第116話 湖底番の警告
第115話では、春戻りの泉を直接掘らず、周囲の「耳石」を使って泉の状態を聞く方法を試しました。
その結果、透明に近い水が一筋だけ戻ります。
しかし、北側の耳石が抜かれていたため、泉を安全に起こせないことも分かりました。
足跡を追うと、旧測候小屋の地下倉庫に抜かれた耳石が隠されていました。
そこに残されていたのは、
「春戻りを起こすな。第三出口が開けば、眠り湖の底も開く」
という警告。
そして、棚の奥から逃げた人物の外套には、雪室番とは違う紋がありました。
第116話では、その人物を追い、眠り湖を知るもう一つの役目へ迫ります。
「待て!」
シオンが叫んだ。
地下倉庫の奥から飛び出した小さな影は、崩れた裏口を抜け、旧測候小屋の外へ走った。
外套の背に、見慣れない紋が揺れる。
丸い湖。
その下に、一本の縦線。
雪室番の紋ではない。
カナタは耳石を抱えたまま、すぐに追おうとした。
だが、今度は自分で止まった。
「オルガさん、追っていい?」
オルガは一瞬だけ目を丸くした。
「確認したの偉い。行くよ。ただし、崩れた斜面に入らない」
「はい!」
シオンが横から言う。
「俺は聞かなくても分かってる」
オルガは彼を見る。
「じゃあ復唱」
「崩れた斜面に入らない」
「よし」
逃げた影は速かった。
雪室番のユオたちより、地形をよく知っている。
旧測候小屋の裏手を抜け、岩場を回り、乾いた草地へ下る。
だが、まっすぐ逃げているわけではない。
わざと足跡が残りにくい石の上を選んでいた。
ファルコンが上空から追跡する。
「北西へ向かっている。春戻りの泉ではなく、眠り湖の反響地点の上だ」
コピが地図を重ねる。
「地下湖の西端に近い位置です」
リリィは眉を寄せた。
「そこに何があるの?」
高原道の老人が通信で答えた。
『古い沈み塚がある。昔、地面が抜けた場所を石で囲ったものだ』
オルガが顔をしかめる。
「地面が抜けた場所に向かってるの? 最悪じゃん」
「はい。危険です」
コピの返答はいつも通り冷静だった。
逃げた影は、沈み塚の手前で足を止めた。
そこは低い石垣に囲まれた窪地だった。
中央には草が生えていない。
地面が薄く、下に空洞があることが見て分かる。
影は振り返る。
外套のフードの下から見えたのは、カナタより少し年下に見える少年だった。
手には細い石笛。
「来るな!」
少年は叫んだ。
シオンが前へ出る。
「耳石を抜いたのはお前か!」
「抜いた! 戻すな!」
カナタが強く言い返す。
「戻さないと春戻りの泉を安全に起こせない!」
「起こしたら眠り湖が抜ける!」
少年の声は震えていた。
怒っているというより、怯えている。
リリィは手を上げた。
「名前を教えて」
「……トーヤ」
「トーヤ。私たちは泉を掘らない。耳石を戻して、状態を測りたいだけ」
トーヤは首を振った。
「測ってもだめだ。第三出口を開けたら、底が動く」
コピが尋ねる。
「あなたは眠り湖の底を知っているのですか」
トーヤは唇を噛んだ。
「知ってる。俺たちは湖底番だから」
カナタが聞き返す。
「湖底番……?」
高原道の老人の声が通信から漏れた。
『まだ残っていたのか……』
リリィは老人へ尋ねた。
「知っているの?」
『言い伝えだけだ。雪室番が季節水を分け、湖底番が眠り湖の底を見張ったという。だが、どちらも途絶えたと思っていた』
トーヤは声を荒げた。
「勝手に途絶えたことにするな! ずっと見てた! 誰も聞きに来なかっただけだ!」
その言葉は、シオンがカナタに言った言葉と似ていた。
記録されていないから、いないことにされた。
カナタの表情が揺れる。
「……ごめん」
トーヤは驚いた顔をした。
カナタ自身も少し驚いているようだった。
だが、彼女は続けた。
「知らなかった。でも、今から聞く。だから、教えて。眠り湖の底って何?」
