第七十話:亀山社中
潮風が吹き荒れるドラン港の北端。かつて打ち捨てられた古い造船所の跡地に、五人の影があった。
龍馬、ダリオ、エリオット、ルーク、そしてガラン伯爵から補佐官として出向を命じられたばかりのエリスである。
半ば崩れかけた木造の建屋や、波に洗われて黒ずんだ古い桟橋が顔を覗かせている。お世辞にも立派とは言えないその光景を、ダリオは太い腕を組んで値踏みするように見つめた。
「ふむ……建物は思ったより残ってるな。骨組みはまだ生きている。補強すれば十分に使えるぞ」
エリオットも崩れかけた足場を軽く踏みつけ、海を見つめる。
「桟橋も基礎を打ち直して補強すれば十分だ。大型船でも、二隻は同時に横付けできるだけの深さはある」
二人の前向きな評価に、背後で頭を抱えたのがルークだった。
「十分じゃないです! 何を言ってるんですか二人とも! これ、どこからどう見てもただの廃墟ですよ!? 」
絶叫するルークの横で、龍馬は、満足げに目を細めた。
「上等じゃ。真っ新な土地より、これくらいへこたれちゅう方が、やり甲斐があるっちゅうもんぜよ」
「さて、と……」
龍馬はその辺に落ちていた手頃な木の棒を拾い上げると、足元の砂地にザッと一本の線を引いた。そのまま、迷いのない手つきで次々と四角や丸を描き加えていく。
その様子を後ろから覗き込んでいたエリスが、不思議そうに尋ねた。
「……それは、商館の設計図ですか?」
「違うぜ、エリス嬢」
龍馬は棒を握ったまま、ニカッと白い歯を見せて振り返った。
「これは、『夢』じゃ」
「夢……?」
「おう。ここに、わしたちの本館を建てる。その横には、遠くから来た商船の連中が泥のように眠れる『宿泊棟』じゃ。こっちの広い場所には、北の鉄や南の小麦をこれでもかと詰め込める『巨大倉庫』。さらに、あっちの入り江には船の『ドック』と、誰でも自由に商売ができる『市場』を拓く。……そして、ここに特大の『医院』を作るがじゃ」
「……医院?」
エリスは思わず聞き返した。商館の敷地内に、医療施設を作るなど聞いたことがない。
「船乗りっちゅうのは、命懸けで荒海を渡るきに、怪我もするし、病に罹ることもある。じゃき、腕のいい医者がいつでも待機しちゅう場所が絶対に必要なが」
龍馬の言葉に、ダリオがニヤリと笑って付け加える。
「船乗りだけじゃねえ。これからここで働く船大工や石工たちも、一歩間違えれば大怪我をするからな。現場に医者がいるのはありがたい」
「海じゃ腕一本無くなることだって珍しくない。応急処置だけじゃ、命がいくつあっても足りない」
エリオットも深く頷く。
「じゃから、そこらの気休めの気付け薬を塗るだけの場所じゃない。病気も怪我も、ちゃんと最初から最後まで治せる、最先端の場所を作るがじゃ。名前は……そう、『亀山医院』とでもしようかね」
地面に描かれた歪な円。だが、龍馬の口から語られるその場所は、確かに生きた人間たちが集う温もりを持って、エリスの脳裏に鮮明に浮かび上がってきた。
エリスの驚きは、容易には収まらなかった。
頭の中で、龍馬の描いた夢の配置図を反芻する。
商人の事務所である商館、旅人のための宿、命を救う病院、船を直す修理工場、そして、世界中の物資が並ぶ市場。そのすべてが、この一つの敷地内に凝縮されようとしている。
「……坂本さん。そんな商館、私はこれまでの人生で一度も聞いたことがありません。あまりにも、欲張りすぎというか、規模の規格が外れています」
「そりゃそうじゃろうねえ」
龍馬は木の棒を放り投げ、ポンポンと手の砂を払った。
「だって、ここは最初から、ただの商館じゃないきね」
「は?」
エリスだけでなく、ルークたちまでもが声を揃えて首を傾げる。
龍馬は大きく広がるドランの海と、目の前の広大な廃墟の土地を見渡しながら、深く、誇らしげに息を吸い込んだ。
「ここは、一つの『町』なるがじゃ」
商館という狭い枠組みではない。
人が集まり、暮らし、働き、富を生み出し、互いを支え合う。龍馬がこの湾港都市ドランの片隅に創ろうとしているのは、国家の縛りを受けない、自由な商人たちのための「新たな共同体」そのものだった。その壮大な視点に、一同はただ圧倒されるしかなかった。
「能書きはこれくらいにして、さっそく体を動かさんといかんきね!」
龍馬はパチンと手を叩くと、一転して実務的な鋭い目で全員を見渡した。
「エリオット、おんしは『海運責任者』じゃ。ウィストリアとノルディア、そしてドランを繋ぐ船の運用と、航路図を売る商人たちの選定を任せる」
「了解だ。任せておけ」
「ダリオは『工廠責任者』。この廃墟を建て直し、極上のドックと修理場を造る大工たちの差配を頼む」
