第七十九話:港は歩き出す
朝の『亀山社中』は、今日も目が回るほどの騒がしさに包まれていた。
新港の桟橋には、昨夜遅くに入港したウィストリアの商船が誇らしげに帆を畳んで停泊し、荷役たちがタラップを行き交っている。
倉庫の前では、北のノルディアから届いたばかりの、冷気を放つ『魔石箱』を抱えた労働者たちが、「せーの、ほい!」「油断するなよ!」と声を掛け合いながら、手際よく荷車へ積み込んでいた。
厨房の窓からは香ばしい焼きたてのパンとジューシーな肉の匂いが漂い、隣の医院からは、司祭セレナの凛とした叱責と、それに続く海の男たちの気まずそうな笑い声が漏れ聞こえてくる。
まるで精緻な時計の歯車が噛み合うように、港そのものが一つの生命体として、自律的に脈動していた。
そして、本館の会議室では。
エリスが、磨き上げられた大きな円卓の前に座り、山のような書類を手際よく捌いていた。そのペン先は一瞬の迷いもなく、口から出る指示は理路整然としていた。
「第四倉庫の増築許可申請書は、すでに領府へ提出済みです。ウィストリア側から打診のあった追加船団については、こちらのドックの空き状況を鑑みて、入港日程を三日後ろへずらしてください。それから、ノルディアから赴任する魔石加工職人たちの受け入れ宿舎ですが……二棟目の建設を急がせるよう、ダリオに伝えて」
「――おいおい、エリス嬢」
円卓の端で、のんきに朝茶をすすっていた龍馬が、感心したように目を細めた。
「おんし、いつの間にそんな顔をするようになったがじゃ」
エリスはペンを止めることなく、冷淡に視線だけを向けた。
「……どんな顔、ですか」
「人を使う顔じゃ。昔の、おんおん泣きよった伯爵家のお嬢様とは、まっこと見違えるほど立派な『お奉行様』ぜよ」
エリスはほんの一瞬だけ目を丸くしてパチクリとさせたが、すぐにいつもの涼しい顔に戻ってさらさらとペンを走らせる。
「誰かさんが、後先のことも考えずに次から次に人と、荷物と、莫大な金ばかりを際限なく集めてくるせいで、こうならざるを得なかっただけです」
「ほうかえ」
「はい。ですから、私がこうなった原因の十割はあなたにあります」
「なら、仕方がないのう」
「本当に、少しは反省というものをしてくれませんか?」
エリスが呆れたように息を吐くと、同席していた地元の商人たちから、くすくすと小さな笑い声が漏れた。
この円卓は、もはやただの会議室の机ではなかった。
ウィストリア、ノルディア、ガラン、そして亀山社中。かつては相容れなかった四つの異なる勢力が、今や当たり前のように同じ机に座り、同じ言葉で、互いの「未来の利益」を笑顔で語り合う場所。そのシステムは、完全に完成していた。
その日の昼過ぎ。
予定の空いた龍馬は、懐に手を突っ込んだまま、のんびりと社中の敷地を歩いていた。
まず足を向けたドック(造船所)では、相変わらず鼓膜を震わせるような怒号が響いていた。工廠責任者のダリオと、白髪混じりの老船大工が、大きな作業台に広げられた新しい船首の設計図を挟んで、額を突き合わせて怒鳴り合っている。
「だから! ここをあと二インチ厚くしろって言ってんだよ、爺さん!」
「厚くし過ぎたら船首が重くなって、進む前に沈んじまうだろうが、この若造が! 重心って言葉を知らんのか!」
「誰が若造だ! 技術の進歩に頭が追いつかねえなら、引っ込んでろ!」
龍馬が「相変わらず元気じゃのう」と近づくと、ダリオが荒々しく振り返り、手元にあった分厚い図面の紙の束を龍馬の胸元へ突き出してきた。
「おい、龍馬! ちょうどいいところに来やがった!」
「なんじゃ、ダリオ。喧嘩の仲裁ならお断りじゃき」
「違うわ! お前が前に言ってた、あの『氷を叩き割って進む船』――砕氷船の第一案だ!」
「おお!」
龍馬は嬉しそうに目を輝かせ、受け取った図面をしばらくの間、大真面目な顔をして隅から隅まで眺めた。複雑に引かれた無数の線、竜骨の補強計算、未知の形状をした舳先の角度。
そして、ふっと顔を上げると、実にあっけらかんと言った。
「――さっぱり分からんちや」
「なら見るな、馬鹿野郎!!」
ダリオの怒号が飛び、周囲の船大工たちが「ギャハハハ!」と床を叩いて爆笑した。
龍馬は笑いながら、クシャクシャになった図面をダリオの手に返す。
「まあ、細かいことはわからんけんど、おんし等天才が頭を突き合わせて作っちゅうがじゃ。任せたきに」
「……チッ、最初からそのつもりだ。黙って見てやがれ」
