第七十八話:人が創る港
朝の柔らかな陽光が、亀山社中の広大な敷地を、眩い黄金色に照らし出していた。
ほんの数ヶ月前まで、ここは荒れ狂う潮風と、打ち捨てられた資材だけが転がる寂れた廃墟に過ぎなかった。
だが、今は違う。
桟橋には国旗や商船旗をはためかせた大型船が整然と並び、
巨大な倉庫群には、世界中から運び込まれた珍しい荷物が天井に届くほど積み上げられ、
活気ある宿舎からは、長旅を終えた船員たちの賑やかな笑い声が漏れ聞こえる。
医院には、体調を崩した港の労働者やその仲間がひっきりなし。
工廠からは、職人たちが打ち鳴らす規則正しい槌音が、カン、カンと心地よく響き渡っている。
それはまるで、一つの巨大な意志を持った生き物が、力強く脈打っているかのようだった。建物という骨組みに、人間という血が通い、港そのものが呼吸を始めている。
そんな光景を二階の窓から眺めながら、龍馬は本館の廊下をぶらぶらと、実に締まりのない足取りで歩いていた。
珍しく、朝から何の予定も入っていない、奇跡のような時間だった。
「……あー、暇じゃのう」
誰に言うでもなく、ぽつりと懐に手を突っ込んだまま呟く。
すると、その背後から、一切の容赦のない冷徹な声が即座に飛んできた。
「暇を持て余しているのでしたら、その足で事務室へ行って、山積みの書類を片付けてください」
振り返れば、そこには両腕から溢れんばかりの分厚い書類の束を抱えたエリスが、般若のような冷ややかな目で立っていた。
「嫌じゃ」
「即答ですか」
エリスが深く、眉間にシワを寄せる。
「代表が朝から机にしがみついて数字ばかり見よったら、社中の景気が悪うなるき」
「代表だからこそ、目を通さなければいけない書類があるんです!」
「ほうか」
「『ほうか』、ではありません!」
エリスの鋭いツッコミを背に受けながら、龍馬は聞こえなかったふりをして、そのまま素早く逃げるように歩き出した。
その背中を見送りながら、エリスは深々と、今日一番の大きな溜息を吐き出した。
「本当に……どこまでも自由な人ですわね、あの方は……」
龍馬がまず立ち寄ったのは、港の胃袋とも言える巨大な中央倉庫だった。
ひんやりとした空気の漂う広大な屋内では、朝一番に入港した商船からの荷物の搬入作業が、慌ただしく続けられていた。
「おい、そこ右だ! 焦るな、足元に気をつけろ!」
「はい!」
「違う違う! 積み方が逆! 先に重い箱を下に入れないと、上の荷物が潰れちゃう!」
威勢のいい声でテキパキと指示を出しているのは、寺田屋から亀山社中の立ち上げに伴って派遣されてきた、年長の少年だった。
年齢はまだ十六、七歳といったところだろう。以前は大人たちの後ろで言われるがままに動いていたはずの彼が、今では立派に腕章を巻き、先輩として周囲を引っ張っている。
その視線の先では、ドランの孤児院から集まってきた、一回り小さな見習いの少年たちが、必死に荷車を押して走り回っていた。
龍馬は近くの柱に寄りかかり、腕を組みながら、その様子を感心したように眺めた。
「ほう……」
その視線に気づいた少年が、ハッとして作業の手を止めた。
「あ、龍馬さん! いつからそこに?」
「ついさっきじゃ。おんし、随分と立派に指図するようになったのう」
からかうような龍馬の言葉に、少年は顔を少し赤くしながらも、ふてぶてしく言い返した。
「……誰のせいでこうなったと思ってるんですか。人手が足りないから、僕がやるしかないでしょう」
「わしゃ知らんき」
「ひでぇ!」
少年のあからさまな不満の顔に、周囲で荷を運んでいた他の職人や子供たちから、どっと笑い声が起こる。
その笑顔を見つめながら、龍馬の胸の奥に、温かいものが広がっていった。
ガルガドの路地裏で飢えていた子供。ドランの施設で行き場を失っていた子供。
あちこちの泥の中から引き揚げてきた小さな人間たちが、今やこの巨大な港の物流を支え、次の新しい世代を教える側に立っている。
「……早いもんじゃのう、人間が変わるがは」
龍馬は、嬉しそうに目を細めながら、ぽつりと呟いた。
昼前。小腹が空いた龍馬は、社中の人間たちの食事を一手に引き受ける巨大な厨房へと顔を出した。
中は昼食の準備の真っ最中で、湯気と肉の焼ける匂いが立ち込め、まさに戦場のような忙しさだった。
「あら、大将!」
大鍋を振るっていた料理長が、龍馬の姿に気づいて白い歯を見せた。
「邪魔するのう。美味そうな匂いに釣られてきてしもうた」
