第八十二話:領分
翌朝、『寺田屋』の前に、見事な彫刻が施された一台の高級馬車が停まった。
ガルガド侯爵家の紋章が誇らしげに刻まれたその馬車は、通りがかる人々が思わず足を止めるほどの威光を放っている。
「いやぁ、まっこと立派な馬車じゃのう。座布団もふかふかぜよ」
当の龍馬は、いつものシワだらけの着物姿のまま、まるで近所の船にでも乗り込むような気楽さで御者台を見上げていた。
一方で、その隣に立つルークは、借りてきた猫のように全身をガチガチに硬直させている。
「……り、龍馬さん。本当にこの格好で行くんですか?俺はともかく、あなたは一応『代表』なんですから、もう少しマシな上着を着るとか……」
「ええがええが、中身は変わらんき。そんなに緊張したらしんどいぞ、ルーク」
笑う龍馬の後ろから、見送りにきたランセルが苦笑しながら声をかけた。
「ルークの言う通りですよ、旦那様。普通の商人なら、一国の侯爵から直接の招待を受けるなんて、一生に一度あるかないかの大事件なんです。もう少し緊張感を持ってください」
「そういうもんかえ」
龍馬はどこ吹く風で鼻を鳴らすと、「ほんなら、ちくと行ってくるき」と他人事のように馬車へと乗り込んだ。
ガルガドの中央にそびえ立つ侯爵城は、圧倒的な威容で二人を迎えた。
高くそびえ立つ尖塔、磨き上げられた大理石の床、そして廊下の随所に配置された本物の魔法武具。
案内される道すがら、ルークは周囲の様子に完全に圧倒されていた。
一分の隙もない動作で行き交う美しく着飾った使用人たち。すれ違うだけで肌がピリつくような威圧感を放つ、重装備の騎士団。
そして、遠巻きに龍馬たちを見てひそひそと囁き合う、仕立てのいい服を着た貴族たち。
「すごいですね……。これが、この街を、ひいてはシルベニア王国の経済の拠点を支配する一族の力ですか……」
ルークが息を呑み、ごくりと唾を飲み込む。
だが、その一歩前を歩く龍馬は、キョロキョロと天井や壁を見回しながら、のんきに呟くだけだった。
「ほう、まっこと人が多いのう。これだけ広いと、掃除をするがも一苦労じゃき、わしゃあ寺田屋の狭い部屋の方が落ち着くわ」
そのあまりの動じなさに、案内役の執事がかすかに眉をひそめたほどだった。
通された重厚な執務室の奥。大きな机の前に、その人物は座っていた。
ガルガド侯爵。
豊かな白髪を綺麗に整え、深い思慮を湛えた瞳を持つ年配の男だった。
その佇まいからは、長年この巨大都市を統治してきた者だけが持つ、本物の威厳が滲み出ている。だが、決して横暴な権力者のそれではなく、極めて理性的で静かな圧迫感だった。
「――待っていたぞ、坂本龍馬」
侯爵の声が、室内に低く響く。
「お初にお目にかかるき、侯爵様。わしのような素浪人を呼んでいただき、恐縮じゃ」
龍馬は形ばかりの礼をしたが、その目は真っ直ぐに侯爵の瞳を捉えていた。
「『テラダ屋』の若き支配人の後ろにある、『ニッポン商会』なる謎の組織。そして今や西の海で『亀山社中』の名を知らぬ海商はおらん。このガルガドで、いや、王国中で、お前の名を聞かぬ日はなかったぞ」
「そりゃあ照れるのう」
「照れるような実績ではない」
侯爵は、一切の冗談を排した真剣な目で言った。彼は、目の前の男がどれほど異常な速度で世界の物流を書き換えているかを、本気で評価し、警戒していた。
用意された昼食会。並べられた一級品の料理を前にしても、龍馬の態度は変わらなかった。
美味そうに肉を食い、出されたワインを美味そうに飲む。
侯爵はそんな龍馬を観察しながら、ドラン港の構造、ウィストリアやノルディアとの具体的な取引額、海運の効率について、矢継ぎ早に質問を重ねた。
龍馬はどれに対しても、隠すこともなく、ごく普通に、しかし的確に答えていく。
やがて、一通りの数字を聞き終えた侯爵が、不意にワイングラスを置いた。
「……お前の話を聞いていると、金の匂いがせんな。これほどの巨大利権を握りながら、お前自身は金貨一枚の贅沢もしていない。坂本龍馬、なぜお前はあの廃墟に、あれほどの港を作った?」
龍馬は、手にしたフォークを置き、ニカッと笑った。
「――流したかったがよ」
「……何をだ」
「人じゃ。物じゃ。金じゃ。情報じゃ」
龍馬の瞳の奥に、いつもの、あの果てしない世界の広がりが浮かび上がる。
「海も陸も、せっかく繋がっちゅうのに、国境だの関税だの小難しい理屈で、あっちゃこっちゃで流れが止まっとる。水だって、一箇所に留まり続けたら腐るろう? 世の中の金も物も同じじゃき。わしゃあ、ただ何の滞りもなくドカンと大きく流してみたいだけながよ」
その澱みのない言葉に、侯爵は静かに、深く感じ入るように目を細めた。
