第六十九話:港を育てる者
港湾都市ガランを治めるガラン伯爵邸の執務室に、一通の親書が届けられた。
送り主は、南の群島国家ウィストリアの商業ギルド長ハインツ。
豪奢な封蝋を破り、書簡に目を走らせていたガラン伯爵は、途中で動きを止め、信じられないと言わんばかりに長い沈黙に沈んだ。
「……あの男、本当に通したのか」
「はっ」
傍らに控える副官が、緊張した面持ちで頭を下げる。
「ウィストリア群島評議会において、草案が可決。ハインツ殿からの書簡によれば、海竜海域の航路承認、我がドラン港における商館の建設承認要請、ならびにウィストリア側からの巨額の出資が正式に決定したとのことです」
伯爵は書簡を机に放り出すと、深く椅子の背もたれに体を預け、こめかみを押さえた。
「まったく……。わしはあの坂本龍馬という男を、少々変わった、度胸のある商人だと思っていたのだがな……」
「違ったのですか?」
副官が小首を傾げる。
伯爵は深く、重苦しい溜め息を吐き出した。
「商人などという生易しいものではあるまい。あれは――歩く『災害』だ。関わった国や国家の仕組みそのものを、根底から巻き込んでひっくり返していく」
冗談とも本気ともつかぬ主君の言葉に、副官は思わず、妙に納得したような苦笑いを浮かべるしかなかった。
それから数日後。噂の『災害』は、嵐のような快活さでガラン伯爵邸を訪れていた。
「それで? ウィストリアをあれだけ揺るがしておいて、今度は我が領で何を企んでいる、坂本殿」
机を挟んで対面する伯爵の目は、鋭く、油断なく龍馬を値踏みしている。
だが、龍馬はそんな視線を意にも介さず、いつものように白い歯を見せて満面の笑みを浮かべた。
「ははは、決まっちゅうろう、伯爵! 商館じゃ!」
「……っ」
その一言を聞いた瞬間、伯爵の頭の奥で、確実な偏頭痛の予兆がズキリと疼き始めた。
「伯爵、一つ聞きたいがですが」
龍馬は悪戯っぽく目を細め、机の上に身を乗り出した。
「このドラン港は、世間じゃあ立派な貿易港と言われちゅうが、本当にそうかえ?」
「当然だ。国を問わず多くの商船が行き交う、我が領の、いや、この王国唯一の外交港だ」
「違うぜよ」
龍馬はあっさりと、しかし明確にそれを否定した。
伯爵が不快そうに眉を上げるのを、龍馬の鋭い眼差しが射抜く。
「ここは貿易港じゃない。ただの『荷下ろし港』じゃ」
その言葉が、伯爵の胸の奥に深く、痛烈に突き刺さった。
「荷は来る。荷は降りる。そして、荷はそのまま別の場所へ出ていく。……けんど、それと一緒に、金もここを通り過ぎて出ていくだけじゃき。本当に儲かるがは、物資を買い上げる王都や、大消費地であるガルガドの商人たち。このドランの港町には、手数料とわずかな税金以外、何一つ残らんろう?」
「……」
伯爵は無言になった。
言い返せなかった。
それこそが、彼が先代からこの港を継いだ時から、ずっと胸の奥に抱き続けていた「不満」であり、最大の悩みだったからだ。
ドラン港は形の上では栄えている。だが、交易品はただ「通るだけ」。商人はここで足を止めず、宿も市場も育たない。金が落ちないから職人も集まらず、町自体の規模は一向に大きくならない。
「じゃから、ここに『商館』を作るがじゃ」
龍馬は懐から大陸の地図を広げ、その中心にあるドラン港を指差した。
「ノルディア、ドラン、ウィストリア。この海の真ん中にあるドランを、ただの通り道から、世界中の商人が集まる『交差点』に創り変える。商館だけじゃない。宿も、巨大な倉庫も、船の修理場も、事務所も、そして誰もが自由に取引できる巨大な市場も、全部この港に、わしたちの手で創るがよ!」
「本気、なのか……」
伯爵の声には、先ほどの警戒は消え、一人の領主としての真剣な熱が籠もっていた。
「本気じゃき。わしは嘘は言わん」
龍馬は一度カラリと笑い、それから少し居住まいを正した。
「そこで、伯爵。おんしに一つ、大事な頼みがあるがです」
「……嫌な予感しかせんが、聞こう」
「エリス嬢を、しばらくわしに貸してほしいがじゃ」
その言葉に、室内が凍りついたような沈黙に包まれた。
壁際に控えていた、伯爵の娘であるエリスが、驚愕に目を見開いて声を失う。伯爵の眉間にも、深い皺が刻まれた。
「……何故だ。エリスは我が伯爵家の娘だ。軽々しく外へ出せる立場ではない」
「商館を建て、倉庫を作り、市場を拓けば、当然、多くの人が集まる。……けんど、伯爵」
龍馬は静かに、諭すように言葉を紡いだ。
「わしはこのドランの人間じゃない。この土地の細かいルールも知らんし、古い慣習も分からん。これから事業を始めるにあたって、領民や地元の商人と不必要な摩擦を起こしたくないがじゃ。だから、領主家との確かな『繋ぎ役』になってくれる人が欲しい」
そこまで言って、龍馬は少し視線をずらし、エリスを真っ直ぐに見つめた。
「あの時……わしが初めてここへ来た時、エリス嬢、おんしはわざわざわしのところへ謝りに来てくれたろう?」
「え……?」
エリスが、不意を突かれて小さく声を漏らす。
「領主の娘ともあれば、一介の素性の知れん男に頭を下げる必要なんて、本来ならどこにもなかった。じゃが、おんしは自分の非を認め、わざわざ足を運んで筋を通した。……わしはの、能力がどうこう言う前に、そういう『筋を通せる人間』を何よりも信用するがじゃ。だからこそ、おんしにお願いしゆう」
