第七十六話:商人の席
カン、カン、と遠くで響く仕上げの槌音を BGM に、エリスは完成したばかりの『亀山社中』本館五階にある会議室で、朝から膨大な書類の整理に追われていた。
部屋の中央に鎮座するのは、見事な職人技で磨き上げられた、深い木目を持つ大きな楕円形のオーク材の机。その壁面には、この世界の海の縮図とも言える巨大な海図が掲げられていた。
青いインクで力強く引かれた、一大交易都市へと繋がる『ウィストリア航路』。
北方の巨万の富を運ぶ、険しくも実り豊かな『ノルディア航路』。
そして陸路の要であり、内陸の富を港へと引き込む『王都街道』。
そのすべての交差点に、現在建設中の新倉庫群とこの亀山社中が位置している。
いまやここは単なる一介の商館ではなく、複数の国家と地域を跨ぐ、一つの巨大な経済拠点へと急速に変貌を遂げつつあった。
「ふう……」
エリスがペンを置き、こめかみを押さえて息をついた、その時だった。
「エリス嬢ーー」
部屋の扉から、着物の懐に手を突っ込んだ龍馬が、ひょっこりと緊張感のない顔を覗かせた。
「なんですか、坂本様。見ての通り、私は今、次に入港する船の書類で手一杯なのですが」
エリスが少しだけ棘のある声で返すと、龍馬はニカッと緊張感のない笑みを浮かべた。
「いやいや、ご苦労さんじゃ。けんどな、今日、今からここを使うきに、書類をちょっと片付けてもらえるかね」
「ここを? ……会議ですか? どなたか大物商会長でもいらっしゃる予定でしたっけ」
「いや」
龍馬は顎をさすりながら、実にあっけらかんと言った。
「喧嘩じゃき」
「……は?」
エリスが素っ頓狂な声を上げた、まさにその直後だった。
――ドンッ!!
本館の一階の玄関扉が、壊れんばかりの勢いで乱暴に押し開けられる音が、五階の会議室まで響いてきた。激しい足音が階段を駆け上がってき、会議室の重厚な扉が乱暴に開け放たれる。
先頭に立っていたのは、ドラン港の有力商人たちのまとめ役であり、龍馬とは以前取引をした事のある男――ガヤルドだった。その後ろには、ガラン伯爵領で古くから商売を営んできた、文字通り「地元生え抜き」の有力商人たちが十数名、いずれも般若のような険しい顔をして控えている。
「――おいニッポン商会!!」
ガヤルドが怒号とともに部屋へ踏み込んできた。
一触即発の空気。しかし、龍馬は怯むどころか、嬉しそうに両手を広げて笑った。
「おぉ!よう来たのう、ガヤルドの旦那! それに皆々さんも、揃いも揃ってどうしたんじゃ」
「白々しい真似を! お前に話があって来たんだ!」
「おう、話ならいくらでも聞くき。まあ、そこに座れや」
龍馬が楕円形の机の椅子を示すが、ガヤルドはそれを激しく撥ね付けた。
「座りに来たんじゃない! お前に真っ当な文句を言いに来たんだよ!」
エリスは思わず天を仰いで頭を抱え、遠くのオフィスでその騒ぎを察知したルークは、そっと両手で顔を覆った。
(ああ、また始まった……)
龍馬の行くところ、常にこの手の大嵐が吹き荒れるのは、もはやお約束だった。
ガヤルドは楕円形の机に歩み寄ると、その頑丈な天板を大きな音を立てて叩きつけた。
「いいか! お前がここで始めてる大博打の噂は、嫌でも耳に入る! ウィストリアの商業ギルド! ノルディアの商会連合! どいつもこいつも、入ってくるのは異国の巨大商人ばかりじゃねえか! 彼奴らを優遇して、特別待遇で港に迎え入れやがって!」
ガヤルドの言葉を皮切りに、後ろに控えていた地元商人たちからも、堰を切ったように怒号が飛び交い始める。
「そうだ! 俺たちガランの商人をどうするつもりだ!」
「このままじゃ、俺たちの縄張りだったドラン港が、異国の連中に丸ごと乗っ取られちまう!」
「あんな巨大な資本が一気に流れ込んできたら、市場の相場がめちゃくちゃに荒れる! 俺たちの商売を根底から潰す気か!」
口々に叫ぶ彼らの顔には、怒りだけでなく、得体の知れない巨大な「貿易」という怪物に対する、本物の恐怖が張り付いていた。
だが。
それだけの怒号の嵐を正面から浴びながらも、坂本龍馬という男は、ただ静かに、そして楽しそうに笑っていた。
