第百三十七話 家族の団欒
聖王通り沿いに位置するブルクハルト家邸宅は、およそ王都ラルキア内でも類を見ないモノとなっている。と、言っても決してバカみたいに広かったり、或いは無駄に豪華であったりする訳ではない。純粋に、『古い』のだ。創業者、ニッカー・ブルクハルトがホテル・ラルキアがようやく軌道に乗り始めた頃、自身へのご褒美代わりに建てたその邸宅は以来三百年の長きに渡り、同じ場所でずっとブルクハルト家の栄光を刻み続けている。代々のブルクハルト家の当主もこの家をとても大事にしており、例えば第五代のカール・ブルクハルトは、時の国王より『文化財の保護』という名目での接収要請があっても断り続けたという逸話があるくらいだ。まさに、ブルクハルト家の歴史そのものなのである。
「……お父様は如何致しますか?」
「頂こうか」
そんなブルクハルト家のリビング。家族が揃うという事で何時もより早めの食事を済ませたアドルフ・ブルクハルトは部屋のソファに腰掛けながら、愛娘の淹れた紅茶に舌鼓を打っていた。そんな、ゆったりとした時間を過ごしていたアドルフの目の前、同じようにエルから紅茶を受け取って礼を言ったクラウスが視線をアドルフに向けた。
「……どうした?」
「少しばかり相談があります、会長」
「……仕事の話か?」
「はい」
真剣なクラウスの表情に少しだけ眉根を寄せた後、アドルフはやれやれと言った風に首を左右に振って見せる。
「良い仕事を行う為のコツは、オンとオフを上手に切り替える事だ。今はプライベートな時間だぞ? であるのであれば、この場所で仕事の話は無しにしたい所だが?」
まるで相手に促す様、疑問形で伝えるもその言葉は実のところ断定でしかない。ホテル・ラルキアの会長であり、クラウスの義父に当たり、そしてブルクハルト家の『当主』であるアドルフの『決定』は、事実それ程に重い。常であれば『申し訳ありません』と直ぐにクラウスが話題を変えてお仕舞い、である。
「……そこを曲げてお願いします……お義父さん」
何時になく食い下がる事、仕事の話と言いながら『お義父さん』と呼ぶ事。
「……ほう」
この二つに少しだけ驚き、そしてそれを顔に出さない様にアドルフは低く唸る。
「……話してみろ。聞くだけ、聞いてやる」
「ありがとうございます」
少しばかり興味も湧いた。促すアドルフのその言葉に、嬉しそうにクラウスは頬を緩めると手に持った紅茶のカップをテーブルの上に置く。
「……今日、ロンド・デ・テラのコータ・マツシロ氏が訪ねて来られました。マツシロ氏については覚えておいでですか、会長?」
「そこまで耄碌はしていない。勿論、覚えてる」
そう言って、アドルフは紅茶を啜り。
「……いや、この言い方は正確では無いな。覚えている所の話ではない。感謝している。無論、サーチ商会のベロア君にもな」
「感謝、ですか? まだ、ラルキアーナは動き出したばかりですよ?」
「……偉くなったな、クラウス? 私を試すか?」
「失礼、調子に乗りました」
言葉ほど気にした風もなく、そう言ってにこやかに笑んで見せるクラウスに、アドルフも苦笑交じりに溜息を吐く。まだまだ『怯え』は抜けないも、エルとの婚約からこちら少しずつ『家族』になろうと努力するクラウスの姿は、アドルフには好ましくも映るのだ。
「……私も本館総支配人になるまで、これ程『ギリギリ』の商売をしているとは思っていませんでしたので。コータさんとベロアの案は、正に渡りに船でした」
浩太が訪ねて来る前までのホテル・ラルキアの経営状態はお世辞にも良好とは言い難いモノであった。戦争の影響で、ではない。元々、ホテル・ラルキアの財務は危うい橋の上を渡っていたのである。
「『ホテル・ラルキア』は儲かる商売では無いからな」
赤字を垂れ流している、という訳ではない。ないが、それでも『ホテル・ラルキア』という、このオルケナ大陸随一の名門ホテルは財務体質的には盤石、とは言い難いのである。
