第六十六話:路を拓く者
奇跡の生還から一夜明けた、ウィストリアの瑞々しい朝。
宿の一室では、昨夜の祝勝会でしこたま酒を浴びたルーク、エリオット、ダリオの三人が、ひどい二日酔いで頭を押さえ、うめき声を上げていた。
そこへ、朝からやけに血色の良い龍馬が、バァンと勢いよく扉を開けて入ってきた。
「みんなぁ! 目を覚まして、わしの話を聞いちくれ!」
「うう……龍馬さん、声が響きます……」
「耳元で時の鐘を突かれた気分だぜ……」
突っ伏する一同を見渡しながら、龍馬は不敵に、そして満面の笑みでとんでもない宣言を放った。
「わしたちの、でっかい『商館』を作るぜよ!」
その言葉に、三人はのろのろと顔を上げた。そして、一寸の淀みもなく同時に同じ言葉を口にした。
「「「金は?」」」
「無い!」
龍馬は胸を張って即答した。
「「「だろうな!!!!」」」
息の合ったツッコミが部屋に響き渡る。ルークにいたっては、あまりの頭痛と理不尽さに涙目になっていた。
「借金を全額返したばかりで、僕たちの手元にはまともな運転資金しか残っていませんよ! 建物を建てるお金なんて、どこから湧いてくるんですか!」
「ハハハ、じゃが必要じゃ」
龍馬はカラリと笑い、しかしその目を真面目なものに変えた。
「このままじゃあ、船が増えたら荷も人も置けんようになるきに。今はユニオン号一隻じゃが、世界を相手にするにゃあ、それじゃあ全然足らんき」
その言葉を聞いた瞬間、エリオットの目が鋭く見開かれた。
「……おい。お前、まさか」
エリオットは寝起きの気怠さを完全に吹き飛ばし、龍馬を凝視する。
「最初から……船を増やすつもりだったな? ユニオン号一隻の交易で満足する気なんて、さらさらなかったわけだ」
龍馬は何も言わず、ただ口元をニヤリと大きく歪めた。
その不敵な笑みを見た一同は、背筋にゾクりとしたものを感じていた。この男は、海竜海域の突破すら、己が描く壮大な未来の「最初の一歩」に過ぎないと、本気で思っているのだ。
話題は、すぐさま次なる行動――北方連邦ノルディアへの再航海へと移った。
「行くのはいいですけど、龍馬さん」
ルークが少し不安げに首を傾げる。
「今度は何を始めるんですか?」
「食糧じゃ」
龍馬は指を一本立てた。
「それから塩、防寒用の布、日々の生活用品、そして土地を耕すための農具じゃ。あの一帯が今、本当に必要としちゅうもんを、船の底が抜けるほど満載していくがよ」
それを聞いたエリオットが、冷ややかに眉をひそめる。
「……そんな日用品ばかり積んでいったら、今回の利益率はガクンと下がるぞ。あの危険な海を渡るリスクに見合う儲けにはならん」
「最初はそれでええがじゃ、エリオット」
龍馬は静かに首を振った。
「商売で一番大切なのは、目先の金じゃない。『信用』じゃき。あの一帯の人々が飢えと寒さで困っちゅう時に、わしたちが本当に必要なものを持って、また現れる。――『あの男は約束を守る』。その絶対の信用を植え付けることが、未来の大取引に繋がるがじゃ」
今回の航海は、儲けのためではない。ノルディアとの絆を不壊のものにするための、未来への投資。龍馬の言葉の重みに、エリオットもダリオも、ただ黙って肯くしかなかった。
その日の午後、龍馬たちは再び商業ギルドを訪れていた。
「……ほう。無事に帰ってきたと思ったら、その足でまた私の元へ借金を申し込みに来るとはな」
ギルド長は、机の上の書類から顔を上げ、呆れたように眼鏡の奥の目を細めた。
「そうじゃ」
龍馬は悪びれもせず、むしろ堂々とした態度で言い放った。
「こないだ綺麗に返したのは、今日、新しく借りるためじゃき!」
「最低だこの人!! ギルド長、騙されないでください、この男はただの借金中毒です!!」
横でルークが頭を抱えて叫び、室内を笑い話のような空気が包む。
しかし、ギルド長は笑わなかった。彼は静かに龍馬を見つめ、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「……いくらだ。いくら必要なのだ」
「前回の三倍じゃ」