ダリオはぶっきらぼうに鼻を鳴らしたが、すぐにまた老大工の方を向き、図面に視線を落とした。
その横顔は怒っているようでありながら、その瞳には、新しい未知の技術に挑む少年のようなどこか楽しげな光が、確かに宿っていた。
次に訪れた『亀山医院』では、司祭セレナが今日も凛とした佇まいで忙しく立ち働いていた。廊下を進む龍馬の姿を見つけるなり、彼女は足を止めて冷たい視線を送る。
「坂本様。廊下の真ん中で立ち止まらないでください。邪魔です」
「ひどいのう。わしはただ、はたらき者の司祭様のお顔を見舞いに来たがじゃ」
「お見舞いなら結構です。それよりも患者たちの安静の迷惑になりますから、余計な動きをしないでくださいな」
「わし、そんなに信用がないかえ?」
「ありません」
一瞬の迷いもない即答だった。
その容赦のないやり取りに、ベッドの上で包帯を巻かれていた船員たちが「違いねえ!」「大将も、司祭様には敵わねえな!」と声を上げて笑う。
ふと見れば、部屋の奥を、かつて孤児院で怯えていた見習いの子供が、大量の清潔な洗濯物を抱えて元気に走り抜けていった。その隣では、怪我人の手当てをする少女の手つきが、以前とは比べものにならないほどしっかりと、手際よくなっている。
龍馬はその姿をじっと見つめ、何も言わずに、ただ優しく目を細めた。
さらに歩みを進めて倉庫街を覗くと、今度は大坂の寺田屋から派遣されてきた年長の少年たちが、ドランの孤児院出身の小さな子供たちを前に、小さな黒板を使って読み書きと数の数え方を教えていた。
「いいか、数字はとにかく綺麗に書け。誰が見ても一目で分かるようにな。ここが滲んでたら、後で荷物の数が合わなくなる」
「はい!」
「それから、荷物の名前を勝手に略すな。ウィストリアの商人とノルディアの商人じゃ、言葉のニュアンスが違うんだ。あとで絶対に揉めるからな」
「はい!」
龍馬が戸口からこっそり覗き込んでいると、一人の少年が龍馬の姿に気づき、ぐっと胸を張った。
「あ、龍馬さん! 見てください、今日の入庫データの処理、一つも間違い無しです!」
「ほう、そりゃあ偉いのう。大したもんじゃ」
「へへん、当然ですよ! ……まぁ、奥にいるルークさんに、提出する前に三回も突き返されて確認させられたんですけどね」
「それは……まっこと災難じゃったのう」
「――全部聞こえてますよ、龍馬さん」
事務室の奥の帳簿の山から、ルークの低く冷ややかな声が飛んできた。
龍馬は「おっと」と肩をすくめ、悪戯がバレた子供のように笑った。
倉庫を出て、夕暮れの柔らかな光が差し込む桟橋の袂に、龍馬とルークは並んで立っていた。
目の前には、自分が細かく指示を出さなくても。
自分が大声で走り回って指図をしなくても。
それぞれが自らの意志で、自らの役目を見つけ、勝手に動き、勝手に前へと進み続けている『亀山社中』の姿があった。
龍馬は夕日に染まる海を見つめながら、ぽつりと、風に溶けるような声で呟いた。
「……もう、わしがおらんでも、ここは立派に回るのう」
その言葉を聞いた隣のルークは、少しだけ驚いたように目を見張り、それから、どこか複雑そうな表情で視線を落とした。
「……寂しいですか、龍馬さん。ご自分が創った亀山社中なのに」
「わしゃあ、亀山社中っちゅう商館を作ったつもりじゃった。けんど……どうも違うたらしい」
「?違わないと思いますけど」
「わしが作ったんは、きっと『人』なんじゃろうなぁ」
「人、ですか」
「おうよ。勝手にわしの仕事を奪ってく人を作ったがよ」
龍馬は屈託のない顔で笑った。
「ははは!嬉しいじゃないかよ。商館っちゅうがは、一人の人間に依存しちゅう間は、まだ本物じゃないき。こうやって、みんなが自分の足で歩き出して、わしがただの『無駄飯食いの置物』になった時こそが、本当にこの亀山社中が完成した証拠ぜよ」
ルークは何も言わなかった。ただ、龍馬のその横顔を見つめながら、ほんの少しだけ、誇らしげに、そして穏やかに笑った。
夕刻。
龍馬は自室にルークを呼び出した。
どこか予感しているルークは、入室した時の龍馬を見て、革新した。
「もういいんですか?龍馬さん」
「おう。ここぁもう充分じゃき。おまんにもえらい付き合わせたたのう」
「まったくです。これで慣れない事務仕事から解放されますね。もう、ひやひやもんでしたよ」
「そうか?案外うまくやっちょったろうが」
「まぁ、女将さんとイーサンさんに散々仕込まれましたからねぇ」
「ほうか」
「えぇ」
二人は自然と笑い合った。なんだかんだで、二人がこの港から海に飛び出して、かなりの月日が流れたのだ。
