第七十五話:ようやった
――カン、カン、カン! キン、キン、キン!
ドラン港の北部に響き渡る槌音は、数ヶ月前とは比較にならないほど力強く、そして幾重にも重なり合って地鳴りのように響いていた。
かつて潮風に洗われるだけの荒涼とした廃墟だった造船所跡地は、もはや以前の面影をほとんど残していなかった。
海岸線に沿って、頑強な石積みの土台を持つ真新しい桟橋が何本も海へと突き出し、そこにはユニオン号をはじめとする船が威風堂々と接岸している。敷地の中心には、巨人の家かと思わせるほど巨大な、真新しい棟がいくつも建ち並び、その屋根瓦が陽光を浴びて鈍く光っていた。
ドックの奥からは船大工たちが木材を削る心地よい音が響き、鍛冶場からは炉の赤々とした火床が吐き出す熱気と、鉄を叩く甲高い音が絶え間なく溢れ出している。
だが、この見違えるような活気の中で、何よりも以前と違っていたのは、そこではたらく「人間」の姿だった。
「おい! そっちの荷は第三倉庫の右奥に搬入だ! 間違えるんじゃねえぞ!」
大柄な荷役頭が声を張り上げる。
「はいっ!」
即座に、まだ声変わりも終わっていない少年が、大人顔負けの大声で返事をした。少年は汗まみれになりながらも、器用に手押し車を操り、見事な足取りで巨大な倉庫の中へと消えていく。
「ルークさん、今日の入港分の帳簿、こちらにまとめておきました!」
「ありがとう。助かるよ」
こちらの部屋では、大量の書類を小脇に抱えた少女が、机に向かうルークの元へ、弾むような足取りで駆け寄っていた。
彼女たちは、ほんの数ヶ月前まで、西区の孤児院で「ただ生かされているだけ」だった子供たちだった。
いま、この亀山社中において、彼らを『孤児』などと呼ぶ者は一人もいない。
倉庫係見習い、荷役見習い、事務補助、あるいは厨房の手伝い。衣服こそ実用的なはたらき着だが、全員がしっかりと洗濯された綺麗な服を纏い、何よりその瞳には、自分の力で飯を食っているという強い自負が宿っていた。
それぞれが明確な役目を持ち、それぞれがこの巨大な共同体の中に、自らの意志で勝ち取った「居場所」を持っていたのだ。
その日の午後。
激変を遂げた現場の視察のため、このガランを統べるガラン伯爵が亀山社中を訪れていた。
伯爵は、普段通りの豪奢でありながら機能的な領主の正装を身に纏い、一言も発することなく、ゆっくりと敷地内を歩いていた。その一歩一歩は重々しく、周囲の大工や職人たちは、領主の威圧感に自然と背筋を伸ばす。
伯爵のすぐ隣には、書類の束を抱えた娘のエリスが付き従い、少し離れた斜め後ろからは、相変わらず着物の懐に手を突っ込んだ龍馬が、のんきに草履の音を響かせながら歩いていた。
伯爵は無言のまま、稼働を始めたばかりの第一ドックから、物資が溢れんばかりの倉庫街へと足を向ける。
その鋭い視線が、ふと、一台の重そうな木製荷車を必死に押している一人の少年の姿で止まった。
伯爵には、その少年に見覚えがあった。
年に数回、義務として、そして一抹の慈善心から訪れていたあの孤児院。いつも建物の隅で、他人の視線を恐れるように小さく縮こまり、ただ配給の薄いスープを啜っていた、あの痩せ細った子供だ。
だが、今の少年は違った。
しっかりと地面を踏みしめ、細いながらも筋肉のつき始めた腕で荷車を押し、額に玉のような汗を浮かべながら、まっすぐ前を向いてはたらいていた。その顔には、かつての陰気な影など微塵も残っていない。
ふと、少年がこちらを歩く一団に気づき、目を丸くした。
「あ……、伯爵様!」
少年は慌てて荷車を止め、衣服の汚れをバタバタと手で払うと、深々と頭を下げた。
「お、お疲れ様です! いつも、ありがとうございます!」
ガラン伯爵は足を止め、しばらくの間、じっと少年の姿を見つめていた。その表情は、鉄の仮面のように固く、何を考えているのか読み取れない。エリスが緊張の面持ちで父の横顔を見つめる中、伯爵は小さく、しかしはっきりと頷いた。
「……うむ。励め」