……まあ、考えても見て欲しい。『顧客一人につき、二人のホテルマンが付く』と言われる程に至れり尽くせりのサービスを行うホテル・ラルキアだ。無論、相応の『お代』は頂くも、売上に占める人件費の割合が高いであろう事は簡単に想像が付くだろう。
勿論、ユナ・ホテルとの共同事業である『ラルキアーナ』というホテルは未だ走り始めたばかりで、まだまだ痛んだホテル・ラルキアの財務内容を改善するには至らない状態ではある。クラウスの言う通り、ラルキアーナの利益は全く計上されていないのが現状だ。だが、アドルフの評価する点はそこではないのだ。
「至れり尽くせりのサービスを行うには『人』が必要です。ただの人ではない、ホテル・ラルキアを『知った人』でないといけないですからね。為に、我らホテル・ラルキアは余剰人員を抱え続けなければいけない」
「その通りだ。そして、『ラルキアーナ』はその問題を解決する妙案だった」
戦争により、ホテル・ラルキアのダニエリ分館は閉鎖を視野に入れるほどの痛手を受けた。幸いにして戦争の終結により分館閉鎖は免れたものの、それは問題が先送りになっただけで、抜本的な解決策にはならないのである。常に余剰に人員を抱え、それでも人材投資を怠る事の出来ないホテル・ラルキアの、『人件費』とは言ってみれば宿命的な問題なのだ。
「ある程度経験を積んだ従業員は一度ラルキアーナに出して見るのも良いかも知れません。ベテランと新人のコンビでホテル・ラルキアを回しつつ、ラルキアーナで修業を積ませる。帰って来た中堅のホテルマンが、今度はベテランとなり新人を教育する」
「そうだな。働き口はあるんだ。少しばかり多めに新人を採用しよう」
クラウスの言葉に頷きながら、アドルフを紅茶を噛み締める様に啜る。長年頭を痛め続け、それでも解決策の無かった問題が解決したホテル・ラルキアは、ラルキアーナが続く限り人件費に悩まされる事が……無くなった、とは言わないまでも、随分と緩和されたのは間違いないのである。なんせ、自前で抱えた従業員が余剰になっても、ラルキアーナで雇って貰えるのだ。しかも、必要な時には呼び戻す事だって出来るのである。これは慢性的な人件費に悩まされたホテル・ラルキアに取って、かなり大きな『改革』と言える。
「……それで? わざわざ、私にコータ・マツシロの重要性の再確認までさせたんだ。一体、どんな無理難題を持って来た?」
「……お気付きですか」
「分かるに決まっているし……次いでだ、言っておこう。コータ・マツシロの持って来た無理難題は、ずばり『通貨発行権』についてだろう?」
クラウスの顔が驚愕の色に染まる。その姿に、少しだけ溜息を吐きながらアドルフは空になったカップをサイドテーブルに置いた。
「直ぐに顔に出る癖を直せ、クラウス。少しは腹芸も覚えろ」
「……申し訳御座いません。ですが……その、会長? どちらでそのお話を?」
「これでも九人委員会の一人だからな。ある程度、耳が早い自負はある」
「……コータさんは内緒の話、と仰っていましたが?」
「内緒の話と大事な話が、そのままの意味であった事はない。内緒は直ぐにバレるし、大事な話は大した話でない事の方が多いからな。まあ、それは良い。それで? コータ・マツシロは『どっち』だ?」
言葉少ないアドルフの問い。それでも話が通じるコンセンサスが、この二人にはある。
「……王府に移管をする方、になります」
「……ロッテ派か」
そう言ってアドルフは考え込む様に腕を組んで見せる。置かれたカップにエルが紅茶を注ぐ姿をじっと見つめ、注ぎ終わったエルが一礼した所でようやく重い口を開いた。
「……まず、票読みだ。クラウス?」
「コータさんのお話では九人委員会中、四人が賛成に回っています」
「内訳は?」
「想像ですが」
「構わん。言ってみろ」
「まず、バウムガルデン商会。ロッテ・バウムガルデン宰相閣下の御身内であり、恐らくバウムガルデンは賛成に回るでしょう。次に、ロート商会」
「跡継ぎが『やらかした』からな、あそこは。逆転を狙うか。悪くない読みだ。他には?」
「ベッカー貿易商会」
「理由」
