第六十五話:次の商い
海竜海域という名の地獄を突破してから、数日後のこと。
朝焼けの眩い光が水平線を染め上げる中、その彼方に、見慣れた白亜の建物と無数のマストがひしめく海の都ウィストリアの街並みが、ついに姿を現した。
「み、見えたぁぁぁぁっっ!!」
見張り台のマストの上から、ルークが涙声で絶叫した。身を乗り出し、ちぎれんばかりに帽子を振っている。
「港だ! ウィストリアですよ!! 僕たち、本当に生きて帰ってきましたぁぁぁ!!」
その声を合図に、甲板のあちこちから地鳴りのような歓声が沸き起こった。船員たちは互いの肩を叩き合い、奇跡の生還を喜び合っている。
ダリオはふぅーと紫煙を吐き出し、パイプを咥え直してニヤリと笑った。
「へっ。泣くのはまだ早ぇぞ、ルーク」
「早くないですよ! 僕はあの死の海で、本気で三回くらい寿命が縮んで死んだと思いましたからね!?」
「ハハッ、それはお前だけだ」
「嘘吐かないでください! みんな心の中で神様に祈りまくってたの、僕は知ってるんですからね!!」
ルークの必死の抗議に、甲板はドッと温かい笑いに包まれた。そんな仲間たちの騒ぎを少し離れた場所で聞きながら、龍馬は船首にゆったりと腰掛け、静かに近づいてくる港を見つめていた。
そして、ユニオン号がゆっくりと埠頭へ滑り込んだ、その瞬間だった。
ざわり、と港の空気が一変した。
荷揚げをしていた労働者、品定めをしていた商人、警備の兵士たち。埠頭にいた何百人という人々の視線が、一斉にユニオン号の船体に集中したのだ。
「あれは……、嘘だろ……?」
「ユニオン号だ! 間違いない、あのボロ船だ!」
「帰って来たぞ! 生きて戻りやがった!」
「おい、冗談だろ!? あの船、帝国に追われて『海竜海域』へ逃げ込んだって噂じゃなかったのか!?」
静寂は一瞬。次の瞬間には、火がついたような騒ぎが港中を駆け巡った。
誰もが沈んだと確信していた船。生きて戻るはずがないと、誰もが追悼の酒を飲んでいた船。それが、船体を少しばかり傷つけながらも、堂々と波を割って帰還したのだ。
地を揺るがすような歓声、高らかな口笛、熱狂的な拍手、そして驚愕の怒号。
ユニオン号の帰港によって、ウィストリアの港はまるで建国祭りのような大騒ぎへと変貌していった。
その日の昼。
龍馬、ルーク、エリオット、ダリオの四人は、報告のために商業ギルドの本部へと向かった。
窓口の受付嬢は、提出された航海日誌とノルディア商会の受領書を、何度も何度もパチパチと瞬きをしながら確認していた。あまりの衝撃に、彼女の書類を持つ手が小刻みに震えている。
「か、確認します……」
彼女は上擦った声で、事務的に、しかし確認せずにはいられないといった様子で呟いた。
「北方連邦ノルディアとの直接取引……完了。積荷(鉄鉱石および魔石)のギルド倉庫への搬入……完了。指定期日内の帰港……完了。……そして、ええと、乗員の生存確認……」
そこで、受付嬢の指がピタリと止まった。信じられないものを見る目で、眼鏡の位置を直す。
「……全員?」
「おう、全員じゃ」
龍馬は懐に手を入れながら、ケラケラと屈託なく笑った。
「――うそ」
受付嬢の口から、思わずといった風に本音が漏れ出た。
周囲で聞き耳を立てていた他のギルド職員や商人たちも、完全に唖然として言葉を失っている。
帝国の海上封鎖。最新鋭の私掠船団による追撃。そして、生還率ゼロとされる海竜海域の突入。その全てを、この男たちは文字通り「無傷」で、誰一人欠けることなく潜り抜けて帰ってきたのだ。彼らにとって、それはもはや既存の常識では測れない怪物の証明だった。
そんな周囲の驚愕を気にも留めず、龍馬は懐から、ずっしりと重い革袋を取り出した。
ドサリッ。
受付の机の上に、銀貨と金貨が激しく擦れ合う重厚な音が響き渡る。
