第八十話:帰る場所
交易都市ガルガドを囲む巨大な石造りの城壁が、沈みゆく夕陽を浴びて、燃えるような茜色に染まっていた。
地平線の果てまで続くかと思えるほど長い街道には、荷物を満載した無数の馬車が列をなし、車輪が石畳を鳴らす重低音と、御者たちの荒々しい罵声が絶え間なく交錯している。
一歩、城門をくぐれば、そこは凄まじい熱気と喧騒の渦だった。
様々な人種の商人たちが行き交い、路地裏からは美味そうな屋台の煙が立ち上る。潮風が吹き抜けるドラン港の爽やかさとは対照的な、泥臭くも圧倒的な人間のエネルギーが満ち満ちた、懐かしい街並み。
荷馬車の御者台で手綱を握るルークが、周囲の喧騒に視線を巡らせながら、小さく息を吐いた。
「……ここは本当に、何も変わりませんね」
隣に座る龍馬は、懐に手を突っ込んだまま、目を細めて街の様子を眺めていた。
「いや、そうでもないちや。ちくと……いや、随分と人が増えたかのう」
馬車を降り、見慣れた大通りをのんびりと歩き出す。変装も何もしていないすっぴんの姿のまま、龍馬がのしのしと歩いていると、すぐに周囲のあちこちから声が飛んできた。
「おう、龍馬じゃねえか!」
「おいおい、帰ってきたのかよ、大将!」
「今度はどこの国でどんな騒ぎを起こしてきたんだい!?」
すれ違う商人や、露店の親父たちが、親しげに、そして半分は呆れたような顔で笑いかけてくる。
龍馬は頭を掻きむしりながら、わざとらしく不満そうな声を上げた。
「おいおい、失礼な奴っちゃのう。わしゃあドランで大人しゅう、真面目に海の商売をしてきただけじゃき」
「嘘をつけ!」
誰かが叫び、通りにドッと笑い声が広がった。その遠慮のない空気感に、龍馬の口元も自然と緩んでいく。
賑やかな大通りから一本入った路地に、その見慣れた建物は佇んでいた。
『テラダ屋』
夕暮れの門をくぐる客の足は途絶えることがない。むしろ、以前よりも明らかに人の出入りが激しく、活気に満ちあふれている。
龍馬は懐から手を出すと、玄関を勢いよく押し開けて、大声を張り上げた。
「おーーい! 女将ーー! 帰ったぜよーー!」
その声に、奥から煙管を弄んだ女性が姿を見せる。寺田屋を仕切る女将、リサだった。
リサは龍馬の姿を視界に捉えた瞬間、手に持っていた煙管を握りしめたまま、一瞬だけ完全に動きを固まらせた。驚きと、安堵が、その瞳の中で激しく交錯する。
だが、次の瞬間には、いつもの気の強い女将の顔に戻って、深くため息をついた。
「……本当に、前触れもなく帰ってくるんだから、この男は」
「おう、ただいまじゃ」
「……ま、無事で何よりだよ。怪我はないんだろうね?」
「この通り、ぴんぴんしちょるわ」
派手な涙も、大袈裟な抱擁もない。まるで、ほんの数時間ほど近所の散歩にでも出ていたかのような、自然で、しかし絶対的な信頼に満ちた空気。それこそが、何よりも彼らが「家族」であることの証だった。
龍馬がロビーを見渡すと、そこには旅人、泥にまみれた冒険者、身なりの良い商人、さらには貴族の紋章をつけた使いの者までが、ごった返すように席を待っていた。
「ほう、まっこと繁盛しちゅうのう。これじゃあ、わしらの泊まる部屋もないんじゃないかえ?」
「当たり前さ、今は毎日が満室だよ」
リサは肩をすくめながら、ふてぶてしく笑った。
「まったく……誰かさんが、遠くの街で余計なもんを作ってくれたせいさね」
「なんじゃ? わしゃあ、この店が忙しゅうなるようなことは何ちゃあしとらんぞ」
「大ありだよ。あんたがドランで作った、あの『亀山社中』のせいさ」
リサに促され、ロビーの隅の席に腰を下ろした龍馬は、出されたお茶をすすりながら、周囲の客たちの会話にそっと耳を傾けていた。
「おい、お前もこれからドランへ向かうのか?」
「ああ。中継地点としてこのテラダ屋に泊まったんだが、ここへ来れば最新の港の状況がわかるからな」
「とにかくあそこの港は凄いらしいぞ。ウィストリアの巨大船だけじゃなく、最近じゃあの遠いウォルディス諸島の船まで入港してるって話だ」
「流通の規模が違いすぎる。商売のネタを探すなら、今は王都よりもドランの『亀山社中』へ行くべきだってみんな言ってるぜ」
ガヤガヤと騒ぐ旅人や商人たちの言葉を、龍馬はただ、黙って静かに聞いていた。
口を挟むことも、自分がその創設者だと誇ることもない。ただ、温かい茶の湯気の向こうで、どこか遠い目をして、嬉しそうに耳を傾けている。
ドランの港は生きている。
エリスやダリオたちが守り、育てている『亀山社中』の名前が、自分の知らないところで勝手に歩き出し、こうして遠くガルガドにまで響き渡っている。
その事実が、龍馬の胸を深く、静かに満たしていった。
そのまま二階へと進むと
「お帰りなさいませ。龍馬様」
「いま帰ったぜよ、イーサン」
執事のイーサンが背筋をピンと伸ばした。
「みんな、変わりはないがぜ」
「はい。お元気ですよ。どうぞ」
「おう」
イーサンが事務室の扉を開ける。
中では、今やニッポン商会の番頭として商会を支えるカイルが、凄まじい勢いで帳簿と格闘していた。
「おう、カイル」
「……っ!?」
