第六十二話:海を閉ざす者たち
北方連邦ノルディアの港を出港してから数日、ユニオン号は再び南のウィストリアへ向けて波を蹴立てていた。
船倉に眠っているのは、ノルディアの老商会長から買い付けた、最高品質の鉄鉱石と魔石。
決して大量ではない。ユニオン号の積載量からすれば、拍子抜けするほどの少なさだった。だが、ウィストリアの市場に持ち込めば、今回の航海にかかったすべての経費を差し引いても、確実に黒字(利益)が出る分量である。
「うう、それにしても……。やっぱりもったいないですよ」
甲板でロープを片付けながら、ルークが未練がましく船倉のハッチを見つめた。
「あんなに物が余ってたんですから、もっと山ほど積めばよかったのに。そうすれば、帰ってきた時には大富豪だったかもしれないんですよ?」
その言葉に、舵を握る龍馬は羽織をパタパタと揺らしながら、ケラケラと笑った。
「ははは! ルーク、欲張りゃあ船も人も簡単に沈むきに。初めての商売ぁ、本気半分で抑えておくがが一番ええがじゃ」
「旦那の言う通りだ、ルーク。それに……欲張って船を重くしちまったら、この先の海を乗り切れねぇぜ」
マストのきしみを確認していたダリオが、パイプを咥え直して表情を引き締めた。
「行きの『空船』の時とはわけが違う。帝国の連中だって、決して馬鹿じゃねぇからな」
「ああ、ここからが本当の本番だ」
海図を片手に、エリオットが濁った目を水平線の彼方へと向けた。
「荷を積んだ商船が、ウィストリアの息の根を繋ぐために戻ってくる……。帝国がそれを黙って見過ごすはずがない」
甲板の空気が、じわりと張り詰めた緊張感に包まれていく。
その緊迫感は、すぐに現実となった。
「前方に影! ……テ、帝国の軍艦です!!」
マスト上部からの見張りの悲鳴が、ユニオン号に響き渡る。
ルークが慌てて望遠鏡を覗き込み、案の定、顔面を真っ白にした。
「来たああああああ!! 嘘でしょ、本当に待ち伏せされてるじゃないですか!」
遥か前方の水平線上、帝国軍船が、三隻、綺麗な陣形を組んで波間に浮かんでいた。行きに出会った時と同じ、圧倒的な威圧感。
船員たちが色めき立ち、いつでも武器を取れるよう身構える。しかし、ユニオン号が近づいても、帝国の軍艦は一向に襲い掛かる気配を見せなかった。ただ、こちらと同じ速度で並走するように、一定の距離を保ち続けている。
「……襲って、こない?」
拍子抜けしたルークが首を傾げる。
だが、エリオットの顔は険しいままであった。
「監視だ。俺たちの動き、速度、進路を完全に掌握しようとしている」
「なるほどのう」
龍馬は顎を撫でながら、不敵に目を細めた。
「自分らは直接手を下さず、泳がせちゅうわけか……」
帝国の奇妙な沈黙。それは決して見逃してくれたわけではない。彼らは、ユニオン号をさらに確実な『罠』へと追い込むために、静かに待っているのだ。
その罠の正体は、夕刻、太陽が海に沈みかける直前に姿を現した。
「右舷方向から高速船接近! 複数! ……黒い帆、海賊旗を掲げています!」
船員たちが「今度は海賊だ!」と叫び、一気に甲板がパニックに陥る。夕闇に紛れるようにして、足の速い中型船が三隻、凄まじい速度でユニオン号の側面を挟み込もうと迫ってきていた。
だが、その海賊船の姿を見たエリオットは、冷酷な笑みを浮かべて吐き捨てた。
「ふん……。安っぽいドクロの旗を掲げたところで、ネタは割れてる」
「え? 違うんですか?」
ルークが尋ねる。
「動きで分かる」エリオットは鋭い目で敵船を睨み据えた。「海賊の操船はもっと荒く、個々の欲で動く。だが、あの三隻を見ろ。一糸乱れぬ回頭、完璧な連携……。徹底的に訓練された『軍人』の動きだ」
「へっ、海賊にしちゃあ統率が取れ過ぎだぜ」
ダリオも斧を肩に担ぎ直し、冷たい声を出す。
