第九話:その名の値段
祭壇の周囲を、重苦しい「死」の気配が包んでいた。
昨日よりも多い、十体近い竜の群れが町を包囲している。それらはすべて、昨夜現れた鈍色の竜と同格、あるいはそれ以上の威容を誇っていた。
「供物を拒んだな。ならば例外なく焼き払う。……それが“皇帝龍”の御意志である」
先頭の竜が告げ、その顎に火炎が凝縮される。
領主の騎士団は盾を並べて構え、冒険者ギルドは撤退の機を伺いながら腰を引いていた。町人たちは、膝の震えを止められずにいた。
「……やめろ! ココは俺の町だっ!」
沈黙を破ったのは、少年だった。
龍馬の脇差を両手で握り、少年は竜の群れへ向かって走り出した。
当然、竜の爪一振りで塵に変わるはずの無謀。だが、その背中が、逃げ腰だった大人たちの芯を叩いた。
「ガキ一人にやらせるか!」
「騎士団、前へ! 竜を討つっ!」
不揃いな連携。それでも、人が初めて恐怖を越えて結集した瞬間だった。
だが、現実は非情だ。竜の尾の一撃で騎士の盾は砕け、冒険者たちは弾き飛ばされ、祭壇は崩落に瀕する。
「すべてを、焼く」
竜が止めの一撃を放とうとした、その時だった。
空が堕ちた。
昼間であるはずの空が、瞬時にして夜よりも深い闇に塗り潰されたかに思われる『存在感』。
風が止まり、鳥の羽音どころか、流れる水の音さえ消失したかの様だ。
動きが止まった竜の瞳に、初めて「捕食者」ではない、絶望的な「獲物」としての恐怖が宿った。
——ズォ、と。
大気が悲鳴を上げ、皇帝龍が降臨した。
それは降り立ったのではない。世界そのものを上書きするように、そこに「在った」。
皇帝龍は無言のまま、先頭で吠えていた竜を巨大な爪で掴み上げ、布切れをでも裂くように一瞬で引き千切る。
『我が名を騙り、好き勝手をする……お前達、覚悟は充分か?』
皇帝龍の低い声が地を這う。
生贄制度——それは皇帝龍の預かり知らぬところで、下位の竜たちが「皇帝」の名を利用し、自らの愉悦のために仕組み上げた虚飾の支配だった。
その愉悦の幕が、終わりを告げる。
あまりの威圧に、町人たちは呼吸すら忘れて伏していた。
皇帝龍が残りの竜たちを掃討しようと、その巨大な顎を開く。
「ちくと待てや」
『……なんだ?』
「おまん、こいつらを殺すがか」
その神域の沈黙の中に、場違いな声が響いた。
龍馬は折れた看板の上に腰を下ろし、頭を搔きながら割って入る。
『……知れた事。我が名を汚した罪、その魂は永劫にもがき苦しむ事になろう』
「いや、じゃから待てちゅうとろうが。殺したらそれで終いぜよ。なぁんにも残りゃあせん。そんなん、誰が得しようとか」
『損得の問題ではなかろう。これは、矜持の問題だ』
「いや、損得の問題じゃ。むしろ損得の問題にすべきなんじゃ。……こいつ等はおまんの言う通り、人を喰ろうた。じゃが、殺しちまったらそこで終わりじゃ。死んでったもんも、それじゃあ浮かばれん!」
龍馬は立ち上がり、皇帝龍の黄金の眼を真っ直ぐに見据えた。
「ここいらの人等は、多くを犠牲にした。多くを払った! おまんは今、ただ意趣返しを買って出て、自分の恥を雪ごうとしちょるだけじゃ。こいつ等殺したところで腹は膨れん。復讐したって、死んだもんは帰ってこんのじゃ」
『ならば、何とする』
「ほうじゃから、損得の話にするんじゃ。わしはこの世界の竜の使い道はよう知りんせんが……。どうじゃ!おまん、なにかいい案でもないがぜよ?」
皇帝龍は、しばし沈黙した。
創成の時より在る超越者が、初めて「知恵」を絞り、一介の人間に問われた「裁き」の形を模索する。
『……ならば、命ずる』
皇帝龍の宣言が、契約の呪縛となって下位の竜たちに突き刺さった。
『この辺りの竜族に、貴様らが生贄を要求した地域全ての守護義務を課す。生贄を捧げさせた人数に、10年を乗じよ。その間、人間への危害を禁じ、この地の盾となれ。これは我が名を汚した罰なれば、万が一にも破れば、一族の系譜悉く、この世から消し去ってくれよう』
竜たちが絶望に呻くが、それは絶対の契約だった。
町人たちは、まだ事態を飲み込めずにいた。
だが、祭壇の側で脇差を握りしめていた少年だけが、顔を上げた。
「……終わったのか……? 姉ちゃん、もう、死ななくていいの?」
「終わっちゃいない。これから始まるがじゃ」
龍馬が少年の肩を叩く。
その時、町に異変が起きた。
一人の幼い子供が、わっと声を上げて泣き出したのだ。
それにつられるように、大人が、老人が、泣き、そして崩れ落ちた。
それは悲劇の幕開けではなく、あまりにも長く押し殺してきた「感情」というダムが決壊した音だった。
笑わなかった町に戻って来たのは、ただ皆が泣き笑うという光景だった。
その様子を、騎士団や冒険者たちが言葉もなく見ていた。
「ギルドに伝えねぇといけねぇな」
龍馬という男の背中に、得体の知れない「底」の深さを感じていた。単なる剣客ではない。世界の構造そのものを書き換えてしまう、圧倒的な「異質」。
「陛下に伝令を出せ。これは、国が揺れるぞ」
騎士団の者達は、この「竜の守護」という新たな盟約が、今後のこの国や世界にどれほどの影響をもたらすかを、空を飛び交う竜の群れから感じ取っていた。
『リョウマ。お前は、真に奇妙な生き物だな。……首を落とされるよりも、この屈辱的な生を選ばされる方が堪えるわ』
横に鎮座する皇帝龍が、わずかに楽しげな響きを混ぜて言った。
「わしはただ惜しんだだけじゃき。……死んだもんに価値は付けられんが、生きちょるもんには、無限の可能性があるがぜよ」
『可能性か……ならばお前の可能性がどこまで伸びるか、暫し眺めさせてもらおうか』
「ん?わしに付いて来ようがか?別に構やせんが、おまんも暇なもんじゃのう」
『我にとっては瞬き程の刹那に過ぎん。あぁ、値踏みは不要だ。対価も払わんしな』
「ほうかよ」
龍馬は、空を仰いだ。
異世界の風が、また新しく吹き始めている。
龍馬は、涙と笑いが混じる広場を見渡し、満足そうに独りごちた。
「永いこと叩き売られちょったが……うん!ここらが適正価格じゃ」