「邪魔だと分かってるなら、さっさと帰んな! つまみ食いは許さないよ!」
「ひどいのう、一切れくらい景気よくおくれやす」
そんな軽口を叩き合っていると、料理長がふと調理場の奥に向かって声を張り上げた。
「おーい! 冷やすための氷が足りないよ! 誰か奥の氷室から出して、使いやすいように切っといとくれ!」
「はーい!」
奥から響いたのは、元気な少女の返事だった。
龍馬が何気なくそちらを振り返ると、厨房の片隅に、大人の胴回りほどもある、青白く光る巨大な氷塊がゴロリと運び込まれてきた。ノルディアから魔法技術で運ばれてきた、滅多に溶けない硬質な魔氷だ。
そこへ、小さな包丁を手にした一人の見習い少女が、とことこと近づいていく。
龍馬は思わず目を丸くし、眉をひそめた。
「おいおい……ちょっと待ちや。無茶じゃろ、そんな小さな包丁で、その大氷を叩き割ろうなんて。刃がこぼれて怪我をするき、大人の男を呼んだ方が――」
すると、少女は不思議そうな顔をして龍馬を見上げたのち、たんたんと氷に向かう。
「?――――よいしょっと」
少女はごく自然な動作で、包丁の鋭い刃先を、巨大な氷塊の表面の一点へと当てた。
カリッ。
金属が擦れる小さな音がして、氷の表面に、本当にごくわずかな、目立たない「傷」が刻まれる。
そして少女は、反対の手で持っていた小さな木槌を取り出すと、包丁の背を、軽く、本当に軽く数度叩いた。
コン、コン――コン!
次の瞬間だった。
――パキィン!!!
乾いた、しかし重厚な金属音のような音が響き渡り、大人の力でもビクともしないはずの巨大な氷塊が、まるで最初からそう決まっていたかのように、見事に、真っ二つへと綺麗に割れたのだ。
「……へ?」
「?しゃちょう?」
坂本龍馬の口から、間抜けな声が漏れた。
少女は驚く龍馬に小首を傾げながらも、さらに手際よく作業を続けていく。
割れた氷の断面に、再び包丁の刃で小さな傷をつけ、木槌で叩く。
コン、パキッ。
コン、パキッ。
流れるようなリズムで、あっという間に巨大な氷は、厨房で使いやすい手頃な大きさのサイコロ状へと砕かれていった。
龍馬は、足元に転がる美しい氷の破片を見た。
それから、涼しい顔をしている少女を見た。
もう一度、氷を見た。
「……おんし、今、なんで割れたがぜよ? 魔法かえ?」
少女は首を傾げ、何を当たり前のことを聞いているのだろうという風に答えた。
「魔法なんかじゃありませんよ?
「ほいだらだなんでじゃ」
「なんでって……最初に小さな『傷』があったら、氷はそこから割れやすくなりますから」
「傷……?」
「はい。氷ってそんなものじゃないんですか?」
少女はにこりと笑うと、砕いた氷をボウルに集めて奥へと去っていった。
龍馬はその場に立ち尽くしたまま、完全に沈黙した。
氷。
傷。
割れる。
硬い氷に、ほんの小さなきっかけを与えるだけで、巨大な塊が自ら崩壊するように割れる。
傷。割れる。氷。割れる――。
じわじわと、龍馬の脳細胞が異常な速度で回転を始める。
瞳がみるみるうちに細くなり、焦点が目の前の厨房ではなく、遥か遠くの、果てしない世界の景色へと向かい始めた。
その様子を横目で見ていた料理長の手が、ピタリと止まる。全身に強烈な鳥肌が立ち、猛烈に嫌な予感が脳裏をよぎった。
「あー……こいとお前さん。その顔」
料理長はおそるおそる声をかけた。
「……また何か、悪だくみしてそうな顔してるよ?」
龍馬は応えなかった。ただ、唇の端を吊り上げ、ニヤリと、悪魔のような不敵な笑みを浮かべるだけだった。
夕刻。潮風が冷たさを増すドックの一角で、ダリオと老船大工が、次に入港する船の修繕計画について図面を見ながら確認し合っていた。
「おい、爺さん、ここの竜骨の強度が――」
「あ? そんなもん、ノルディアの鉄板を二重に張れば一発だろ――」
「――ダリオ、爺さん。ちょっと面を貸せや」
割り込んできた低い声に二人が顔を上げると、そこにはいつになく真剣な目をした龍馬が立っていた。
彼は落ちていた太い木の棒を拾い上げると、二人の足元の地面に、迷いのない手つきでガリガリと絵を描き始めた。
描かれたのは、一隻の奇妙な形状をした船の輪郭。その先には、巨大な「氷」を示す四角い塊。
龍馬は棒の先で、その船が氷に向かって突き進むような「矢印」を描き加える。
さらに、その次のコマ。船の舳先が氷に接触し、氷の表面に「傷」がつき、次の瞬間には氷が左右に大きく割れ、船がその間を突き進んでいく図。
「……おい、お前、さっきから何をしてやがるんだ?」
