第七話:敵を違えるな
北の連峰から吹き下ろす風が、不意に獣の脂の匂いを孕んだ。町を望む稜線の向こう側から「それ」は現れた。
その影は、空の一部が剥がれ落ちてくるかのように巨大だった。
石造りの祭壇が悲鳴を上げ、古い石畳が砕け飛ぶ。
降り立ったのは、鈍色の鱗を全身に纏った竜だった。
体長は十メートルを優に超える。一呼吸ごとに鼻孔から漏れる熱気が、広場の空気を焦がした。
竜は長い首を滑らかに動かし、祭壇の横に立ち尽くす白い衣装の娘を見下ろした。
クン、と鼻先を寄せて香りを嗅ぐ。その所作は、市場で家畜の健康状態を検品する商人のように事務的で、極めて冷淡だった。
「……供物を受け取る」
竜の喉の奥から響いたのは、言葉というよりは物理的な震動だった。広場を埋める住人たちは、立っていることすら困難なほどの圧力を強いる。
「拒めば、この町は消す。すべての命を灰へと帰そう。これは“皇帝龍”の御意志。不敬は滅びと心得よ」
皇帝龍。
そのあまりに尊大で、作為的な響きを持つ名が放たれた瞬間、広場を埋め尽くした住人たちは、吸い込まれるように石畳へと額を擦りつけた。
龍馬は、広場の隅にある崩れかけた民家の壁に背を預け、腕を組んでいた。
伏せられた無数の背中。その間を縫うように、竜の吐息が白く流れる。
龍馬の瞳は、竜を見ているようで、その実、跪く人間たちの震えを冷徹に測っていた。
そこにあるのは、ただ、思考を停止させ、理不尽という名の「法」に身を委ねた者たちの澱んだ匂いだった。
「いかせない!」
沈黙を切り裂いたのは、まだ変声期も迎えていない、高い叫びだった。
祭壇の脇。泥に汚れ、鼻水を垂らした一人の少年が、龍馬から譲り受けた脇差を抜き放っていた。
白刃が陽光を跳ね返すが、それを持つ少年の両腕は、がたがたと激しく震えている。
竜の吐息ひとつで石畳ごと吹き飛ばされるような、ちっぽけな命。
それでも少年は、供物の娘—を背にするようにして、鈍色の巨躯を睨みつけていた。
「お前なんかに!姉ちゃんは渡さないっ!」
屹立し、咆哮した。
だが、そんな少年に襲いかかったのは、竜の爪ではなかった。
「黙れ! 余計なことをするな!」
「あっちへ行け! 殺されたいのか!」
罵声と共に、数人の大人が少年に飛びかかった。
彼らは少年の手から脇差を乱暴に叩き落とし、その細い首根っこを掴んで石畳に押しつけた。少年は藻掻きながらも叫び続ける。
「なんでだよ! 姉ちゃんが殺されるんだぞ! みんなで戦えば、勝てるかもしれないじゃないか!」
「うるさい! 一人のために町を滅ぼす気か!」
「黙ってろ! お前だって、明日も生きていけるんだ!」
大人の一人が、少年の頬を平手で打ち据えた。
その大人の瞳もまた、恐怖で血走っている。
彼らが少年の口を塞ぐのは、少年の命を守るためではない。
少年が発する「正しい拒絶」が、自分たちの「醜い妥協」を鏡のように照らし出すことが、耐えられなかったからだ。
龍馬は、その光景をただ見ていた。
一歩も動かず、一言も発さず。
助けに入るべきだという、心の奥底からの疼きを、冷徹な観察眼で押し殺した。
この町が、どのような「取引」によって存続しているのか。
その全貌を見極めるまで、彼は自らを「石」に変えていた。
「……明日、また来る」
竜は興味を失ったように長い首をもたげた。
巨大な翼がはためき、突風が広場をなぎ払う。鈍色の影は空へと溶け、再び山へと消えていった。
圧倒的な圧力が消えた瞬間、町には奇妙な活気が戻った。
住人たちは立ち上がり、供物の娘を飾り立てるための絹を用意し、広場に撒く香水を運び始めた。
それはまるで、明日の朝市の準備でもするかのような、手慣れた作業だった。
祭壇の娘は、自分を囲んで準備を進める近所の大人たちを、ただ虚ろな目で見つめている。
「なんで諦めるんだよ! 戦おうって、誰も言わないのかよ!」
泥だらけの少年が、自分を殴りつけた男の服を掴んで食ってかかる。