能力の高さではない。
人間としての「信用」。
龍馬のその真っ直ぐな言葉の重みに、エリスは困惑し、胸を高鳴らせながらも返す言葉が見つからなかった。
「な、何を言っているの、あなた……」
エリスは混乱の中にいた。
商館、海図、世界貿易。龍馬や父が話している言葉の規模が大きすぎて、自分の知っている世界と全く結びつかない。
「私に、そんな大層な場所で何をしろと言うのですか? 私には商売の知識も、港を動かす力もありません!」
「難しく考えんでええ。最初はただ、横にいて、わしたちのやることを『見て学べばええ』がじゃ。そのうち、自分にできることが見つかる。後はその時に考えたらええきに」
「な……、適当すぎませんか!?」
エリスが怒ったように声を荒げる。
「わしじゃき、それでええがよ」
悪びれもせずハハハと笑う龍馬に、エリスは頭が痛くなるのを覚えた。
しかし、ガラン伯爵は違った。
彼は深く考え込んでいた。普通であれば、未婚の娘を、このような素性の知れない男の元へ出すなど論外だ。
だが、龍馬が見据えている未来は、すでにウィストリア群島評議会を動かし、北のノルディアを動かしている。全ては本物なのだ。もし、このドラン港が本当に「世界の交差点」へと脱皮するならば――。
「エリス」
伯爵は、静かに娘の名を呼んだ。
「お父様!?」
「行ってきなさい」
伯爵の目は、領主のものではなく、一人の父親としての深い慈愛と期待に満ちていた。
「坂本殿の言う通りだ。これからのドランを背負う者として、お前も見て来るがいい。……この狭い港の常識ではない、本当の『世界』というものをな」
「お父様……」
父の決意に満ちた眼差しに、エリスはゴクリと唾を呑み、小さく、しかし確かに頷いた。
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数日後。潮風が強く吹き抜けるドラン港の北側、荒涼とした海岸沿いに、龍馬とエリスの姿があった。
そこは既に閉鎖して久しい『造船所の成れの果て』があった。
錆びついた古い錨や、打ち捨てられた木材が転がっているだけの、文字通り「成れの果て」だった。
「ここじゃ」
龍馬が、海を背景に両手を大きく広げた。
「……廃墟にしか見えませんが」
エリスは呆れたように周囲を見渡した。どこをどう見ても、世界規模の交易拠点が建つようには見えない。
「今はな」
龍馬は潮風に吹かれながら、きらきらとした目で水平線を見つめた。
「けんど、建物を補修して、作業場や港を改修して市場を拓けば……いずれ、世界中の船がこの場所に集まり、見たこともない色の防寒布や、南の甘い果物が溢れ返る場所になるぜよ」
「……随分と、大きく出ましたね」
エリスは少し苦笑した。あまりの現実とのギャップに、現実味が湧かないのだ。
「そうかえ?」
龍馬は不思議そうに首を傾げ、ニカッと笑った。
「わしとしては、これでもだいぶ小さく言うたつもりじゃが」
「……はぁ、本当に頭が痛くなってきました」
エリスは額を押さえながらも、その胸の奥で、今まで感じたことのない奇妙な高揚感が、静かに芽生え始めているのを否定できなかった。
その日の夜。
港を見下ろす高台の崖際に、エリスは一人で立っていた。
夜の帳が下りたドラン港は、静まり返っている。昼間の喧騒が嘘のように、龍馬が指定した工事予定地には、本当に何も無い。ただの廃墟と、冷たい夜風が吹き抜けているだけだ。
「…………お父様…………」
エリスはつい先ほどの伯爵の言葉を思い出していた。
「エリスよ」
「はい、お父様」
「お前は私の娘であると同時にこの伯爵家の長女だ」
「承知しています」
「だが、もし坂本殿のいう未来が来るとすれば…………」
「?お父様?」
「エリス。お前はこの伯爵領などより余程重要で大きなモノを手に入れるのかもしれぬな…………」
「わたくしが、ですか?」
「実に愚かな話だが、アレはそんな男だ。そんな気がするのだよ」
エリスがその光景を目に焼き付けようとしていると、背後から軽い足音が近づいてきた。
「どうじゃ」
振り返ると、月光を浴びながら、龍馬がいつものように飄々とした佇まいで歩み寄ってくるところだった。
「何がです?」
エリスが問い返す。
「ここには、今はまだ何もありゃせん。けんど、だからこそ――」
龍馬はエリスの隣に並び、眼下に広がる暗闇の海を指差した。その横顔は、まるで子供のように純粋な輝きを放っている。
「ここから何かが始まると思うたら、面白そうじゃろ?」
面白そう。
その単純で、しかし何よりも力強い言葉が、エリスの心の壁を優しく、しかし確実に打ち破った。
何もないからこそ、何にでもなれる。世界を変える大事業の最初の第一歩に、自分は立ち会っているのだ。
エリスはしばらく夜の港を見つめていたが、やがて、その口元に小さな、そして出会ってから初めての、心からの笑みを浮かべた。
「……ほんの、少しだけ、ね」
「ははは、上等じゃ!」
龍馬は満足そうに鼻を鳴らし、夜風を吸い込んだ。
まだ何も無い、ただの廃墟。しかしそこには確かに、世界を揺るがす巨大な「港」の種が、新しい風と共に撒かれていた。




