第七十四話:未来の値段
カン、カン、カン――、と小気味よく響く槌音は途切れることがない。
ドラン港の北端に位置する『亀山社中』の建設現場では、連日の突貫工事により、いくつかの巨大な建屋がその全貌を現し始めていた。頑強な太い梁が組み上がり、真新しい木材が夕日に照らされて黄金色に輝いている。
だが、工廠責任者として現場を駆け回るダリオは、額の汗を乱暴に拭いながら、未だに不満げな顔で太い腕を組んでいた。
「……チッ、足りねぇな」
「おいおい、ダリオ。またおんしはそれかえ」
隣で図面を丸めて持った龍馬が、苦笑しながら歩み寄る。
「腕利きの職人なら、こないだエリス嬢がどっさりと引っ張ってきてくれたろうが。まだ何が不満ながじゃ」
「建物は作れる。石も組めるし、桟橋の補強も順調だ」
ダリオは完成しつつある巨大な倉庫棟を顎で指した。
「だがな、龍馬。これだけデカい箱を『実際に動かす奴ら』が圧倒的に足りねぇんだよ」
その言葉に、海運責任者であるエリオットも深く同意するように頷いた。
「ダリオの言う通りだ、龍馬。商館を立ち上げるにしても、船に乗せる熟練の船員、運んできた荷を運ぶ荷役、倉庫の物資を管理する倉庫番、ギルドや領府との書類を処理する事務員、そしてそれらの雑用をこなす見習い……。必要な人間の種類が多すぎる。今のままじゃ、建物だけが立派な『中身の空っぽな幽霊船』になっちまうぞ」
大工や石工が集まったことで、ハード面は解決しつつある。だが、それを維持し、運用するためのマンパワーが、亀山社中には全く足りていなかった。
「――それでしたら、少しあてがございますわ」
深刻な顔で話し合う男たちの輪へ、鈴を転がすような声が滑り込んできた。教会の法衣を端正に纏った司祭、セレナである。彼女は手にした救急箱を傍らに置くと、まっすぐな目で龍馬を見つめた。
「ドラン港の西区に、教会が協力している『領営の孤児院』がございます。そこの子供たちを、見習いとして雇い入れてはいかがでしょうか?」
「孤児院……ですか?」
背後で書類を整理していたエリスが、驚いたように顔を上げた。
ガラン伯爵家の令嬢として、領内にいくつかの孤児院が存在することは知識として知っていた。
ガラン伯爵領が運営し、教会が最低限の配給や手伝いを行っているため、子供たちが餓死するような最悪の事態は免れている。衣服も支給され、最低限の治安は守られているはずだった。
だが、エリスの顔には、すぐに微かな陰りが差した。
「確かにあそこには子供たちが大勢いますが……。セレナ様、あの子たちには、失礼ながら『未来』がありませんわ」
「ええ、その通りです、エリス様」
セレナは悲しげに目を伏せた。
「現状では、彼らはただ『死なないように生かされている』だけ。成人した瞬間に院を出され、行くあてもなく、結局は港の最下層の労働者になるか、裏社会の片棒を担ぐしか道がないのです」
龍馬は二人の会話をじっと聞いていたが、やがて丸めた図面でポンと自分の肩を叩いた。
「面白そうじゃ。エリス嬢、司祭、ちょっとその孤児院っちゅうところへ、わしを案内してくれんかね」
一時間後。龍馬、エリス、セレナの三人は、ドラン港の西外れにある孤児院を訪れていた。
エリスが想像していたよりも、院内は遥かに小綺麗に保たれていた。木造の簡素な建物だが、床はピカピカに磨かれ、庭からは子供たちの賑やかな声が聞こえてくる。
「こんにちは、司祭様!」
「神様のお恵みを!」
すれ違う子供たちは皆、衣服こそ継ぎはぎだらけだが、非常に礼儀正しくセレナに挨拶を返していく。奥の部屋を覗くと、年長の子供が年少の子供に、簡素な石板を使って読み書きを教えている姿もあった。
「ほう……」
龍馬は感心したように声を漏らし、白髪の穏やかな院長へと視線を向けた。
「ガラン伯爵様は、本当にこの院をよく気にかけてくださっています」
院長は、領主の娘であるエリスに深く頭を下げながら、しかしどこか切なげに微笑んだ。
「お陰様で、子供たちは飢えることもなく、最低限の読み書きや計算もここで教えております。ですが……」
院長は、庭で元気に駆け回る子供たちを見つめ、深い溜め息をついた。
