第十話:流れ着いた街
雲を裂き、山々をまたいで飛んでいた皇帝龍が、都市近郊の深い森へと高度を下げた。
着地の衝撃で巨木が震え、鳥たちが一斉に飛び立つ。龍馬は龍の背からひらりと飛び降り、着物の埃を払った。
「さて、ここからは歩きぜよ。流石にこのままで街に入ったら、商売どころか戦争が始まってしまうき」
皇帝龍は面倒臭そうに鼻を鳴らした。だが、その巨躯が不意に揺らめいたかと思うと、眩い光と共に急速に収束していく。
現れたのは、黒曜石のように硬質な鱗と、深淵を覗くような金の眼を持つ、猫ほどの大きさの子竜だった。
「おお!? ちんまくなったのう!」
龍馬は目を丸くして、その小さな頭を撫でようとしたが、子竜は機敏にそれを避けた。
『人里で無用な混乱を起こす気はない』
「便利じゃのう。おまん、旅向きじゃ」
『……貴様、我を荷馬か何かと勘違いしておらぬか』
「ははは! まさかぜよ」
龍馬は笑いながら、子竜をひょいと肩に乗せた。神話の頂点たる存在を肩に乗せ、龍馬は鼻歌まじりに街道へと踏み出した。
侯爵領『ガルガド』。
城門をくぐった瞬間に龍馬を襲ったのは、圧倒的な「躍動」だった。
石畳を叩く重厚な荷馬車の音。国中から集まった商隊の掛け声。行き交う行商人たちの熱気。
市場には、見たこともない色鮮やかな香辛料や、怪しく光る魔導具、滴る肉汁の匂いを漂わせる屋台がひしめき合っていた。
「おお……! 人が、人が湧いちゅう……!」
龍馬は立ち止まり、その喧騒を全身で浴びた。
「笑わない町」にあった、あの重苦しい停滞はどこにもない。街全体が呼吸し、酸素の代わりに「金」と「欲望」を循環させている。
「これぜよ……。金の匂いがするのう!!」
『……騒がしいだけではないか』
肩の上の子竜が、不快そうに目を細めて念じる。龍馬はそれを一蹴した。
「これを騒がしいで済ますがか。これ全部、『流れ』じゃぞ! 水も金も、止まったら腐る。流れちゅうからこそ、ここはこんなに眩しいがじゃ!」
龍馬は、香辛料の瓶を手に取っては商人と笑い、屋台の串焼きを買い食いしては異国の商人の話に耳を傾けた。その瞳には、かつて長崎の街を初めて見た時のような、純粋な好奇心が灯っていた。
だが、日が暮れると共に、現実が龍馬に牙を剥いた。
「……宿、満室?」
五軒目の宿屋で、龍馬は呆然と立ち尽くした。
ガルガドは物流の要衝。常に人が溢れており、一見の客がまともな宿を見つけるのは至難の業だった。ようやく、裏通りの路地裏に見つけた一軒の宿に滑り込んだが、提示された宿を見て龍馬の眉が跳ね上がった。
「……で、部屋はどこじゃ?」
通されたのは、穴倉のような狭い小部屋だった。
ベッドは石のように硬く、水桶に水。壁は薄く、隣の部屋から聞こえる男のいびきが、まるで耳元で鳴っているかのように響いてくる。
「いや待て待て待て。なんじゃこれ」
龍馬はたまらず一階に降り、帳場にいた宿主を問い詰めた。
宿主は「何か問題でも?」と不思議そうだ。
「問題しかないがじゃが!? この宿の部屋、おまんは商売を舐めちゅうがか!」
「はぁ? 何を言ってるんだ。この街で『立地が良くて、飯が出て、賊に襲われない』ってだけで、ウチはかなり上等ですよ」
「上等……?」
龍馬は絶句した。
帳場の奥を見れば、粗末な飯を喉に流し込む商人たちで溢れかえっている。彼らはこの劣悪な環境を「当たり前のもの」として受け入れ、疲弊した顔で眠りに就こうとしていた。
その夜、龍馬は眠れなかった。
寝返りを打つたびにギシリと鳴る硬いベッドの上で、天井の染みを見つめる。
脳裏をよぎるのは、遠い日の記憶。
伏見の寺田屋。京都の酢屋、あるいは桶屋。
そこは、単に「寝るだけの場所」ではなかった。
熱い湯を浴びて旅の垢を落とし、旨い酒を酌み交わす。見知らぬ者同士が囲炉裏を囲み、情報を交換し、やがては天下の行く末を語り合う。
宿が変われば、出会いが変わる。出会いが変われば、時代が動く。
宿とは、時代の「結節点」だったはずだ。
『……眠れぬのか』
肩のそばで丸まっていた子竜が、片目を開けて龍馬を見た。
「興奮しちゅう」
龍馬はむくりと起き上がり、窓を開けた。
窓の外には、眠らない大都市の灯が、溢れている。この巨大な流れの中に、ただ「不便を我慢して」身体を休めている人々が、ごまんといる。
「……やるか」
『何をだ』
「宿屋ぜよ」
短い沈黙。子竜は、理解不能という顔で龍馬を凝視した。
『……貴様、正気か。皇帝龍を動かした男が、なぜ宿屋などという卑小な真似を』
「変わるぜよ。おまんは分かっちょらん」
龍馬はニヤリと、不敵な笑みを浮かべた。
「旨い飯と、あったけぇ風呂と、ふかふかの布団がありゃあ、人は勝手に集まる。人が集まれば、そこには必ず『金』と『情報』の渦ができる。ほいたら世界なんぞ、勝手に動き出すがじゃ!」
龍馬の瞳には、かつて亀山社中を立ち上げた時と同じ、鋭い光が宿っていた。
夜景を見下ろし、龍馬は拳を固く握った。
「よぉし! まずは宿じゃ! 日本にも負けん、最高の『寺田屋』をここに作っちゃるぜよ!」
「うるせえええ! さっさと寝やがれ!」
隣の部屋から、怒鳴り声と共に壁を蹴る音が響いた。
「ははっは! すまんっ!」
龍馬は謝りながら、しかしその顔からは笑みが消えなかった。