「……流れ、か」
侯爵は、自らの顎に手を当て、重々しく呟いた。
「実は今、王都が少しおかしいのだ」
「おかしい?」
「人口の異常な流入。それに伴う、食料や薪、家賃の高騰だ。一見すれば繁栄の極みだが、中身はボロボロだ。生活苦に耐えかねた熟練の職人たちが外縁部へ逃げ出し、王都を支えていた中小規模の商店が次々と閉鎖に追い込まれている。お前も知っているだろう」
龍馬は静かに頷き、窓の外の空を見つめた。
「ほうじゃのう。やっぱり、流れが止まっちゅうな」
「止まる? むしろ、物も人も集まりすぎているのだぞ」
「集まりすぎとるから、中で詰まって止まっちゅうがぜ」
龍馬は、テーブルの上にあった数枚の皿を強引に並べ替えた。
「ガラン、ガルガド、そして王都。今は全部の道が、王都という一つの点に向かって行き止まりになっちゅう。だから中でパンクするがじゃ。……なら、こうすればええ」
龍馬は、皿と皿を繋ぐように、指先で大きな『円』を描いた。
「ガランから王都、王都からアーデルハイト、そしてアーデルハイトからさらに南のレクセリアへ、そこからガラン。これらを太い一本の『環状街道』で結んで、ぐるぐると回す。王都に集まったものを、そのまま右から左へ流して外へ逃がす構造を作るがじゃ。そうすれば、王都だけに富が集中して腐ることもなけりゃあ、周囲の街も一緒に潤うて、国全体が元気になるき」
その壮大な『環状街道構想』を聞いた瞬間、同席していたルークは頭を殴られたような衝撃を受け、侯爵はただ静かに龍馬の指先を見つめていた。
長い、あまりにも長い沈黙が支配した。
やがて、侯爵は深く息を吐き出し、背もたれに体重を預けたる。
「……惜しいな」
「何がじゃ?」
「お前が『平民』であることだ」
その言葉に、ルークがヒッと短く息を呑んだ。
「お前のその発想は面白い。その視野の広さは、我が国のどの宮廷貴族をも凌駕しているだろう」
侯爵は、どこか哀れむような、しかし絶対的な断絶を孕んだ目で龍馬を見つめた。
「だがお前のその言葉に、光が当たることは決してない。せめて爵位を持つ家に生まれていれば……実に惜しい」
「……身分かや」
龍馬の声から、低く、温度が消える。
「『領分』だ」
侯爵は静かに、しかし鋼のように硬い声で言った。
「民には民の役目があり、貴族には貴族の役目がある。『越えてはならん線』があるのだ。それを崩せば、国そのものが崩壊する」
それは、侯爵が持つ悪意のない、本物の『貴族の正義』だった。
彼は龍馬を憎んでなどいない。むしろ、その才能を本気で惜しいと思っている。だからこそ、その言葉は冷酷で、どんな脅迫よりも重く、厄介だった。
龍馬は、その言葉を真っ向から受け止めた。
反論はしなかった。怒りで声を荒げることも、悔しそうに拳を握りしめることもない。ただ、静かに、深く、侯爵の言葉の重みを味わうように聞いていた。
そして、ぽつりと。
「……ほうかえ」
それだけを、静かに呟いた。
帰り道。
夕暮れのガルガドを走る馬車の中、ルークは沈痛な面持ちで口を開いた。
「……悪い人では、ありませんでしたね。ガルガド侯爵は。本気で僕たちのことを考えて、忠告してくれたんだと思います」
「おう」
龍馬は腕を組み、馬車の天井を見つめたまま、短く応じた。
しばらくの間、車輪の音だけが虚しく響く沈黙が続いた。
やがて、龍馬は視線を窓の外へと移し、ぽつりと漏らした。
「けんどな、ルーク」
「はい」
「あの侯爵様は……最後の最後まで、分かり合えん人じゃろうねえ」
「……そうですか」
「あぁ。あんなは、この国をどうやって綺麗に守るかを考えちゅう。わしゃあ……その国を外の広い海へ繋げたい思っちょる。最初から、見ゆう景色が違いすぎるき」
龍馬の声に、怒りはなかった。ただ、世界の理という巨大な壁を前にした、冷徹なまでの現実認識だけがあった。
寺田屋へと戻る直前。
龍馬は馬車を途中で止めさせ、ガルガドの街外れにある高台に立っていた。
目の前には、どこまでも真っ直ぐに伸びる、夕日に真っ赤に染まった王都街道。
あの道の先には、王国で最も栄え、そして今、最も美しく詰まりかけている巨大な心臓――王都がある。
どんなに富を築いても、どんなにシステムを作っても、最後に立ちはだかるのは『身分』と『領分』という、この世界そのものの形。名君であるはずのガルガド侯爵ですら、その呪縛からは逃れられない。
「まっこと……面倒な話じゃのう」
そう呟いた龍馬の唇の端は、しかし、挑発するように不敵に吊り上がっていた。
彼の視線の先。夕闇に溶けていく王都街道は、まるで巨大な怪物の喉のように、新たなる変革者を静かに待ち受けているようだった。




