第六十三話:死の海
退路は完全に断たれた。
背後には、帝国の偽装海賊船。前方には、月光すら届かぬ暗闇の中、無数の巨大な影が蠢く最悪の魔境――『海竜海域』。
ユニオン号は、その境界線を完全に越え、死の海へと足を踏み入れた。
「ひぎゃあああああああ! 入っちゃった! 本当に入っちゃいましたよ龍馬さん! 前を見ても後ろを見ても地獄しかありませんんん!!」
ルークは髪を振り乱し、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら甲板で叫び散らしている。
周囲の荒くれ船乗りたちも、先ほどまでの威勢はどこへやら、全員が幽霊でも見たかのように青ざめ、ガタガタと膝を震わせていた。
いつもなら軽口を叩くはずの老船工ダリオも、一切の冗談を封印し、冷や汗を流しながらマストのロープを力任せに握り締めている。
そして、誰よりも凄惨な顔をしていたのは、エリオットだった。
彼は昨日自分が書き上げたはずの水路図を両手で握り締め、血の気が完全に引いた顔で荒れ狂う海を凝視していた。
「――左舷、帆を絞れ! 突風が来るぞ!」
突如、エリオットの喉から裂けるような怒声が響いた。
「ロープを緩めるな! 操舵手、波頭に船首を合わせろ! 舵を半分戻せぇ!!」
その瞬間、彼は完全に「伝説の航海士」へと戻っていた。的確な指示が甲板を飛び、船乗りたちが恐怖を押し殺して必死に動く。
しかし、それでも圧倒的に足りなかった。
ザばアアアアアンッ!!!
壁のようにそびえ立つ巨大な波が、容赦なくユニオン号の甲板を叩き、船体を大きく傾かせる。
海流は激しく乱れ、船を引きずり込もうとする巨大な渦潮が、あちこちで不規則に、次々と生まれ始めていた。
「くそっ、何だこれは……!? 潮流が狂っている!」
エリオットは海図を凝視しながら絶叫した。
「俺の記憶と違う……! 渦の位置が完全にズレているぞ! 海竜たちの凄まじい質量と魔力で、海そのものの流れが変わってやがるんだ……!」
その瞬間、エリオットの脳裏に、十年前のあの最悪の夜が鮮烈に蘇った。
バキバキと音を立てて砕けていく商船。木っ端微塵になるマスト。
『エリオット! どっちに舵を切ればいい!?』
『助けてくれ、エリオット!!』
自分を信じ、自分の指示に従った仲間たちが、次々と暗い泡の中に呑まれて消えていく。そして、生き残ったのは、何もできなかった自分一人――。
エリオットの手が、激しく震え始めた。海図がシワだらけに歪む。
「違う……この潮じゃない……。こんな場所に、道なんてあるわけがない……! 俺はまた、間違えたんだ……。この船も、こいつらも、俺が殺す!」
十年前の悪夢に囚われ、エリオットは再び、心の底から折れかけていた。
ギシリ……。
激しく揺れる甲板の上で、硬い木の音が重々しく響いた。ダリオの義足だ。
ダリオは一本のロープに体を預けながら、顔を歪めて己の右脚の付け根を強く押さえていた。彼もまた、かつて海で何かを失った男の一人だった。
波がユニオン号の船体を激しく打ち付けるたびに、十数年前に失ったはずの、海に喰われた右脚の「幻痛」が、鋭い針のように彼の脳を突き刺す。
「へっ……ハハッ。クソッタレが、久々に激しく疼きやがるじゃねぇか……!」
ダリオは脂汗を流しながら、無理やり獰猛な笑みを顔に貼り付けた。
「だ、ダリオの親方! 大丈夫なんですか、その脚!?」
近くで樽にしがみついていたルークが、怯えながら叫ぶ。
「大丈夫なわけねぇだろ、大馬鹿野郎……!」
ダリオは奥歯をガチガチと鳴らし、目の前の暗黒の海を睨みつけた。
「ここはまともな海じゃねぇ。人間の立ち入っていい場所じゃねぇんだ……。海の神様が、てめぇらの命を置いていけって、骨の髄まで脅しをかけてきやがる……!」
百戦錬磨の老船工から放たれたその言葉には、これ以上ない現実の恐怖が、生々しく乗っかっていた。
ギギギギギ……ッ!
