第八話:ただデカいだけの蜥蜴
北の連峰、その深奥。
標高を増すごとに、森は異様な静寂に包まれていった。
鳥の囀りも、羽虫の羽音も、小動物が草を分ける音すらもしない。生きとし生けるものが「ここから先」を拒絶している。
龍馬は、一歩一歩、確かな足取りで岩場を登っていた。
道中、森の王を自称しそうな魔物たちが龍馬の気配を感じては、戦う前から姿を消していく。彼らが恐れているのは龍馬ではない。この山そのものが放つ、圧倒的な「捕食者」の気配だ。
「えらい静かじゃのう。……商売には向かん場所じゃ」
龍馬は、鼻先で軽く笑った。
絶望の色を帯びた「笑わない町」の住人たちが語っていた神話。その中心地へ近づくにつれ、龍馬の勘が囁いている。
流れが悪いのではない。流れることそのものを許さない「停滞」がそこに在るのだ。
山頂に辿り着いたとき、そこには空が広く開けた広大な石畳のような平地。
雲海を眼下に見下ろすその場所で、夜の闇よりもなお深く、星々の光すら吸い込むような巨躯が横たわっていた。
それは竜という生物の範疇を超えていた。
呼吸のたびに雲が揺れ、地形そのものが意志を持ったかのような、圧倒的な存在感。
それが、皇帝龍だった。
「……ちくと起きいや。この坂本龍馬、おまんにちぃとばかし話がある」
龍馬の声は、天を衝く絶壁から投げ込まれた小さな小石のように、静寂を裂いた。
瞬間。
皇帝龍が目を開けた。
黄金の眼球は、羽虫でも見るような無関心さで、小さな人影を捉えた。
『……死に急ぐか、人の子よ。我が微睡みを妨げる対価は、一族の根絶すら生ぬるいぞ』
「微睡むがは勝手じゃが、おまんの寝相が悪すぎて、下の連中が迷惑しちょるがじゃ。……生贄の話、知らんとは言わせんぜよ」
『生贄……?』
皇帝龍の喉から響く声は、物理的な破壊を伴う突風となった。龍馬は袴を踏ん張り、飛ばされぬよう地を噛む。
『知らぬな。我が求めた覚えはない。人が何をしようと、我には些事よ。虫が何を捧げようと、我には見えぬ』
「……知らん、じゃと?」
龍馬の瞳から、それまでの軽妙さが消えた。
代わりに灯ったのは、かつて日本の夜明けを夢見た、あの熱く、そして重い「怒り」だった。
「知らんで済むと思うちょるがか」
龍馬は、静かに、だが震動する皇帝龍の声に負けない響きで言った。
「下の町ではのう、おまんの名を盾にした連中が、自分らの諦めを『儀式』と呼んで正当化しちゅうがじゃ。幼い娘を一人、死地へ追いやるがを、おまんの御意志じゃ言うて、町中が膝を折っちゅう」
『ふん。我が求めたわけではない。其奴らが勝手に怯え、勝手に差し出しているだけだ。我には関係のないことよ』
「関係ない? おまんの名で、人が死んじょる。おまんの背負っちゅう『皇帝』っちゅう名が、下の連中の心を縛り付けちょるがじゃ! 」
『笑止。其方の理屈など塵にも等しい。我はただ、我としてここに在るだけだ。人が何人死のうが消えようが、我の関知するところではない』
「……ほうか。偉そうな名だけ背負って、知らん顔か。そんだけ面の皮がぶ厚けりゃあ、その図体のデカさも道理じゃのう」
龍馬は、『龍の旦那』に渡された一振りの刀を初めて鞘から抜き放った。
月光が、研ぎ澄まされた鋼の刃に宿る。
「おまんのその面、ちぃとばかり洗わせてもらうぜよ!」
斬れるはずがない。
龍馬の渾身の一撃は、皇帝龍の鱗に触れた瞬間、火花を散らして弾かれた。
鱗には、傷一つ付かない。
皇帝龍が、煩わしそうに首をわずかに振った。
それだけで、大気を切り裂く衝撃波が龍馬を襲った。
「……ぐっ……あぁぁッ!」
龍馬の体は木の葉のように吹き飛ばされ、石畳を数十メートルも転がった。
岩に叩きつけられ、口から鮮血が溢れる。肋の数本が悲鳴を上げ、視界が赤く染まった。
だが、龍馬は止まらなかった。
折れた骨を気力だけで繋ぎ止め、血を吐きながら決死の斬撃を繰り出しては、自らの傷を増やしていった。
『……死を理解できぬ愚物か。勝てぬと分からぬか』
「……分かっちょる……そんなこたあ分かっちょる!」
龍馬は、血に濡れた口の端を吊り上げた。
不敵な、そして底の見えない笑み。
「じゃが退く理由にはならんぜよ。おまんのその傲慢な鱗より、脇差を握っちょった子ぉの心の方が、わしにはずっと重く感じられたき!」
