第六十四話:海竜街道
それは、戦いという概念すら吹き飛ぶ、圧倒的な「奇跡」の始まりだった。
海面を割って浮上した無数のシーサーペントの巨躯が、月光を浴びて妖しく濡れ光っている。
「終わった……。今度こそ、本当に終わりだ……」
一人の船乗りが絶望にへたり込み、ルークも恐怖のあまり声すら出せずに、ただガタガタと歯を鳴らしていた。
しかし、大魔獣たちは牙を剥かなかった。
巨大な海竜たちは、ユニオン号を挟み込むようにして、滑らかに左右へと分かれていく。それはまるで、偉大な王の行進を迎えるために整列する兵士たちのようだった。
ゴオオオオオ……。
海竜たちが一斉に、低く地響きのような咆哮を上げた。その声は奇妙な連鎖(共鳴)を生み出し、狂暴に渦巻いていた渦潮を次々と消し去っていく。壁のように立っていた荒波はみるみるうちに収まり、激しかった海流さえもが、嘘のように穏やかな平水へと姿を変えていった。
「ありえない……」
エリオットは海図を握り締めたまま、呆然と目の前の光景を見つめていた。
「魔獣が……あの凶暴な海竜が、自らの魔力で海流を『制御』しているというのか……!?」
静まり返った海のさらに前方、今度はひときわ巨大な、城壁と見紛うほどの海竜たちが左右に居並んだ。海面にぽっかりと浮かび上がった彼らの頑強な背中が、まるで夜の海に浮かぶ一筋の道標のように、まっすぐ奥へと続いている。
その数は数十を超えていた。
暗黒の死の海の中に、ユニオン号のためだけに、波一つない完璧な一本の航路――『海竜街道』が現れたのだ。
エリオットの身体が、激しく震え始めた。
十年前。彼がすべてを懸けて探し続け、しかし誰にも信じられず、誰一人として見つけられなかった理想の道。かつての仲間たちの命を奪い、己の人生を呪うきっかけとなった地獄の海。
それが今、目の前に、最も美しく安全な形で広がっている。
「あったのか……」
エリオットの指から、シワだらけの水路図がひらりと落ちた。
「本当に……道は、あったのか……!」
彼はそのまま甲板に膝をついた。視界が激しく歪み、大粒の涙がボロボロと甲板を濡らしていく。両手で顔を覆い、子供のように肩を震わせて声を詰まらせる。
「俺は……。俺の信じた海は……間違っていなかったのか……!」
十年間、彼を縛り付け、心を蝕み続けていた深い泥のような悪夢が、海竜たちの咆哮とともに綺麗に洗い流されていく。伝説の航海士エリオットの魂は、今、この奇跡の海によって完全に救済されていた。
エリオットの慟哭を背中で聞きながら、老船工ダリオもまた、静かに海を見つめていた。
失った右脚。若き日に海に置いてきた、多くの仲間たち。裏切りと、絶望。彼がこれまでの人生で味わってきた海の辛酸が、脳裏を駆け巡る。
だが、今のユニオン号を囲む海は、どこまでも優しく、鏡のように静かだった。
不思議なことに、激しい嵐のたびに彼を苦しめていた、失った脚の「幻痛」は、完全に消え去っていた。
「なんだよ……」
ダリオはパイプを咥え、煙の代わりに小さく息を吐き出して苦笑した。
「今さら、そんなに優しくしやがって……」
それは、誰の耳にも届かない、老船工の小さな独り言。
しかし、その顔に刻まれた深い皺は心なしか和らいでおり、彼の胸の奥にくすぶっていた海への積年の恨みが、ほんの少しだけ、穏やかに溶けて消えていた。
一方、海竜海域の境界線の外側。
ユニオン号を追い詰めたはずの帝国の偽装海賊船では、まったく異なる種類の静寂(絶望)が広がっていた。
軍人である彼らは、遠巻きにその海域を望遠鏡で覗き込み、自らの目が狂ったのではないかと何度も擦り合せていた。
荒れ狂うはずの死の海の奥に、不自然なほど静かな海路が一本。そしてその中心を、堂々と進んでいくウィストリアの商船。
兵士たちの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「な、なんだあれは……」