「帝国海軍の直属か、あるいは汚い仕事を専門に請け負う『私掠船』か……。どっちにしろ、ウィストリアの船を公然と沈めると国際問題になるから、海賊のせいにしようって腹づもりだな」
設定は開示された。目の前に迫るは、海賊の皮を被った、帝国最強の私掠船団。
敵の高速船は、みるみるうちに距離を縮めてくる。
「龍馬さん、戦うんですか!? それとも全速力で逃げますか!?」
「無理だ、相手の方が圧倒的に足が速い! この風じゃあ、じきに追いつかれて接舷されるぞ!」
船員たちが絶望的な声を上げる中、エリオットもまた、厳しい表情で海図を睨んだ。
「龍馬どうする。このまま直進すれば、囲まれて確実に沈む」
龍馬は、じっと手元の望遠鏡を覗き込んでいた。迫り来る敵船の甲板、自分たちを確実に仕留めようとする帝国の兵士たちの顔。
やがて、龍馬は望遠鏡をパちりと閉じると、口元をニヤリと大きく歪めた。
「ほいじゃあ――逃げるとするき」
「逃げるって、どこへですか!?」
ルークが叫ぶ。
「面舵(右)じゃ!」
龍馬は力強く舵輪を回した。ユニオン号の船首が、本来のウィストリアへの航路を完全に外れ、誰も見向きもしない暗い海域へと急旋回する。
「な、何考えてるんだ、龍馬! そっちは……!」
エリオットが目を見開く。
「決まっちゅうろ。――『海竜海域』じゃ!!」
「「「はぁぁぁぁぁぁっっ!!???」」」
ユニオン号の全員の絶叫が、夕暮れの海に木霊した。
ユニオン号がその境界線を越えた瞬間、世界の色がガラリと変わった。
それまで穏やかだった波が、まるで生き物のように猛烈に荒れ狂い、船体を激しく打ち付ける。
空の雲は低く垂れ込め、肌を刺すような、おぞましい魔力の圧迫感が大気を支配した。
遥か前方の荒波の隙間に、城壁のように巨大な、漆黒の背びれがいくつも蠢いているのが見える。
ドゴォォォンッ!!!
突如、ユニオン号の目と鼻の先で海面が爆発した。強烈な水飛沫とともに飛び出してきたのは、全長数十メートルを超える、鉄の牙を持った狂暴な大魔獣『海喰い鮫』だ。
「ひぎゃあああああ! 出たあ探してた魔獣だぁぁぁ!」
モンスター好きの若い船員が絶叫した。
しかし、その恐怖さえも、真の絶望の前座に過ぎなかった。
次の瞬間、海喰い鮫が飛び上がった真下の海が、真っ二つに割れた。
ズゥゥゥゥゥンッ!!!!!
世界そのものを噛み砕くかのような、圧倒的な咆哮。
姿を現したのは、行きで見たものよりもさらに二回りは巨大な、山ほどもある『超巨大シーサーペント(海竜)』であった。
超巨大海竜は、空中でもがく海喰い鮫を、巨大な顎でバクリと一撃で、文字通り丸呑みにしてみせた。
バシャァァァンッ!!!!!
凄まじい衝撃波がユニオン号を襲い、月光を浴びた荒海が一瞬にして真っ赤な血の海へと染まる。
あまりの圧倒的な暴力。
それを見た、後ろから追ってきていた帝国の偽装海賊船は、文字通り恐怖で凍りつき、慌てて舵を切ってその場に停止した。
彼らはこれ以上、一歩たりとも追ってこられない。追えば、自分たちが次の餌になるだけだからだ。
「……無理だ」
「絶対無理だ、あんなところを通れるわけがねぇ……」
「死ぬ、入ったら一瞬で終わりだ……!」
船員たちがガタガタと震え、甲板にへたり込む。
十年前の悪夢を目の当たりにしたエリオットでさえ、顔を青白くし、海図を握る手が小刻みに震えていた。この世の地獄が、目の前に広がっている。
だが――。
船体が激しく揺れる中、坂本龍馬だけは、一歩も引かずに船首の最先端に立ち続けていた。
彼は、血に染まる荒海と、その奥で蠢く無数の巨大な影を真っ直ぐに見つめ、ゾクゾクするような興奮を瞳に宿して、ニカッと不敵に笑った。
「――さて」
龍馬は羽織を大きくはためかせ、胸の奥から湧き上がる声を響かせた。
「ここからが、本当の本番ぜよ」




