第八十一話:ベルノ
ガルガドの夕暮れは早い。巨大な城壁が落とす長い影が街を包み込むと、表通りの健全な商売人たちが店を閉めるのと入れ替わりに、歓楽街の提灯に次々と妖艶な火が灯り始める。
香水と安酒、そしてどこか退廃的な熱気が立ち込める裏通りを、龍馬はルークを伴ってのしのしと歩いていた。
ドラン港の澄んだ潮風も悪くないが、この人間の欲望がそのまま形を成したような雑多な路地も、不思議と肌に馴染む。
「おんし、迷子にならんようにしっかりついてきいや、ルーク」
「心配いりませんよ、龍馬さん。俺の記憶力なら、この街の裏路地くらい全て頭に入っています」
涼しい顔でついてくるルークと共に、見覚えのある大きな娼館の門をくぐる。
玄関ホールに足を踏み入れた瞬間、受付にいた体格のいい若い衆が、龍馬の顔を見て皿のような目を丸くした。
「り、龍馬さん!?」
「おう、久しぶりじゃのう。相変わらず盛っとるようで何よりじゃ」
若い衆が慌てて奥へ走ろうとした、その時。
「――何が『何よりじゃ』だ、この馬鹿野郎!!」
地響きのような怒声と共に、奥の帳幕を乱暴に押し開けて、一人の男が姿を現した。
この歓楽街の夜を支配する男の一人――ベルノである。
相変わらず仕立ての良い服をだらしなく着崩し、鋭い眼光で龍馬を睨みつけている。レクセリアの一件以来の再会だった。
「ベルノ、おんしも元気そうじゃのう」
「元気なわけねぇだろ! 帰ってきたなら、まずは真っ先に俺のところに顔を出しやがれ! 誰のせいで、あの後レクセリアで色々大変だったと思ってやがんだ!」
ベルノの容赦ない怒声に、龍馬はただ「ははは」と能天気に笑うだけだった。
通されたのは、防音の施された豪華な個室だった。
テーブルの上には、これでもかとばかりに贅沢な肉料理や地酒が並べられ、龍馬の帰還を聞きつけた馴染みの娼婦たちも「龍馬さ~ん!」「本当に生きてたんだね!」と口々に群がってきて、部屋の中は一気に華やかな宴席へと変わる。
「まずは、あのレクセリアの件じゃ。わしらが発った後、おんしのところは平気じゃったか?」
龍馬が肉を骨ごと齧りながら尋ねると、ベルノは手にしたジョッキの酒を豪快に煽り、ガハハと爆笑した。
「平気も何もねぇよ! 国を揺るがす大立ち回りの片棒を担がされたんだ、冷や汗は出たが……最高に面白かったじゃねぇか。おかげで俺の株も裏じゃ爆上がりだ」
「そうかえ。あの時ゃ、ほんに世話になったき。おんしが動いてくれんかったら、わしらも今頃どうなっとったか分からん」
龍馬が珍しく真面目に頭を下げると、ベルノは照れくさそうに鼻を鳴らした。
「フン、水臭えこと言ってんじゃねぇ。……そういや、うちの『オヤジ』がお前に会いたがってたぞ」
「あん? オヤジぃ?」
「シルベニアの裏社会の総元締め――ガーグのオヤジだ」
ベルノの口から出たその名に、後ろに控えていたルークの目がわずかに鋭くなる。
「へえ、おぬしんとこの親分がかえ。わしみたいな素浪人に何の用じゃろう」
「さあな。まぁ今すぐって話じゃねぇ。お前もガルガドに戻ってきたばかりで色々と忙しいんだろ。そのうち時間ができたら、一言挨拶にでも行ってやってくれ」
「構わんぜよ。オヤジさんには、わしも一度きっちり礼を言いたかったきね」
酒が進むにつれ、話題は龍馬がドランで成し遂げた近況報告へと移っていく。
広大なドックの建設、ウィストリアやノルディアとの交易、そして勝手に歩き出した『亀山社中』の話。