その法外な金額に、ルークもエリオットも一瞬息を呑み、絶句した。常識で考えれば、即座につまみ出されてもおかしくない要求だ。
だが、ギルド長は断らなかった。それどころか、重々しくペンを取ると、融資の承認書類にサインを走り書きしたのだ。
「ギ!ギルド長、待ってください。いくらなんでも」
「構わん」
制止する職員の声を遮り、ギルド長は龍馬を見詰めた。
「この男は先の商談で自分を賭けて我々から『信用』と勝ち得たのだ。ならば我等もその『信用』に『対価』を持って応えねば、商人ではあるまいよ」
今の龍馬には「海竜海域を突破し、ノルディアとの交易を成功させた」という、世界で唯一無二の実績がある。坂本龍馬という人間の『信用』そのものが、すでに莫大な金を動かす最大の資産と化していた。
「損はさせんき」
「当然だ。お前も商人なら損をさせぬ事より益を得る事を考えるのだな。お前に足りないのは『ソレ』だ」
「肝に銘じるちゃ」
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北部の覇者たるグランディオ帝国の荘厳な帝都。
重厚な円卓の間には、皇帝、宰相、そして海軍提督の姿があった。室内には、張り詰めたような重苦しい空気が漂っている。
「……報告いたします」
海軍提督が、悔しげに奥歯を噛み締めながら声を絞り出した。
「例のウィストリアの商船ユニオン号、および坂本龍馬ですが……、先ほど、ウィストリアの港を再び出港いたしました」
「ふむ」
皇帝が双眸を提督に向ける。
「今度は、船倉が沈み込むほどの物資を満載している模様。目的の地は……間違いなく、再びの北方連邦かと」
「追え」
皇帝は短く、冷酷に命じた。
「あのボロ船に、我が帝国の海上封鎖を二度も破らせるなど、あってはならん。今度こそ、海の藻屑とせよ」
「はっ! 直ちに我が直属の主力艦隊を差し向けます!」
提督は深く一礼し、自らのプライドに懸けて、その首を上げんと言わんばかりに部屋を後にした。
数日後、波飛沫が吹き荒れる海上。
帝国の誇る最新鋭の魔導軍艦からなる主力艦隊は、ついに前方にユニオン号の姿を捉えていた。
「見えたぞ! 距離を詰めろ、魔砲撃準備!」
提督が叫ぶ。しかし、その視線の先で、ユニオン号は進路を全く変えず、真っ直ぐにある海域へと向かって突き進んでいた。
不気味に渦巻く黒い波、天を衝くような雲。そこは――。
「またか……。またあの地獄へ逃げ込む気か……!」
提督が苦々しく呟く。
「提督! 追撃を続行しますか!?」
部下が血気盛んに叫ぶ。
「当然だ! 逃がすな!」
しかし、ユニオン号が海上の「ある見えない境界線」を越えた、その直後だった。
前方を監視していた部下の顔から、一瞬にして血の気が引いた。
「て、提督……っ! 止まってください! これ以上は……『聖域境界』です!!」
その言葉が響いた瞬間、艦橋の空気が凍りついた。兵士たちの誰もが口を開かなくなり、ただ恐怖と困惑の目で提督の顔を見つめる。
帝国は、古くから世界を創りし龍を崇める『始祖龍信仰国家』。そして彼らにとって、海竜たちが支配するあの海域は、人間が絶対に侵してはならない最神聖な『聖域』そのものだった。
軍艦をもって聖域へ侵入することは、国家の根幹たる信仰を裏切る、絶対のタブー。
提督は激しく歯噛みし、拳を血がにじむほど強く握りしめた。
「……クソッ! 転舵(面舵)だ!! 追撃を中止せよ!」
「しかし! 目と鼻の先ですぞ!?」
「転舵だと言っている!! 我ら帝国の軍人が、始祖の庭を汚すわけにはいかん!!」
軍人たちは悔しさに涙を流しながらも、命令に従い、舵を大きく切った。
その頃、ユニオン号の甲板。
「――今だ、帝国が引いたぞ!」
エリオットの鋭い声が響く。
「舵を左に! 潮流の尾根に乗せるぞ! 帆を全開に張れぇ!!」
エリオットの見事な操船により、ユニオン号は海竜たちの作る自然の急流に乗り、一気に加速。あっという間に、水平線の彼方へと帝国の艦隊を振り切っていった。
帝都へと戻った提督は、皇帝の前に平伏し、震える声で報告を行っていた。