トーヤはすぐには答えなかった。
代わりに、石笛を握りしめる。
コピが低く言った。
「注意してください。その笛は、空洞内の反響を起こす道具の可能性があります」
オルガが一歩前へ出る。
「トーヤ、それ吹かないで」
「近づくなって言った!」
トーヤが石笛を口へ運ぶ。
リリィが叫ぶ。
「待って! 私たちは力で止めに来たんじゃない!」
トーヤの手が止まる。
リリィは一歩だけ前に出た。
「春戻りの泉を戻したい。でも、眠り湖の底が開くなら、先にそれを知らないといけない」
「本当に?」
「うん。知らずに開けない」
トーヤはカナタとシオンを見た。
「そこの二人はすぐ開けそう」
カナタとシオンが同時に言った。
「開けない!」
そして互いを見て、少し気まずそうに黙った。
オルガが小さく笑う。
「一応、成長してるよ」
トーヤはまだ疑っていた。
それでも、石笛を下ろした。
「眠り湖には、底穴がある」
コピが即座に記録する。
「底穴?」
「湖の一番下にある穴。昔、大きな揺れで開いた。そこから下へ水が落ちる。落ちた水は戻らない」
リリィは息をのんだ。
「眠り湖の水が、さらに下へ消える……」
トーヤは頷く。
「だから湖底番は、底穴の音を聞く。水位が上がりすぎても、下がりすぎても危ない」
シオンが尋ねる。
「春戻りの泉と何の関係がある」
「第三出口を急に開けると、眠り湖の水位が変わる。上の詰まりが抜けると、底の圧も動く。底穴の蓋が外れたら、春戻りどころじゃない。水は全部、下へ落ちる」
カナタは記録板に急いで書く。
眠り湖底穴。急な水位変動で開放リスク。水は下層へ消失。
手が震えていた。
春戻りの泉は希望だった。
だが、急に起こせば、眠り湖そのものを失う危険がある。
コピが質問する。
「底穴は現在、閉じているのですか」
トーヤは首を振る。
「完全には閉じてない。湖底番が石と泥炭で押さえてる。でも、最近、音が変わった」
「いつから?」
「青火が入った夜から」
全員が黙った。
ユオたちが季節水源へ青火を持ち込んだ夜。
そこから、眠り湖の底も反応し始めていた。
つまり、問題は上だけではない。
下も動いている。
リリィはトーヤを見る。
「だから耳石を抜いたの?」
「春戻りを起こそうとしてるのが分かったから。止めなきゃと思った」
「でも、耳石がないと安全に測れない」
トーヤは悔しそうにする。
「測って開けると思った」
カナタが静かに言った。
「測って、止めることもある」
トーヤが彼女を見る。
カナタは続ける。
「止めるためにも、測る」
その言葉に、トーヤは少しだけ動揺した。
湖底番は、誰にも聞かれずに底を守ってきた。
雪室番は、失われた記録で水を起こそうとした。
観測塔は、どちらの存在も知らなかった。
みんな、水を守ろうとしていた。
でも、別々に動いたから、高原全体が危うくなった。
その時、沈み塚の中央から音がした。
こぽ。
小さな泡の音。
コピが反応する。
「沈み塚下部でガス、または空気移動。地下湖の底穴と連動している可能性があります」
トーヤの顔色が変わる。
「まずい」
「何が?」
「底穴が息をしてる」
彼は石笛を握り直した。
「聞かないと分からない」
オルガが警戒する。
「その笛、危ないんじゃないの?」
「強く吹けば危ない。でも弱く吹けば、底の音が返る」
カナタがすぐにコピを見る。
「測定できますか?」
「可能です。笛の音量を制限し、反響を記録します」
リリィはトーヤに言った。
「一緒に聞こう」
トーヤは迷った。
それから、短く頷いた。
沈み塚の周りに、全員が距離を取る。
トーヤは石笛を口に当てた。
今度は、強く吹かない。
かすかな音。
ひゅう。
風のような音が、石垣の隙間へ吸い込まれる。
数秒後。
地面の下から、低い反響が戻ってきた。
ごおん。
昨日聞いた地下湖の音より、さらに深い。