「はいっ!」
少年は弾かれたように顔を上げると、満面の笑みを浮かべ、再び力強く荷車を押して、賑やかな現場の奥へと走っていった。
伯爵はそれ以上、何も言わなかった。再び歩き始めたその背中は、相変わらず威厳に満ちていたが、その見送る視線は、どこか遠くの、過去の記憶を辿るように揺れていた。
視察を終え、完成しつつある亀山社中の全景と、その向こうに広がる広大な港を一望できる高台の崖の上に、龍馬と伯爵は並んで立っていた。
エリスや護衛の兵たちを遠ざけ、二人きりの空間。
しばらくの間、ただ潮風が二人の衣服を揺らし、遠くで波の音と海鳥の鳴き声が響くだけの、静かな沈黙が続いていた。
やがて、伯爵が小さく息を吐き出し、ぽつりと口を開いた。
「……私はな、坂本殿」
それは、エリスですら一度も聞いたことがないような、驚くほど弱々しく、かすれた声だった。ドランを統べる絶対的な領主ではなく、一人の年老いた男の、剥き出しの吐露だった。
「あの孤児院を作った。領主としての義務だ」
龍馬は何も言わず、ただ海を見つめたまま、静かに耳を傾けている。
「作ったが……それだけだったのだ」
伯爵は、眼下ではたらく子供たちの姿を、苦しげに見つめた。
「飢えさせない。凍えさせない。病になれば、教会へ頭を下げて薬を回してもらう。……せいぜい、それくらいだ。生かしておくことはできた。だが……」
伯爵の手が、白くなるほど強く握りしめる。
「私は、あの子たちに、その先の『未来』までは与えられなかった」
十四歳になり、院を出た子供たちがどうなるか、知っていながら目を背けていた。
その言葉には、彼が領主の座に就いてから何十年もの間、誰にも言えずに胸の奥底へ積み重ねてきた、深く黒い後悔が滲み出ていた。
もっと良い方法はなかったのか。もっと彼らを救い、一人の人間として自立させる道はなかったのか。
「私は……あの子たちの未来を、最初から諦めていたのだ」
伯爵は、自嘲気味に低く笑った。
龍馬は、しばらくの間、やはり黙っていた。
潮風が彼の黒い髪を激しく揺らす。やがて、龍馬は懐からゆっくりと手を引き出すと、ぽつりと言った。
「――上等じゃろう」
驚いたように伯爵の肩が跳ねる。
「……何がだ」
「孤児院じゃき」
龍馬は伯爵を見ようともせず、港を見下ろしたまま、淡々と、しかし腹の底に響くような声で言葉を続けた。
「おんしが作った、その孤児院じゃ。……もしな、おんしがそれを格好悪い偽善じゃと、作らんかったらどうなっちょったが?」
「それは……」
伯爵は言葉に詰まった。作っていなければ、あの子供たちのほとんどは、物乞いになるか、幼い身空で野垂れ死んでいたに違いない。
「作って、維持した。そりゃあ並大抵のことじゃなかろう。……ちょっとあそこを、見てみぃや」
龍馬は顎で、陽の光の中でなおも活発に動き続ける亀山社中を示した。
そこには、額に汗を流しながら大きな荷車を運ぶ子供たちがいる。
失敗を職人に怒られながらも、へこたれずに笑い合っている見習いたちがいる。
声を枯らして走り回る荷役たちがいる。
ルークの部屋の窓越しに、真剣な顔で帳簿の数字を追う少女たちがいる。
そして――彼らの誰もが、今日生きるためだけではなく、明日の、来年の、自らの『未来』を、生き生きとした声で仲間と語り合っていた。
「アレが、おるがじゃ」
龍馬が、ゆっくりと首を巡らせ、伯爵の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、陽の光よりも熱い、確かな光が宿っていた。
「おんしが、あの子等を今日まで残した。それでええろう。こっから先はわし等、民の領分じゃ!」
晴れ渡る陽の光が、高台に立つ二人を等しく照らし出す。
伯爵は息を呑んだまま、龍馬の言葉の衝撃に、ただ立ち尽くしていた。
長い、本当に長い沈黙が流れた。
やがて龍馬は、いつものようにふっと表情を緩めると、大袈裟に肩を竦めて笑った。