「――おまん等、言いたいことは終わったかえ?」
龍馬の低く、しかし驚くほどよく通る声が、騒がしい会議室をすっと静めさせた。
「……まだだ! まだお前からの納得のいく回答を聞いちゃいねえ!」
ガヤルドが息を荒くしながら睨みつける。
「ほうか。答えろ、言うてもな……答えは最初から簡単ながよ」
龍馬は懐から、一枚のクシャクシャの地図を取り出し、先ほどガヤルドが叩いた机の上に、これ見よがしに広げた。
そこには、ウィストリア、ガラン、ノルディアの三つの勢力を結ぶ、三角形の巨大な新航路が、龍馬の独特の筆致で描かれていた。
「おまん等、根本的なところで勘違いしちょる」
「何をだ」
「わしはここで商売しに来たんじゃない」
「……は?」
その場にいた全員が、一瞬、龍馬が何を言ったのか理解できずに「は?」と間抜けた声を漏らした。
商人である男が、商売をしないとは、一体どういう意味か。
「わしが欲しいがは商売じゃない」
龍馬は地図の中央を指で叩く。
「市場じゃ」
静寂。
その指先の『ガラン』に伸びるラインは、王都に、ノルディアに、ウィストリアに繋がっている。
「人が集まる、物が集まる、金が集まる。すればどうか」
「…………」
「ほんなら商売は勝手に生まれるじゃろうが」
龍馬は笑う。
それは確信に満ちた笑いだ。
「わしは商売を作るんじゃない!商売が生まれる場所を作るがじゃ!」
静まり返る室内。誰もが龍馬の真意を測りかねて沈黙する中、龍馬は淡々と事実を積み重ねていく。
「この亀山社中にはな、おまん等の言う通り、ウィストリアからもノルディアからも、山ほどの出資が入っちょる」
「だから、何だってんだ!」
「だからこりゃあ確かな話じゃ言うちょる」
「あん?」
「あいつ等はな、『絶対』にこの港を、この倉庫を、この社中を使うっちゅうことじゃ」
龍馬の瞳が、鋭く光る。
「大金を注ぎ込んだがじゃ、使う権利がある。元を取るために、連中は意地でも自慢の大型船に、見たこともない異国の物資を山ほど積んで、このドラン港へひっきりなしに送り込んでくる。……それが、どれほど凄まじいことか、おまん等なら分かるろう?」
「だ、だから! それをやられたら、俺たち地元商人の商売が上がったりになると言ってるんだ!」
地元商人の一人が悲鳴のように叫ぶ。
その瞬間、龍馬は楕円形の机を、ガヤルド以上の力でバンッ!! と叩き返した。
「じゃから!! おまん等も、その市場を、その異国商人を、丸ごと使えばええろうが!!」
怒号のような龍馬の言葉が、会議室の壁に跳ね返り、商人たちは完全に気圧されて静まり返った。
ガヤルドが、信じられないものを見るように眉をひそめる。
「……お前、何を言っているんだ?」
「ココにこれから何がある? 船が来る。金が来る。世界中の珍しい荷が来る。そして、それらを動かす膨大な人が来る」
龍馬は指を一本ずつ折り数えながら、ガヤルドの顔を覗き込んだ。
「ほんなら、商人を名乗るおまん等は、目の前にそれだけのモノが集まってきて、一体何をするがぜよ?」
ガヤルドは、応える言葉が見つからず、ただ喉を鳴らした。
「売るんじゃろうが!買うんじゃろうが!」
龍馬は不敵に笑った。
「ここに来る異国の巨大商人に、ここに集まる大荷主に、長旅で腹を空かせた大勢の船乗りたちに……おまん等ガランの商人が、彼らの欲しがるモンを、おまん等の価格で売ればええがじゃ」
その言葉が投げかけられた瞬間、ガヤルドの脳裏に、稲妻のような衝撃が走った。
繋がったのだ。
目の前に現れた亀山社中という巨大な怪物は、自分たちの市場を奪い荒らす『敵』ではない。
自分たちが逆立ちしても呼び込めなかった、世界中の富を持った、見たこともない規模の『極上の客』なのだ、と。
「わしはな」
龍馬は声を少し落とし、優しく諭すように続けた。
「海を渡る船を出す。頑丈な港も作る。物資を腐らせん大きな倉庫も貸す。なんなら、取引に必要な『信用』の仲介だって引き受けてやる。……けんどな、その集まった市場で、具体的に『何を売り買いするか』ちう、そんな細かいことはわしゃあ知らん」