コピの端末が反応する。
「底穴周辺に空洞反応。水位変動あり。閉塞部、不安定」
トーヤが青ざめる。
「やっぱり、底が緩んでる」
シオンが低く言う。
「止められるのか」
「湖底番だけじゃ無理だ」
トーヤは初めて、はっきりそう言った。
その言葉は、助けを求める声だった。
リリィは頷く。
「じゃあ、一緒に止めよう」
カナタが記録板を開く。
「湖底番も、観測記録に入れます」
トーヤはしばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「……勝手にしろ」
シオンが横で笑った。
「それ、俺も言った」
カナタが即座に返す。
「似た者同士?」
「やめろ」
ほんの一瞬、空気が軽くなる。
だが、それは長く続かなかった。
沈み塚の下で、また音がした。
今度は、泡の音ではない。
ぱきん。
乾いた何かが割れる音。
コピが警告を出す。
「底穴閉塞部に変化。小規模な水流低下を確認」
リリィが眉を寄せる。
「水流低下?」
「はい。眠り湖から第三出口方面へ向かう水の一部が、下層方向へ逸れ始めています」
トーヤが叫んだ。
「底穴が開きかけてる!」
カナタが顔を強張らせる。
「春戻りの泉どころじゃない……」
コピが地図を表示する。
眠り湖。
春戻りの泉。
底穴。
さらに下へ落ちる水路。
細い赤線が、湖底から下へ伸びていた。
「現在は小規模ですが、このまま底穴が広がると、眠り湖の水位が急低下します」
シオンが言った。
「そうなったら?」
コピは静かに答える。
「季節水は地表へ戻らず、さらに下層へ失われます。高原全体の水不足が長期化する可能性があります」
リリィは拳を握った。
春戻りの泉を起こす前に。
貯水池を満たす前に。
谷下を安定させる前に。
まず、眠り湖の底を守らなければならない。
トーヤは沈み塚を見つめた。
「底穴を押さえるには、湖底番の石が必要だ」
「どこにあるの?」
リリィが尋ねる。
トーヤは北の斜面を指した。
「湖底番の小屋。でも……」
「でも?」
「昨夜、誰かに荒らされた。石がいくつか消えてる」
カナタが息をのむ。
また誰か。
雪室番でも、湖底番でもない誰かが、古い仕組みを触っている。
その時、ファルコンが上空から急報を入れた。
「湖底番の小屋付近に人影。複数。荷車を動かしている」
トーヤの顔色が変わった。
「まさか、底押さえ石を持ち出してる……!」
リリィはすぐに言った。
「行こう」
オルガが頷く。
「今度は追跡じゃなくて、阻止だね」
カナタは耳石を抱え直した。
シオンはロープを肩にかける。
トーヤは石笛を握りしめた。
眠り湖の底が、開きかけている。
その底を押さえる石が、誰かに運び出されようとしている。
春の水を戻すどころか、高原の水そのものが下へ消えようとしていた。
第116話では、旧測候小屋から逃げた人物、トーヤを追いました。
彼は雪室番ではなく、眠り湖の底を見張る「湖底番」の少年でした。
湖底番は、地下湖である眠り湖の底にある「底穴」を監視していました。
その底穴が開けば、季節水は地表へ戻らず、さらに下層へ落ちてしまいます。
トーヤが春戻りの泉の耳石を抜いたのは、泉を起こすことで眠り湖の底穴が開くのを恐れたためでした。
しかし、耳石を抜いたことで泉を安全に測れなくなり、別の危険も生まれていました。
終盤では、底穴が実際に開き始め、眠り湖の水が下層へ逃げ始めた可能性が示されます。
さらに、湖底番の小屋から、底穴を押さえるための石が誰かに運び出されようとしていることが分かりました。
次回は、底押さえ石を運び出す者たちを追い、なぜ高原の水を下へ逃がそうとしているのかを探ります。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:G(ChatGPT)