「……なぜ追わなかった。我が精鋭たる艦隊がありながら、一隻の交易船を取り逃がすとは」
皇帝の低い声が、玉座の間に響く。
「……恐れながら、陛下。奴らが逃げ込んだのは、我が国の聖域、すなわち海竜海域でございます。軍艦を侵入させるわけには……」
重苦しい沈黙が数秒、室内を支配した。
やがて、皇帝はふぅ、と小さく息を吐き、バツが悪そうに視線を逸らした。
「……そうであったな。聖域であったな。うん、ならば追ってはならん。それは仕方がない」
皇帝の傍らに立つ宰相が、眼鏡を指で押し上げながら、極めて静かに、そして冷徹に呟いた。
「……陛下。つまり……奴らは『再現可能』だということです」
その一言で、玉座の間の空気が一瞬にして凍りついた。
一度目は奇跡かもしれない。だが、二度目があるということは――坂本龍馬という男にとって、あの死の海はもはや命懸けの博打ではなく、いつでも自由に使える「安全な航路」へと変貌しているのだ。それは帝国の海上封鎖が、完全に無力化されたことを意味していた。
「あの船でなくとも、あの男でなくとも、か」
「その通りです。報告の有った航路を進めるのであれば、その航路の安全は保障されたも同然です。我々は入れず、攻撃も出来ず、海竜の生息海域のギリギリの淵。我が国がその海路に干渉する事はできません故に」
「ならば封鎖は意味が無いか?」
「いいえ。意味はあります。あの細い海路では多くの船が同時には進めないでしょう。我等が通常海域を封鎖する事に一定の意味は持つでしょう。ですがそれは当初目論んでいた結果とは程遠いものかと」
「……そうか」
皇帝は静かに瞑目したのだった。
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海風が吹き抜ける、北方連邦ノルディアの港。
寂れた埠頭の先端で、あの老商会長が、外套に身を包みながら、じっと灰色の海を見つめていた。
「……やはり、来ないかもしれんな。あの死の海を二度も渡るような大馬鹿野郎が、この世にそう何人もいるはずがない……」
老人が諦めを含んだ溜め息を漏らし、背を向けようとした、その瞬間だった。
うっすらと霧が立ち込める水平線の向こうから、キィ……と、見覚えのあるボロ船の軋む音が響いてきた。
霧を割り、朝陽を浴びながら姿を現したのは、傷だらけの船体に、これでもかと物資を満載し、重そうに、しかし力強く波を蹴立てて進むユニオン号の姿だった。
老商会長は目を見開き、信じられないものを見るように、じわじわと口元を綻ばせていった。
「……フッ、ハハハ。本当に……本当に来おったか、あの風変わりな大馬鹿野郎が……!」
ガガガガガ……! と激しい音を立てて、ユニオン号がノルディアの埠頭に接岸する。船が完全に固定されるやいなや、甲板から身を乗り出した龍馬が、いつものように快活な声を響かせた。
「商会長ー! 息災にしちょったかえー! 約束通り、また戻ってきたぜよ!」
タラップを駆け下りてくる龍馬は、まるで隣の村にでも遊びに来たかのような軽い足取りだった。老商会長は呆れたように首を振りつつも、歩み寄ってきた龍馬の手をがっしりと握り返した。
「本当にあの死の海を、また越えてくるとはな。……だが一体何をそんなに積み込んできた? 船底が今にも海に沈みそうなほど重そうだが」
「まぁ見ちょれ」
龍馬がパチンと指を鳴らすと、甲板の上でダリオとエリオットが力強く滑車を巻き上げた。船倉の頑強なハッチが勢いよく開け放たれる。
「さぁ、荷揚げじゃ! みんなぁ、腰を据えて運んでくれ!」
ルークの掛け声とともに、船倉から次々と積荷が運び出されていく。
中から現れたのは、ずっしりと身の詰まった小麦の袋、スープの味を決める純白の塩が詰まった大樽、寒風を遮る色鮮やかで頑丈な防寒布、そして、鈍い光を放つ鉄製の農具の山だった。
その光景を見た港の労働者や、遠巻きに様子を伺っていた街の人々から、地鳴りのような驚きの声が上がった。
「おい……嘘だろ……?」
