだけのホテルであり続けている、というな」
「……では、言い方を変えましょう。このホテル・ラルキアはともかく……『ラルキアーナ』の方はどうでしょうか?」
「……ほう?」
「ラルキアーナはまだまだ知名度の劣るホテルである事は『事実』です。営業部も営業をしてくれていますが、それでもホテル・ラルキアに並び立つ程の知名度ではありません」
「続けろ」
「将来有望な『金の卵』に営業を掛ける事が出来れば、それはそのままラルキアーナの収益に結び付く事が出来るでしょう。ホテル・ラルキアは……言い方は悪いですが、放って置いても人が泊まってくれるホテルでしょうが、ラルキアーナはそうでは無いのですから。加えて、将来有望な金の卵と若い内から友誼を結んでおくのは有形・無形の財産だと私は思いますが?」
「間違ってはいないな。お前が友誼を結ぶと?」
「『将来有望』なのですから、きっとまだ若手でしょうしね。失礼ながら……きっと、会長よりも私との方が話が合うでしょう」
「ふん。生意気な事を……だがまあ、一理ある。愚痴を言い合った仲だ、と云うのが何時かは生きる時が来るかも知れんからな」
そう言って『ふむ』と頷くアドルフ。そのアドルフの視界の端、なんだか情けない顔をしたクラウスの姿が映った。
「どうした?」
「あの……別に私、現状に大して不満はないですよ?」
「全くない訳では無かろう。事実、『今』不満だろうに」
「……それは……まあ」
「そんな下らないご機嫌取りは要らん。それより、それだけか?」
「いえ。これはベロアから聞いた話ですが……テラで流通している『引渡証書』、あれの類似品をソルバニア王国で作る話も実際に出ています。既に、紙幣の発注先も概ね決まっているとか」
「カルロス一世陛下か。あの御仁、人の真似を良しとする様な御仁では無かった筈だがな?」
少しだけ考え込むよう、顎に手を置きアドルフが黙考する。それが終わるまで時間を空けてゆっくりと待ち、アドルフの眼が再び開いたのを確認してクラウスが口を開いた。
「どの様な考えがカルロス一世陛下にあったのかは私も存じ上げてはいません。いませんが、それでも実際に『紙幣』の流通は時代の潮流です。それを、商聖ユメリアより連綿と続く商業連盟が指を咥えて見ているというのは……シオンの言う通り、少々業腹ではあります」
「……驚いたな? それほど好戦的な性格だったか、お前は?」
「会長の前で失礼でしょうが……私も一応、『ブルクハルト』の姓を持つ者です。分家の身ではありますが、オルケナの経済の、その一端を担って来た商業連盟の一員としての自負もあります」
そんなクラウスの言葉に、アドルフは鼻をふんっと鳴らす。
「面白く無いな、クラウス」
「……出過ぎた真似を、お許しください」
「そうではない。そんな事は言っていない。いいか、クラウス? お前はエルの婚約者であり遠くない将来、このホテル・ラルキアを継ぐ身だ。堂々と胸を張って言え。『ソルバニアみたいな田舎者に、我らの誇りを汚されるのはまっぴら御免だ』とな。一々分家の出身などと卑屈になるな。私はその様な情けない息子を持ったつもりはない」
「……はい。その……ありがとう、ございます」
「礼を言われる程の事は言ってないがな。それで? 最後はどうなのだ? あの『脅し』は」
「ああは言っていますが、シオンはそこまで『悪辣』ではないです。仮に我々が反対しても、シオンはロッテ閣下や陛下に悪し様にホテル・ラルキアを罵る事はしないでしょう」
「悪し様に罵っても効果があるとは思えんしな?」
「そうではありません」
アドルフの言葉に、クラウスは小さく首を左右に振る。
「……ああ見えて、優しい所もありますし、シオン」
「……ふむ。傲慢ではない、と?」
「あ…………いえ、傲慢は傲慢ですし……こう、どちらかと言えば、結構好き勝手やっている人間ではありますが……」
「……説得したいのか、したくないのか、どっちなんだ、お前は?」
「……嘘は吐けませんから」
そう言って苦笑を浮かべて見せる。
「ですが……そうですね、私個人としてはシオンの力になりたいと思います。無論、コータさんの力にも。会長、これでは条件は満たしませんか? 人の気持ちを慮り、人の為になる事をしたいと言うのは……ホテル・ラルキアの『誇り』になりませんか?」
苦笑を微笑みに変える。いつもの、少しだけ困った様な笑顔ではなく、なんの気負いもない、ごくごく自然な笑顔を。
「友の為に、なにかをしてやりたいとは先日も言っていたしな。意見を曲げずに、私に直訴した事も……まあ、一定の評価は与えてやる」
「……ありがとうございます。その……では……」
「勘違いするな。評価をしてやるに過ぎん」
「……」
「……だが……そうだな、一定の『答え』を出したお前に敬意を表し、これだけは言っておこう」
「……拝聴します」
そう言って居住まいを正し、緊張した顔を浮かべるクラウスに苦笑を浮かべながらアドルフはドアノブに手を掛けてドアを開け。
「――どの様な提案を持ってきても、絶対に『賛成』はしない。これ以上の交渉は時間の無駄だ。どうしても『賛成者』が欲しいのであれば、他を探せと……そう、言ってやれ」
バタン、と扉の閉まる音がホテル・ラルキアの廊下に響いた。




