第七十三話:集う者たち
本格的な工事開始から数日。
かつてドラン港の片隅で死に瀕していた廃墟の造船所は、すでに全く別の顔を見せ始めていた。
古い建屋の解体:腐りかけた木材が次々と取り払われ、新たな骨組みが顔を出す。
桟橋の補修:波に洗われていた土台に強固な石材が打ち込まれていく。
基礎工事:本館や倉庫の建つ地面が、頑丈に踏み固められていく。
朝から晩まで、小気味よい槌音と職人たちの怒号が、潮風に乗って絶え間なく鳴り響いていた。
だが、そんな活気の中、工廠責任者のダリオは激しく燃え盛る炉の前で、太い腕を組んだまま苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「……足りねぇな」
「何がじゃ、ダリオ?」
作業服の袖をまくった龍馬が、不思議そうに首を傾げる。
「全部だ」
ダリオは即答した。
「大工も足りねぇ、石工も足りねぇ、船大工も圧倒的に足りねぇ! 今集まってる手勢だけじゃ、いくら突貫で進めたところで、いつ完成するか分かったもんじゃねぇぞ」
龍馬は改めて広大な敷地を見回した。確かに人は動いている。だが、これから創ろうとしている「町」の規模に対しては、あまりにも少なすぎた。
「来んのなら来んで構わんろう。今おる連中で気楽にやればええがよ」
ダリオが吠えた。
「お前な、この人数でやったら、商館もドックも全部建つまでに十年はかかるぞ!」
「十年は長いのう」
「当たり前だ!」
横から、大量の帳簿を抱えたルークが深い溜め息まじりに口を挟んだ。
「そもそも、地元の職人たちから見れば、龍馬さんは『どこからか突然現れた怪しい商人』ですからね。様子見されるのは当然です」
「怪しくないぞ、わしは誠実な男じゃき」
「怪しいです」
ルークもまた、即答だった。
問題は『信用』だった。
坂本龍馬の名は、確かに商業ギルドやノルディアの商会長、果てはウィストリアの評議会までをも揺るがした。だがそれは、あくまで高い山の上での話。ドラン港の地べたで泥にまみれて生きる職人たちにとっては、まだ「正体の知れない一見の男」でしかなかったのだ。
その日の午後。
補佐官のエリスは、一人でドランの職人街を歩いていた。
細い路地に、木屑の匂いや金属を叩く音が充満している。エリスは上品な仕立ての服が汚れるのも構わず、船大工、石工、鍛冶職人――目についた作業場へ片っ端から飛び込み、声を掛けて回った。
「面白そうな話だとは思うがね、嬢ちゃん」
頑固そうな老船大工は、パイプをふかしながら、皺だらけの顔で苦笑した。
「じゃがな、面白そうと『飯が食える』は別じゃ。どこの誰とも知れん商人の大博打に、俺たちの腕は貸せねぇよ」
別の場所にいた石工も、無愛想に首を振る。
「もしその商館計画が途中で頓挫してみろ。俺たちが干されて、家族が困るんだ」
鍛冶職人も同様だった。
「夢を語るのは勝手だが、俺たちには日々の生活があるんだよ」
誰も間違っていない。彼らは堅実に、自分の大切な生活を守ろうとしているのだ。だからこそ、理屈や夢だけでは動かせない、最も高い壁だった。
気づけば夕暮れ。オレンジ色に染まる街角で、エリスは深く息を吸い込んだ。
そして――彼女の人生で初めて、自らの意志で、実家の重みを使う決意をした。
「ガラン伯爵家は、この事業を全面的に支持しています」
エリスの澄んだ、しかし力強い声が路地に響き渡ると、騒がしかった職人たちがピタリと動きを止め、静まり返った。
「本当か、嬢ちゃん……いや、エリス様」
「はい」
エリスは逃げずに、職人たちの目を真っ直ぐに見つめ返した。
「私の父、ガラン伯爵は、この街の未来をこの事業に賭けています。だからこそ、私を坂本様の補佐官として遣わしたのです。伯爵家の名において、皆様の働きに見合う報酬と、生活の保障は必ずお約束いたします!」
