第七十二話:命は買えない
翌朝。ドラン港商業ギルドでの激闘を終えたばかりのエリスは、休む間もなく、今度はさらに分厚い書類の束を抱えてドラン神殿へと足を運んでいた。
しかし、その隣に本来いるべき男――坂本龍馬の姿はない。
応対した中堅の神官が、怪訝そうに周囲を見回しながら尋ねた。
「……あの、エリス様。今回の発起人である坂本様は、一体どちらに?」
「工事現場です」
エリスは極めて無表情に、しかし深い諦めを込めて答えた。
「は? 港湾地区にこれほど大規模な医療施設――『医院』を建てようという当人が、この重要な認可交渉の場にいないのですか?」
「ええ。『わしは図面は引いたき、あとは専門家がおるなら任せるがよ』と、私に書類を丸投げして、日の出とともに大工たちの元へ行ってしまいました……」
神官は深くため息をつき、こめかみを押さえた。
呆れる神官の前に書類を並べながら、エリスは内心で小さく息を吐く。これが彼女にとって、亀山社中の補佐官として臨む、初めての「単独交渉」の幕開けだった。
エリスは気を取り直し、教会の厳かな机の上に、例の巨大な完成予想図を広げた。
「これは……」
図面を見た神官の目が丸くなる。
そこには、宿泊棟、市場、巨大倉庫、造船施設、そして商館の事務棟がひしめき合い、その一番奥に、かなり広大なスペースを取って「医院」が描かれていた。
「エリス様。……これ、本当に『商館』の設立申請なのですか?」
「……正直に申し上げますと、私もそう思います。商館の皮を被った、何か別の恐ろしいものです」
エリスのあまりにも率直な返答に、神官は一瞬きょとんとした後、「ふっ、正直な方ですね」と少しだけ表情を和らげた。だが、問題の本質はそこではない。神官は「医院」と書かれた場所を指差した。
「我が教会の認可を必要とする以上、形式的であれ確認せねばなりません。この医院に勤める予定の、医師のあては?」
「……現状、いません」
「では、治癒魔法や看護を担う、我が教会からの神官の派遣要請は?」
「……していません。つまり、いません」
「ならば、薬を調合する薬師のギルドへの登録は?」
「してません」
神官の顔から完全に余裕が消えた。
「……失礼ですが、エリス様。では、一体その場所には今、何があるのですか?」
エリスは冷や汗を流しながら、精一杯の真顔で答えた。
「……圧倒的な、『建設予定地』です」
神官たちは完全に沈黙した。
さすがにこれ以上の説明は、貴族の令嬢であるエリスの外交力をもってしても不可能だった。
「一度、その坂本様という方をこちらへお呼びいただけますか。話はそれからです」
というわけで、夕方。
工事現場から泥と木屑にまみれた作業着のままで、龍馬が教会へとやってきた。
実は教会の側も、ウィストリア評議会を動かし、あの頑固なガラン伯爵を後ろ盾にしたという謎の東方の商人に、興味津々だったのだ。応接室には、ドラン神殿の最高責任者である神官長までが出向いていた。
「坂本殿」
白髭を蓄えた神官長が、静かに語りかける。
「なんじゃろ、神官長さん」
龍馬は椅子に深く腰掛け、人懐っこい笑みを浮かべる。
「単刀直入に伺う。なぜ、利益を追求するはずの商人である貴方が、これほど莫大な私財を投じて、無料に近い施療を行う『医院』など作ろうとするのですか? 貴方の目的は何だ」
龍馬は少しだけ視線を上に向け、顎をさすりながら考えた。そして、至極当然のことのように言った。
「商人じゃからじゃき」
「承知していますよ」
「わし等はなぁ、毎日毎日損得勘定ばかり忙しゅうしとる。商いが大好きな者らぁよ」
神官長は不快そうに眉をひそめた。
「それはつまり……医療は儲かると?」
龍馬は即座に首を振った。
「けんど買えんのじゃ」
「……はい?」
「どう頑張っても、どう考えても、こればっかりは買えんのじゃ」
その一言で、厳かな応接室がぴたりと静まり返った。
龍馬は、いつもの飄々とした笑みを消し、静かに、しかし地響きのような重さを持つ声で語り始めた。
「わしは今までさんざん買った!土地も建物も船も買った!鉄!魔石!食いモンに上等な服!商いで儲けて買った!ほんで今、大商いして『亀山社中』っちゅう町を作るとこまで稼いできたがよ!」
その両手を大きく広げ、快活に豪快に言ってのけた。
そして、そのまま真っ直ぐ言い放つ。
「じゃけんどな!」
その瞳は深かった。
「どれだけ大きな商いをしても」
視線は遠くを見ていた
「どれだけ金貨を山ほど稼いでも」
そこに映るのは、この世界ではない、遠い昔日の景色。
「命だけは、どうしたって買えんろうが!」
神官たちは誰も言葉を発せられなかった。
「一度亡くなったモンは、逆立ちしても帰ってこん。どんなに権力があろうが、世界の半分を買い占めるほどの富があろうが、失った命を買い戻すことだけは、絶対に出来ん。絶対にな……」