「これで、約束の借金の返済じゃ」
室内の喧騒が、水を打ったように静まり返った。
職員が震える手で袋を開け、中身の硬貨を一枚一枚、天秤にかけて計算していく。静寂の中、硬貨のちんちんという高い音だけが響く。
しばらくして、職員が信じられないといった面持ちで顔を上げた。
「……ふ、不足なし。利息分も含め、全額返済済みです……!」
「終わったぁぁぁぁぁぁ……っ!!」
その言葉を聞いた瞬間、ルークは糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。床に突っ伏したまま、魂が口から抜け出たような顔をしている。
「何がそんなに終わったような顔をしちゅうがじゃ、ルーク」
不思議そうに覗き込む龍馬に、ルークは涙目で睨み返した。
「借金ですよ、借金!! 毎日毎日、利息の計算で枕を高くして寝られなかったんですからね! これでようやく、一文無しの自由の身です!」
「何を言いゆう。返したら、また借りりゃあええろう」
「商人として最低の発言ですよそれは!!」
ルークの魂のツンデレ混じりの絶叫に、ギルド内は大爆笑の渦に包まれた。
その夜。
ウィストリアの片隅にあるお馴染みの酒場では、ユニオン号の面々による盛大な祝勝会が催されていた。
「おい、もっと酒を回せ!」
「今回は本当に死ぬかと思ったぜ、あばよ帝国!」
船員たちは皆上機嫌で、浴びるようにエールを喉に流し込んでいる。いつもは端で苦い顔をしているエリオットも、今日ばかりは珍しく静かにグラスを傾け、どこか穏やかな表情で酒の味を楽しんでいた。
ダリオは背もたれに深く身体を預け、天井を見上げながら満足げに笑った。
「これでようやく終わりか。……いや、本当に長い航海だったな」
「ええ、本当に終わりましたねぇ……。明日からは普通の商売ですよ」
ルークもまた、しみじみと杯を傾ける。
その時、対面に座っていた龍馬が、不思議そうに首を傾げた。
「……何がじゃ?」
その一言に、ルーク、エリオット、ダリオ、そして近くにいた船員たちの動きが、ピタリと止まった。全員が、この世で最も嫌なものを見るような顔で、じわじわと龍馬に視線を向ける。
「あ」
「その顔だ」
「嫌な予感しかねぇぞ、旦那」
「龍馬さん、お願いですから今は黙って、大人しくお酒を飲んでいてください」
全員からの総スカンを食らいながらも、龍馬はクツクツと喉を鳴らして笑い、手元の杯を飲み干した。
「終わっとらんき。……わしたちには、まだ大切な『約束』が残っちゅうろう?」
ダリオが、片方の眉を鋭くひそめた。
「……北方連邦か」
「ほうじゃ」
龍馬はニヤリと笑い、力強く頷いた。
「わしゃああの老商会長に、必ずまた戻ってくると言うた。山ほどの鉄を買い取らせてもらう、と。商人が一度口にした約束を違えちゃあ、これからの商売は成り立たんきに」
静まり返る酒場。
誰もが、龍馬のその目が冗談を言っていないことを瞬時に理解した。この男は本気だ。あの帝国が目を光らせ、海竜が蠢く死の海を、これから「定期航路」にしようと言っているのだ。
「で、でも、龍馬さん」
ルークが恐る恐る、しかし核心を突くように尋ねた。
「ノルディアは今、帝国の買い叩きのせいで酷い物不足です。仮に次、あそこへ戻るとして……一体何を持って行くんです? 向こうが本当に求めているものは……」
「食糧じゃ」
龍馬はあっさりと答えた。
「それから塩じゃ。寒さを凌ぐ布じゃ。日々の生活用品じゃ。この国に余って、北国にないものは、何でも売れるきに」
あまりにも堅実で普通の答えに、ルークはホッと胸を撫で下ろした。
「良かった……。それなら、普通の交易船として真っ当な商売ですね」
「――あともう一つ、一番大事なものを持って行くがじゃ」
「え? 何ですか?」