一瞬の静寂の後、職人たちの間に、爆発的なざわめきが広がっていった。
ガラン伯爵家。その言葉が持つ絶対的な重みを、この街に住む者たちは誰よりも知っていたからだ。
翌朝、工事現場。
相変わらずダリオが不機嫌そうに指示を出している中、敷地の入口に一人の老人がふらりと現れた。
腰の曲がった、しかし腕だけは丸太のように太い、昨日の老船大工だった。使い古された大工道具の袋を肩に担いでいる。
「おい、そこのデカブツ。募集はまだやっとるか?」
ダリオが振り返り、その老人を見るなり目を剥いた。
「……やってるが、じいさん。あんた、職人街の頑固頭の親方じゃねえか。どう風が吹いたんだ?」
老船大工はフンと鼻を鳴らし、乱雑に整地された広大な敷地を見回した。
「四十年、このガランで船ばっか作ってきた。どうせ死ぬまで木を削るだけの人生だ。……だがよ」
老人はニヤリと、悪ガキのような笑みを浮かべた。
「なら最後に、世界一の港でも作ってみるかって気になってな」
その老親方の参入を皮切りに、ドランの街が堰を切ったように動き出した。
その日のうちに、腕利きの石工が二人。若手の鍛冶職人が一人。さらに港湾の荷役頭が一人、総勢十数名の部下を引き連れて、亀山社中へ次々と加わってきたのだ。
夕方。事務所の机の上で、新しく書き換えられた人員名簿を見ながら、龍馬が愉快そうに笑った。
「増えたのう、エリス嬢! 昨日の今日でこれだけの腕利きが集まるとは、たまげたがよ」
エリスは少しだけ誇らしげに、小さく胸を張った。
「……頑張りましたから。これでも、必死に頭を下げて回ったのです」
すると、龍馬は名簿から顔を上げ、静かに首を振った。
「違うぜよ、エリス嬢」
「え?」
「皆がおんしを――『エリス』という人間を信用したがじゃき」
エリスは言葉を失い、その場に固まった。
「職人たちはな、伯爵様を信用した。ガランという家を信用した。……けんど、それ以上に、その大きな看板を背負って、泥まみれになりながら自分たちの仕事場まで足を運んできた、おんしの真っ直ぐな目を信用したがよ。看板がどれだけ立派でも、背負う人間が腑抜けなら誰も付いてこん。おんしが動いたから、皆が来たがじゃ」
龍馬はそう言って、いつもの温かい笑顔を向けた。
エリスの胸の奥に、じわりと熱いものが広がっていく。
生まれて初めてだった。ガラン伯爵家の令嬢という飾り物の身分ではなく、自分自身の行動が、誰かの役に立ち、誰かを動かしたのだと、そう心の底から思えたのは。
遠くで、夜間作業の槌音が心地よく響いている。
新しい港が、確かな人間の手によって、急速に形になり始めていた。
だが、ダリオだけは未だに名簿を睨みつけ、腕を組んだままだった。
「……まだ足りねぇな」
「おいおい、ダリオ。まだ言うかえ?」
龍馬が苦笑する。
「全然足りねぇ! 建物を作る大工は集まったが、肝心の医院や倉庫の中身を動かす『専門職』がまだスカスカじゃねえか!」
「なら、もっともっと集めるだけじゃき!」
龍馬が豪快に笑い飛ばした、その時だった。
工事現場の入口に、一台の立派な馬車が、砂煙を上げて静かに停車した。
馬車の扉が開き、最初に出迎えたのは、すっきりとした聖職者の法衣を纏った教会の司祭、セレナだった。
「お待たせいたしました、坂本様、エリス様」
セレナは爽やかな微笑みを浮かべると、自身の後ろの馬車を示した。
そこからは、大きな薬箱や医療器具を大切そうに抱えた、数人の真面目そうな男女が次々と降りてくる。
「約束通り、『亀山医院』を共に動かしてくれる、優秀な人員を連れて参りましたわ」
大工、石工、船大工、そして今度は医療の専門家たち。
坂本龍馬という一人の災害が撒いた夢の種は、多くの人々の手によって育ち始めていた。