「私たちは、この子たちを『生かすのが精一杯』なのです。ここにいられるのは十四歳まで。それ以降、成人して社会に放り出された子供たちの行き先が、このドランにはどこにもありません。職人組合は身元の確かな弟子しか取りませんし、商館も孤児を雇うリスクを避けたがります。結局、あの子たちがここでどれだけ学んでも、未来の値段は最初から決まってしまっているのです……」
龍馬は何も言わず、ただ静かに、庭の隅で木製の手押し車を修理しようとしている子供たちを見つめていた。
おもむろに、龍馬は庭へと歩み進め、手押し車をいじっていた十歳くらいの少年を呼び寄せた。少年は、大柄で奇妙な格好の龍馬に少し身構えながらも、真っ直ぐに視線を返してくる。
「ボウズ、ちょっとええか。字は読めるか?」
「……うん、少しなら読めるよ」
「じゃあ、計算は?」
「一から百までの足し算と引き算なら、間違えずにできる!」
「ほう、そりゃあ大したもんじゃ」
龍馬はニカッと笑うと、今度はその隣にいた、少し体格のいい別の少年に声をかけた。
「おんしは力仕事はできるかえ?」
「できるよ! 薪割りだって、市場の荷物運びの手伝いだって、なんだってできる!」
少年は自慢げに細い力こぶを作ってみせた。
龍馬は満足そうに頷き、ふっと表情を消した。そして、院長やセレナたちを振り返り、至極不思議そうな声で言った。
「――だったら、なんでこの子らは働いちょらんが?」
その場にいた全員が、その言葉に凍りついた。
セレナが慌てて前に出て、龍馬を咎めるように声を張り上げる。
「坂本様! 何を仰るのですか、この子たちはまだ子供ですよ!? 労働を強いるなど――」
「寺田屋じゃあ、こん子等位んは立派に働いちょったぜよ」
「え……?」
セレナも、エリスも、言葉を失って沈黙した。
寺田屋が貧民街から働き手を雇用している噂は聞いてはいたが、それは『大人』とばかり思っていた。
「子供じゃから守る、そりゃあ立派なことじゃ。けんどな、ただ生かして部屋に閉じ込めておくのが、本当にこの子らのためなんかえ?」
龍馬の鋭い瞳が、セレナの言葉を真っ向から射抜いた。
龍馬は再び院長に向き直ると、庭の子供たちを大きく手で示しながら、悪戯っぽく笑った。
「院長さん。わしは、この子らが欲しいのう」
その瞬間、院長の顔から完全に血の気が引いた。その身体が小刻みに震え始める。
「さ、坂本様……? 欲しい、とは……まさか、我が領の子供たちを、どこか遠い国へ売り飛ばす『孤児売買(奴隷)』のつもりですか……!? いくら伯爵様の後ろ盾があろうとも、そのような外道な真似は――」
「っははは!おいおい、人聞きが悪いきに!」
龍馬は慌てて両手を振って大笑いした。
「奴隷なんかじゃないぜよ! わしが言っちゅうがは、立派な『雇用』じゃ。この子らを、わしの亀山社中の『見習い』として正式に雇い入れたい。読み書きができるなら倉庫の帳簿付けを教える。計算ができるなら、経理の手伝いをさせる。体があるなら荷役や船の掃除じゃ。もちろん、ただで働かせるようなケチな真似はせん。働く分だけの『給金』はきっちり払う。三度の『飯』も腹一杯食わせるし、雨風をしのげる綺麗な『宿舎』も出す。……そしてな」
龍馬は少年の頭を優しく、大きな手で手荒に撫で回した。
「やってみて、どうしても『嫌じゃ』『商人は向いちょらん』と思ったら、いつでも辞めて別の道へ行ったらええ。……どうじゃろ、院長さん。この条件で、子供たちの未来をわしに投資してみる気はないかね?」
「あ……、あ……」
院長は完全に絶句し、開いた口が塞がらなかった。奴隷どころか、ドランの一流商館ですらあり得ないほどの破格の好待遇だ。
セレナは、呆れ果てたように盛大な溜め息をつき、おでこを押さえた。
「……本当に、あなたという人は。人を驚かせる天才ですわね、坂本様」
その口元には、隠しきれない深い感銘の笑みが浮かんでいた。
その夜。工事現場の片隅に建てられた臨時事務所。
ランタンの微かな灯りが机の上を照らす中、龍馬は一枚のやや汚れた羊皮紙の手紙を、愛おしそうに眺めていた。
差出人の名は、『リサ』。
『龍馬へ。
そっちの工事は順調かい?