龍馬は手元の大杯を、コン、と静かに机の上に置いた。その瞳の奥に、世界を見据えるような深い光が宿る。
「『路』じゃ」
全員が首を傾げた。路を持っていくとは、どういう意味か。
「わしゃあ今回、ただ鉄を買いに北へ行ったんじゃない。……連中に『路』を見せに行ったがよ。おまんらにもな」
酒場から、一切の雑音が消えた。船員たちも、息を呑んで龍馬の言葉を待っている。
「ノルディアの商会長。航海士のエリオット。船工のダリオ。そして、このウィストリアの連中。……全部じゃ。わしゃあ、その全員に『路』を見せに行ったがじゃ。して今度は『路』を使う」
龍馬はいつものように、悪戯っぽく、しかし絶対の確信を持って笑った。
「商売っちゅうもんは、品物でするもんじゃない。――『人』でするもんじゃき。人と人が繋がりゃあ生まれるもんもあろう。そうすりゃあ国同士が繋がるんは難しい話じゃないき」
ダリオは一瞬呆気にとられた後、ふん、と鼻で笑って視線を逸らした。
「……相変わらず、ヘドが出るほど青臭い理想論だな」
「路がありゃあ人が交わる。人が交われば世界は動く。確かに理想っちゃ理想じゃ。けんどダリオ。おんしも今回は、その青臭い理想の片棒を担いでくれたろう?」
「……否定はせんさ」
ダリオはそう呟き、静かに残りの酒を煽った。
龍馬はダリオの肩に手を回し満面の笑顔を見せた。
「商いは物や金がするもんじゃない、人がするもんじゃ。陸も海も一緒じゃ!」
深夜。
宴が終わり、誰もが泥のように寝静まった後。
龍馬は一人、静まり返ったウィストリアの港を歩いていた。
月明かりに照らされ、静かに波に揺れるユニオン号。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った埠頭。だが、数時間前までここにあった、荷揚げされる積荷の活気、行き交う商人たちの熱気、街を照らす灯火の余韻が、まだ潮の匂いと共に残っている。
それらの光景をぐるりと見渡して、龍馬はぽつりと呟いた。
「……足らんのう」
その瞬間、彼の足元の影がゆらりと不自然にうねった。
『――ふん。今度は何がだ』
脳裏に響く、皇帝龍(皇さん)の低く冷徹な声。
「場所じゃ」
龍馬はまっすぐ前を見つめたまま、迷いなく答えた。
『ほう?』
「船はある。命懸けで海を渡る航路も出来た。わしを信じてくれる、美味い酒を飲む仲間も出来た。……じゃが、肝心の『置き場所』が、わしには無いがじゃ」
『それで? 主は何を企んでいる』
龍馬は口元をニヤリと大きく歪め、不敵な、そして最高に楽しそうな笑みを浮かべた。
「『商館』じゃ。……わし等の、でっかい商館が欲しい」
『その『館』がお前の欲しいものか?』
「ははは!皇さん!ただの館じゃないぜよ!『商館』じゃ!」
『ん?テラダ屋とは違うのか?』
「違う違う!わしがやりたい商館はただの『宿』じゃないき!」
『ほう』
龍馬の瞳は輝きを見せている。
「多くの船が荷を積んで出たり入ったり!船乗りも海商人も陸商人もみぃんなが物と金と知恵を持ち寄って『大商いをする館』なんじゃ!」
『なにやら騒がしいのう』
「おうよ!連日連夜のどんちゃん騒ぎぜ!身分も種族も国も関係ないがよ!信用と信頼が有れば商いは出来る。なんともならん事なんざ、皆で知恵を絞ればええがよ。わしがやりたいんはそんな『でっかい商館』じゃ!」
ヒュウ、と冷たい海風が吹き抜け、ウィストリアの街の灯火を揺らす。
龍馬の視線の先――その大海原は、まだ夜の闇が広がるだけで何も目には入らない。
だが、坂本龍馬の瞳には、確かに見えていた。
世界中の船がここに集まり、あらゆる国の人種が行き交い、莫大な富と、何よりも新しい時代の「志」が怒涛のごとく集まってくる、そんな未来の巨大な商館の姿が。
最初の手札を揃えた坂本龍馬は、世界を動かす次の一手を、すでに決めていた。