船体が、限界に近い悲鳴を上げる。
帆の生地が中央から裂けかけ、張られたロープが今にも千切れんばかりにピンと硬直する。船倉からは、固定していた積荷の鉄鉱石が激しく崩れる重苦しい音が響いてきた。
誰もが必死だった。しかし、誰もが限界だった。
「沈む……! 沈んじまうぞ、この船ぇ!!」
一人の船乗りが、ついに絶望の声を上げた。
だが――そんな極限の地獄の中で。
龍馬だけは、激しく揺れる船首の最先端に、ただ真っ直ぐに立ち続けていた。
押し寄せる冷たい海水を全身に浴びながら、その目は一歩も引いていなかった。
恐れていないわけではない。ただ、彼の魂の芯は、この嵐の程度では微塵も揺らがなかった。
「龍馬ァァァアアアッ!!」
悪夢から這い出そうと、エリオットが狂ったように船首へ向かって怒鳴り散らした。
「お前、何か策があるんだろうな!? このままじゃ本当に全員死ぬぞ! 何があるんだ、言え!!」
龍馬は、ゆっくりと振り返った。そして、嵐の轟音を切り裂くような、どこまでも突き抜けた笑顔を浮かべて、こう言い放った。
「――あるぜよ」
「何だ!!」
「わしがおるろう」
「「「ふざけんじゃねぇぇぇぇぇっっ!!!!」」」
エリオットも、ルークも、ダリオも、船員たちも、全員が心底キレて怒鳴り返した。何の解決にもなっていない。ただの精神論だ。
だが、その直後だった。
激しくはためく龍馬の羽織の影が、不自然に、ピタリと揺らめいた。
世界が、一瞬だけ音を失った。
龍馬の足元の影から、月光よりも深い、冷徹で神聖な『青い魔力』がジワリと染み出し、甲板の表面を凍りつかせるように広がっていく。
その圧倒的な格の違いを本能で察知し、荒れ狂っていた風さえもが、怯えるように一瞬だけ凪いだ。
『――愚かな』
脳裏に直接響き渡る、地鳴りのような皇帝龍の声。
姿を現さない。だが、その声の波動だけで、船員たちは呼吸を忘れ、恐怖とは異なる「神威」に平伏しそうになっていた。
「……わし等のことか、皇さん」
龍馬は静かに、影の主へと問いかけた。
『違う』
皇さんの声は、酷く冷淡だった。
『あの浅薄な人間どものことだ。あの程度の小競り合いで我が海を汚し、挙句、我が眷属の庭を恐れ入っても来ないとは……それに……』
刹那、ざわり、と皆の肌が騒ぐ。
『のう?…………蛇よ』
その言葉が終わるか終わらないかの瞬間、ユニオン号の周囲を蠢いていた海竜たちの空気が、一変した。
ザワザワと、海の底が不気味にざわめき始める。
突如として、海竜たちの動きが変わった。
ユニオン号の直前で船体を噛み砕こうと、巨大な顎を開けて迫っていたはずの数匹のシーサーペントの影が、まるで目に見えない巨壁に衝突したかのように、ピタリと動きを止めたのだ。
それだけではない。
船を飲み込もうと激しく渦巻いていた無数の渦潮が、上から見えない巨大な手で力任せに押さえ込まれるように、次々と平坦に消えていく。
壁のように立っていた波が崩れ落ち、ユニオン号の『前方』だけが、まるでガラスの床のように、静まり返り始めた。
「……な?」
エリオットは目を見開き、海図を落とした。
「波が……消えた? 海が、止まったというのか……!?」
ダリオの義足が、ギシリ、と小さく鳴った。幻痛はもう消えていた。
船員たちは息を呑み、ただ目の前の超常現象を見つめることしかできない。
ゴゴゴゴゴゴ……。
深い海の底から、月光を反射する無数の巨大な影が、ゆっくりと浮上してきた。
一匹。二匹。十匹。二十匹――。
ウィストリアの艦隊すら一撃で全滅させるであろう、山ほどもある巨大な海竜たちが、海上にその巨躯を現しだした。
黄金の瞳が、一斉に龍馬へ向けられる。
龍馬は舳先に立ち、その笑みの深みを増した。
「さぁて。ほたえなやぁ、おまん等」