「まっこと、おんしはようやった!」
その一言だった。
伯爵は、ゆっくりと目を閉じた。
彼の胸の奥底、何十年もの間、冷たく重い石のように沈んでいた罪悪感と後悔の塊がそこには在った。
だが、今、そこに働く子供たちがいる。
彼らは生きて、笑って、未来をその手に掴み取ろうとしている。
それだけは、誰にも否定できない、あまりにも美しい「事実」だった。
伯爵は、小さく、本当に小さく声を漏らして笑った。
そして、この目の前にいる、あまりにも破天荒で、しかし誰よりも人間の本質を見抜く異国の商人から移った言葉を、少しだけぎこちなく口にした。
「……そうか」
龍馬は何も言わず、ただ静かに、煙草をふかすように海の風を吸い込んでいる。
伯爵は、晴れ渡る美しい空を見上げた。
「私は――」
その声には、長年失われていた、一人の統治者としての、そして一人の人間としての確かな誇りが蘇っていた。
「私は、ようやったか」
龍馬は、一瞬の迷いもなく即答した。
「おうよ。大した男ぜよ、おんしは」
伯爵は、しみじみと目を細めた。そして、海の向こうの、自分の愛する領地を見つめながら、静かに告げた。
「……ありがとう」
視線を交わさず、横から聞こえる言葉に、照れ臭そうに、人差し指で手荒に鼻の頭を掻いた。
「……ええき…………さあ、そろそろ戻らんと、エリス嬢が心配して、怒鳴り込んでくるきに」
そう言って、龍馬は足早に高台を降り始めた。その背中を見送る伯爵の顔は、かつてないほど穏やかだった。
その夜。ガラン伯爵邸の、重厚な本棚に囲まれた執務室。
今日の亀山社中の視察内容と、今後の人員配置についての最終報告書を抱えたエリスは、静かにドアをノックして部屋へと入った。
「お父様、本日の報告書をお持ちいたしました」
「うむ。そこへ置いてくれ」
いつもなら、すぐに机に向かって書類にペンを走らせる父が、珍しく大きな窓辺に佇み、夜の港を見下ろしていた。
エリスが怪訝に思いながら書類を机に置くと、伯爵はゆっくりと振り返った。その顔は、いつもよりずっと晴れやかで、どこか憑き物が落ちたような気品に満ちていた。
「エリス」
「はい、お父様」
「――よくやっているな」
エリスは、信じられないものを見たように、大きく目を見開いた。
幼い頃から、厳格な領主として育てられた。愛情深い父であることは知っていたが、同時にガラン家を背負う者として、褒められた記憶など数えるほどしかない。ましてや、この緊迫した港湾都市の情勢の中で、これほど真っ直ぐに肯定の言葉を向けられるなど、予想だにしていなかった。
「お、お父様……? 何か、お体に障りでも……」
困惑する娘を見て、伯爵はふっと、本当に微かな、しかし温かい笑みを浮かべた。
「案ずるな。ただ、私は少し、己の狭い世界に囚われすぎていたのだと気づかされただけだ。……エリス」
伯爵の静かで、しかし深い信頼を孕んだ声が、静まり返った執務室に響く。
「坂本殿の傍で、多くのことを学んでこい。お前の進むべき世界は、もう、この小さなガランの領地だけではあるまい」
「……っ」
エリスは言葉を失った。それは、実家への縛りや貴族としての義務から、父が自分を完全に「一人の人間」として解き放ち、その未来を託してくれた瞬間だった。
エリスの胸に、熱い感情が込み上げる。彼女は溢れそうになる涙を堪え、深く、深く、最敬礼の姿勢で頭を下げた。
「……はい! ガランの名に、そして坂本様の補佐官の名に恥じぬよう、全力を尽くします!」
伯爵は満足そうに頷き、再び窓の外へと目を向けた。
窓の向こう、遠く離れたドラン港の北端では、夜間も稼働し続ける亀山社中の工事現場から、煌々とした灯火が夜空を優しく、しかし力強く照らし出していた。
その光はもう、単なる一つの商館が灯す明かりではない。
絶望の淵にいた人々に命を与え、人を育て、人と人を繋ぎ、この世界に全く新しい「未来」を生み出していく。
それは、亀山社中という名の、小さくも確かな夜明けの光だった。




