第六話:笑わない町
街道の先に見えてきたのは、村と呼ぶには大きく、都市と呼ぶにはあまりに活気のない「町」だった。
石造りの家々はそれなりに立ち並び、市場の跡らしき広場もある。だが、そこを流れる空気は冷え切っていた。
すれ違う荷馬車は一台もない。
町へ入る者、町から出る者。そのどちらもが、龍馬の姿を認めると、まるで避けるように道端へ身を寄せる。その瞳は一様に、龍馬の行き先に待つ「絶望」を哀れんでいるかのようだった。
「商いの匂いがせんのう」
龍馬は、草鞋の紐を締め直しながら独りごちた。
人が動き、物が流れ、そこに欲が生まれるからこそ、世の中には血が通う。だが、この町には、風が止まったような座りの悪さがあった。
「これは……嫌な流れじゃ」
足元の小石を軽く蹴る。カチリ、という乾いた音が、静まり返った町並みに不自然に響いていた。
通りを歩いていると、物陰から一人の老人が転がり出してきた。
身なりは町人のようだが、背負い袋を一つだけ抱え、なりふり構わず走り去ろうとする。
「おい、じいさん。ちぃと待ちいや」
龍馬が声をかけると、老人は悲鳴のような声を上げて立ち止まった。
見開かれた瞳は、龍馬の顔を見ているようで、その実、何も見ていない。
「……行くな、戻れ。今は、今はだめだ」
「何がだめながじゃ。ここは大きな町じゃろう。宿くらいはあるじゃろ」
龍馬の問いに、老人はがたがたと歯の根を合わさぬほどに震えた。
「今夜だ……今夜、連れていかれる。逆らえば、皆殺しだ。逆らえない。あれには、誰も、逆らえない……!」
老人はそれだけを吐き出すと、龍馬の脇をすり抜け街道を駆け下りていった。
龍馬は、その後ろ姿を見送る。
老人の瞳に張り付いていた純粋な「恐怖」。これからの「取引」の相手がどのような存在か、説明されずとも十分だった。
中央の広場に差し掛かると、数十人の住人たちがいた。
彼らは龍馬という余所者の出現に気づいているはずだが、誰も目を合わせようとはしない。黙々と、まるで行事の準備をするように、広場に置かれた祭壇に薪を積み上げている。その所作は、祈りというよりは、義務を果たす機械のようだった。
龍馬は、祭壇の脇に座る子供たちの姿を認めた。
だが、誰一人として、一言も発しない。転んでも、腹を空かせても、泣き声を上げない。
「……笑わんのう。泣きもせんが」
その一言が、静寂に波紋を作った。
感情を出すことすら、この町では既に贅沢品になってしまっている。
そこに漂っているのは、悲しみですらない。
ただ――諦念。
何世代にもわたって、理不尽を「仕組み」として受け入れてきた者たちだけが纏う、鉛のように重い沈黙だった。
町長だという男の家で聞いた話は、乾ききったものだった。
「決まっている。竜に供物を捧げるのだ。数年に一度、最も若く最も清らかな娘を差し出す。……それが、ここ等一帯が全滅を免れるための、唯一の掟だ。今年が我等の町になっただけだ」
「ほいたら他の町や村でも同じっちゅうがか」
「ここ等一帯は、昔からそうじゃ」
「なるほど。よう出来た仕組みじゃ」
龍馬の言葉に、町長は意外そうに目を向けた。
龍馬の表情には、非難の色は微塵もなかった。
怒っても始まらない。正義を振りかざしても、今日まで積み重なってきた絶望の層は剥がれない。
龍馬はただ、この町を縛る「流れ」を、一つの完成された取引の形として、冷徹に見つめていた。一人の命で、残りの命を買う。あまりに簡潔で、あまりに無残な、死の売買。
家の奥から、一人の娘が現れた。
