第六十七話:路の値段
荷下ろしが一段落した後。場所を商会本部の重厚な会談室へと移し、龍馬と商会長は対面していた。
「民が救われたことには、一人のノルディア人として深く感謝しよう」
商会長は机の上の書類に目を落とし、ふぅと小さく溜め息をついた。
「だが、一人の商人として言わせてもらえば……今回の商いは、あまりにも利益が少なかろう。あれだけの危険を冒して、運んできたのが安価な小麦や塩では、船の維持費や船員への危険手当を差し引けば赤字になりかねんぞ」
「いやいや、商会長。それがそうでもないがじゃ」
龍馬はニヤリと不敵に笑う。
「ほう?」
商会長が片眉を上げる。
「今のこの世界の経済は、あの強欲な帝国によってへんてこに歪められちゅうがよ。帝国はおまん等の鉄や魔石を、嘘みたいな安値で買い叩きゆう。その一方で、封鎖のせいでこの土地の食糧や日用品の値段は、天まで高く高騰しちゅうろう?」
「……あむ、それはその通りだが」
「じゃき、儲かるがじゃ」
龍馬は目を細めた。
「わしはウィストリアで、有り余ってタダみたいな値段になっちゅう小麦や塩を買い仕込み、ここへ持ってきて『闇市場よりは遥かに安いが、元値よりは十分に高い値段』で売る。そして、ここで買い叩かれちゅう極上の鉄を買い取り、鉄に飢えちゅうウィストリアへ持って帰って高く売る。帝国の横暴が作った『価格の歪み』の隙間が、全部わしたちの利益として転がり込んでくるがよ」
商会長は一瞬呆気に取られた後、苦笑いを浮かべた。
「なるほどな……。理屈は通っているが、やっていることは帝国の法を真っ向から嘲笑う密輸と紙一重だな」
「商売なんて、いつの時代もそんなもんじゃろ」
龍馬はケラケラと笑った。だが、すぐにその笑顔を消し、真剣な眼差しで商会長を見据えた。
「……けんど、この美味い儲け話も、そう長くは続かんぜよ」
「なぜだ? 航路を独占している限り、利益は生み出せるはずだが」
「帝国も馬鹿じゃないろう」
龍馬の脳裏に、帝都で冷徹に戦局を動かしているであろう、人物の影が過る。
「締め付けだけでノルディアを抑え込めんと分かれば、奴らは必ず手を替えてくる。力による封鎖が駄目なら、今度は甘い蜜で『懐柔』しにくるがじゃ。ノルディアの鉄の買い取り価格を上げ、食糧の供給を再開して、価格を元に戻す。奴らが真っ当な市場の価格競争を仕掛けてきたら、わしたちのこの歪みを利用したボロ儲けは、その時点で終わりじゃ」
「……!」
商会長は息を呑んだ。
龍馬は、ただ目の前の航海を成功させただけではない。この取引がもたらす国際政治への影響と、帝国の次なる経済戦略までを完全に先読みしている。その思考の深さと視野の広さに、老商人は背筋が震えるほどの衝撃を覚えていた。
その夜、深い闇に包まれた商会長室。
部屋には、龍馬、商会長に加え、エリオット、ダリオ、そしてルークのユニオン号の主要面々が秘密裏に集まっていた。
張り詰めた沈黙の中、エリオットが一歩前に進み出た。その手には、古びた、しかし頑丈な革製の筒が握られている。
彼は無言でその筒から一枚の分厚い羊皮紙を取り出すと、机の上に勢いよく広げた。
「これは……」
商会長が身を乗り出し、目を丸くする。
そこに描かれていたのは、無数の複雑な海流の渦、牙を剥く岩礁の配置、季節ごとの風の向き、そして――海竜たちの「縄張り」と「移動周期」が、血を吐くような緻密さで細かく書き込まれた、唯一、商船が通れる細い路を記した海図だった。
「『海竜海域航路図』……。あの地獄の海の、海路図だと!?」
「ああ」
エリオットは、少し掠れた声で、しかし誇らしげに自身の胸を叩いた。
「龍馬の無茶に付き合ってあの海を見た。ようやく最後のピースが埋まった。……商会長、これはただの地図じゃない。俺が航海士として、あの死の海を睨み続け、生きる路を探し求め続けた――『俺の十年』だ」
室内に、厳かな沈黙が流れる。
ユニオン号が成し遂げた「海竜海域の突破」という奇跡。それは、決して神の気まぐれなどではない。エリオットという一人の天才航海士が、十年の歳月と執念を懸けて紡ぎ出した、人間の血と汗の結晶なのだ。その事実が、海図の上の黒いインクから重々しく伝わってきた。
商会長の手が、興奮で小刻みに震え始める。
「素晴らしい……。これさえあれば、帝国の海上封鎖など完全に無意味。我がノルディア商会とお前たちだけでこの海図を独占すれば、北と南の交易を未来永劫、完全に支配できる! 生み出される富は、国家一つを買い取れるほどの莫大な利益になるぞ……!」
老商人のギラついた目に、しかし、龍馬はあっさりと首を振った。
「いや。この海図は、世界中の商人に『売る』がじゃ」
「「「「はあ!?」」」」
部屋中に、ひっくり返ったような驚愕の声が響き渡った。ルークにいたっては「この人、また病気が始まった!」と言わんばかりに頭を抱えている。
「売るだと!?お前は正気か!?」
商会長が机を叩いて立ち上がる。
「この海図の価値が分からんわけではあるまい! 独占すれば巨万の富が転がり込んでくるのだぞ!」