「ウチに帰るぞ、ルーク」
「はい」
翌朝。
淡い朝靄が漂う亀山社中の正門前には、一台の頑丈な荷馬車が用意されていた。
ここを出発し、巨大商業都市ガルガドへ。
門の前には、夜明け前だというのに、驚くほど大勢の人間が集まっていた。
エリス、ダリオ、セレナ、ガヤルド、エリオット。
そして、孤児院出身の子供たちや、寺田屋から来た年長組、職人たち、船員たち――亀山社中に関わる、ほぼ全ての人間が、彼らの『代表』の旅立ちを見送るために集まっていた。
「坂本様。道中も、定期的に社中の書類を魔導便で送りますから、必ず、絶対に目を通してくださいね」
エリスが、これでもかと念を押すように書類の束を指差す。
「善処するき」
「それは『絶対に読まない』という意味ですね?」
「ははは、おんしもなかなか、人の心が鋭くなったのう」
「誰のせいで鍛えられたと思っているのですか」
エリスがため息をつくと、隣のダリオが腕を組んで鼻を鳴らした。
「おい、龍馬。砕氷船の件は、お前が帰ってくるまでにこっちで形にしておく。余計な口出しをしたくなったら、いつでも戻ってきやがれ」
「おう、ダリオ。完成の報せが届いたら、わしゃあどこからでも走って戻ってくるきに」
「フン、呼ばれなくても来るなよ」
ダリオはぶっきらぼうに言いながらも、寂しさを隠すように視線を逸らした。
セレナは静かに一歩前に出ると、綺麗に手を合わせて頭を下げた。
「道中、くれぐれも無理はなさらないように。坂本様は、すぐに自分の身体の優先順位を下げて無茶をなさいますから」
「心配せんでも、わしの身体は人一倍丈夫じゃき」
「そういうことを仰る方ほど、手遅れになるまで無理をするのです」
「耳が痛いのう……」
最後にガヤルドが、肩を叩いて豪快に笑った。
「街道が大きく整備されればガランとガルガドは目鼻先だ。そのうち俺達はガルガドを越える商圏を作り出して見せるぞ」
「そらあ大それた夢じゃのう!わしゃそういうんが好きじゃ」
「ハハッ、お前が始めたんだろうが!好きで当たり前だ」
二人は、男らしく短く笑い合った。
御者台に座ったルークが、手綱を握りながら振り返る。
「龍馬さん、そろそろ出発の時間です」
「おう」
龍馬は馬車へと乗り込む前に、一度だけ、立ち止まって振り返った。
朝日に照らされ、まばゆく輝く広大な亀山社中。
桟橋、倉庫、医院、工廠、宿舎、市場――そして、そこに生きる、愛すべき大勢の人々の笑顔。
自分が指示を出さなくても、もうこの場所は止まらない。
自分が死んでも、この港は、新しい時代の海へ向かって、自らの足で力強く歩んでいく。
坂本龍馬は、これ以上ないほど満足そうに、太陽のような晴れやかな笑顔を浮かべた。
「ほんじゃあ、みんな!――ちくと、行ってくるきに!」
「「「いってらっしゃいませ、坂本様(大将(代表(龍馬さん)!!!」」」
子供たちの、そして大人たちの地鳴りのような見送りの声が、朝の港に大きく、どこまでも響き渡った。
パシィン、と手綱が引かれ、荷馬車がゆっくりと動き出す。
ドランの心地よい潮風が、馬車から大きく手を振る龍馬の、黒い着物の袖を激しく揺らしていた。
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数日後。夕暮れの街道。
乾いた砂煙を上げながら進む一台の荷馬車は、緩やかな丘の斜面を越えようとしていた。
御者台の隣に座り、ずっと前方の景色を凝視していたルークが、不意に声を張り上げた。
「龍馬さん、見えてきましたよ!」
「ん? ……どれどれ」
懐に手を突っ込んでうとうとしていた龍馬が、ゆっくりと顔を上げる。
遮るもののない丘の向こう。
地平線の果てに、沈みゆく烈しい夕陽の光を浴びて、燃えるような赤に染まる巨大な、あまりにも巨大な交易都市のシルエットが、壮大に浮かび上がっていた。
ひっきりなしに馬車が行き交う街道が何本も交差する場所。
人と、物と、金が、この王国内で最も激しく激突し合う、王国最大級の商業都市――。
ルークは、どこか懐かしそうに、そして誇らしげに口元を緩めた。
「――『ガルガド』です」
龍馬は、遠くで黄金色に輝く未知の巨大な街を見つめ、静かに、ゆっくりと口元を不敵に緩めた。
「帰って来たぜよ…………ガルガド」
一つの死に絶えた廃墟に命を吹き込み、巨大な港を歩かせた男は――次なる時代の「大いなる流れ」を求めて、再び、果てしない道の上へと踏み出すのだった。