「ベッカー貿易商会会長、アロイス・ベッカーの妹君はロンド・デ・テラ公爵であるエリカ様付の侍女ですので」
「アロイスの妹好きは有名な話だからな。だが、ベッカーが納得すると思うか? アロイスはともかく、ビアンカは難物だぞ?」
「ですが、『四人』の賛成となるとベッカー貿易商会は必須でしょう?」
「なぜ?」
「コータさんが話を持って行くとしたら、あそこぐらいしか無いというのが一点。コインではなく紙幣での取り扱いとなると、純粋に取扱高の多いベッカーに齎される利益は絶大である、がもう一点です」
「……なるほどな。最後の一つは……ああ、いい。恐らくリッツだろうな」
「……私もそう思います。あのお方は……名誉欲の強いお方ですから」
「ただのバカだ」
一刀両断そう言い切り、アドルフは紅茶を一口。
「我がホテル・ラルキアへのメリットは?」
「フレイム王国史上、ロッテ・バウムガルデン宰相閣下は尤も傑物だと言っても過言ではないでしょう。そのお方には『貸し』が作れるのは、計り知れないメリットがあると愚考します。同時に、ベッカー貿易商会にも、でしょうね」
「ロート商会は?」
「あそこは他所に恩義を感じている場合ではないでしょう。まあ……アントニオ会長はそうでも無いかも知れませんが」
「あの男は義理人情に五月蠅いからな。エンリケも……アイツもそういう義理は欠かさないだろうな。直接的な見返りは少ないかも知れないが……まあ、無形の恩を売っておくのも悪くはない」
そこまで喋り、アドルフは感情の籠らない視線をクラウスに向ける。
「それで? ホテル・ラルキアへのメリットはなんだ?」
「……ですから、先程の――」
「では、言い方を変えよう。コインを紙幣に変え、通貨の発行という権利を手放してまで手に入れるべきリターンは一体なんだ? 先程までの説明は間接的な利益でしかない。紙幣に変える事により、例えば我々ホテル・ラルキアはベッカー貿易商会の様に、利益を手にする事が出来るのか?」
「……いえ。我らホテル・ラルキアに取って、紙幣の製造はプラスには成り得ません」
「九人委員会中の四人は賛成だろうな。ロッテ翁がそんな益体のない嘘を吐くとは思わん。だが、クラウス? 九人委員会だけが我らの顧客ではない」
「……仰る通りです」
「そして、それをお前が分からない程バカだとは私は思っていない」
そう言って、温くなった紅茶をもう一口。
「さて……今のを踏まえた上で、お前は一体、どうしたい?」
「……私は、この提案を受け入れたいと思っています」
「理由」
「会長の言に異を唱える様ですが、私は利益に直接も間接も無いと思っています。より正確には最終的に、我らホテル・ラルキアが潤うのであればどちらでも良いと」
「一理ある。続けろ」
「先程申した通り、この提案は王府から……正確にはロッテ閣下からの提案でしょう。彼が傑物である事は会長も異論は無いでしょうし、その彼の提案を受け入れる事は当ホテル・ラルキアに多大なる利益を齎すと考えます」
「人は死ぬぞ、クラウス。何時までもロッテ翁が元気だと思うか?」
「人は死んでも、事実は死にません。ロッテ閣下の提案を受け入れた、という事実は」
「……王府は上から下まで丸ごとロッテ『派閥』だからな。王府からの信頼を勝ち取る、と? 王府の信頼は既に勝ち取っているぞ? 王府の信頼を減らさない努力は必要だが、増やす冒険は不要だ。次」
「ベッカー貿易商会に恩が売れる」
「王府と同じ理由で不要。次」
「ストックしてある硬貨が紙幣に代わる事により、倉庫に空きが出来ます。限りある土地です、有効活用が必要かと」
「本気で言っているのなら大馬鹿者だな。そんなもの、何の足しにもならん。で、あるのであれば……敢えて、不興を買う必要はあるまい。私は反対だ」
クラウスの言葉を否定し、もう一度アドルフがクラウスを見やる。先程とは真逆、興味深げに、じっと見つめて。
「――さあ、そろそろ本音を言え」
その言葉に、クラウスが悔しそうに唇を噛み――そして、小さく肩を落とす。