ベルノは信じられないといった様子で、龍馬の顔をまじまじと見つめた。
「お前……本当にあの何もねえ寂れた海岸に、一大貿易港を作りやがったんだな」
「わしが作ったっちゅうより、人が集まって勝手に出来たがよ」
「理屈をこねるな、結果は同じだ馬鹿」
二人はジョッキを激しくぶつけ合い、悪友のように笑い合った。
夜も更け、娼婦たちも部屋を退がり、部屋には心地よい酔いと、大人の男たちの静かな時間が流れていた。
龍馬はすっかり上機嫌で、赤くなった顔で盃を揺らしながら、海での苦労話を語り出す。
「けんどな、ベルノ。海を開くちゅうがは、一筋縄ではいかん。ウィストリアとノルディアを結ぶ海路に、帝国軍の軍船やら、軍が裏で糸を引く偽装海賊船がちょっかいを出してきよってな。まったく、連中も暇な奴らぜよ、けけけ」
陽気に笑う龍馬に対し、ベルノの手がピタリと止まった。
「…………」
「ん? なんぜベルノ。そんな恐ろしいツラして」
考え込むベルノの様子を不思議に思い、龍馬が首を傾げる。ベルノはジョッキをテーブルに置くと、ずいっと身を乗り出してきた。
「なぁ、龍馬よ」
「おう、なんじゃ」
「その、海路を邪魔してたっていう帝国の軍艦……それは、何隻くらい居たんだ?」
「ん? そうさのう……わしらが直接ぶつかったがは、まぁ、3隻くらいかのう」
「それは、ウィストリアの他の商船も同時に目撃してるのか? 別々の場所で?」
「なんぜ急に。まぁ、あっちゃこっちゃの海域で邪魔されとるちゅう話じゃき……。報告を全部合わせりゃあ、20隻くらいは出とる計算じゃ。まっこと、勤勉な奴等よ」
「20隻……………………っ!」
ベルノの顔から一気に血の気が引き、その眼光が尋常ではない鋭さを帯びた。
「そうか……東か……!」
「ん?東がどうしたよ。わしは今、西の海の、ウィストリアの話をしゆうがぞ? おんしゃあもう酔ったんか。くはは」
笑い飛ばそうとする龍馬の胸ぐらを、ベルノが真剣な表情で掴みかけた。
「馬鹿野郎、そうじゃねぇよ! いいか龍馬、よく聞け」
「ひっく! おう、きいちょるぞ」
ベルノは呆れながらも、声を潜めて一気に語り出した。
「あのな、グランディオ帝国には、そもそも使える港が極端に少ない。あの国はそもそも――」
「しっちょる、しっちょる。冬になれば海も港も凍るちゅう話じゃろ? もっとも、わしは海が凍るちゅう景色をこの目で見たことは無いきのう、いつか見てみたいぜよ……ヒック」
「だからだ、龍馬! その凍らないわずかな港から出せる『20隻』って数は、今の帝国海軍のほぼ全勢力なんだよ。おそらく、本国に残ってるのは最低限の沿岸防衛用の2・3隻ってところだ」
その言葉に、龍馬の濁った瞳から、一瞬で酔いが消え去った。
「……そんなアホな。なしてそんな、片っ方の海に戦力を集中させるがよ。帝国の上層部は、はぁ……馬鹿もんの集まりかえ?」
「そうだ、普通の軍事戦略なら絶対にあり得ねえ。だがな、今、東の『アーデルハイト』は港を閉めてる。あそこから外洋船が出てくる心配は無い。そして『シルベニア王国』には、帝国と今すぐ開戦するような機運は皆無だ。安全が確保されているからこそ、西の海に全力を注げるんだよ」
「…………」
龍馬は持った盃を置き、深く息を吐いた。
「つまり……帝国が西の海をそこまで徹底的に締め付けられるんは、東の海が……怖ぁないからか」
「おかしいと思ってたんだ」
ベルノは顎をさすりながら、自らの思考を整理するように繋げていく。