「おう、腕が鳴るぜ」
「ルークはいつも通り、お金の計算じゃ。商業ギルドからの出資の管理と、経理の補佐を頼むきね」
「いや、俺は元々掃除係の下男なんだけど。まぁ、やれと言われればやりますけど……」
的確に指示を飛ばしていく龍馬の視線が、最後にエリスへと向けられた。
龍馬は、いたずら小僧のような笑みを浮かべ、彼女の前に歩み出る。
「そして、エリス嬢。おんしはわしの『補佐官』じゃ」
「はい。私は何をすれば……?」
身を固くするエリスに、龍馬は指を一本ずつ立てながら、さらりと言い放った。
「ガラン伯爵領へのあらゆる『許可申請』、この土地の境界や権利の『記録』、そしてドラン港から腕のいい『職人たちのスカウト』。――これ、全部おんしに頼むきな」
「……え? 全部、ですか!?」
エリスの目が点になる。どれ一つとっても、普通の商人なら数週間はかかる激務だ。
「おう、全部じゃ」
龍馬は満面の笑みで頷いた。「おんしなら筋を通せるき、地元の職人たちも安心して付いてくる。頼んだぜよ!」
ルークが横で「ああ、エリスさんもこちらの世界へようこそ……」と哀れみの目を向けている。だが、エリスの心の中にあったのは、拒絶ではなく、経験したことのない激しい躍動感だった。
ただの飾り物の令嬢ではない。世界を動かす大事業の、最も重要な歯車の一つとして、今、自分が確かに求められている。エリスの「実務家」としての血が、静かに騒ぎ始めていた。
それから数日後。建築資材の第一陣が運び込まれ、いよいよ本格的な工事が開始される直前のことだった。
現地の視察に訪れたガラン伯爵が、龍馬の横に立ち、整地され始めた土地を見渡しながら尋ねた。
「ところで、坂本殿。これほどの規模の組織となるのだ。この商館……いや、お前たちの組織の『名』は、すでに決めているのか?」
「名、ですか……」
龍馬は少しだけ動きを止め、ふっと遠い空を見上げた。
彼の脳裏に、かつて遠い異郷の地で駆け抜けた、激動の日々が過る。
京都の片隅の熱気、寺田屋の騒鳴、志半ばで散っていった仲間たちの笑顔、そして、世界を相手に飛び出そうとした、あの最初の小さな結社の名前――。
龍馬は愛おしむように目を細め、静かにその名を口にした。
「『亀山社中』……。そう呼んじょくれ」
「カメヤマ……シャチュウ?」
伯爵も、横にいたエリスたちも、その響きに一様に首を傾げた。この世界のどこの言語にも属さない、奇妙な響きを持った言葉。
「どういう意味なのだ?」
伯爵の問いに、龍馬はただ、寂しげで、しかしどこまでも誇らしげな笑みを浮かべるだけだった。
「いや。……昔の、大好きな仲間の名前じゃき」
それ以上、龍馬は何も説明しなかった。この異世界の人々にとっては、何の意味も持たない不思議な呪文。だが、ただ一人、龍馬だけが、そして彼の歩みを知る者だけが、その名に込められた「世界の夜明け」への執念を理解していた。
「よし、始めるぜよ!!」
龍馬の号令と共に、ドラン港の片隅が、一気に凄まじい活気に包まれた。
カン、カン、と響き渡る石工たちの小槌の音。
「おい、そっちの丸太を運べ!」「基礎の杭を打ち込むぞ、息を合わせろ!」という、ダリオが指揮する大工や荷運びたちの荒々しい怒号。
鍛冶職人たちが上げる炉の炎が、夕暮れの空を赤く染めていく。
昨日までただの不気味な廃墟だった土地に、何十、何百という「人間の力」が集まり、恐ろしいほどの速度で古い建屋が解体され、新しい港の骨組みが広がっていく。
その光景を、エリスは書類を抱えたまま、呆然と、しかし震えるような感動を覚えて見つめていた。
(本当に……本当に作り始めてしまった)
ただの夢物語ではなかった。坂本龍馬という男は、語った大ホラを、今この瞬間、ものすごい熱量を持って「現実」へと創り変えている。
「ははは、エリス嬢。ほら、見てみぃや」
隣に立った龍馬が、汗を拭いながら、押し寄せる職人たちの波を見て愉快そうに笑った。
「最高に、面白うなってきたのう」
「……ええ、本当に」
ふ、と龍馬はエリスが持つ書類に目をやり、ニヤリと笑う。
「エリス嬢」
「はい?」
「その書類、大事に持っちょき」
「?」
自分の手元の書類を見てみる。ただの許可申請の一つだ。
「たぶん後で重要になるぜ」
「何にです?」
意味が分からないエリスに――――
「亀山社中の最初の一枚じゃき」
――――エリスは深く息を吐き、微笑んだ。
「はい!」
目の前で、槌音が響く。杭が打たれる。この人は本当に作る気なのだ。国家の壁を越え、世界を根底から変えてしまう、自由なる商人の町――『亀山社中』を。