龍馬は地元商人たちをぐるりと見渡した。
「だってそうだろう。このガランの土地で、何十年も地を這うようにして商売をしてきたおまん等の方が、ここの魚も、塩も、酒も、山から切り出す上質な木材も……何が一番価値があって、どこから仕入れるのが最高か、わしなんかより遥かに詳しく知っちゅうろうが」
ガヤルドは初めて、完全に口を噤んだ。
そうだ。自分たちは、この港から追い出される弱者ではない。龍馬が創り出したこの巨大なインフラを、誰よりも泥臭く、誰よりも深く『利用して大儲けする側』に回ればいいだけなのだ。
「おまん等には、歴史がある。仕入れのルートがある。土地の信用がある。ほんなら、自信を持って売ればええがじゃ。このドラン港から……世界に向けてな」
その瞬間、会議室を満たしていた張り詰めた空気の色が、完全に変わった。
商人たちの顔から「恐怖」が消え、代わりに、抑えきれない貪欲な商売人の「熱」が宿り始める。
ガヤルドは、深く、肺の底から大きな息を吐き出した。そして、降参したと言わんばかりに、ニヤリと不敵に笑ってみせた。
「……はっ、とんでもねえ『災害』だな、お前は」
「なんぜ、ひどい言われ様じゃのう」
「お前みたいな、自分の商売じゃなく『市場そのもの』を引っ提げてくる商人は、生まれて初めて見たよ」
「そりゃあ光栄じゃ」
「――――分かった」
ガヤルドは一歩前に出ると、力強く右手を差し出した。
「その大博打、俺たちガランの商人にも、一枚噛ませろ。美味い汁を異国の奴らだけに吸わせる気はねえ」
龍馬は即座に、その手をガシッと力強く握り返した。
「上等じゃ!! おまん等なら、そう言うてくれると信じちょったぜよ!」
二人の男の手が、固い信頼の音を立てて結ばれた。
握手を交わした後、龍馬は商人たちの前を通り過ぎ、会議室のさらに奥へと歩みを進めた。そこには、エリスが朝から丁寧に整えていた、重厚な円卓が置かれていた。
円卓の周囲には、四つの立派な椅子が配置されている。
龍馬はその椅子の背もたれを指差した。
「一つ目の席は、海上航路を握る『ウィストリア』。
二つの席は、北の資源を握る『ノルディア』。
三つの席は、この場を提供するわしら『亀山社中』」
そして、龍馬は未だ誰も座っていない、最後の一つ――ぽつんと残された空席の椅子を、静かに引き回した。
「――座れや、旦那」
ガヤルドは、怪訝そうに眉をひそめた。
「……そいつは、どこの席だ?」
龍馬は当然のことのように、胸を張って言った。
「シルベニアの玄関口『ガラン』じゃき」
その場が、再び心地よい静寂に包まれる。
「ウィストリアがおる。ノルディアがおる。わしら亀山社中がおる。ほんなら、この土地の主役である『ガランの商人』がおらな、せっかくの商談の席のバランスが、悪うて仕様がないろう?」
ガヤルドはしばらくの間、その引き出された椅子と、龍馬の顔を交互に見つめていた。やがて、観念したように短く笑うと、上着の裾を払い、ゆっくりと、しかし確かな足取りでその席へと腰を下ろした。
彼が座った瞬間、後ろの地元商人たちからも、誇らしげな、そして覚悟を決めたような重い息遣いが漏れる。
その様子を横で見ていたエリスは、胸の奥が高鳴るのを抑えきれなかった。
(これは……ただの会議の席ではないわ)
エリスは確信していた。これは、この港湾都市ドランの、ひいては、この世界の未来の経済の形を決める、歴史的な席なのだと。
海運の覇者、ウィストリア。
北方の巨人、ノルディア。
地元の誇り、ガラン。
そして、それらを繋ぐ中心点、亀山社中。
この四つの勢力が、敵対でもなく、支配でもなく、初めて「対等な商人」として同じ机に着いた、歴史的な瞬間。
「よし、全員揃うたな」
龍馬が円卓の自身の席に座り、悪ガキのように目を輝かせる。
窓の外から差し込む朝の光が、円卓の四者を等しく照らし出した。
「こっからじゃぞ皆の衆。わし等はここから――――世界を相手に大商いに出るがよ!」
この時、この場所で、これが、新しい時代の幕開けを告げる最初の会議だった。