「……紙幣の導入のアイデア自体は決して悪くは無いと思います」
「そうだな、認めよう。何時かは来る時代の流れだろう」
「我らホテル・ラルキアの経営を救ってくれたコータさんです。そんなコータさんからのご提案なのであれば、私は飲んで差し上げたい。私は……彼に、恩返しがしたい。私達を救ってくれたあの方に、借りっぱなしはイヤなのです」
そこまで喋り、一息。
「……いえ。それが無くとも……『友人』が、助けを求めに来てくれたんだ。力になってあげたいんです」
真っ直ぐ、射抜くようなクラウスの視線。
「……下らん理由を付けずに最初からそう言え、馬鹿者」
その視線を受けて呆れた様に溜息を吐き、アドルフは深々とソファに座りなおす。その姿をじっと見つめた後、エルが話に割って入った。
「お父様」
「……なんだ?」
「私も、クラウスお兄様と同様の意見でコータ様のご提案を受け入れたいと思っています。あの時、ホテル・ラルキアを救って下さったのは間違いなくコータ様と……不本意ながら、ベロア様です。ならば、その恩に報いる必要があるかと」
「……先に言っておくが、お前とクラウスの結婚は元々既定路線だ。コータ・マツシロの力も、ベロア・サーチの力も関係ないぞ?」
「それは、お父様の御都合でしょう?」
「……なに?」
訝しむアドルフの視線を受け流し、エルはそのままクラウスに視線を移す。
「……エルの言う通りです。もし……もし、彼らに出逢う事が無ければ、私はエルとの結婚を前向きに受け止める事は出来なかったでしょう」
「……仮にも娘の父親の前で言うか、その様な事を」
「エルには何の問題もありませんので。私の心の持ち方の話です」
「……ふん」
今度こそ、本当に呆れた様に。
「……なるほど、クラウス。お前は良き友を持ったようだな?」
「ええ。自身を成長させてくれる得難い友を持ちました。そして……そんな得難い友の力になれれば、これ程嬉しい事はない」
「私は反対だと言ったが?」
「お聞きしました」
「『私』に逆らうか? ホテル・ラルキア会長である、アドルフ・ブルクハルトに」
「……それが、必要であるのであれば」
クラウスとアドルフの視線が絡む。
「……お願いします、会長。是非……是非、このアイデアに賛成下さい」
そう言ってクラウスは立ち上がり、頭を下げる。それに倣うように頭を下げるエルの、そんな二人をしばし見やった後アドルフは大きく、本当に大きく溜息を吐いた。
「……頭を上げろ、クラウス。それにエルも」
「……」
「先程も言ったが、私は反対だ。敢えて、リスクを取ってまでする程の価値があるとは思えん。同じリスクを取るのでも、ラルキアーナとは訳が違う。だから、この案に賛成は出来ん」
取りつく島もない、アドルフの対応。そんなアドルフに、クラウスは上ずった声を重ねた。
「会長! で、ですが――」
「だが……まあ、話ぐらいは聞いてやらん事もない」
「――え?」
「明日と明後日、優先的に時間を空ける。ホテル・ラルキアの本館にいる様にするから、必要なら訪ねて来い」
それでいいか、と問うアドルフに。
「あ、ありがとうございます!」
「頭を上げろ、と言っただろう?」
クラウスはもう一度、頭を下げた。
◆◇◆◇◆
「……それじゃね、エル。明日はシオンとコータさんの所に寄ってから出勤する様にするよ」
「分かりました。それでは、午前中の予定を済ませて起きます」
「ん。よろしく」
そう言って、玄関口で手を振るクラウス。さて、家路に着くかと一歩足を踏み出した所で。
「……エル? 離してくれない?」
エルに服の端を掴まれる。
「……本当に、帰ってしまわれるのですか?」
「本当にって……エル? ほら、今までだって、お邪魔しても帰ってたじゃないか?」
「……ですが……」
婚約した、と言ってもエルはまだ嫁入り前の娘である。『婚約したんだから、泊まっていってもいいよね?』とならない辺り、クラウスも根っからのフレイム王国人だったりする。
「……今日は甘えん坊かい?」
「……そんなに子供ではありません。ありませんが……」