「独占したら、その時点でその路は終わりを迎えるがじゃ」
龍馬は静かに、しかし地響きのような力強さを秘めた声で言い放った。
「わしたちだけでこっそり使いよったら、帝国はそのうち気づいて、その一筋の路に全ての軍艦を集中させて完全に塞いでしまう。それに、わしたち一船団の力だけで運べる荷の量なんて、世界全体の需要から見れば雀の涙みたいなもんじゃき」
龍馬は立ち上がり、窓の外の夜の海を見つめた。
「路っちゅうもんは、人が通るから路になるがじゃ」
その言葉が、一同の胸を激しく突いた。
「この海図を、信頼できる世界中の商人に広く売る。十隻、百隻、千隻の商船が、この海竜の海を我が物顔で行き交うようになれば……帝国がどれだけ軍艦を並べようが、もう誰にもその流れを止めることはできん。わしたちが売るのは、ただの地図じゃない。帝国に支配されん、世界中の誰もが自由に歩ける『新しい路』そのものながじゃ!」
龍馬の壮大な熱量に圧倒され、誰もが言葉を失う中、龍馬は懐からもう一枚の、今度は大陸全体のざっくりとした地図を取り出し、エリオットの海図の上に重ねて広げた。
そこには、南の海の都ウィストリアと、北の連邦ノルディアが描かれている。そして、その二つを結ぶ航路のちょうど真ん中、海岸線が不自然にへこんだ交易の要衝に、龍馬の指がトン、と置かれた。
「ウィストリアから北上し、海竜海域の手前。…………ここ。ここに、わし等の拠点を置く」
商会長が目を細めてその場所を覗き込む。
「……シルベニア王国か? いや、これは……『ドラン港』だな?」
「おう、ドランじゃ」
龍馬は満面の笑みで頷いた。
「ここはシルべニアに在って唯一の外交港じゃ。海の荒くれ者や自由な商人が集まる中立の港。ここを北と南、そして東西の交易が交差する、海商最大の『交差点』にするがじゃ。そしてそこに――わし等の特大の『商館』を建てる!」
その地図に描かれた構想は、単なる一商人の店舗の規模を遥かに超えていた。
独自の航路を持ち、独自の情報を集め、国家の枠組みを超えて商人が対等に結びつく場所。それこそが、龍馬の『商館』だった。
「……本当に、独占する気は毛頭ないのだな」
商会長は呆れたように、しかしその顔には深い敬意が滲んでいた。
「信じられん男だ。世界を動かすこれほどの武器を手にしながら、自らの利益を他人に分け与えようとするとは」
「ははは!独占なんて無理じゃ無理!」
龍馬は頭を掻きながら笑った。
「わしの手はそこまで長うないし、ユニオン号一隻じゃあ世界は広すぎる。じゃき、商会長。おんしの力を貸してくれ」
龍馬は真っ直ぐに商会長の目を見つめ、熱を帯びた声で語りかける。
「ノルディア商会が持つ北のネットワーク。ウィストリアの商業ギルドが持つ膨大な資金と南の市場。そして、ドラン港の自由な風。その全てを、この海図を媒介にして一つに繋げるがじゃ」
「……三者による、一大提携か」
「おう! 誰も損はさせん。この路を使って、みんなで、世界中で、でっかく儲けるがじゃき!」
国家の壁を、商人の繋がりが超えていく。その壮大な未来予想図に、老商会長の胸の中で、かつて失いかけていた「商人の誇り」が、これ以上ないほど熱く燃え上がっていた。
深く、深く得心のいくまで考え込んだ後、商会長はふっと息を吐き、じっと龍馬の顔を見つめた。
壮大な理想、完璧な経済理論、そして世界を繋ぐ海図。
全ては揃っている。だが、老練な大商人は、一点だけ、最も現実的で、かつ最も重要な問題に気づいてしまった。
「……坂本よ。話のスケールが大きすぎて眩暈がしそうだが、一つ確認させてくれ」
「ん? 何じゃ、商会長」
「ドラン港に拠点を作り、世界規模の商館を建て、この海図を流通させ、三者を繋ぐ大提携の準備を進める。……これらを実行するには、巨額な『初期費用』が必要になるな?」
その言葉が出た瞬間、龍馬の口元が、じわじわと耳の近くまで大きく裂けるように広がっていった。これ以上ないほどの、満面の、そして一点の曇りもない悪びれぬ笑顔である。
商会長は額を押さえ、引きつった笑みを浮かべた。
「……つまり。お前は私に、そのための膨大な金を今すぐ用立てろと言っているな?」
「おう!!『出資』じゃき!!」
龍馬は親指をグッと立てて、堂々と胸を張った。
「やっぱりそうだーーー!!」
横でルークが、本日一番の絶叫と共に床に転がった。
「お腹いっぱい小麦を食べさせて感動させた直後に、その親玉から大金を毟り取ろうとするなんて! 龍馬さん、あなた人間の心が無いんですか!?」
静まり返る室内に、ルークの悲痛なツッコミが響き渡る。
商会長はしばらく呆然と龍馬の笑顔を見つめていたが、やがて――お腹を抱え、涙を流しながら、部屋が震えるほどの爆笑を破裂させた。
「ハハハハハ!ハーハハハハハ!!いや、参った!参ったぞ、坂本龍馬!救世主のような顔をして現れ、民の心を鷲掴みにした直後に、私の懐に堂々と手を突っ込んでくるとは! とんでもない、本当にとんでもない男だ、お前は!!」
「よく言われるぜよ」
龍馬は嬉しそうに鼻を鳴らした。