白い衣服に身を包んだ彼女が、今夜の「供物」であることは、説明されずとも分かった。
彼女の瞳もまた、何も映してはいなかった。
「おまんは、それでええがか」
「……怖くない、って言えば嘘になります」
龍馬の視線に気づいた娘が、静かに口を開いた。
「でも、仕方ないんです。私が死ねば、町のみんなが明日も生きていける。……そういうものだと、教わってきました。私が騒げば、みんなが辛くなる。だから、これでいいんです」
彼女は、龍馬に向かって小さく頭を下げた。その細い指先が裾をわずかに握りしめている。言葉とは裏腹な、肉体だけが発する小さな絶叫。
「ほうか」
龍馬は、ただそれだけを言った。
助けるとも、そんなことは間違っているとも、言わなかった。
家を出て広場を歩いていると、一人の少年が龍馬の前に立ち塞がった。
供物の娘を「姉ちゃん」と慕っていた、年の頃なら十代に入ったばかりの少年だ。その瞳には、町全体を覆う諦めとは違う、鋭い熱が宿っていた。
「……おじさん。その腰の『剣』、俺にくれよ」
龍馬は足を止めた。少年の視線は、龍馬の差した一振りの刀に釘付けになっている。
「ほう。こいつか。……持たせてやってもええが、おんしゃあ、こいつを何に使うがじゃ?」
「竜を倒すんだ。姉ちゃんを連れて行かせない。俺が、あいつを倒す」
少年の声は震えていた。だが、その足は逃げようとはしていない。
龍馬はしばし沈黙し、少年の細い腕と、その覚悟を測るように見つめた。
「こいつはおんしゃには大き過ぎる。……刀に振り回されて死ぬだけぜよ」
龍馬はそう言うと、腰の脇差を抜き、鞘に入れたまま少年に差し出した。
「こいつを持っちょけ。……じゃが、竜を斬るがは今じゃない。こいつを抜くべき時が来るまで、よう持っちょけや」
少年は、受け取った脇差の重みに驚きながらも、それを胸に抱きしめた。
龍馬は少年の頭を一度だけ乱暴に撫で、そのまま町の外れへと歩き出した。
祭壇に篝火が灯される頃、龍馬は一人高台に立ち、町を眺めていた。
眼下の広場では、娘を死地へと導く、葬列のような沈黙の行列が始まっている。
「どうにも好きやがないのう」
独りごちた声は、夜の森に吸い込まれていく。
助ける。
そんな言葉は簡単だ。だが、この町の不条理は、竜という暴力によって成り立っているのではない。竜という暴力を「組み込んだ」生活の形が出来上がってしまっている。
一時の正義で竜を斬っても、明日には別の理不尽がこの町を食いつぶすだろう。
「じゃが……。勝手に壊す話でもないのう」
龍馬は目を閉じた。
この不毛な取引を、より高い次元の「合理」で上書きすることだ。
龍馬は、闇の中で、その「取引」の算段を始める。
不意に。
山の奥から、湿り気を帯びた突風が吹き下ろしてきた。
篝火の炎が大きく乱れ、森の鳥たちが一斉に夜の闇へと飛び立つ。
地を這うような微かな震動。
それは、巨大な質量を持つ「何か」が、ゆっくりとこちらへ向かってきている前兆だった。
「……来るぞ!」
町人の誰かが絶叫した。
広場にいた人々が、一斉に地面に伏せ、祈るように背を丸める。
だが、龍馬は広場の入り口に立った。
袴の埃を払い、一振りの刀を帯に引き寄せる。
風の匂いが変わった。
獣の臭いと、古い魔力の残滓、そして圧倒的な「支配者」の気配。
龍馬の口の端が、わずかに上がった。
それは、幕末の修羅場で、彼がいつも浮かべていたあの不敵な笑みだった。
「ほう。やっとか」
霧を裂き、山から降りてくる「それ」を見据え、龍馬は飄々と歩き出した。
「さて。話をしようかのう、竜とやら」