カイルが弾かれたように顔を上げる。目の下に少し隈を作ったカイルは、龍馬を見るなり、深く、深く、机に突っ伏すようにして息を吐き出した。
「……お帰りなさいませ、旦那様」
「おんしも元気そうじゃのう。しっかり商会を回しちゅうようで、安心したき」
「ハァ……誰のせいで、私が毎日この帳簿の山と死に物狂いで戦っていると思っているんですか」
いつもの、お決まりの軽口。だが、カイルの表情には、隠しきれない喜びが滲んでいた。
カイルはペンのインクを拭き取りながら、しみじみとした声で言った。
「でも、旦那様がいなくなってから、このテラダ屋も本当に変わりました」
「ほう?」
「今までは、ただの『居心地のいい宿屋』でした。でも、今は違います。旦那様がドランへ行って、あそこに新しい流れを作ったから……ここは、世界中の情報と、あらゆる『人』が集まり、交差する場所になったんです」
カイルの言葉に、龍馬はハッとしたように目を瞬かせた。
それは、自分がドランの地で創り上げた『亀山社中』と、まったく同じ役割だった。場所は違えど、自分が蒔いた種は、この最初の居場所でも同じように根を張り、大きな大樹へと育っていたのだ。
夜。
寺田屋の大広間では、龍馬の帰還を祝う、賑やかで温かい宴が催されていた。
女将のリサはもちろん、古参の料理人であるクイン。執事のイーサン、いつも豪快な鍛冶師ドイルや庭師のクレイル、そしていつもは通る声で指示を飛ばしているメイド長のリンダまで、寺田屋の主要な面々が全員集まっていた。
「おい龍馬! もっと飲め! 旅の話を聞かせろ!」
「龍馬さん!ドランの魚はこっちの肉より美味いのかい!?」
エールジョッキが激しくぶつかり合い、笑い声が天井を揺らす。いつもなら、その中心で誰よりも大声を出し、大酒を食らうはずの龍馬だったが、今夜は珍しく、静かに盃を傾けていた。みんなの笑顔を、一人ずつ愛おしそうに眺めている。
その様子に気づいたリサが、ドカッと龍馬の隣に腰掛けた。
「どうしたんだい、龍さん。珍しく静かじゃないか。ドランの潮風に当てられて、耳でも悪くしたかい?」
龍馬は盃を見つめたまま、ふっと優しく笑った。
「いや……ただな。こうやって、遠くの街でがむしゃらに働いて、ボロボロになって戻ってきた時に……『おかえり』と言うてくれる場所があるっちゅうがは、まっこと、ええもんじゃのうと思うてな」
その言葉に、大広間の喧騒が、一瞬だけ水を打ったように静まり返った。
イーサンも、ドイルも、みんなが温かい目で龍馬を見つめる。
リサは呆れたように鼻を鳴らし、龍馬の背中をパシィンと、痛いほどの力で叩いた。
「……馬鹿だねえ、アンタは」
「痛っ……なんじゃ、藪から棒に」
「風来坊みたいなあんたが帰ってくる場所を、ここにこうして作って、守り続けてきたのはね……他でもない、アンタ自身なんだよ、龍馬」
リサの言葉に、龍馬は一瞬だけ呆気に取られたように口を開けたが、すぐに照れくさそうに頭を掻いた。
「……ははは。そうかのう。なら、わしゃあ世界一の幸せ者な風来坊じゃの」
再び、広間にどっと笑い声が戻る。温かい宴の夜は、ゆっくりと、しかし確実に更けていった。
宴が終わり、静まり返った夜更け。
龍馬は一人、火照った身体を冷ますために、寺田屋の中庭へと出ていた。涼しい夜風が、心地よく着物の襟元を吹き抜けていく。
静寂の中、パチパチと中庭のランタンが揺れる。
「――相変わらず、タフな人ですね」
暗がりの向こうから、旅から帰ったばかりの引き締まった体躯の青年が現れた。ランセルだった。
その後ろには、相棒のノイルも、行商用の荷物を片付け終えた様子で静かに従っている。
「おう!おんし等も、いま行商から戻ったところかえ。お疲れさんじゃ」
「ええ。ただいま戻りました、龍馬さん」
ランセルは微笑んだが、その表情はすぐに、商人としての真剣なものへと切り替わった。
「早速で申し訳ないのですが、龍馬さん。耳に入れておく話があります」
「なんじゃ、物騒な顔をして」
「……このガルガド侯爵が、龍馬さんに会いたいと、使いを寄越してきました」
龍馬は片目を細めた。
「ほう……侯爵様がのう」
「表向きは、ドラン港の急速な発展に関する意見交換ですが……どうします?私のところで、上手くお断りしましょうか?」
ランセルの提案に、龍馬は夜空を見上げ、紫煙をふぅっと細く吹き出した。
「ふん……。まぁ、なるようになるき。一つ、逢うてみるか」
トラブルの匂いは、すでに始まっていた。だが、龍馬の瞳には、それを楽しむような不敵な光が、静かに宿っていた。
翌朝。
まだ誰も起きていない早朝の寺田屋の瓦屋根の上に、龍馬は一人、あぐらをかいて座っていた。
地平線の彼方から、眩い朝日の光が差し込み、巨大都市ガルガドの街並みを、一軒一軒、美しい黄金色へと染め上げていく。
ドランの港は歩き出した。そして、自分が創った最初の居場所であるこの寺田屋も、立派に自立して人を集めている。
ならば、自分が次にすべきことは――。
龍馬は立ち上がり、大きく伸びをしながら、眼下に広がる壮大な都市を見下ろした。
「さて……」
潮風ではない、乾いた大地の風が、彼の髪を揺らす。
「次は、なんぞと一勝負やってみるかのう」