言い淀み、服の端をぎゅっと摘まむ。
「……お父様を、説得できませんでした」
「……ああ」
「コータ様も、シオン様も期待しておられたでしょうに……結局、私は……私達は――」
「それは違うと思うよ、エル」
「――なんのお役にも……え?」
眼を丸くするエルに、苦笑を浮かべて。
「個人的には今日の結果は大健闘だと思ってるよ、私は」
「……ええっと……」
「元々、紙幣の導入なんて国家的な事業なんだ。どうしたって責任者か、それに準ずる人の説明は必要になってくる。会長が、私の話一つで決断なんてする訳ないんだよ」
「で、ですが……お兄様は、お父様に……その、導入を勧めている様に思えましたが……」
「そりゃね。勿論、此処でオッケー貰うつもりで言ってたよ?」
「で、でしたら!」
「ただ、常識的に考えて難しいとは思ってた。だから、最初に最大限の要求をしてみただけの話なんだ。そうすればホラ、『譲歩』してくれるかもしれないだろ?」
所謂、ローボールテクニックという話法である。
「……そうだったのですか」
「まあ、会長だってその辺りは理解されていたと思う。だから、今回は私の顔を立ててくれたんだろうと思うよ。情けない話だけど」
そう言って、『敵わないな~』と苦笑をして見せるクラウス。なんだかその姿に、自分だけが『追いて行かれている』気分になり、溜まらずエルがクラウスの手を握った。
「……エル?」
「……そんな事、私は全然知りませんでした」
「……えっと……そうだね、エル。ごめんね? ちゃんと話をせずに」
「……いえ。それは構いません。構いませんが……」
ちょっとだけ、悔しいです、と。
「……エル」
「お兄様はコータ様と逢われてからどんどん成長しておられるのが悔しいです。私一人、何も成長していないのが悔しいです。お兄様を変えたのがコータ様だという事実が……堪らなく、悔しいです」
言葉に言い表せない焦燥な感情そのまま、エルは恐る恐るクラウスの胸にそっと顔を埋める。そんなエルを、クラウスは優しく抱きしめた。
「……成長した、って喜んではくれない?」
「……いえ。喜んではいるのです。いるのですが……」
好きだから、追いていかれたくない。
好きだから、突き進んで行って欲しい。
「……ぐちゃぐちゃです、私」
相反する感情のまま、もう少し強くクラウスの胸に顔を埋める。クラウスの香りが優しくエルの鼻腔を擽った。
「……ズルいです、お兄様」
「何に対してのズルいか良く分からないけど……うん、ごめんね、エル」
「ズルいお兄様には今日、私を抱きしめて眠る事を要求します」
「……いや、だからね、エル? エルもいい年じゃない? そんな子供の時にした様な事を、今からしろって――」
「一昨日はしてくれたのに!」
「――言われても……はい? 一昨日? え? 記憶にないんだけど?」
「お兄様がソファでうたた寝をされておられたので、こっそり隣で寝かせて頂きました。ちなみに、その前の日も、その前の前の日もです!」
「……たまに、『襟に涎の後があるな~』とは思っていたんだけど犯人はエルだったんだね」
なんだか怒る気すら起きない。溜息を吐きつつ苦笑を浮かべ、クラウスはエルの体を自身の体から離すと、背を屈めて額にキスを落とした。
「おおおおおおおお兄様!」
「今日は此処まで。それじゃね、エル。良い夢を」
慌てておでこを抑えた事により、エルの拘束が解けた。その隙を逃すクラウスではなく、ヒラヒラと手を振りながら夜の闇にその身を溶かした。
「……」
しばし、呆然とその姿を見送った後、エルが頬を膨らます。頬を赤くしながら、不満そうに――でも、嬉しそうに。
「……お兄様は、何時だってズルいです」
そう言いながら、それでも笑顔を浮かべて。
「――でも大好きです、お兄様」
エルの声が、夜の闇に溶けて消えた。
……ちなみに、この後室内に入ると同時に『玄関前でいちゃつくのはどうか?』とアドルフに苦言を呈されてエルが先程以上に頬を真っ赤に染めるが……まあ、それは別の話。