「ノルディアとウィストリアの貿易ラインが途切れて、市場の鉄や魔石が急騰しかけたのは知ってた。だが、海軍力の乏しい帝国が、どうやってそれほど広範囲の海路に圧力を掛けられたのかが不思議だったんだが……謎が解けたぜ。まさか、ほぼ全戦力を投入してるとはな。思い切った真似をしたもんだ」
龍馬の脳細胞が、ガラン港の夜景を思い浮かべながら急速に回転を始める。
「しかしベルノよ。そこまで大きなリスクを背負って、鉄と魔石を集め寄るちゅうことは……連中には、それを今すぐ使わにゃならん『明確な使い道』があるいう事になるがよ」
「あぁ。しかも、わざわざ海賊に偽装してまでウィストリアの物流を追い詰めるってことは……連中、本気で『港』を獲りにくる気かも知れねぇな」
「…………ウィストリア」
「おう。当然、その間に挟まってるこのシルベニアも、何らかの形で巻き込むか、あるいは策に組み込んでくるはずさ。……あの腹黒宰相なら、それくらい朝飯前だ」
「ん? そりゃあ、帝国の宰相のことか? おまん、そんな遠い国の雲の上の人間のことを知っちゅうがかえ」
不思議そうに尋ねる龍馬に、ベルノは冷酷な笑みを浮かべた。
「あぁ、俺達の『界隈』じゃ、知らない奴はいねぇさ」
「なんで一国の宰相が、おまん等のような裏世界で有名なんじゃ」
「普通は関係ねえさ。俺たちだって、表の権力とは『互いに深くは干渉し合わない』って不文律の元で生きてる。……だが、帝国は違うんだよ、龍馬」
「違うちゅうは、どう違うちゅうがじゃ」
「実際、帝国にも俺たちみたいな裏稼業や、密輸を牛耳る組織は存在する。だがな、それを裏から完璧に統制し、飼い慣らしているのは『国そのもの』なのさ。特に、今の帝国の宰相は相当な切れ者だ。かつては共存しながらも混沌としていた帝国の裏社会を、文字通り『一枚岩』に仕向けた化物さ。もっとも、切れ過ぎて危険だってんで、皇帝陛下のすぐ右隣の席に据えられて、皇帝自らが手綱を握る羽目になったって噂だがな」
龍馬は、再び盃を手に取り、中で揺らぐ酒を飲み干す。
「――――そんな男の名前は、何ちゅうがじゃ」
ベルノはしばらく黙った。
それから酒を一口だけ飲み、
「……グランディオ帝国宰相」
と静かに告げる。
「ナヴィーク・サイアス。おっかない爺さんさ」
「ナヴィーク・サイアス……かよ」
龍馬はその名前を、噛み締めるように口の中で繰り返した。
深夜。
娼館を後にした龍馬とルークは、いまだ眠らないガルガドの街道を、二人並んで歩いていた。
頭上には、ガランの海で見るのと同じ、冷たい星空が広がっている。
しばらく無言で歩いていたが、ルークが隣の龍馬の様子を伺いながら、静かに声をかけた。
「……気になりますか? ベルノさんの言っていた、帝国の宰相の話」
「いや」
龍馬は懐に手を突っ込んだまま、少しの間、立ち止まって夜空を見上げた。
「けんどな、ルーク」
「はい」
「東が静かじゃから、西が騒がしい。……もし、そういう話なら」
龍馬の瞳の奥に、かつてないほど鋭い、未来を見据えるような光が宿る。
「いつか……その東の海も、途方もなく騒がしくなるかもしれんのう」
「……え?」
ルークは小首を傾げ、龍馬の言葉の真意を測りかねたように問い返す。
だが、龍馬はそれには答えず、「さあ、夜風が冷えてきたき、早く寺田屋に帰って寝るべえ!」と、いつもの快活な調子で歩き出すのだった。その後ろ姿を見つめながら、ルークはただ、言葉にできない微かな胸騒ぎを感じていた。