エリスは、息を呑んで龍馬を見つめた。
今、龍馬の瞳は、目の前の神官長たちを見ていなかった。その視線は遥か遠く、ここではない別の世界――激動の幕末、血生臭い京都の夜、寺田屋の騒乱、そして志半ばで刃に倒れていった、数多の大切な仲間たちの姿を捉えていた。失った多くの命の重みが、その背中に深く滲んでいた。その孤独な追憶に気付ける者は、この世界には誰もいない。
龍馬はふっと表情を和らげ、いつもの真っ直ぐな目で神官長を見た。
「じゃから……失くさんようにせにゃならんろう? 目の前で怪我をして苦しむ者がおれば、大工だろうが船乗りだろうが、すぐに治す。病の者がおれば、すぐに診る。わしが創る町じゃ。命を金で諦めるような真似は、絶対にさせん。……それだけじゃ」
部屋を、言葉にできないほどの深い静寂が満たしていった。
その静寂を破るように、部屋の隅に控えていた一人の女性司祭が、すっと前に歩み出た。
年齢は二十代後半。髪をきっちりと結び、聖職者の法衣を寸分の乱れもなく纏った、いかにも真面目で堅物そうな女性だった。
「……本気なのですね、坂本様」
「おう」
龍馬はまっすぐに彼女を見返す。
「例え、その医院が一切の利益を生まない、ただの金食い虫になったとしてもですか?」
「ははは、そりゃあ儲かるならなお良いのう。その金で新しい薬や道具が買えるきに。……けんど、もし万が一、一文の儲けにもならんとしても、わしは作るぜよ」
「……」
「作る。絶対にじゃ」
一瞬の迷いもない即答だった。
堅物そうだった女司祭の口元が、ふっと、信じられないものを見たかのように、しかし温かく綻んだ。
「……本当に、妙な商人ですね」
「それよう言われるのう。わしゃ普通の積りなんじゃが」
龍馬は頭を掻いて笑った。
その様子を見ていた神官長が、深く、満足そうに頷いた。
「分かりました。坂本殿、あなたの言葉には欺瞞がない。我がドラン神殿は、亀山社中における『亀山医院』の設立を全面的に認可します」
「……っ、ホッとしたがよ……」
エリスは隣で、ようやく張り詰めていた肩の力を抜いて胸を撫で下ろした。
だが、神官長の話はそれで終わりではなかった。神官長は先ほどの女司祭を振り返った。
「司祭セレナ」
「はい、神官長」
「お前が、その亀山医院へ行きなさい」
その決定に、応接室にいた他の神官たちが「な、何と!?」と驚愕の声を上げた。
セレナは若手でありながら教義の理解も深く、治療魔法の腕も一級品。だが同時に、規則よりも目の前の命を優先しすぎる、教会内でも有名な「問題児」でもあったからだ。
「謹んで拝命いたします」
セレナは嬉しそうに微笑む。
エリスは驚きのあまり立ち上がった。
「神官長、本当に……本当によろしいのですか?」
「ええ」
セレナはエリスに向き直り、悪戯っぽくウィンクしてみせた。
「あの荒れ果てた港湾地区には、まともな医者も薬も足りていませんから。神の教えを実践するには、最高の場所ですわ。よろしくね、補佐官様」
夕暮れ時、教会からの帰り道。
赤く染まるドラン港の街道を、龍馬とエリスは並んで歩いていた。
「司祭様が直々に来てくださるなんて、本当に心強いです。……それだけじゃありませんよ、坂本様」
エリスは手元のメモを確認しながら、興奮気味に言った。
「セレナ様が、知り合いの『薬師ギルド』の腕利きも紹介してくださるそうです」
「おお、上等じゃ!」
「さらに、港の『孤児院』と連携して、子供たちの健康診断や、軽作業の手伝いとしての雇用も創出したいと」
「上等じゃ!」
「ついでに、貧民のための『施療院』の機能も一部組み込む方向で教会と調整する、と……」
「上等じゃ!」
エリスはパッと歩みを止め、龍馬の顔を覗き込んだ。
「……ちょっと、坂本様。本当に聞いてます?」
「聞いちゅう、聞いちゅう、ちゃんと聞いちゅうよ」
龍馬は足を止め、茜色に染まる広大な海を見つめた。
「結局な、エリス嬢。家だけ建てても町にはならん。人が集まり、そこで生きて初めて『町』になるがじゃ。医院も同じじゃき。建物の中に、命を救いたいと思う人間が集まって、初めて本物の医院になるがよ」
その夜、二人は造船所跡地の工事現場へと戻った。
闇の中に、まだ組み上がったばかりの木々の骨組みが、巨人の肋骨のように浮かび上がっている。
だが、そこには確かな「熱気」があった。
商館の設立に奔走する、海運責任者エリオット。
ドックの設計図を前に目を輝かせる、工廠責任者ダリオ。
ランタンの光の下で数字と格闘する、ルーク。
そして、領主家との最強の繋ぎ役として立ち回った、補佐官エリス。
さらに明日からは、ここに教会の優秀な問題児、司祭セレナが加わる。
まだ骨組みしかない荒れ地。
しかしそこには、少しずつ、だが確実に、新生『亀山社中』という大いなる夢を支える、かけがえのない人材が集まり始めていた。