「怖いに決まってるだろうが!」
男が、泣きそうな顔で少年の手を振り払った。
その男の手は、竜への恐怖で、少年よりも激しく震えていた。
彼らは悪人ではない。
ただ、逃げ場のない不条理の中で、心を殺して今日を繋ぐ術を、あまりに長く選び続けてきただけなのだ。
正義よりも、妥協。
自由よりも、生存。
その繰り返しが、町の魂を、ゆっくりと腐らせていた。
「……ほうか」
龍馬が、沈黙を破った。
その低い声は、不思議な重みを持って響いた。
住人たちの動きが止まり、すべての視線が、壁際に立つ風来坊に集まる。
「よう分かっちゅうじゃないか。自分らが情けないがも、腰抜けながも、全部。……娘っ子を餌にするがに、平気な奴がおるはずもないのう」
龍馬は壁から背を離し、ゆっくりと広場の中央へ歩み出た。
その歩調は、祭壇へ向かう様に静かで、同時に、敵陣へ乗り込むように鋭い。
「じゃがのう」
龍馬の瞳が、一転して冷徹な光を帯びる。
「怖いき言うて、自分から『餌』になりに行くがは、話が違うろうが」
「……貴様に何がわかる! 余所者が、勝手なことを言うな!」
町人の一人が、声を荒らげた。
龍馬はその男を真っ直ぐに見据え、口の端を吊り上げた。それは笑みというには、あまりに冷たい形だった。
「竜が食いゆうがは、人じゃない。……おまんらのその『諦め』じゃ。その匂いを嗅ぎつけて、あのトカゲは降りてきゆうがぜよ」
「こいつ!」
「安いのう、命も、誇りも。そんな値段で売るたぁ、えらい安売りじゃ」
広場が静まり返る。
龍馬が突きつけたのは、肉体の死よりも残酷な、精神の腐敗という事実だった。
龍馬は、足元に転がっていた脇差を拾い上げた。
鞘に納め、まだ地面に這いつくばっていた少年の前に歩み寄る。
「おまんはどうするがじゃ。姉ちゃん見送って、一生この泥を舐めて生きていくがか」
少年は、震える手で泥を拭い、龍馬を見上げた。
絶望に塗りつぶされた町の中で、その少年の瞳だけが、まだ――燃えていた。
「……戦いたい。でも、俺じゃあ……。誰も一緒に戦ってくれない。俺じゃ、あんなでかい奴に、届かないんだ」
「なに言うちゅう。しっかと届いたろうが!おまんの覇気!……十分すぎるほどのう」
龍馬は答え、少年の手に脇差を返した。
その手は、まだ小刻みに震えていたが、握る力は強かった。
龍馬は、周囲で顔を伏せている大人たちを一瞥した。
「腰抜けでもええ。逃げるもんは、どこへでも逃げればええ。……じゃがのう、立つもんの足まで引っ張るがは、筋違いぜよ」
誰も言い返せなかった。
龍馬の言葉は、正義という名の説教ではなく、彼らが心の奥底に隠していた「羞恥心」という急所を、正確に貫いていた。
龍馬は空を見上げた。
竜が消えた山の頂付近には、どす黒い雲が不気味に渦巻いている。
「皇帝龍、言うたか。……随分とまぁ、都合のええ名前じゃのう」
その名に漂う、ある種の「作り物」めいた違和感。
ただの獣が、これほどまでに洗練された、そして「法」に似た徴収を行うものだろうか。
(流れが悪い。……原因は、あの竜か、それともこの町か。どっちにせよ、元を見に行くしかないのう)
龍馬は袴の埃を払い、一振りの刀を帯に引き寄せる。
誰に告げるでもなく、一人で山へ向かって歩き出した。
「おんしゃは、ここで見ちょれ」
ついて来ようとした少年に、龍馬は背中で語りかけた。
「明日、何が起こるか。己の目で見届けるがぜよ。おんしゃが持っちゅうその脇差のぅ……いつか、本当の敵を斬る時まで、絶対に折るんじゃないぜよ」
正義のためでも、町を救うためでもない。
ただ、せき止められた水の流れを、あるべき場所へ戻すために。
坂本龍馬という男は、今この瞬間、この世界最大の「不成立な取引」に、独りで殴り込みをかけようとしていた。
「さて」
龍馬は、闇の奥で光る黄金の眼を幻視しながら、不敵に笑った。
「竜っちゅうもんと、話をつけに行くかのう」