「小麦だ! 本物の、南の豊かな小麦がこんなに山ほど!」
「塩もあるぞ! それに、あの厚手の布は……!」
帝国の容赦ない経済封鎖と買い叩きのせいで、今のノルディアは深刻な物不足の極みにあった。日々のパンを焼く粉も底を突き、スープに入れる塩すら惜しみ、次の冬を越すための薪を割る斧さえも摩耗して不足していた。人々はただ、きたる飢えと寒さに脅えながら、明日をも知れぬ日々を送っていたのだ。
そこへもたらされた、溢れんばかりの「生きていくための物資」。
「食べ物だ……。本当に、食べ物を持ってきてくれたんだ!」
一人の母親が、配られた小麦の袋を愛おしそうに胸に抱きしめ、その場にぽろぽろと涙をこぼした。
「これで……これでようやく、あの子たちに温かいパンをお腹いっぱい食べさせてあげられる……!」
「塩だ、本物の塩だぞ! これで干し肉が作れる!」
「見てみろ、この斧の刃の鋭いこと! これならいくらでも薪が割れるぞ!」
痩せ細っていた街の男たちが、新しい農具を掲げて歓声を上げる。飢えに目を曇らせていた子供たちが、ユニオン号の船員から手渡された干し果物を口に含み、弾けるような笑顔を取り戻していく。
つい数日前まで、絶望の泥に沈んでいたノルディアの港は、今やまるで奇跡の祭りのような、圧倒的な救済の歓喜に包まれていた。
老商会長は、その光景をただ静かに、立ち尽くしたまま見つめていた。
彼の胸の奥に、かつてない激しい衝撃が走っていた。
(……信じられん。この男は……一体何を考えているんだ……)
商人の常識で考えれば、あの生還率ゼロの『海竜海域』を命懸けで渡るリスクを背負うならば、誰もが金銀財宝や、軽量で莫大な利益を生む希少な魔石を選ぶ。そうしなければ、命の割に合わないからだ。
だが、龍馬が運んできたのは、重くてかさばり、大した利益にもならない「ただの食糧と日用品」だった。
老商会長は、じわじわと込み上げてくる熱い感情を抑えきれず、龍馬を振り返った。
「……お前という男は、本当に、救いようのない大馬鹿野郎だな。命の値段と、小麦の値段の計算もできないのか」
その声は少し震えていた。
龍馬は、歓声を上げる街の人々を優しい目で見つめながら、不敵に笑った。
「商会長。商売っちゅうもんは、品物でするもんじゃない。『人』でするもんじゃき」
龍馬は商会長の目をまっすぐに見据え、言葉を続ける。
「わしゃあ、目先の金儲けをしにここへ来たんじゃない。おんしらノルディアの皆の『命』を繋ぎ、その『未来』を買いに来たがよ。一度繋いだ『顔』を、飢えや寒さで死なせるわけにはいかんろう?」
その言葉を聞いた瞬間、老商会長の胸の奥で、帝国への恐怖で冷え切っていた心の氷が、完全に融解した。
ただの商売人ではない。この男は、本気でこの凍てついた世界を変え、人と人とを繋ぐ新しい時代を創ろうとしている。
老商会長は深く息を吸い込み、今度は一人の「男」として、龍馬の前に毅然と立った。その瞳には、かつて大陸を股に掛けた大商人の、鋭く力強い光が完全に蘇っていた。
「……参ったよ。お前の勝ちだ。私は、お前という人間を、お前の紡ぐ青臭い理想を、全面的に信じることにする」
「ほう、頼もしいきに!」
「おう、頼れ。これより先、我がノルディア商会連合は、お前の力になると約束しよう。ねんでも言うといい」
老商会長の力強い言葉に、龍馬の口元がこれ以上ないほど不敵に、大きく歪んだ。
「大きく出たなぁ、商会長! ……しかしまだちぃと早いぜ。こんだけでこの国全部養う事は出来んろう」
「それはそうだが、それでも我等にとっては」
「まぁ見ちょれ。路は掴んだ、顔も売れた。ほんでまた儲けを持って帰りゃあ、ウィストリアから他の商船も仰山来るき。あの国の商業ギルドの頭張ってるんは、出来る男じゃきの」
「お前、そりゃあ」
「おうよ。『海竜貿易路』、開通じゃ!」
極寒のノルディアの空に、街の人々の歓声と、二人の商人が交わした熱い誓いが響き渡る。
坂本龍馬の拓いた路は、ただの交易路ではない。絶望の淵にあった人々の心を繋ぎ、世界を揺るがす巨大な潮流の始まりの路だった。