ダリオが怪訝そうに、地面の拙い絵を睨みつける。
龍馬は、大真面目な顔で地面を指差した。
「氷っちゅうもんはな、どんなに大きくても、小さな『傷』から簡単に割れるらしいがじゃ」
「は? ……まぁ、理屈としてはそうだが」
「だからな」
龍馬は不敵に笑った。
「船の舳先をうんと頑丈に作って、自らの重みで氷に『傷』をつけ、叩き割りながら進む船を作るがじゃ」
一瞬の沈黙。
ダリオと老人は、同時に地面の絵を見た。
一度目をしばたたかせ、もう一度、凝視する。
さらに、龍馬の狂気とも思える光を宿した瞳を見る。
「……」
「……」
二人まったく同じタイミングで、頭を押さえて絶叫した。
「「――待て!!!」」
「待て待て待て! お前、自分が何を言ってるか分かってんのか!?」
ダリオが声を裏返らせる。
だが、龍馬はただ楽しそうに笑うだけだった。
「どうじゃ、面白いじゃろう?」
「……面白いな」
老船大工が、悔しそうに、しかし職人としての本能を刺激されたように歯を鳴らした。
「抜群に面白い。……だがな若いの。んなもん、口で言うほど簡単じゃねえぞ」
「ほう、どこが難しいがぞ」
「全部だ、全部!」
割って入ったダリオは地面の絵を激しく指差した。
「氷の圧力に耐える『材料』、船底を滑らせる特殊な『設計』、衝撃を逃がす『船体強度』、ひっくり返らねえための『重心』、そして何より、分厚い氷を押し潰すための凄まじい『推進力』……! 今の俺たちにゃ、何もかもが足りねえ!」
龍馬は特に驚きもせず、ただ肩を竦めて尋ねた。
「ほんなら、おんし等の腕を持ってして、どれくらい掛かるがぞ?」
ダリオは、腕を組み、脳内で無数の計算を火花のように走らせた後、即答した。
「……一年だ。とにかくやってみねぇと分からねぇがな」
「海の男にしちゃあ、ちょっと長いのう」
「当たり前だ、馬鹿野郎! この世界の海で、誰もまともに作ったことがねえ船を作るんだぞ!」
ダリオが怒鳴る。
すると龍馬は、胸のすくような豪快な笑い声を響かせた。
「――上等じゃ!!! ほんなら、一年後を最高に楽しみにしちょるき、ダリオ、爺さん、おまん等の魂を見せてや!」
「ちっ、勝手に楽しみにしやがれ!」
ダリオは悪態をつきながらも、その手はすでにポケットからメモ帳を取り出し、地面の絵を夢中で書き写し始めていた。
老人の目にも、すでに未知の領域へ挑む学究の熱が灯っている。
龍馬の突拍子もない思いつきが、二人の職人の頭脳という歯車を、完全に噛み合わせ、回し始めていた。
夜。
すっかり暗くなった高台の崖の上に、龍馬は一人で立っていた。
眼下には、夜間も明かりを灯し、美しく機能し続けるドラン港の全景が広がっている。だが、龍馬の視線は、その港のさらに先――遥か北の、漆黒の海へと向けられていた。
その先には、巨万の富を抱えながらも、冬になれば閉ざされる極北の国・ノルディア連邦がある。
冬になれば海が凍る。港は閉ざされる。船は止まる。人間はただ、春が来るまでじっと寒さに耐え、物流を止める。
それが、この世界で何百年、何千年も「当たり前」とされてきた、絶対の理であり、逆らえない自然の法則だった。
けれど。
坂本龍馬という男は、その絶対の闇に向かって、不敵に笑ってみせた。
「待っちょれ、ノルディア……」
強い潮風が、彼の着物の裾を激しくなびかせる。
「その凍った海とやら……いつか、わしらの船で、真っ二つにぶち抜いちゃるきなぁ」
その瞳の先には、世界の誰も見たことのない、氷を砕いて進む奇跡の航路が、はっきりと描き出されていた。
その頃、亀山社中本館のオフィスでは。
「……はぁ」
エリスが、机の上に置かれた山のような書類を前に、再び深い溜息をつきながら、両手で頭を抱えていた。
まだ夜の帳が降りたばかりだというのに、彼女の背中は、まるで一日の仕事を終えたかのように疲れ切っている。
「……また、何かとんでもないことを思い付きましたね、あの人は」
何故だか分かった。いや、分かってしまうのだ。
あの坂本龍馬という男と、激動の日々を共にしてきたからこそ、彼女の『龍馬センサー』が正確に危険を察知していた。
遠く、高台の方から、龍馬の豪快な笑い声が風に乗って聞こえた気がして、エリスはがっくりと机へ突っ伏した。
「お願いですから……坂本様。今度は……今度こそは、ほどほどにしてください……。私の胃が、もちませんわ……」
だが、その哀れな補佐官の願いが叶うことは、おそらく、この先も絶対に無いのであった。