人手が欲しいそうだから、うちの子で使えるようになったのを8人ばかり、ランセルの行商序でに送るから使いな。
それとアタシの前の仲間も数人増えてるから、こなれたのを4人付けるからね。
こっちは相変ず忙しいけど、また子供たちを十二人ばかり雇ったからそのうち形になるだろうさ。
今度はみんな、食い意地が張った元気な子ばかりさ。
そのうち、仕事で使えそうな利発なのが八人ばかりいるしね。
こっちはこっちでやってるから、アンタは好きなだけ飛び回ればいいさ。
無茶するなと言ってもききゃしないんだから、まぁ死ぬんじゃないよ、龍さん。』
手紙を読み終えた龍馬は、思わず「くっくっく……」と肩を揺らして笑った。
「坂本様? 何か良い知らせでも届いたのですか?」
横で書類を検分していたエリスが、龍馬の嬉しそうな顔を見て尋ねた。
「いや、逆じゃのう」
龍馬は手紙をパタパタと振りながら、わざとらしい困り顔を作ってみせた。
「また、わしの知らんところで、無駄飯食いがどっさりと増えたみたいじゃき」
エリスはペンを止め、じっと龍馬の顔を覗き込んだ。その目は完全に半眼になっている。
「……無駄飯食いが増えたと仰る割には、そのお顔、ちっとも困っているようには見えませんが?」
「気の所為じゃ、気の所為。わしゃあ冷徹な商人じゃきに、計算の合わん無駄金を使うのは大嫌いながよ」
龍馬はそう言って、再びのんきに笑った。
エリスは窓の外、月明かりに照らされた広大な工事現場を見つめた。
遠くでは、明日から正式に亀山社中の見習いとして働くことが決まった孤児院の年長の子たちが、職人たちに混ざって、誇らしげに資材の片付けを手伝っている姿が見える。
その光景を見ているうちに、エリスの頭の中で、これまでバラバラだったいくつかの『点』が、急速に一本の『線』として繋がり始めるのを感じていた。
荒れ果てた工事現場。
未来のなかった孤児院。
龍馬がいた、遠い街のリサの店。
そして、これから世界を動かす亀山社中。
すべては、龍馬が意図して、あるいは無意識に繋いできた、行き場のない人間たちの「居場所」だった。
(……ああ、そうか。この方は――)
エリスは、書類を抱きしめながら思った。
(坂本様は、可哀想な人々を『助けて』いるのではない。この人はただ、誰もが自分の足で立ち、自分の力で生きていけるための、巨大な『生きる場所』を、この世界に創り出そうとしているのだわ)
それは、既存の国家や身分の制度を根本から覆しかねない、あまりにも優しく、そしてあまりにも恐ろしい革命だった。
「――さて」
龍馬は椅子から立ち上がり、窓の外の、まだ骨組みだけの広大な亀山社中の夜景を眺めながら、大きく伸びをした。
「明日からは子供らも入ってくる。ダリオもエリオットも、教育係で、てんてこ舞いじゃろうねえ。ははは、これからますます、忙しゅうなるのう!」
未来を奪われていた子供たちの瞳に、確かな価値と輝きが灯り、亀山社中という名の巨大な共同体は、さらに存在感を増していったのだった。