「なぜ襲われない……!? それどころか、まるで海竜が船を護衛しているように見えるぞ……!」
「――至急、本国へ魔石通信を繋げ!」
遠見の魔道具で船首を見ていた隊長が青ざめた顔で、狂ったように叫んだ。
「報告しろ! 『竜の守護聖域の件で報告の有った男が、ウィストリアの商船に乗船している』とな!!」
竜族の一地域の守護聖域化と皇帝龍の消失。龍信仰を尊ぶ帝国にとっての一大事件。その核心と噂されていた『サカモトリョウマ』が初めて帝国に観測された瞬間だった。
夜が更け、ユニオン号は海竜たちの作る並木道のような静かな海を、滑るように進んでいた。
船首。龍馬は一人、穏やかな夜風を浴びながら、遠く伴走するように泳ぐ海竜たちの影を眺めていた。
ふっと、彼の足元の影が大きくうねり、青い神聖な魔力の残像がゆらりと立ち上る。
「皇さん。こりゃあ、いくらなんでもやり過ぎじゃないかえ?」
龍馬は声を潜め、可笑しそうに影に話しかけた。
『――ふん。勘違いするな』
脳裏に響く皇帝龍(皇さん)の声は、相変わらず不機嫌そうで、どこか突き放すようだった。
『あの蛇どもが、勝手に我の存在を恐れて騒いでおるだけに過ぎん』
「ほう?」
龍馬は口元をニヤリと歪める。
『ものの道理よ。蛇は王を畏れ敬うものだ』
龍馬はついに耐えきれなくなり、腹を抱えて笑い出した。
「はははは!みんなぁ皇さんのことが大好きながじゃのう!」
『ふん、黙れ』
皇さんの青い光は、少しだけバツが悪そうに、静かに影の底へと溶けていった。
朝陽が昇る頃。ユニオン号はついに、海竜海域の出口へと差し掛かっていた。
その最後の境界線に、山ほども巨大な、一際古い歴史を感じさせるシーサーペントが、海面からぬっと半身を現した。その黄金の瞳が、じっと船首の龍馬を見つめる。
龍馬は静かに歩み出ると、その大魔獣に向けて深く一礼した。
「世話になったのう」
グルゥゥゥゥウウウ……ッ!!
老いた海竜は、応えるように一度だけ優しく咆哮した。海が心地よく震える。
それを合図にするかのように、左右に並んでいた無数の海竜たちが、一斉に静かに、滑らかに深海へと沈み込んでいった。
瞬く間に『海竜街道』は消滅し、元の荒れ狂う波が戻ってくる。あちこちで不規則な渦潮が再発生し、世界を拒絶するいつもの「死の海」が復活した。
「……もう二度と、通れないな」
涙を拭い、すっかり引き締まった顔に戻ったエリオットが、寂しげに呟いた。あの奇跡は、本当に一瞬の夢だったかのように。
「そうかもしれんのう」
龍馬は帽子を被り直し、前方の水平線を見据えた。
「じゃが、エリオット。……ええもんが、見れたろう?」
「……フッ。ああ、最高だったよ」
エリオットの口元に、十年前には決して浮かばなかった、晴れやかな笑みがこぼれた。
数日後。
ユニオン号の前方、水平線の向こうに、見慣れた海の都ウィストリアの美しい街並みが姿を現した。
「あ、あああ……! ウィストリアだ! 帰ってきた!」
ルークが甲板に飛び出し、狂喜乱舞の声を上げる。
「生きてる! 僕たち、本当に生きて帰ってこれたんですね、龍馬さん!!」
「おう! 誰も死んどらん、完璧な航海じゃき!」
船員たちも「おおおおお!」と歓声を上げ、お互いの肩を抱き合って涙を流して喜んでいる。
その歓声に満ちた甲板の中で。
坂本龍馬だけは、ユニオン号の船首に立ち、遠い東の帝国方面の海をじっと見つめていた。
彼の船倉には、ノルディアの最高品質の鉄と魔石が、確かに眠っている。帝国が必死に封鎖し、世界から隠そうとした未来の灯火が。
龍馬は口元をニヤリと大きく歪め、不敵に笑った。
「さて……。ここからが、本当の商いの時間ぜよ」
一隻のボロ船が起こした奇跡は、やがて世界を巻き込む大嵐へと変わっていく。
ユニオン号は、歓喜の風を帆にいっぱいに孕みながら、ウィストリアの港へと堂々の帰還を果たした。