龍馬は、再び刀を構え直した。
「あんなぁ震えちょった。鼻水垂らして、音が聞こえるくらい震えちょったがよ」
「……」
「けんどなぁ、奴は立っちょった!ちぃさな身ぃで立ってっ、大きく吠えちょったぞっ!」
柄を両手で握り締める。
「ぐうすか寝コケるだけのおまんの覇気なんぞ、あの子ぉに比べりゃ屁のツッパリじゃ!何が皇帝じゃ。おまんなど!ただデカいだけの居眠り蜥蜴じゃ!」
上段に構えた刀から剣気を迸る。
「この坂本龍馬!おまんのその傲慢をぶった斬っちゃる!」
山頂の空気が、張り詰めた。
皇帝龍の黄金の瞳に、初めて「無関心」以外の感情が宿った。
それは怒りではなく、深い、淵のような好奇心だった。
長く生きすぎた。
この世界の頂点として君臨し続け、あらゆるものが己の前に平伏すことに、皇帝龍は飽き果てていた。龍馬のような、存在することすら不可能なほどの意志の光を放つ存在など、この龍はゆうに千年は見ていなかった。
『……斬れ、人の子よ』
「あん?」
『其方のその意気が我の鱗を通すというのなら……其処へ首を差し出そう。我もまた、退屈のあまり死を求めておったのかもしれぬな』
皇帝龍は、無防備に、山のような首を龍馬の前へ下ろした。
だが、龍馬は刀を振り下ろさなかった。
「……馬鹿にしちょるがか」
龍馬の声は、これまでで最も低く、怒りに震えていた。
「逃げるな言うちょるがじゃ! 後始末もせんで首を差し出すがが、皇帝のやることか? 死んだら終いじゃ! 死んだら何も返せん! おまんは己勝手に死ぬことでチャラにしようちゅうがか!」
『……何……?』
「奪ったなら、返させる! やらかしたなら、償わせる! それがモノの道理じゃろうが! どこまで恥知らずなんじゃ、おまんは!」
皇帝龍は、言葉を失った。
「殺せ」ではなく「責任を負え」という命令。
神のような龍に対し、対等の「債務」を説く男。
『……ならば、どうせよと言うのだ。我に、人の真似事でもさせようというのか』
龍馬は、鞘に刀を収めた。
「おまんの名で好き勝手した連中に、きっちり責を負わせるがじゃ。おまんを盾にして、他人の命を弄んだ奴らに……本物の『皇帝』がどんなツラをしちょるのか、拝ませてやるがぜよ」
皇帝龍はしばし沈黙した。
そして、その巨大な胸が、微かに、波打つように揺れた。
地鳴りのような低い笑い。
『我に命じるか、人の子。この世界の理すら超越した、我が翼に』
「ただ、恥を雪ぎに行け言うちょるがじゃ。わしも付き合うちょるき」
龍馬はそう言うと、よろよろと皇帝龍の背中に歩み寄り、その広大な鱗の上に座り込んだ。
「序でにわしを下の町まで運んでくれんかの。それくらい、手間賃としては安かろう?」
『……ククッ、面白い。其方、名は?』
「わしゃ龍馬。坂本龍馬じゃ」
『そうか。リョウマか』
皇帝龍が、翼を広げた。
たった一度の羽ばたきで、山頂を覆っていた雲海が四散した。
重力を置き去りにし、巨躯が天空へと舞い上がる。
「おおっ! おおおおおおおおおおおおおぉ!」
龍馬は、これまでの重圧や骨折の痛みも忘れ、子供のように瞳を輝かせた。
「空じゃあああああ! わしが空を飛んじょるぞおおおおおおおおおおおおおお!」
その見渡す限りの景色に果ては無い。
龍に驚いて飛び立った鳥たちは遥か下で飛び回り、数えるのも馬鹿馬鹿しい位の山々や、遠くに輝いているのは海だろう。
それは龍馬の常識など軽々と嘲笑うほど、雄大だった。
「ははは!でっかいのう!世界っちゅう奴はこがぁに広いがぜよお!」
『煩いぞ。振り落とされたいか』
「落とさんといてくれよ、龍の旦那! わしの新しい旅は、ここから始まるがじゃき!」
皇帝龍の低い声には、先ほどまでの冷徹さはなかった。
そこにあるのは、自分を揺り動かした小さな魂への、確かな敬意。
雲を割り、風を追い越し、夜よりも濃い影が「笑わない町」へと向かって急降下していく。
その頃、町では、少年の小さな勇気に背を押された者たちが、十の竜影を前に膝を折りかけていた。
その背に初めて人を乗せ、己が威を借る者共へ飛ぶ皇帝龍。その瞳は光を放ちだしていた。
『我が威を借りたその対価、決して安くは無いと知れ』




